ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:安政の大獄

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 今日は、江戸時代後期の1858年(安政5)に、尊攘派の小浜藩士・梅田雲濱が京都で捕縛され、安政の大獄が始まった日ですが、新暦では10月13日となります。
 安政の大獄(あんせいのたいごく)は、幕末の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対する弾圧でした。井伊直弼が、安政の五か国条約の調印に勅許を得ず、将軍継嗣問題(家茂を14代将軍に定めたこと)に対しても諸侯の意見を求めることなく専断を行ないます。
 朝廷がこの専断措置に憤激し、同年8月に水戸藩に攘夷の密勅(戊午の密勅)を下したことから、井伊の尊王攘夷派、ひいては一橋派に対する弾圧が開始されるに至りました。これにより、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑とし、水戸藩主徳川斉昭父子、越前藩主松平慶永らも処罰されます。
 この事件は、尊王攘夷運動を狂熱化させ、1860年(安政7)に大老井伊直弼が江戸城外で水戸浪士等18名により暗殺された、桜田門外の変の契機となりました。

〇安政の大獄による死刑・獄死者

・吉田松陰(長州毛利大膳家臣)……安政6年10月27日斬罪
・橋本左内(越前松平慶永家臣)……安政6年10月7日斬罪
・頼三樹三郎(京都町儒者)……安政6年10月7日斬罪
・安島帯刀(水戸藩家老)……安政6年8月27日切腹
・鵜飼吉左衛門(水戸藩家臣)……安政6年8月27日斬罪
・鵜飼幸吉(水戸藩家臣)……安政6年8月27日獄門
・茅根伊予之介(水戸藩士)……安政6年8月27日斬罪
・梅田雲浜(小浜藩士)……安政6年9月14日獄死
・飯泉喜内(元土浦藩士・三条家家来)……安政6年10月7日斬罪
・日下部伊三治(薩摩藩士)……安政5年12月17日獄死
・藤井尚弼(西園寺家家臣)……安政6年9月1日獄死
・信海(僧侶、月照の弟)……獄死
・近藤正慎(清水寺成就院坊)……安政5年10月23日獄死
・中井数馬(与力)……獄死

☆安政の大獄関係略年表(日付は旧暦です)

<1857年(安政4)>
・6月17日 老中阿部正弘が亡くなる
・10月21日 老中堀田正睦が主導し、アメリカ総領事ハリスが江戸城内で第13代将軍徳川家定に引見する

<1858年(安政5)>
・2月11日 日米条約談判が開始される
・3月20日 朝廷が条約調印勅許の件は、「三家以下諸大名の意見を更に徴した上で再び申請するよう」に宣示する
・4月23日 南紀派の老中松平忠固の後押しによって、井伊直弼が大老職に就任する
・4月24日 堀田正睦がハリスと会見し、条約調印の延期を懇請する
・6月1日 将軍の継嗣は血統の内から定めることを直弼が三家以下溜間詰諸侯に告げる
・6月19日 ハリスの要求に従って、勅許を得ないまま「日米修好通商条約」の調印がなされる
・6月23日 堀田正睦が老中を罷免される
・6月24日 徳川斉昭は子息の水戸藩主徳川慶篤・名古屋藩主徳川慶恕と共に押掛け登城して直弼の無断調印を責め、一橋慶喜・松平慶永もこれにならう
・6月25日 紀州慶福を将軍の継嗣とする旨の公表がある
・7月5日 押掛け登城した斉昭に急度慎、慶篤と慶喜に登城停止、慶恕と慶永に隠居・急度慎が命じられる
・7月6日 第13代将軍徳川家定が亡くなる
・8月8日 幕府の無断調印と尾水越三家の処罰とを責め、大老・老中らは三家・三卿・家門・列藩と群議評定して徳川家を扶助し、内を整えて外夷の侮りを受けぬようにせよとの勅諚(戊午の密勅)が水戸藩に下る
・8月10日 戊午の密勅が幕府へも下される
・9月4日 九条関白が廷臣から排斥されて内覧を辞し、関白の地位すら不安になるという事態となる
・9月7日 梅田雲浜が新任の所司代酒井忠義に捕えられる
・9月17日 江戸で元三条家家臣飯泉喜内が逮捕されたのに始まり、日下部伊三次・橋本左内らが捕えられる
・10月25日 一橋(徳川)慶喜擁立派を押さえて、徳川慶福(家茂)が第14代将軍となる

