ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:学童疎開

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)に東条英機内閣により、「一般疎開促進要綱」が閣議決定された日です。
 「一般疎開促進要綱」(いっぱんそかいそくしんようこう)は、太平洋戦争下で、都市部への空襲が強まる中で、「帝都疎開促進要目」を同時に定め、人口疎開は府県別受入割当数の決定、老幼者・要保護者の縁故による「引取り」の実施を定めるなど具体的な促進を図ったものでした。防空目的で自宅を強制撤去(建物疎開)された者や高齢者・幼児・病人などを疎開の対象者と認め、縁故疎開を積極的に進めることとします。
 そして、3月9日の次官会議決定「京浜地域人員疎開の措置要綱」では、疎開該当者に区別を設けると共に東京都、横浜市、川崎市における人員疎開の重点地域を定めました。さらに、3月10日に東京都は、「学童疎開勧奨ニ関スル件」を発し、国による学童集団疎開に先駆けて養護学園・臨海学園・中学施設の転用による「戦時疎開学園」の設置を行ないます。
 その後、6月30日の閣議決定「学童疎開促進要綱」において,学童疎開は縁故疎開を原則とするも、縁故疎開に依り難き学童については集団疎開を実施することとしました。
 以下に、「一般疎開促進要綱」「帝都疎開促進要目」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「一般疎開促進要綱」1944年(昭和19)3月3日閣議決定

決戦非常措置要綱ニ基キ一般疎開ハ左記ニ依リ之ヲ強度ニ促進スルモノトス


一、建築物疎開ハ本年中期ヲ目途トシ目標量ヲ最大限繰上ゲ施行スル方針ノ下ニ戦時非常措置ニ適合スル手段ニ依リ事業執行ノ迅速化ヲ図ル
二、人員疎開ハ建築物疎開ノ繰上ゲ施行ニ依ル輸送事情等ヲ考慮シ最有効ナル遂行ヲ期スル為重点的計画的ニ指導スルモノトス
三、前二項ニ基ク帝都疎開促進要目別紙ノ如シ他ノ疎開区域ニ於テモ各区域ノ実情ヲ加味シツツ概ネ之ニ準ジ措置スルモノトス
四、施設疎開ハ所管各省ニ於テ三月二十日迄ニ具体案ヲ樹立シ防空総本部ニ提出スルモノトス

帝都疎開促進要目

第一 建築物疎開

概ネ七月末日迄ニ約五五、〇〇〇戸ノ除却ヲ完了セシムルヲ目途トシ強度ノ促進ヲ図ルモノトス
一、建物補償ノ迅速決定
補償額ノ迅速決定ヲ図ル為最モ闡明ナル評価規準ヲ採リ評価員充足ノ為内務、大蔵、運通各省、庁府県、金融機関、住宅営団等ヨリ応援セシム
二、居住者ノ立退キ移転
(一)疎開区域外ニ転出又ハ縁故先其ノ他家屋空間ノ斡旋供給ニ依リ移転セシムルヲ本旨トスルモ特ニ左ノ措置ヲ講ズ
イ 世帯員ヲ疎開区域外ニ転出セシメ業務ノ必要上残留スル者ニ関シテハ適当ナル合宿等ノ施設ヲ講ゼシムルコト
ロ 居住者ノ一時収容ヲ図ル為一定期間ヲ限リ寺院、公会堂、休業料理店、待合又ハ旅館、下宿屋、空店舗等ニ割当ツルコト
ハ 必要ニ応ジ家財ハ都ニ於テ買収シ又ハ学校校舎、寺院、休業劇場、刑務所等ヲ一時ノ蔵置所ニ開放スルコト
(二)収容家屋ノ斡旋供給ニ関シテハ家屋空間ノ供出強化、店舗、料理店、待合等ノ改造住宅化ヲ実施スルト共ニ相当数ノ応急住宅ヲ建設ス
(三)移転輸送ニ関シテハ学生生徒等ノ勤労動員ヲ最高度ニ活用スルト共ニ牛馬車荷車等ノ徹底利用ヲ図ル
(四)家屋ノ斡旋供給及移転輸送ニ付テハ建築物疎開ニ依ル転出者ヲ優先取扱フモノトス
三、除却作業
(一)最短期限内完了ヲ目途トスル工法ニ依ルモノトシ之ガ為古材利用ノ目的ヲ犠牲トスルモ已ムヲ得ザルモノトシテ作業ノ進捗ヲ図ル
(二)大工、鳶、人夫等専門労務者ハ之ヲ統制シ計画配置スルノ外学生生徒、一般勤労報国隊、力士等ノ動員ニ依リ充足ス

