ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:学徒出陣

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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、「徴兵適齢臨時特例」が公布・施行され、徴兵年齢が1歳引き下げられ19歳になった日です。
 「徴兵適齢臨時特例」(ちょうへいてきれいりんじとくれい)は、太平洋戦争時に戦局の悪化による兵力不足を補うために、当面の間、徴兵年齢を1歳引き下げ、20歳から19歳へ変更する勅令(昭和18年勅令第939号)でした。まず、兵力不足に対応するため、大学や専門学校などに通う理工系と教員養成系を除く学生・生徒の徴兵猶予を取り消し(学徒出陣)を決め、1943年(昭和18)10月2日に勅令「在学徴集延期臨時特例」が公布・施行されます。
 さらに、10月12日に「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められました。続いて、この勅令が12月24日に出され、徴兵年齢が1歳引き下げられ19歳に拡大され、翌年10月18日には、「兵役法施行規則改正」(陸軍省令第49号)で、11月1日付けで17歳以上が兵役に編入されます。こうして、若者が次々と召集されて、戦地に赴くこととなりました。
 以下に、「徴兵適齢臨時特例」(昭和18年勅令第939号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「徴兵適齢臨時特例」(昭和18年勅令第939号)1943年(昭和18)12月24日公布・施行

兵役法第二十四条ノ二ノ規定ニ依リ当分ノ内同法第二十三条第一項及第二十四条ニ規定スル年齢ハ十九年ニ変更ス

  附 則

1 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス但シ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ニ対シテハ別ニ定ムル期日ヨリ之ヲ適用ス
2 昭和十八年十二月一日ヨリ昭和十九年十一月三十日迄ノ間ニ於テ年齢二十年ト為ル者ニ付テハ本令ヲ適用セズ

<現代語訳>

「兵役法」第24条の二の規定によって、当分の間同法第23条第1項および第24条に規定する年齢は、19年に変更する。

 付則

1 本令は公布の日より施行する。ただし、朝鮮民事令戸籍に関する規定の適用を受けている者に対しては別に定める期日より適用する。
2 昭和18年12月1日より昭和19年11月30日までの間に年齢が20年となる者については本令を適用しない。

☆学徒出陣関係略年表

<1941年(昭和16)>
・10月16日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」(勅令第924号)が出される
・10月16日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和16年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第79号)で、1941年度卒業生は修業年限が3ヵ月短縮される
・11月1日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和17年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第81号)で、1942年度卒業生は修業年限6ヵ月短縮される(予科と高等学校も含む)
・12月 同年の卒業生を対象に臨時徴兵検査を実施する

<1942年(昭和17)>
・2月 修業年限3ヶ月短縮の臨時徴兵検査合格者を入隊させる
・10月16日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和18年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第68号)で、1943年度卒業生は修業年限6ヵ月短縮される

<1943年(昭和18)>
・1月21日 「高等学校令中改正」(勅令第38号)、「大学令中改正」(勅令第40号)で、高等学校・大学予科の修業年限を2年に短縮し、1943年入学者から適用する
・3月8日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」改正(勅令第111号)で、大学の在年限短縮を例年続けることを決定する
・10月1日 閣議において、大学や専門学校などに通う理工系と教員養成系を除く学生・生徒の徴兵猶予を取り消しを決める
・10月2日 勅令「在学徴集延期臨時特例」が公布・施行され、文科系学生の徴兵猶予が撤廃される
・10月12日 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められる
・10月12日 「在学徴集延期停止ニ関スル件」文部次官通達で、徴集延期中の学生・生徒に、全員10月25日~11月5日まで本籍地での徴兵検査を受けることを指示する
・10月21日 明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれ、関東地方の入隊学生を中心に7万人が集う
・11月25日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和19年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第74号)で、1944年度卒業生は修業年限が6ヵ月短縮される
・12月24日 「徴兵適齢臨時特例」(勅令第939号)で、徴兵年齢を19歳に引き下げる