<1859年(安政6)>
・2月17日 青蓮院宮尊融入道親王・内大臣一条忠香らを慎に処する
・3月28日 左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕に辞官を命じる
・4月22日 近衛・鷹司の二公と前関白鷹司政通・前内大臣三条実万の合わせて四公を落飾・慎に処する
・4月 萩藩に吉田松陰の江戸檻送を命じる
・5月25日 吉田松陰が江戸へ護送される
・8月27日 水戸藩家老安島帯刀が切腹、水戸藩家臣の鵜飼吉左衛門、茅根伊予之介が斬罪、鵜飼幸吉が獄門となる
・9月1日 藤井尚弼(西園寺家家臣)が獄死する
・9月14日 梅田雲浜(小浜藩士)が獄死する
・10月7日 飯泉喜内(元土浦藩士・三条家家来)、橋本左内(越前松平慶永家臣)、頼三樹三郎(京都町儒者)が斬罪となる
・10月23日 近藤正慎(清水寺成就院坊)が獄死する
・10月27日 吉田松陰(長州毛利大膳家臣)が斬罪となる

<1860年(安政7)>
・3月3日 桜田門外の変で、水戸浪士等18名により、井伊直弼が殺害される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1751年(寛延4)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の命日(新暦10月25日)詳細
1816年(文化13)浮世絵師・戯作者山東京伝の命日(新暦10月27日)詳細
1871年(明治4)「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」が出され、田畑勝手作許可がされる(新暦10月2日)詳細
1901年(明治34)清朝と日本を含む諸外国間で、義和団事件収拾のための最終議定書「北京議定書」に調印する詳細
1939年(昭和14)小説家泉鏡花の命日(泉鏡花忌)詳細
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 今日は、幕末の1860年(安政7)に、江戸城桜田門外で大老・井伊直弼が水戸浪士らに襲われ亡くなった桜田門外の変が起きた日ですが、新暦では3月24日となります。
 桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、江戸幕府の大老井伊直弼が、水戸浪士等18名により、江戸城の桜田門外で暗殺された事件でした。井伊直弼が勅許を得ずに、「日米修好通商条約」に調印したことと安政の大獄で、尊皇派を弾圧したことに水戸浪士等が憤激して起こっています。
 この事件で、幕府の衰退が明らかになり、鎖国攘夷を主張する朝廷や諸雄藩の非難をさらに受けて危機が深まりました。 

〇安政の大獄(あんせいのたいごく)とは?

 幕末の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対して行なった弾圧です。安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題(家茂を14代将軍に定めたこと)に対して、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑としました。この事件は、井伊直弼が1860年(安政7)に江戸城外で暗殺された桜田門外の変のきっかけとなります。 

〇井伊直弼(いい なおすけ)とは?