第二 人員疎開

一、受入体制ノ整備
(一)疎開者受入体制ヲ整備シ主要受入府県別ノ受入割当数ヲ定メテ受入ニ関スル手配ヲ計画化ス
(二)疎開該当者ノ縁故先ヲシテ積極的ニ引取リヲ為サシム
特ニ老幼者及要保護者ノ引取リヲ促進ス
(三)疎開該当者ニ対シ地方農村ヲシテ帰農呼ビ寄セヲ計画実施ス
(四)地方ノ所要労務ヲ疎開区域内ヨリ吸収セシム
(五)人員ノ移転ニ伴フ食糧其ノ他ノ物資ノ配給ヲ調整ス
二、輸送上ノ処置
(一)鉄道、小運送、小運搬ヲ通ジ計画優先輸送ヲ強化ス
(二)家財ノ輸送ニ関シ必要ナル制限ヲ行フト共ニ都ニ於テ不用物件ノ買入ヲ拡充実施ス
(三)荷造用資材、輸送労力、荷車、リヤカー類ノ供出動員ヲ拡大ス
三、転出先家屋空間ノ供出強化
(一)供出ノ徹底シタル運動ヲ展開ス
(二)農村家屋、余裕家屋、店舗、料理屋等ノ改造ヲ拡充実施ス
(三)建築物利用統制実施ノ地域ヲ拡大ス
四、残留者ノ簡易生活化
各職域ニ於テ疎開家庭ノ残留者ノ合宿等決戦簡易生活化ヲ講ゼシム

第三 資材及経費

一、所要資材ハ之ヲ急速充足スルト共ニ之ガ現物化ニ関シテハ陸海軍及各省ニ於テ全幅的支援ヲ為ス
二、所要経費ニ関シテハ既定計上額ニ依ルノ外要スレバ東京都ヲシテ適宜ノ処置ヲ講ゼシメ国庫ニ於テ必要ナル助成ヲ為スモノトス

第四 機構ノ充実

平時的事務停止其ノ他ニ依リ生ズル職員ヲ極度ニ振替フルト共ニ他府県、他官庁其ノ他ノ協力応援ヲ実施ス特ニ建築物疎開ノ事業所ヲ充実強化ス

   「国立国会図書館リサーチ・ナビ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1854年(嘉永7)江戸幕府と米国使節ペリーが横浜で「日米和親条約」に調印する(新暦3月31日)詳細
1860年(安政7)桜田門外の変で大老井伊直弼が水戸浪士らに襲われ殺される(新暦3月24日)詳細
1922年(大正11)部落解放運動の全国組織である全国水平社が結成される詳細
1933年(昭和8)昭和三陸地震が起こり、津波によって死者・行方不明者3,064名を出す詳細
1946年(昭和21)「物価統制令」が公布される詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1943年(昭和18)に、  文部省が、「疎開ニ伴フ生徒児童取扱ヒ措置ニ関スル新聞発表」を行い、生徒・児童の縁故疎開を促進した日です。
 「疎開ニ伴フ生徒児童取扱ヒ措置ニ関スル新聞発表」(そかいにともなうせいとじどうとりあつかいそちにかんするしんぶんはっぴょう)は、1943年(昭和18)も後半になると、マリアナ・パラオ諸島の戦いに勝利したアメリカは、マリアナ諸島に大規模な航空基地を建設し、日本本土の大半がB-29の攻撃圏内になる中で、生徒・児童の縁故疎開を促進するためになされた、文部省による新聞発表でした。
 戦局がますます不利となりつつあった中で、10月25日の次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」がうたわれるようになり、10月31日の「防空法改正」(第三次防空法)では、「疎開」の言葉が登場します。その中で、まず、生徒・児童の縁故疎開が奨励それたもので、12月21日には、東條内閣により、「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などが疎開地区とされ、その後、東京都を中心に学童疎開が進められました。

〇学童疎開(がくどうそかい)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、東京、大阪、名古屋、横浜など大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に、半強制により農村地帯へ移動させた措置のことです。太平洋戦争も後期になるとアメリカ軍の反撃・侵攻が著しくなり、爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月に、「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっていました。
 ついには、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸しましたが、この島が陥落すると、B-29爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が迫ります。そこで、6月30日に、東条英機内閣は、「学童疎開促進要綱」、「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになりました。
 7月10日には、「帝都学童集団疎開実施細目」が発表され、文部省は、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示すこととなります。そして、8月4日には第1陣として、東京の国民学校初等科3年以上の児童が上野駅から群馬県に出発しました。
 その後も、続々と実施され、8月~9月には、約35万人の児童が、地方の約7,000ヶ所の公会堂、社寺、旅館などに集団疎開することとなります。そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。
 そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すという、いたましい対馬丸事件も発生しています。1945年(昭和20)3月9日には、「学童疎開強化要綱」も閣議決定され、疎開児童数は約45万人に達しました。
 「ポツダム宣言」を受諾し、1945年8月15日に「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)が流されて戦争が終わると翌日に、東京都は学童集団疎開を翌年3月まで継続する方針を明示したものの、10月10日に東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着き、11月には、集団疎開からの大部分の復帰が完了しています。