<1944年(昭和19)>
・10月18日 「兵役法施行規則改正」(陸軍省令第49号)で、11月1日付けで17歳以上を兵役に編入される

<1945年(昭和20)>
・3月19日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和20年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第74号)で、医学部,医学専門部,臨時教員養成所等の学生も含め、1944年度卒業生は修業年限が6ヵ月短縮される。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)言語学者・国語学者橋本進吉の誕生日詳細
1902年(明治35)文芸評論家・思想家高山樗牛の命日詳細
1953年(昭和28)日本とアメリカ合衆国が「奄美群島返還協定」に調印する詳細
1975年(昭和50)国鉄最後の蒸気機関車(SL)牽引による定期貨物列車が夕張線で運転される詳細

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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、明治神宮外苑競技場で学徒出陣壮行のための出陣学徒壮行会が開かれた日です。
 出陣学徒壮行会(しゅつじんがくとそうこうかい)は、一般には文部省学校報国団本部主催、陸海軍省等の後援で、東京の明治神宮外苑競技場で開催されたものを言いますが、この他各地でこの日以降に壮行会が行われました。当日は、秋雨降る中だったものの、関東地方入隊学生を中心に7万人が集まり、その様子は2時間半にわたり社団法人日本放送協会(NHK)による実況中継がなされ、映画「学徒出陣」も製作されます。
 多くの人々が観客席で見守る中で、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の各大学・高校・専門学校からの出陣学徒(東京帝国大学以下計77校)の入場行進(行進曲:観兵式分列行進曲「扶桑歌」 奏楽:陸軍戸山学校軍楽隊)、宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部大臣による開戦詔書の奉読、東條英機首相による訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞、「海行かば」の斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わりました。それ以外にも、この日以後文部省主催の壮行会が全国7都市と満州などで開催されています。
 壮行会後に学生は徴兵検査を受け、同年12月1日に第1回学徒兵入営(陸軍)、続いて同月10日に第1回学徒兵入団(海軍)が行われました。入営・入団時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったのですが、短期の訓練を受けてから、中国大陸や南方戦線、南太平洋などの前線に送られ、多くの戦死者を出したとされます。
 尚、翌年の第2次学徒出陣以降は壮行会は行われませんでした。
 以下に、出陣学徒壮行会での東條英機首相の訓示と出陣学徒代表の答辞を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇出陣学徒壮行会の式次第 (文部省学校報国団本部主催、陸海軍省等の後援)

日時:1943年(昭和18)10月21日
会場:東京の明治神宮外苑競技場

・入場行進(行進曲:観兵式分列行進曲「扶桑歌」 奏楽:陸軍戸山学校軍楽隊)
・宮城(皇居)遙拝
・岡部長景文部大臣による「開戦詔書」の奉読
・東條英機首相による訓辞
・東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞
・「海行かば」の斉唱など
・競技場から宮城まで行進
・宮城前で「天皇陛下万歳」を叫び解散