 幕末の大老・彦根藩第15代藩主です。江戸時代後期の1815年(文化12年10月29日)に、近江国彦根城内(現在の滋賀県彦根市)において、彦根藩第13代藩主の父・伊井直中の十四男(母は側室お富の方)としてに生まれましたが、幼名は鉄之介、のち鉄三郎と言いました。
 1831年(天保2)の父の死後、三の丸尾末町の屋敷(埋木舎)に移り、32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしましたが、文武を修業し、国学者長野主膳に師事します。1846年(弘化3)に兄である第14代藩主直亮の養子となり、1850年(嘉永3)に、直亮が亡くなると家督を継いで第15代藩主に就き、掃部頭(かもんのかみ)と称しました。
 藩政改革に努め、1853年(嘉永6)ペリーの浦賀来航に際しては、彦根藩として相洲警備の重責を果たします。開国和親を主張し、尊王攘夷派の阿部正弘・徳川斉昭などと対立、将軍継嗣問題でも血統論から紀伊の徳川慶福を推し、一橋慶喜を推す尊王攘夷派と対峙しました。
 老中堀田正睦らの要請で、1858年(安政5)4月23日に幕府の大老に就任し、勅許を得ないまま同年6月19日に「日米修好通商条約」に調印して、尊王攘夷派の反感を買います。さらに、同年​10月25日には、一橋(徳川)慶喜擁立派を押さえて、第14代将軍を徳川慶福(家茂)とすることに成功しました。
 この中で翌年にかけて、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑とする、いわゆる「安政の大獄」が起こります。このため恨みを買って、1860年(万延元年3月3日)の桜田門外の変で水戸・薩摩の浪士に、数え年46歳で暗殺されました。
 尚、禅・国学・和歌など諸学芸に通じ、茶道では石州流を学んで自ら一派を立てるほどで、『茶湯一会集(いちえしゅう)』を著しています。

☆井伊直弼関係略年表(日付は旧暦です)