☆学童疎開関係略年表

<1941年(昭和16)>
・11月20日 芦田均議員が空襲の危険がある東京・大阪で子供を事前に避難させることを推奨する
・12月16日 勅令「防空法施行令」で国民学校初等科児童は、病人、妊婦、老人などと共に事前避難の対象とされる

<1943年(昭和18)>
・10月25日 次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」をうたう
・10月31日 「防空法改正」(第三次防空法)で、「疎開」の言葉が登場する
・12月10日 文部省が、「疎開ニ伴フ生徒児童取扱ヒ措置ニ関スル新聞発表」を行い、生徒・児童の縁故疎開が促進される
・12月21日 東條内閣により「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などを疎開地区とする

<1944年(昭和19)>
・3月3日  「一般疎開促進要綱」が閣議決定され、縁故疎開促進の原則が出される 
・3月10日 東京都は「学童疎開奨励ニ関スル件」を通牒し、縁故・養護学園を利用する疎開実施につき指示する
・4月 東京都では縁故のない児童のための疎開学園設置が進められる
・4月2日 学童疎開の内務省案が示される
・4月5日 東京都は、縁故のない学童のため施設を利用する「戦時疎開学園設置要綱」を発表する
・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
・7月5日 防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施が勧奨される
・7月7日 緊急閣議により沖縄の疎開が決定される
・7月10日 「帝都学童集団疎開実施細目」が発表される
・7月12日 文部省は「帝都学童集団疎開実施細目」により、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示す
・7月19日 沖縄県は「学童集団疎開準備ニ関スル件」を通牒し、疎開を準備するよう命じる
・7月22日 文部省は「帝都学童集団疎開実施要領」「同実施細目」に準じ、疎開都市として、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の12都市を追加指定する
・8月4日 20万人規模の疎開の第1陣の児童が東京の上野駅を出発する
・8月16日 沖縄県の九州などへの疎開が開始される
・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈され、死者1,418人(うち学童775人)が出る(対馬丸事件)
・9月25日 全国で子供の集団疎開が41万6,946人となる
・8月~9月 約35万人の児童が、約7,000ヶ所の旅館、寺院などに集団疎開する
・9月 文部省は指令を改め、旅館を宿舎とする場合は一ヶ月25円、その他は23円以内とし、特別の事情ある場合は文部大臣の承認を受けることとする
・9月29日 「疎開学童対策協議会規程」と「疎開学童ニ関スル措置要領」が閣議決定される

<1945年(昭和20)>
・1月12日 「昭和20年度学童集団疎開継続ニ関スル措置要領」を閣議決定し、学童集団疎開期間を当初の予定より1年間延長する
・3月9日 「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、初等科3年以上の児童は全員を疎開させ、1、2年の児童は、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象にも加える
・3月15日 空襲に対処するため「大都市における疎開強化要綱」が閣議決定される(学童、母子など続々緊急疎開)
・3月16日 「学童疎開強化要綱(追加)」を再度閣議決定し、高等科の児童についても可能なかぎり縁故疎開をすすめるとする
・3月26日 東京都は千葉・茨城・静岡県の集団疎開学童に青森・岩手・秋田へ再疎開命令を出す
・4月 疎開都市に京都、舞鶴、広島、呉の4都市を追加指定する
・5月1日 集団疎開学童への主要食糧の配給量が減少する
・7月11日 集団疎開学童への主食の配給さらに1割減少、3年生まで252g(1合8勺)、4年生以上354g(2合5勺)となる
・8月16日 東京都は学童集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針を明示する
・10月10日 東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着く
・11月 集団疎開からの大部分の復帰が完了する