〇出陣学徒壮行会での東條英機首相の訓示

 ここに明治神宮外苑の聖域において上らんとする学徒諸君の壮容に接し、所感を申し述べる機会を得ましたることは私の最も欣快[1]とする所である。
 かつて藤田東湖[2]先生が正気の歌を賦して、その劈頭[3]に「天地正大の気、粋然[4]として神州に錘まる[5]」と申されたのである。只今諸君の前に立ち親しく相見えて私は神州の正気粛然[6]として今ここに集結せられて居るのを感ずるものである。諸君は胸中深く既に決する所あり、腕を撫して国難に赴き烈々たる気魄[7]まさに旺なるものがあるのは私は諸君の輝く眸に十分御察しすることが出来るのである。
 若き諸君は今日まで皇国未曾有の一大試練期に直面しながら、なおいまだ、学窓[8]に止まり、鬱勃[9]たる報国[10]挺身[11]の決意躍動して抑え難きものがあったことと在ずるのである。しかるに、今や皇国三千年来の国運の決する極めて重大なる時局に直面し、緊迫せる内外の情勢は一日半日を忽せにする[12]ことを許さないのである。
 一億同胞[13]が悉く[14]戦闘配置につき、従来の行掛りを捨て、身を呈して各々その全力を尽くし、以て国難を克服すべき総力決戦の時期が正に到来したのである。御国の若人たる諸君が勇躍学窓[8]より、征途[15]に就き、祖先の遺風を昂揚[16]し仇なす敵を撃滅しで皇運[17]を扶翼[18]し奉る日は来たのである。
 大東亜[19]十億の民を、道義に基づいてその本然の姿に復帰しめるために壮途[20]に上るの日は来たのである。私はここに衷心[21]よりその門出を御祝い申し上げる次第である。素よリ、敵米英においても、諸君と同じく幾多の若い学徒が戦場に立っているのである。 
 諸君は彼等と戦場に相対し、気魄[22]においても戦闘力においても必ず彼等を圧倒すべきことを私は信じて疑わざるものである。申すまでもなく、諸君のその燃え上がる魂、その若き肉体、その清新なる血潮総てこれ、御国の大御宝なのである。ここの一切を大君[23]の御為に捧げ奉るは皇国[24]に生を享けたる諸君の進むべきただひとつの途である。諸君が悠久の大義[25]に生きる唯一の道なのである。諸君の門出の尊厳なる所以は、実にここに存するのである。
 諸君の光栄なる今日の門出に接し、我々の祖先が我が子の初陣に当たり、一家一門揃って祝い送ったのと同様の心持をもって、我々一億同胞[13]は心から敬意と感謝とをもって諸君の壮途[20]を祝い奉らんとするものである。
 願わくば、青年学徒諸君、私は諸君が昭和の御代における青年学徒の不抜なる意気と必勝の信念とをもって護国[26]の重責を全うし、後世に永く日本の光輝ある伝統を残されんことを諸君に期待し、かつこれを確信するものである。而して我我諸君の先輩も、亦諸君と共に一切を捧げて皇国[24]興隆[27]の礎石[28]たらんことを深く心に期してゐものである。
 必ずや其の責任を全うせられんことを、切に祈念して、諸君に対する私の壮行[29]の辞と致す次第である。

【注釈】

[1]欣快:きんかい=喜ばしく快いこと。また、そのさま。
[2]藤田東湖:ふじたとうこ=(1806~55年)江戸時代末期の水戸藩士で後期水戸学の大成者。
[3]劈頭:へきとう=物事のいちばん初め。最初。冒頭。
[4]粋然:すいぜん=まじりけのないさま。純粋なさま。
[5]神州に錘まる:しんしゅうにあつまる=神の国の重しとなる。
[6]粛然:しゅくぜん=ひっそりと静かな様子。
[7]気魄:きはく=はげしい気力。強い精神力。
[8]学窓:がくそう=学問をする所。まなびや。学校。
[9]鬱勃:うつぼつ=意気が盛んにわき起こるさま。
[10]報国:ほうこく=国のためにつくして、国の恩に報いること。
[11]挺身:ていしん=率先して身を投げ出し、困難な物事にあたること。
[12]忽せにする:ゆるがせにする=おろそかにする。
[13]一億同胞:いちおくどうほう=全国民がすべて兄弟姉妹であるという意味。
[14]悉く:ことごとく=残らず。すべて。
[15]征途:せいと=戦争などの戦いに向かう道。
[16]昂揚:こうよう=精神や気分を高めること。また、高まること。
[17]皇運:こううん=天皇の運。皇室の運命。
[18]扶翼:ふよく=仕事・任務がうまく進むように、助けること。
[19]大東亜:だいとうあ=ジアの東部「東亜」を誇張していう語。
[20]壮途:そうと=勇ましく出発すること。また、そのような門出。
[21]衷心:ちゅうしん=心の中。心の底。本心。
[22]気魄:きはく=はげしい気力。強い精神力。
[23]大君:おおきみ=天皇を尊敬していう言葉。
[24]皇国:こうこく=天皇が統治する国。
[25]悠久の大義:ゆうきゅうのたいぎ=天皇を頂く国家体制(国体)のこと。
[26]護国:ごこく=国を守ること。
[27]興隆:こうりゅう=勢いが盛んになること。
[28]礎石:そせき=建物の柱の沈下を防ぐために、下に据えておく石。基礎となる石。転じて、物事の基礎となるもの。
[29]壮行:そうこう=旅立ちに際して、その前途を祝し激励すること。

