ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:宇多天皇

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 今日は、平安時代前期の892年(寛平4)に、菅原道真が『類聚国史』を撰進した日ですが、新暦では6月2日となります。
 類聚国史(るいじゅこくし、るいじゅうこくし)は、菅原道真が宇多天皇の勅を奉じて編集した、平安時代前期の歴史書でした。中国で流行した『芸文類聚』、『初学記』などの類書にならい、六国史(りっこくし)の記事を神祇・帝王・後宮・人・歳時・音楽・賞宴・奉献・政理・刑法・職官・文・田地・祥瑞・災異・仏道・風俗・殊俗など十数部の部門別に分類しなおして、検索の便をはかり、年代順に編集したものです。
 892年(寛平4)に完成・成立した当時は、本史200巻、目録2巻、帝王系図3巻からなっていましたが、応仁の乱で散逸したとされ、現存するのは本史61巻、抄出本1巻のみとなりました。原文主義をとって余計な文章の改変を一切排していて、六国史の記事検索に便利であり、『日本後紀』の欠を補う古代史研究の重要史料とされますが、『三代実録』関係の記事は後人の増補とする説もあります。

〇菅原道真(すがわら みちざね)とは?

 平安時代前期の学者・政治家です。845年(承和12)に、菅原是善の3男として生まれ、幼少の頃より詩歌に才能があったと言われています。862年(貞観4)に18歳で文章生となり、877年(元慶元)には、文章博士となりました。
 以後、宇多天皇の信任を得て、藤原氏を抑えるために重用され、894年(寛平6)には、遣唐使に任ぜられましたが建議して、これを中止します。899年(昌泰2)に、右大臣となりますが、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷されました。
 そして、903年(延喜3)に大宰府において、59歳で亡くなっています。著作としては、詩文集に『菅家文草』、『菅家後集』、編著に『日本三代実録』、『類聚国史』などがあります。

☆六国史とは?

 奈良時代から平安時代前期に、編纂された以下の6つの官撰の正史のことで、おおむね編年体で記されています。
(1)『日本書紀』 720年(養老4)完成 撰者は、舎人親王 
  全30巻(他に系図1巻は失われた)で、神代から持統天皇まで(?~697年)を掲載する
(2)『続日本紀』 797年(延暦16)完成 撰者は、菅野真道・藤原継縄等
 全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)を掲載する
(3)『日本後紀』 840年(承和7)完成 撰者は、藤原冬嗣・藤原緒嗣等
 全40巻(10巻分のみ現存)で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)を掲載する
(4)『続日本後紀』 869年(貞観11)完成 撰者は、藤原良房・春澄善縄等
  全20巻で、仁明天皇の代(833~850年)を掲載する
(5)『日本文徳天皇実録』 879年(元慶3)完成 撰者は、藤原基経・菅原是善・嶋田良臣等
  全10巻で、文徳天皇の代(850~858年)を掲載する
(6)『日本三代実録』 901年(延喜元)完成 撰者は、藤原時平・大蔵善行・菅原道真等
  全50巻で、清和天皇から光孝天皇まで(858~887年)を掲載する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1863年(文久3)長州藩が下関海峡に碇泊中のアメリカ商船に砲撃し、下関事件が始まる(新暦6月25日)詳細
1900年(明治33)鉄道唱歌』第一集東海道篇が発行される詳細
1930年(昭和5)日本画家下村観山の命日詳細
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 今日は、平安時代前期の931年(承平元)に、第59代の天皇とされる宇多天皇の亡くなった日ですが、新暦では9月3日となります。
 宇多天皇(うだてんのう)は、867年(貞観9年5月5日)に、京都において、父・時康親王(のち光孝天皇)の子(母は班子女王・仲野親王の娘)として生まれましたが、名は定省(さだみ)と言いました。元慶年間(877~85年)に陽成天皇の侍従を務め、884年(元慶8)に陽成天皇が譲位して、父・時康親王が践祚(光孝天皇)すると、兄弟姉妹と共に源姓を賜って臣籍にります。
 887年(仁和3)に父・光孝天皇が亡くなると藤原基経の推挙により親王に復して立太子し、11月17日に第59代とされる天皇として即位しました。887年(仁和3)に基経に再び関白の役割を果たすよう勅書を送りましたが、その文言に基経が立腹、政務を拒んで自邸に引き籠もる阿衡事件が起き、翌年6月には勅書を取り消した上に起草した左大弁橘広相を解官させざるを得なくなります。
 891年(寛平3年)に基経が亡くなると、菅原道真を重用し、藤原氏を抑えて政治の刷新(寛平の治)を図りました。896年(寛平8)に内裏で菊の歌宴を開き、翌年に皇太子敦仁親王(醍醐天皇)の元服を機に譲位し、訓誡「寛平御遺誡」を与え、太上天皇となります。
 風流の世界に遊ぶことが多くなり、898年(昌泰元)に亭子院女郎花合を主宰、紀貫之らを臨席させ、898年(昌泰元)には、大和国に行幸し、菅原道真・素性法師らが供奉して歌を詠むなどしました。899年(昌泰2)に仁和寺で出家(法名は空理のち金剛覚)、以後は法皇と称しましたが、901年(延喜元)に菅原道真が大宰府へ左遷される事件が起きています。
 その後、904年(延喜4)に仁和寺に御室を造営、907年(延喜7)に熊野へ行幸、913年(延喜13)に亭子院歌合を主宰するなどしました。歌を能くし、『亭子院御集』、『寛平御集』の名で伝わる御集を残し、後の勅撰集へ計17首入集しています。
 また、その日記『宇多天皇御記』を残しましたが、931年(承平元年7月19日)に、京都において数え年65歳で亡くなり、陵墓は大内山陵(現在の京都市右京区鳴滝宇多野谷)とされました。