<1946年(昭和21)
・3月 神田・日本橋・京橋区などの集団疎開学童が帰京する
・11月 沖縄の集団疎開学童が九州から沖縄へ帰還する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1186年(文治2)鎌倉幕府が九州の御家人統率・軍事統括の為の鎮西奉行を設置する(新暦1187年1月21日)詳細
1901年(明治34)田中正造が足尾鉱毒問題について、明治天皇へ直訴しようとする詳細
1943年(昭和18)社団法人日本玩具統制協会から子供向けの「愛国イロハカルタ」が発行される詳細
1948年(昭和23)国連総会で「世界人権宣言」が採択される詳細
1997年(平成9)山陽自動車道(神戸JCT~山口JCT)が全通する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1944年(昭和19)に、文部省が集団的な学童疎開の範囲を東京のほか12都市(横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡)に拡大した日です。
 学童疎開(がくどうそかい)は、太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、東京、大阪、名古屋、横浜など大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に、半強制により農村地帯へ移動させた措置のことでした。太平洋戦争も後期になるとアメリカ軍の反撃・侵攻が著しくなり、爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月に、「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっています。
 ついに、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸しましたが、この島が陥落すると、B-29爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が迫りました。そこで、6月30日に、東条英機内閣は、「学童疎開促進要綱」、「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになります。
 7月10日には、「帝都学童集団疎開実施細目」が発表され、文部省は、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示すこととなりました。そして、7月20日に文部省は、集団的な学童疎開の範囲を東京のほか12都市(横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡)に拡大します。
 これに基づき、8月4日には第1陣として、東京の国民学校初等科3年以上の児童が上野駅から群馬県に出発しました。その後も、続々と実施され、8月~9月には、約35万人の児童が、地方の約7,000ヶ所の公会堂、社寺、旅館などに集団疎開することとなります。
 そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すという、いたましい対馬丸事件も発生しています。
 1945年(昭和20)3月9日には、「学童疎開強化要綱」も閣議決定され、疎開児童数は約45万人に達しました。「ポツダム宣言」を受諾し、1945年8月15日に「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)が流されて戦争が終わると翌日に、東京都は学童集団疎開を翌年3月まで継続する方針を明示したものの、10月10日に東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着き、11月には、集団疎開からの大部分の復帰が完了しています。

〇学童疎開関係略年表

<1941年(昭和16)>
・11月20日 芦田均議員が空襲の危険がある東京・大阪で子供を事前に避難させることを推奨する
・12月16日 勅令「防空法施行令」で国民学校初等科児童は、病人、妊婦、老人などと共に事前避難の対象とされる

<1943年(昭和18)>
・10月25日 次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」をうたう
・10月31日 「防空法改正」(第三次防空法)で、「疎開」の言葉が登場する
・12月10日 文部省により縁故による学童疎開促進が発表される
・12月21日 東條内閣により「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などを疎開地区とする

<1944年(昭和19)>
・3月3日  「一般疎開促進要綱」が閣議決定され、縁故疎開促進の原則が出される 
・3月10日 東京都は「学童疎開奨励ニ関スル件」を通牒し、縁故・養護学園を利用する疎開実施につき指示する
・4月 東京都では縁故のない児童のための疎開学園設置が進められる
・4月2日 学童疎開の内務省案が示される
・4月5日 東京都は、縁故のない学童のため施設を利用する「戦時疎開学園設置要綱」を発表する
・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
・7月5日 防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施が勧奨される
・7月7日 緊急閣議により沖縄の疎開が決定される
・7月10日 「帝都学童集団疎開実施細目」が発表される
・7月12日 文部省は「帝都学童集団疎開実施細目」により、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示す
・7月19日 沖縄県は「学童集団疎開準備ニ関スル件」を通牒し、疎開を準備するよう命じる
・7月20日 文部省は「帝都学童集団疎開実施要領」「同実施細目」に準じ、疎開都市として、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の12都市を追加指定する
・8月4日 20万人規模の疎開の第1陣の児童が東京の上野駅を出発する
・8月16日 沖縄県の九州などへの疎開が開始される
・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈され、死者1,418人(うち学童775人)が出る(対馬丸事件)
・9月25日 全国で子供の集団疎開が41万6,946人となる
・8月~9月 約35万人の児童が、約7,000ヶ所の旅館、寺院などに集団疎開する
・9月 文部省は指令を改め、旅館を宿舎とする場合は一ヶ月25円、その他は23円以内とし、特別の事情ある場合は文部大臣の承認を受けることとする
・9月29日 「疎開学童対策協議会規程」と「疎開学童ニ関スル措置要領」が閣議決定される

<1945年(昭和20)>
・1月12日 「昭和20年度学童集団疎開継続ニ関スル措置要領」を閣議決定し、学童集団疎開期間を当初の予定より1年間延長する
・3月9日 「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、初等科3年以上の児童は全員を疎開させ、1、2年の児童は、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象にも加える
・3月15日 空襲に対処するため「大都市における疎開強化要綱」が閣議決定される(学童、母子など続々緊急疎開)
・3月16日 「学童疎開強化要綱(追加)」を再度閣議決定し、高等科の児童についても可能なかぎり縁故疎開をすすめるとする
・3月26日 東京都は千葉・茨城・静岡県の集団疎開学童に青森・岩手・秋田へ再疎開命令を出す
・4月 疎開都市に京都、舞鶴、広島、呉の4都市を追加指定する
・5月1日 集団疎開学童への主要食糧の配給量が減少する
・7月11日 集団疎開学童への主食の配給さらに1割減少、3年生まで252g(1合8勺)、4年生以上354g(2合5勺)となる
・8月16日 東京都は学童集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針を明示する
・10月10日 東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着く
・11月 集団疎開からの大部分の復帰が完了する