〇出陣学徒代表の答辞

 明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競い、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。本日、この思い出多き地に於いて、近く入隊の栄を担い、戦線に赴くべき生等のため、かくも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示忝くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能はざるところなり。思うに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃壤払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確固として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。
 然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は日を追って、熾烈の度を加え、事態益々重大なるものあり。時なるや、学徒出陣の勅令公布せらる。予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外に優渥なる趣旨を奉体して、近く勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。また奮起せざらんや。
 生等今や、見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず、在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。かくの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。
 生等謹んで宣戦の大召を奉戴し、益々、必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を堅待して決戦場裡に突進し、誓って皇国の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。

☆主要な出陣学徒壮行会一覧(1943年11月28日以降は開催されていない)

<1943年(昭和18)>
・10月21日 「出陣学徒壮行会」 於:東京市(明治神宮外苑競技場)
・10月21日 「出陣学徒壮行会」 於:台北市(台湾)
・10月30日 「出陣学徒壮行会」 於:京城市(朝鮮)
・11月3日 「満州国出陣学徒壮行式」 於:新京、ハルビン、奉天、大連(満州国)
・11月14日 「二世出陣学徒壮行会」 於:東京
・11月16日 「出陣学徒壮行会ならびに分列行進」 於:大阪府大阪市(中之島公園)
・11月18日 「関東北地方学徒壮行会」 於:宮城県仙台市
・11月19日 「出陣学徒壮行会」 於:兵庫県神戸市(東遊園地)
・11月21・22日 「東海地区学徒聯合演習及び出陣学徒壮行式」 於:愛知県名古屋市
・11月21日 「出陣学徒武運長久祈願祭並びに壮行会」 於:京都府京都市(平安神宮)
・11月27日 「学徒出陣壮行式」 於:上海(中国)
・11月28日 「出陣壮行式」 於:北海道札幌市

〇学徒出陣(がくとしゅつじん)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争の下で、戦局の悪化に伴って、徴兵猶予措置の停止に伴う学生・生徒の出陣を学徒出陣と呼んでいます。
 東条英機内閣は、兵員が不足する中で、1943年(昭和18)10月1日の閣議において、大学や専門学校などに通う理工系と教員養成系を除く学生・生徒の徴兵猶予を取り消しを決め、翌日勅令「在学徴集延期臨時特例」が公布・施行されました。これは、それまで「兵役法」第41条などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていたのを、文科系学生のみ徴兵猶予を撤廃し、20歳以上の学生に適用させたものです。同時に「昭和十八年臨時徴兵検査規則」(昭和18年陸軍省令第40号)が定められ、同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させることとしました。
 この第1回学徒兵入隊を前にした10月21日に明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場跡地)で出陣学徒壮行会が開かれ、関東地方の入隊学生を中心に7万人が集いました。学徒兵は、陸海軍部隊に配属され、短期の訓練を受けて、幹部候補生・見習士官などの下級将校や下士官として、中国大陸や南方戦線、南太平洋などの前線に送られます。
 1943年(昭和18)10月12日には「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められました。12月24日には、「徴兵適齢臨時特例」(勅令第939号)で、徴兵年齢を19歳に引き下げ、さらに翌1944年(昭和19)10月18日には徴兵適齢が17歳に引き下げられ、敗戦までに兵役についた学徒の総数は、13万人とも言われていますが、多くの戦死者を出すことになります。
 学徒出陣に関して、敗戦後の1947年(昭和22)に東京大学戦没学生の手記『はるかなる山河に』が出され、1949年(昭和24)には、全国の大学の戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』が出版され、大きな反響を呼んで、約200万部を売り上げる大ベストセラーとなりました。1950年(昭和25)には、『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』というタイトルで、関川秀雄監督による映画化も実現し、その年の4月には、次の世代に戦争体験を伝える日本戦没学生記念会(通称「わだつみ会」)が結成され、不戦と平和の活動を続けています。2006年(平成18)には、東京都文京区本郷のマンション内に「わだつみのこえ記念館」が設立され、戦没学徒兵の遺品などが展示されてきました。

