
ついに、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸しましたが、この島が陥落すると、B-29爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が迫りました。そこで、6月30日に、東条英機内閣は、「学童疎開促進要綱」、「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになります。
7月10日には、「帝都学童集団疎開実施細目」が発表され、文部省は、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示すこととなりました。そして、7月20日に文部省は、集団的な学童疎開の範囲を東京のほか12都市(横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡)に拡大します。
これに基づき、8月4日には第1陣として、東京の国民学校初等科3年以上の児童が上野駅から群馬県に出発しました。その後も、続々と実施され、8月~9月には、約35万人の児童が、地方の約7,000ヶ所の公会堂、社寺、旅館などに集団疎開することとなります。
そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すという、いたましい対馬丸事件も発生しています。
1945年(昭和20)3月9日には、「学童疎開強化要綱」も閣議決定され、疎開児童数は約45万人に達しました。「ポツダム宣言」を受諾し、1945年8月15日に「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)が流されて戦争が終わると翌日に、東京都は学童集団疎開を翌年3月まで継続する方針を明示したものの、10月10日に東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着き、11月には、集団疎開からの大部分の復帰が完了しています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1866年(慶応2) | 江戸幕府第14代将軍徳川家茂の命日(新暦8月29日) | 詳細 |
1883年(明治16) | 公卿・政治家岩倉具視の命日 | 詳細 |
1907年(明治40) | 豊国炭鉱(福岡県)で炭塵爆発事故により死者365人を出す | 詳細 |
1948年(昭和23年) | 「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が公布・施行され9つの祝日が誕生する | 詳細 |
1975年(昭和50) | 沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)が開幕 | 詳細 |