<1946年(昭和21)
・3月 神田・日本橋・京橋区などの集団疎開学童が帰京する
・11月 沖縄の集団疎開学童が九州から沖縄へ帰還する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)江戸幕府第14代将軍徳川家茂の命日(新暦8月29日)詳細
1883年(明治16)公卿・政治家岩倉具視の命日詳細
1907年(明治40)豊国炭鉱(福岡県)で炭塵爆発事故により死者365人を出す詳細
1948年(昭和23年)「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が公布・施行され9つの祝日が誕生する詳細
1975年(昭和50)沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)が開幕詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1944年(昭和19)に、初の集団学童疎開列車が東京の上野駅を出発した日です。
 太平洋戦争も後期になるとアメリカ軍の反撃・侵攻が著しくなり、爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっていました。ついには、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸しましたが、この島が陥落しアメリカ軍の手に渡ると、B-29爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が迫ります。
 そこで、6月30日に、東条英機内閣は、「学童疎開促進要綱」、「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになりました。7月10日には、「帝都学童集団疎開実施細目」が発表され、文部省は、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示すこととなります。
 そして、20万人規模の学校単位の集団疎開が実施されることとなり、8月4日には第1陣として、東京の国民学校初等科3年以上の児童が上野駅から群馬県に出発しました。その後も、続々と実施され、8月~9月には、約35万人の児童が、地方の約7,000ヶ所の公会堂、社寺、旅館などに集団疎開することとなります。
 そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われなかったものの、1945年(昭和20)の疎開児童数は約45万人に達しました。そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すという、いたましい対馬丸事件も発生しています。
 ポツダム宣言を受諾し、1945年8月15日に「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)が流されて戦争が終わると翌日に、東京都は学童集団疎開を翌年3月まで継続する方針を明示しましたが、10月10日に東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着き、11月には、集団疎開からの大部分の復帰が完了しました。
 以下に、学童疎開の根拠となった「学童疎開促進要綱」、「帝都学童集団疎開実施要領」、「帝都学童集団疎開実施細目」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「学童疎開促進要綱」1944年(昭和19)6月30日閣議決定

 防空上ノ必要ニ鑑ミ一般疎開ノ促進ヲ図ルノ外特ニ国民学校初等科児童(以下学童ト称ス)ノ疎開ヲ左記ニ依リ強度ニ促進スルモノトス

一、学童ノ疎開ハ縁故疎開ニ依ルヲ原則トシ学童ヲ含ム世帯ノ全部若ハ一部ノ疎開又ハ親戚其ノ他縁故者アル学童ノ単身疎開ヲ一層強力ニ勧奨スルモノトス
二、縁故疎開ニ依リ難キ帝都ノ学童ニ付テハ左ノ帝都学童集団疎開実施要領ニ依リ勧奨ニ依ル集団疎開ヲ実施スルモノトス他ノ疎開区域ニ於テモ各区域ノ実情ヲ加味シツツ概ネ之ニ準シ措置スルモノトス
三、本件ノ実施ニ当リテハ疎開、受入両者ノ間ニ於テ共同防衛ノ精神ニ基ク有機一体的ノ協力ヲ為スモノトス
四、地方庁ハ疎開者ノ的確ナル数及疎開先ヲ予メ農商省ニ通知スルモノトス

帝都学童集団疎開実施要領

第一 集団疎開セシムベキ学童ノ範囲
 区部ノ国民学校初等科三年以上六年迄ノ児童ニシテ親戚縁故先等ニ疎開シ難キモノトシ保護者ノ申請ニ基キ計画的ニ之ヲ定ムルモノトス

第二 疎開先
 疎開先ハ差当り関東地方(神奈川県ヲ除ク)及其ノ近接県トス

第三 疎開先ノ宿含
一、宿舎ハ受入地方ニ於ケル余裕アル旅館、集会所、寺院、教会所、錬成所、別荘等ヲ借上ゲ之ニ充テ集団的ニ収容スルモノトス
二、都ノ教職員モ学童ト共ニ共同生活ヲ行フモノトス
三、寝具、食器其ノ他ノ身廻品ハ最小限度ニ於テ携行セシムルモノトス