☆学徒出陣関係略年表

<1943年(昭和18)>
・10月1日 閣議において、大学や専門学校などに通う理工系と教員養成系を除く学生・生徒の徴兵猶予を取り消しを決める
・10月2日 勅令「在学徴集延期臨時特例」が公布・施行、同時に「昭和十八年臨時徴兵検査規則」(昭和18年陸軍省令第40号)が定められる
・10月12日 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められる
・10月21日 明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場跡地)と台北市(台湾)で出陣学徒壮行会が開かれる
・10、11月 最初の学生の徴兵検査が実施される
・12月1日 第1回学徒兵入営(陸軍)
・12月10日 第1回学徒兵入団(海軍)
・12月24日 「徴兵適齢臨時特例」(勅令第939号)で、徴兵年齢を19歳に引き下げる

<1944年(昭和19)>
・10月18日 徴兵適齢が17歳に引き下げられる

<1947年(昭和22)>
・東京大学戦没学生の手記『はるかなる山河に』が出される

<1949年(昭和24)>
・10月20日 全国の大学の戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』が出版される

<1950年(昭和25)>
・4月 日本戦没学生記念会(通称「わだつみ会」)が結成される
・6月15日 『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(関川秀雄監督)が映画化がさける

<2006年(平成18)>
・東京都文京区本郷のマンション内に「わだつみのこえ記念館」が設立され、戦没学徒兵の遺品などが展示される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1684年(貞享元)江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の誕生日(新暦11月27日)詳細
1818年(文政元)洋風画家・蘭学者・随筆家司馬江漢の命日(新暦11月19日)詳細
1946年(昭和21)「農地調整法」改正、「自作農創設特別措置法」公布により、第二次農地改革が開始される詳細
1971年(昭和46)小説家志賀直哉の命日(直哉忌)詳細


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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、東条英機内閣において、「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」が閣議決定された日です。
 「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」は、太平洋戦争開戦後1年半を過ぎても戦局がはかばかしくない中で、航空機生産最優先、食糧自給態勢確立など国内態勢強化方策を閣議決定したものでした。その内容は、「内外ノ現時局ニ鑑ミ悠久ナル国体観念ニ徹シ愈々必勝ノ信念ヲ堅ウシ、各種ノ施策ヲ完勝ノ一点ニ集中シ、以テ、聖戦目的ヲ完遂」するとし、①「統帥ト国務トノ関係ヲ更ニ緊密化シ、其ノ間ニ寸隙ナカラシメ、雄渾活発ナル戦争指導ノ遂行ヲ期ス」、②「雄渾活発ナル作戦ニ即応シ国内諸般ノ態勢ヲ徹底的ニ強化ス」、③「戦争完遂ノ一翼トシテ機敏溌剌タル外交ヲ行フ」とした方針の下で、国内態勢強化方策を打ち出したものです。
 その中で特に注目されるのは、学生・生徒の卒業までの徴兵猶予を停止することとされ、同年10月2日に「在学徴集延期臨時特例」(勅令第755号)が公布され、学徒出陣へと至ったこと、また、12月21日に「帝都其ノ他ノ重要都市ニ付キ強力ナjレ防空都市ヲ構成スル知ク人員・施設及建築物ノ疎開ヲ実施スjと「都市疎開実施要綱Jを決定し、都市部からの疎開が促進されることとなったことなどです。
 以下に、「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」1943年(昭和18)9月21日閣議決定

現情勢下ニ於ケル国政運営要綱
 昭和18年9月21日 閣議決定

方針

内外ノ現時局ニ鑑ミ悠久ナル国体観念ニ徹シ愈々必勝ノ信念ヲ堅ウシ、各種ノ施策ヲ完勝ノ一点ニ集中シ、以テ、聖戦目的ヲ完遂セントス 之ガ為
一、統帥ト国務トノ関係ヲ更ニ緊密化シ、其ノ間ニ寸隙ナカラシメ、雄渾活発ナル戦争指導ノ遂行ヲ期ス
二、雄渾活発ナル作戦ニ即応シ国内諸般ノ態勢ヲ徹底的ニ強化ス
三、戦争完遂ノ一翼トシテ機敏溌剌タル外交ヲ行フ