・1815年(文化12年10月29日) 彦根城下屋敷の槻御殿において、彦根藩第13代藩主の父・伊井直中の十四男(母は側室お富の方)として生まれる
・1819年(文政2年) 5歳の時、母お富の方が亡くなる
・1827年(文政10年) 13歳の頃から、清凉寺で禅学などを学び始める
・1831年(天保2年5月) 17歳の時、父・直中が亡くなる
・1831年(天保2年11月) 弟直恭(なおやす)と尾末町の北の御屋敷(埋木舎)に移る
・1834年(天保5年7月) 20歳の時、延岡藩主内藤家の養子候補となり、江戸に行くが、弟直恭が選ばれる
・1834年(天保5年冬) 『うもれぎのやの言葉』を記し、埋木舎で文武の道に生きる決意をする
・1842年(天保13年11月) 長野義言(ながのよしとき)と初めて対面し、国学・和歌の弟子となる
・1843年(天保14年) 29歳の時、長浜大通寺より、直弼を住職の跡継ぎとする話が持ち上がるが、成立せず
・1845年(弘化2年10月) 31歳の月、『入門記』を著し、石州流茶道の一派を立てることを宣言する
・1846年(弘化3年1月) 32歳の時、彦根藩世子直元(直弼の兄)が死去し、彦根藩の世継となる
・1846年(弘化3年2月) 初めて江戸城へ登城し、将軍に対面する
・1847年(弘化4年2月) 33歳の時、海防のため相模国三浦半島の警備につく(相州警衛)
・1850年(嘉永3年11月21日) 36歳の時、彦根藩主となる
・1850年(嘉永3年12月) 先代藩主直亮の遺金15万両を家臣や領民に分配する
・1851年(嘉永4年3月) 37歳の時、相州警衛地を巡見する
・1851年(嘉永4年6月) 藩主として初めて彦根に入る
・1851年(嘉永4年9月) 領内巡見を開始、安政4年まで9度に分けて領内全域をめぐる
・1852年(嘉永5年8月) 38歳の時、丹波亀山藩主松平信篤の妹昌子を正室に迎える
・1853年(嘉永6年3月) 39歳の時、日光東照宮参拝の帰途に彦根藩領の下野国佐野を巡見する
・1853年(嘉永6年6月) アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦を率いて浦賀に来航する
・1853年(嘉永6年7月) 39歳の時、ペリー来航の知らせを受けて、江戸へ向かう
・1853年(嘉永6年8月) 2度にわたり幕府へ意見書「初度存寄書(しょどぞんじよりがき)」「別段存寄書(べつだんぞんじよりがき)」を提出する
・1853年(嘉永6年11月) 彦根藩、相模から江戸湾(羽田・大森)へ警衛地が変わる
・1854年(安政元年4月) 彦根藩が京都守護を命じられる
・1854年(安政元年10月) 40歳の時、京都・淀を巡見する
・1856年(安政3年8月) 42歳の時、アメリカ総領事ハリスが着任。通商条約締結を求める
・1857年(安政4年7月頃) 43歳の時、茶の湯論の集大成『茶湯一会集』を完成させる
・1858年(安政5年) 44歳の頃、将軍継嗣・条約調印の問題で、一橋派と南紀派が対立する
・1858年(安政5年2月) 老中堀田正睦が上洛するが、孝明天皇より条約調印の勅許得られず
・1858年(安政5年4月23日) 大老職に就任する
・1858年(安政5年6月19日) 「日米修好通商条約」に調印する
・1858年(安政5年8月8日) 孝明天皇が幕府の条約調印を非難する勅諚を幕府と水戸藩に下す(戊午の密勅)
・1858年(安政5年9月) 「戊午の密勅」など反幕府行動に関わった者を逮捕する(安政の大獄)
・1858年(安政5年12月24日) 孝明天皇、条約調印を了解する勅諚を出す
・1858年(安政5年12月26日) 将軍家茂より、功績をたたえられて鞍・小刀を拝領する
・1859年(安政6年8月) 戊午の密勅に関わった咎で、徳川斉昭や水戸藩士らを処罰する
・1860年(安政7年) 46歳の頃、御用絵師に自分の画像を描かせて、井伊家菩提寺の清凉寺に納める
・1860年(安政7年3月3日) 登城途中に襲われ暗殺される(桜田門外の変)
・1860年(万延元年3月30日) 大老職を免じられる
・1860年(万延元年閏3月30日) 直弼の死が公表される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1854年(嘉永7)江戸幕府と米国使節ペリーが横浜で「日米和親条約」に調印する(新暦3月31日)詳細
1922年(大正11)部落解放運動の全国組織である全国水平社が結成される詳細
1933年(昭和8)昭和三陸地震が起こり、津波によって死者・行方不明者3,064名を出す詳細
1946年(昭和21)「物価統制令」が公布される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1834年(天保5)に、福井藩士・幕末の志士・思想家橋本佐内の生まれた日ですが、新暦では4月19日となります。
 橋本佐内は、越前藩医の父・橋本長綱、母・小林静境の娘梅尾の長男として、越前国に生まれましたが、本名は綱紀と言いました。
 幼時から俊秀の名高く、藩儒吉田東篁に学び、1848年(嘉永元)に『啓発録』を著しています。
 翌年に、大坂に出て、適塾で医者の緒方洪庵や杉田成卿らに師事し、蘭方・医学を学び、1852年(嘉永5)には、家業を継いで藩医となりました。
 1854年(安政元)には、江戸遊学して、法学者杉田成卿らに入門して、藤田東湖、西郷吉之助、梅田雲浜らと交流を持ちます。
 1855年(安政2)に藩主松平慶永に登用され、藩医から御書院番になり、1857年(安政4)には藩校明道館学監となり、実学精神を鼓吹し洋書習学所をもうけるなどの治績をあげました。開国貿易論を提唱し、将軍継嗣問題では一橋慶喜の擁立に尽力し、幕政改革をとなえます。
 しかし、井伊直弼ら南紀派と対立、安政の大獄に連座して、1859年(安政6年10月7日)に、25歳の若さで斬首されました。

〇安政の大獄とは?

 幕末の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対して行なった弾圧です。
 安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題(家茂を14代将軍に定めたこと)に対して、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑としました。
 この事件は、井伊直弼が1860年(安政7)に江戸城外で暗殺された桜田門外の変のきっかけとなります。