<宇多天皇の代表的な歌>

・「水底に春や来るらむみよしのの吉野の川にかはづ鳴くなり」(秋風集)
・「行きて見ぬ人の為にと思はずば誰か折らまし庭の白菊」(続古今和歌集)
・「手枕にかせる袂の露けきは明けぬと告ぐる涙なりけり」(新古今和歌集)
・「宮の滝むべも名におひて聞こえけり落つるしらあわの玉とひびけば」(後撰和歌集)
・「世の中に言ひながしてし龍田川見るに涙ぞ雨と降りける」(新拾遺和歌集)

〇宇多天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・867年(貞観9年5月5日) 京都において、光孝天皇と班子女王(仲野親王の娘)の子として生まれる
・877~85年(元慶年間) 陽成天皇の侍従を務める
・884年(元慶8年2月) 陽成天皇が譲位して、父・時康親王が践祚(光孝天皇)し、兄弟姉妹と共に源姓を賜って臣籍に下る
・887年(仁和3年8月26日) 父・光孝天皇が亡くなると藤原基経の推挙により親王に復して立太子する
・887年(仁和3年11月17日) 第59代とされる天皇として即位する 
・887年(仁和3年11月21日) 基経に再び関白の役割を果たすよう勅書を送るが、その文言に基経が立腹、政務を拒んで自邸に引き籠もる(阿衡事件)
・888年(仁和4年6月) 勅書を取り消した上に左大弁橘広相を解官させる
・891年(寛平3年) 藤原基経が亡くなると、菅原道真を重用して政治の刷新を図る(寛平の治)
・896年(寛平8年9月) 内裏で菊の歌宴を開く
・897年(寛平9年7月) 皇太子敦仁親王(醍醐天皇)の元服を機に譲位し、訓誡「寛平御遺誡」を与え、る
・898年(昌泰元年) 亭子院女郎花合を主宰、紀貫之らを臨席させる
・898年(昌泰元年10月) 大和国に行幸し、菅原道真・素性法師らが供奉して歌を詠む
・899年(昌泰2年) 仁和寺で出家(法名は空理のち金剛覚)、以後は法皇と称する
・901年(延喜元年) 菅原道真が大宰府へ左遷される
・904年(延喜4年) 仁和寺に御室を造営する
・907年(延喜7年) 熊野へ行幸する
・913年(延喜13年) 亭子院歌合を主宰する
・931年(承平元年7月19日) 京都において数え年65歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1829年(文政12)国学者・旅行家菅江真澄の命日(新暦8月18日)詳細
1864年(元治元)京都で蛤御門の変(禁門の変)が起きる(新暦8月20日)詳細
1888年(明治21)剣術家・政治家山岡鉄舟の命日詳細

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