国内態勢強化方策

第一、国内態勢強化ノ目標ヲ左ノ諸点ニ置ク
一、官民ヲ挙ゲテ常ニ今次聖戦ノ本義ニ徹セシムルト共ニ、其ノ容易ナラザル大業ナルコトヲ覚悟セシメ、愈々必勝ノ信念ヲ以テ、不屈不撓、尽忠報国ノ誠ヲ致サシム
二、国力ヲ挙ゲテ軍需生産ノ急速増強ヲ図リ、特ニ航空戦力ノ躍進的拡充ヲ図ル
三、日満ヲ通ズル食糧ノ絶対的自給態勢ヲ確立ス
四、国内防衛態勢ノ徹底強化ヲ図ル

第二、国内態勢強化ノ為特ニ執ルベキ方途左ノ如シ
一、今次聖戦ニ対スル思想ヲ確立シ、民心ノ作興ヲ期シ国内言論ノ指導ヲ強化スルト共ニ諸般ノ取締ヲ強化シ、苟モ国論分裂ノ虞アル者ニ対シテハ徹底的ノ措置ヲ講ズ
二、行政運営ノ決戦化ヲ図ル
之ガ為
 (括弧内ハ立案分担ヲ示ス)
(イ)政務執行ノ敏速化ノ徹底ヲ図ル
(ロ)中央各庁業務ヲ徹底的ニ地方庁ニ移譲スルト共ニ地方行政ノ簡素敏速ヲ計リ尚地方行政協議会ノ機能ヲ強化ス(企)
(ハ)予算ノ徹底的単純化(蔵)
(ニ)官庁事務ノ徹底的簡素化就中許可認可事項ノ整理特ニ重要企業ニ対スル書類監督制ノ廃止、監督系統ノ簡易化、決戦ニ不必要ナル行政事務ノ廃止ヲ徹底的ニ行フ(企、各省)
(ホ)行政機構ヲ整理シ、其ノ徹底的簡素化ヲ図ルト共ニ決戦行政遂行ノ態勢ヲ整へシム(企、各省)
(ヘ)作業庁ノ施設並ニ人員ノ能率ノ徹底向上ヲ図ル(関係各省)
(ト)前各号関連シ、再ビ官庁人員ノ大巾縮減ヲ行フ(各省)
(チ)重要生産ニ対スル軍官発注ノ統一ヲ図ル(企、陸、海、商)
(リ)一層官紀ノ粛正ヲ図リ之カ為必要ナル措置ヲ講ス(内閣)
(ヌ)官庁執務ノ決戦化ヲ図ル(内閣)
 (註)時間ノ絶対的励行、土曜半休制ノ廃止ヲ行ヒ、且昼夜ヲ通ジ、又体日ト雖モ、官庁ノ機能ヲシテ断続ナク運行セシムル如ク措置ス
三、国民動員ノ徹底ヲ図ル
之ガ為
(イ)一般ノ徴集猶予ヲ停止シ、理工科系統学生ノ入営延期ノ制ヲ設ク
理工科系統学校ノ拡充整備ヲ計ルト共ニ法文科系統ノ大学、専門学校ノ統合整理ヲ行フ(企、文)
(ロ)徴集徴用ノ範囲ヲ拡大普遍化シ、特種技術ヲ掌ル者以外ノ除外例ヲ撤廃スル(陸、海、厚)
 普通教育ノ為ノ必要最少限ノ要員ヲ養成スルト共ニ広ク適材ヲ得ルノ措置ヲ講ス
(ハ)女子ノ動員ヲ強化ス
(ニ)速ニ勤労配置ノ適正ヲ図ル
(ホ)停年制ヲ撤廃スル等各職域ニ於ケル年齢ノ制限ヲ撤廃シ高齢者ノ活用ヲ図ル
(ヘ)第二、七、八、項ニ基ク官庁等ノ整理ニ依リテ、生ズル所ノ人員ハ、総合的計画ノ下ニ、悉ク、之ヲ戦争遂行ニ参与セシム(文)
(ト)義務教育八年制ノ施行ヲ引続キ延期ス
四、国内防衛態勢ノ徹底強化ノ為、特ニ左ノ方途ヲ執ル
(イ)国内防衛行政ノ統一的運営ヲ図ル(企、内)
(ロ)国家重要ノ地区、軍事上重要ナル施設並ニ軍事上重要ナル工場鉱山ニ対シ、極力防空ヲ強化ス
(ハ)帝都及重要都市ノ防衛ヲ全クスル為ニ之等ノ都市ニ於ケル官庁工場、家屋等ニ対シ必要ナル整理ヲ行フ
之ガ為官庁ハ率先シテ措置ヲ講ズ、細目ハ別紙ノ如シ
公共団体、各種外郭団体、各種統制機関、統制会社等ハ官庁ニ準ジ、所要ノ整理ヲ行フモノトス(企、内)
(ニ)前号ニ関連シ、速ニ官庁其ノ他ノ機構並ニ人員ノ地方分散ノ綜合的計画ヲ樹立実行ス(企、内)
(ホ)民間ノ企業整備ヲ促進シ、官庁ノ整理ニ準ジテ、帝都及重要都市ニ於ケル家屋店舗ノ整理ヲ行フ
五、重要企業ノ国家性ヲ更ニ明確ナラシメ生産ノ責任性ヲ確立スル如ク諸般ノ措置ヲ講ス(商)
六、海陸輸送ノ一貫的強化ヲ図ル(企)
七、租税及国民貯蓄ヲ更ニ強化シ徹底的ニ資金ノ戦力集中ヲ図リ其ノ効果ヲ最大限ニ発揮セシム(蔵)
八、価格及配給制度ノ徹底的簡素化ヲ図ル(企、商、農)
九、各種外郭団体ハ官庁ニ準ジ之ヲ整理シ及業務ノ運営ニ徹底的刷新ヲ図ル(関係各省)
十、各種統制機関並ニ統制会社等生産第二線部面ニ対シ徹底的整理ヲ行フト共ニ其ノ業務及事務ニ付キ、官庁ニ準ジテ徹底的刷新ヲ行ヒ、其ノ人員ヲ縮減ス(関係各省)