☆安政の大獄による死刑・獄死者

・吉田松陰(長州毛利大膳家臣)……安政6年10月27日斬罪
・橋本左内(越前松平慶永家臣)……安政6年10月7日斬罪
・頼三樹三郎(京都町儒者)……安政6年10月7日斬罪
・安島帯刀(水戸藩家老)……安政6年8月27日切腹
・鵜飼吉左衛門(水戸藩家臣)……安政6年8月27日斬罪
・鵜飼幸吉(水戸藩家臣)……安政6年8月27日獄門
・茅根伊予之介(水戸藩士)……安政6年8月27日斬罪
・梅田雲浜(小浜藩士)……安政6年9月14日獄死
・飯泉喜内(元土浦藩士・三条家家来)……安政6年10月7日斬罪
・日下部伊三治(薩摩藩士)……安政5年12月17日獄死
・藤井尚弼(西園寺家家臣)……安政6年9月1日獄死
・信海(僧侶、月照の弟)……獄死
・近藤正慎(清水寺成就院坊)……安政5年10月23日獄死
・中井数馬(与力)……獄死
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 今日は、幕末の1859年(安政6)に、安政の大獄により、橋下佐内、頼三樹三郎、飯泉喜内が斬首されて日ですが、新暦では、11月1日となります。
 安政の大獄は、幕末の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対して行なった弾圧でした。
 安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題(家茂を14代将軍に定めたこと)に対して、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑としました。
 この事件は、井伊直弼が1860年(安政7)に江戸城外で暗殺された桜田門外の変のきっかけとなったのです。

〇安政の大獄による死刑・獄死者

・吉田松陰(長州毛利大膳家臣)……安政6年10月27日斬罪
・橋本左内(越前松平慶永家臣)……安政6年10月7日斬罪
・頼三樹三郎(京都町儒者)……安政6年10月7日斬罪
・安島帯刀(水戸藩家老)……安政6年8月27日切腹
・鵜飼吉左衛門(水戸藩家臣)……安政6年8月27日斬罪
・鵜飼幸吉(水戸藩家臣)……安政6年8月27日獄門
・茅根伊予之介(水戸藩士)……安政6年8月27日斬罪
・梅田雲浜(小浜藩士)……安政6年9月14日獄死
・飯泉喜内(元土浦藩士・三条家家来)……安政6年10月7日斬罪
・日下部伊三治(薩摩藩士)……安政5年12月17日獄死
・藤井尚弼(西園寺家家臣)……安政6年9月1日獄死
・信海(僧侶、月照の弟)……獄死
・近藤正慎(清水寺成就院坊)……安政5年10月23日獄死
・中井数馬(与力)……獄死
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 今日は、1830年(文政13)に、幕末の思想家・教育者吉田松陰の生まれた日ですが、新暦では9月20日となります。
 吉田松陰は、幕末に活躍した長州藩士、思想家・教育者として知られ、幼名は寅之助、通称は寅次郎、諱は矩方で、松陰は号です。1830年(文政13年8月4日)に、長門国萩松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士杉百合之助の次男として生まれました。
 1834年(天保5)に、養子となって山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎ、兵学と経学を学ぶことになります。9歳のときから藩校明倫館で山鹿流兵学を教授するようになり、1848年(嘉永元)には明倫館の師範となりました。
 その後、1850年(嘉永3)に九州を遊学し、翌年江戸に出て安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山らに経学、兵学などを広く学ぶことになります。
 1854年(安政元)25歳のとき浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込み、密航をはかりますが失敗し、幕府に自首しました。その結果、江戸伝馬町の獄に囚われ、次いで萩の野山獄に移され、その後は自宅に幽閉されることになります。
 ここで、1857年(安政4)から松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎ら多くの門人を育てました。
 しかし、討幕論を唱え、老中間部詮勝暗殺を画策して投獄され、安政の大獄により、1859年(安政6年10月27日)に、30歳で刑死しました。

〇「松下村塾」とは?
 山口県萩市にあり、江戸時代末期に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾です。松陰神社の境内には、修復された当時の建物が残り、1922年(大正11)に国の史跡に指定されています。
 短期間しか存続しませんでしたが、久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎など尊王攘夷を掲げて京都で活動した人や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出しましました。
 境内には、「吉田松陰歴史館」もあって、吉田松陰の足跡を知ることができます。また、2015年(平成27)には、松下村塾を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇「安政の大獄」とは?
 幕末の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対して行なった弾圧です。
 安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題(家茂を14代将軍に定めたこと)に対して、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑としました。
 この事件は、井伊直弼が1860年(安政7)に江戸城外で暗殺された桜田門外の変のきっかけとなったのです。
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