第四 疎開先ノ教育
一、疎開先ノ教育ハ必要ナル教職員ヲ都ヨリ附随セシメ疎開先国民学校又ハ宿舎等ニ於テ之ヲ行フモトス
二、疎開先ノ地元国民学校ハ教育上必要ナル協力援助ヲ為スモノトス
三、疎開先ニ於テハ地元トノ緊密ナル連絡ノ下ニ学童ヲシテ適当ナル勤労作業ニ従事セシムルモノトス
四、宿舎ニ於ケル学童ノ生活指導ハ都ノ教職員之ニ当ルモノトス
五、疎開先ニ於ケル学童ノ養護及医療ニ関シテハ充分準備ヲ為シ支障ナキヲ期スルモノトス

第五 物資ノ配給
 疎開先ニ於ケル食糧、燃料其ノ他ノ生活必需物資ニ付テハ農商省其ノ他関係省ニ於テ所要量ヲ用途ヲ指定シ特別ニ配給ヲ為スモノトス

第六 輸送
 本件実施ニ伴フ輸送ニ関シテハ他ノ輸送ニ優先シ特別ノ措置ヲ講ズルモノトス

第七 経費ノ負担
一、本件実施ニ伴フ経費ハ保護者ニ於テ児童ノ生活費ノ一部トシテ月十円ヲ負担スルノ外凡テ都ノ負担トス
尚前項ノ負担ヲ為シ得ズト認メラルルモノニ付テハ特別ノ措置ヲ講ズ
二、国庫ハ都ノ負担スル経費ニ対シ其ノ八割ヲ補助スルモノトス

第八 其ノ他
一 本件実施ニ伴ヒ出来得ル限リ残存学級ノ整理統合ヲ行フモノトス
二 本件実施ニ当リテハ都ニ於テ疎開先ノ地元府県、市町村ト緊密ナル連絡ヲ図ルモノトス

   「国立国会図書館リサーチナビ」より

〇「帝都学童集団疎開実施細目」1944年(昭和19)7月10日発表

第一 集団疎開ノ希望調査
 一、区長、学校長ヲ通ジテ適切ナル方法ニ依リ本措置ノ趣旨ヲ学童ノ保護者ニ徹底セシメ其ノ自発的申出ヲ指導勧奨スルコト
 二、勧奨ニ当リテハ時節柄言辞ニ注意シ無用ノ紛乱誤解ヲ惹起セザル様留意スルコト
 三、集団疎開ノ希望ヲ調査スル際併セテ縁故疎開ヲ希望スル学童ノ疎開先府県名、疎開予定期日等ヲモ調査シ、縁故疎開ノ円滑ナル遂行ニ資スルコト
 四、虚弱児童等ノ集団疎開ニ適セザル者ハ努メテ縁故疎開ニ依ラシムル如ク措置スルコト

第二 疎開先ノ決定
 一、帝都学童ノ疎開先ハ東京都郡部、埼玉県、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県、山梨県、新潟県、宮城県、静岡県(一部ヲ横浜市、川崎市、横須賀市ノ疎開先ニ充ツ)長野県、福島県、山形県トシ必要ニ応ジ其ノ範囲ヲ拡張スルコト
 二、疎開先ハ努メテ罹災者避難ノ連結県又ハ其ノ近接県ニ選定スルコト
 三、集団疎開学童数ハ一応二十萬ト概定シ之ノ概数ヲ送出区及受入県ニ仮割当ヲ為シ計画準備ヲ進ムルコト
 四、都ニ於テ区別ノ受入県ヲ、区ニ於テ学校別ノ疎開先ヲ決定スルモノトシ、具体的宿舎割当ハ受入県、市町村当局ト都、区、学校当局ニ於テ
   協議下検分ノ上最終的決定ヲ為スコト

第三 疎開先ノ宿舎
 一、宿舎ハ一箇所(同一管理者ノ管理シ得ル範囲)ニ於ケル収容学童数百名程度ヲ標準トシテ選定スルコト
 二、宿舎借上契約ノ当事者ハ都タルベキモ、地元当局ニ於テ借上及借上条件ノ決定等ニ付強度ノ援助ヲ為スコト
 三、必要ナル寝具、炊事用具、机等ノ借入ニ付テモ同様援助ヲ為スコト
 四、地元ニ於テ採用スルヲ要スル寮母、作業員等ノ詮衡ニ付テモ同様援助ヲ為スコト
 五、宿舎ノ附属設備等ニシテ改善手入等ヲ要スルモノハ予メ地元ノ協力ニ依リ相当ノ手配ヲ講ジ置クコト
 六、借上ゲタル宿舎ノ建具、器物等ノ破損ニ対シテハ使用終了後ニ於テ之ガ損失補償ヲ為スコト
 七、宿舎ニ於ケル賄ハ宿舎ノ経営主等ヲシテ請負ハシメ又ハ地元ノ協力ヲ得テ直営スルコト

第四 疎開先ニ於ケル教育 養護
 一、疎開先ニ於ケル教育ヲ都立国民学校ノ分教場ノ形式ニ依ルカ或ハ地元委託ニ依ルカハ都ト受入県トノ協議ニ依ルコト
 二、教育ヲ地元ニ委託シタル場合ハ経営ヲ都ニ於テ支弁シ、都ヨリ附随セシメル教職員ヲ地元国民学校兼務トスルコト
 三、地元国民学校ニ於テハ事情ノ許ス限リ二部授業ノ採用等ニ依リ疎開学童ノ収容ヲ図ルコト
 四、右ニ依リ難キ場合ハ付近近在ノ公会堂、寺院、錬成所、大農場等ニシテ教場ニ充テ得ベキ建物又ハ宿舎ニ於テ授業ヲ行フモノトス之ガ為メ必要ナル机、腰掛等ハ地元調達ヲ図ルノ外努メテ都内ヨリモ送付スルコト
 五、集団疎開学童ハ都内上級学校ヘノ進学ヲ認ムルト共ニ本人ノ希望ニ依リ地元ノ収容力ヲ勘案シテ地元ニ於ケル進学ヲモ認ムルコト
 六、勤労作業ハ児童ノ環境順応ノ程度ニ応ジ且ツ地元トノ融和促進、食糧自給等ヲ目途トシテ之ヲ施スコト
 七、医師、看護婦ノ嘱託等ニ付地元ニ於テモ協力スルコト
 八、送出学校ヨリ若干ノ救急医療材料ヲ携行セシメルコト
 九、児童衣類等ノ洗濯修理等ニ付テハ能フ限リ地元婦人団体等ノ協力奉仕ヲ促スコト

第五 食糧其ノ他生活必需物資、学童用品ノ調達
 一、主要食糧、調味食品等ノ配給統制物資ハ疎開計画ノ進捗ニ即応シテ東京都分ヨリ受入県分ニ割当転換ヲ為シ、集団疎開学童用トシテ指定シ受入県ニ割当ツルコト
 二、燃料其ノ他ノ統制物資ニ付テモ右ニ準ジ取扱フコト
 三、惣菜、生鮮魚介等ノ副食物ニ付テハ極力地元ニ於テ調達ニ付斡旋スルコト
 四、生鮮魚介類ノ入手困難ナル地方ニ対シテハ塩干魚、介藻類、佃煮等代替物ノ配給ヲ考慮スルコト
 五、計画配給ノ単位量ニ付テハ努メテ東京都ニ於ケル現行標準ヲ尊重スルコト
 六、食糧、燃料其ノ他生活必需物資ノ調達運搬等ニ付テハ地元当局、諸団体等ニ於テ能フ限リノ協力ヲ為スコト
 七、疎開学童ヲシテ極力食糧燃料等ノ自給生産ニ当ラシムルコト
 八、学童用品ノ配給ハ都ト受入県トノ協議ニ依リ夫々責任区分ヲ定メ配給ノ適正ヲ期スルコト
   此ノ際特ニ地元学童トノ調和ニ留意スルコト
 九、 食糧、燃料等生活必需物資ハ学童ノ転入以前ニ調達準備ニ遺漏ナキヲ期スルモノトシ、非常用トシテ食糧数日分ヲ児童ヲシテ携行セシムルコト

第六 輸送
 一、疎開児童数及出発日時ハ可及的速ニ区長ヨリ疎開輸送支部ニ申告セシムルコトトシ、必要ニ応ジ臨時列車ノ特発、車両ノ指定其ノ他特別ノ措置ヲ考慮スルコト
 二、見廻物品ノ携行ハ寝具、食器、着換ヘ其ノ他当座ノ必需品ニ止メ他ハ取纏メ追送ノ方途ニ依ルコト
 三、見廻物品ハ車内持込ヲ除キ児童一人当リ二十キロ以内一個(蒲団ヲ含ム)程度トスルコト
 四、炊事道具、校具等ハ必要最小限度ノモノヲ輸送スルコト
 五、発着地ニ於ケル小運送ハ小運送業者ニ依ルノ外輸送挺身隊、勤労報国隊、地元諸団体ノ協力ヲ促スコト

第七 経済
 一、経済負担ノ減免ヲ受クル児童保護者ハ貧困者トシ申請ニ依リ都ニ於テ決定スルコト
 二、本件実施ニ要スル受入県、市町村ノ費用ニ対シ国庫ヨリ若干ノ補助ヲ為スコト

第八 都内ヘノ復帰、父兄ノ面会
 一、疎開児童ニシテ止ムヲ得ザル事情ニ依リ都内ヘノ復帰等ヲ希望スル場合ハ学校長ノ詮議ニ依リ之ヲ承認シ得ルコト
 二、父兄ノ面会ニ付テハ成ルベク便宜ヲ図ルモ極力自制セシムルコト
   尚 必要アルトキハ疎開先責任者ヨリ連絡シ父兄ヲ呼寄スルコト

第九 其ノ他
 一、本件実施ノ期間ハ差当リ一年トスルコト
 二、父兄、教職員、学童、受入側官民ニ対シ本件実施ノ本義ヲ徹底セシムル様特別ノ措置ヲ講ズルコト
 三、本件実施ニ当リテハ地元当局ノ外警防団、婦人会、青少年団、在郷軍人会、翼賛壮年団其ノ他諸団体、篤志家等ノ協力ヲ促スコト
 四、都庁内ニ疎開先トノ緊密ナル連絡ニ資スル為連絡協議会ヲ設置スルコト
 五、都ノ職員ヲ受入県庁内又ハ適当ナル場所ニ派遣シ必要ニ依リ受入県ニ兼務セシムルコト
 六、受入県庁ニ於テハ各部課トモ其ノ所管ニ応ジ協力スルト共ニ本件主管ノ部課ヲ特定シ事務連絡ニ資スルコト

☆学童疎開関係略年表

<1941年(昭和16)>
・11月20日 芦田均議員が空襲の危険がある東京・大阪で子供を事前に避難させることを推奨する
・12月16日 勅令「防空法施行令」で国民学校初等科児童は、病人、妊婦、老人などと共に事前避難の対象とされる

<1943年(昭和18)>
・10月25日 次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」をうたう
・10月31日 「防空法改正」(第三次防空法)で、「疎開」の言葉が登場する
・12月10日 文部省により縁故による学童疎開促進が発表される
・12月21日 東條内閣により「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などを疎開地区とする

<1944年(昭和19)>
・3月3日  「一般疎開促進要綱」が閣議決定され、縁故疎開促進の原則が出される 
・3月10日 東京都は「学童疎開奨励ニ関スル件」を通牒し、縁故・養護学園を利用する疎開実施につき指示する
・4月 東京都では縁故のない児童のための疎開学園設置が進められる
・4月2日 学童疎開の内務省案が示される
・4月5日 東京都は、縁故のない学童のため施設を利用する「戦時疎開学園設置要綱」を発表する
・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
・7月5日 防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施が勧奨される
・7月7日 緊急閣議により沖縄の疎開が決定される
・7月10日 「帝都学童集団疎開実施細目」が発表される
・7月12日 文部省は「帝都学童集団疎開実施細目」により、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示す
・7月19日 沖縄県は「学童集団疎開準備ニ関スル件」を通牒し、疎開を準備するよう命じる
・7月22日 文部省は「帝都学童集団疎開実施要領」「同実施細目」に準じ、疎開都市として、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の12都市を追加指定する
・8月4日 20万人規模の疎開の第1陣の児童が東京の上野駅を出発する
・8月16日 沖縄県の九州などへの疎開が開始される
・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈され、死者1,418人(うち学童775人)が出る(対馬丸事件)
・9月25日 全国で子供の集団疎開が41万6,946人となる
・8月~9月 約35万人の児童が、約7,000ヶ所の旅館、寺院などに集団疎開する
・9月 文部省は指令を改め、旅館を宿舎とする場合は一ヶ月25円、その他は23円以内とし、特別の事情ある場合は文部大臣の承認を受けることとする
・9月29日 「疎開学童対策協議会規程」と「疎開学童ニ関スル措置要領」が閣議決定される

<1945年(昭和20)>
・1月12日 「昭和20年度学童集団疎開継続ニ関スル措置要領」を閣議決定し、学童集団疎開期間を当初の予定より1年間延長する
・3月9日 「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、初等科3年以上の児童は全員を疎開させ、1、2年の児童は、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象にも加える
・3月15日 空襲に対処するため「大都市における疎開強化要綱」が閣議決定される(学童、母子など続々緊急疎開)
・3月16日 「学童疎開強化要綱(追加)」を再度閣議決定し、高等科の児童についても可能なかぎり縁故疎開をすすめるとする
・3月26日 東京都は千葉・茨城・静岡県の集団疎開学童に青森・岩手・秋田へ再疎開命令を出す
・4月 疎開都市に京都、舞鶴、広島、呉の4都市を追加指定する
・5月1日 集団疎開学童への主要食糧の配給量が減少する
・7月11日 集団疎開学童への主食の配給さらに1割減少、3年生まで252g(1合8勺)、4年生以上354g(2合5勺)となる
・8月16日 東京都は学童集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針を明示する
・10月10日 東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着く
・11月 集団疎開からの大部分の復帰が完了する

<1946年(昭和21)
・3月 神田・日本橋・京橋区などの集団疎開学童が帰京する
・11月 沖縄の集団疎開学童が九州から沖縄へ帰還する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事) 

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