備考

方針一及三、ニ関スル方策ニ付テハ別途考究ス

(別紙)

帝都及重要都市ノ防衛ニ関シ官庁ノ措置スベキ細目案
一、官設工場ニ付テハ其ノ業務ヲ地方工場ニ移管シ、之ヲ廃止ス
二、要綱第三項ノ(イ)号ノ措置ニ即応シ、学校校舎ノ整理ヲ行フ
三、官庁事務ノ徹底簡素化ニ即応シ官庁庁舎ノ整理ヲ行フ
四、帝都並ニ重要都市ニ存在スルコトヲ必要トセザル各種官庁施設ノ地方移転ヲ行ヒ、其ノ庁舎ヲ整理ス
之等ニ関連シテ官庁庁舎ノ再配置ヲ行ヒ防空設備良好ナルモノニ集中シ、脆弱ナル庁舎ハ、之ヲ撤去疎開ス

   「国立国会図書館リサーチナビ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)日本画家菱田春草の誕生日詳細
1934年(昭和9)室戸台風が京阪神地方を直撃し、死者・行方不明者3,036人が出る詳細
1954年(昭和29)実業家・養殖真珠の創始者御木本幸吉の命日詳細
1968年(昭和43)小説家・評論家広津和郎の命日詳細


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 今日は、昭和時代中期の1950年(昭和25)に、日本戦歿学生記念会(通称:わだつみ会)が結成された日です。
 日本戦歿学生記念会(にほんせんぼつがくせいきねんかい)は、『きけ わだつみのこえ』の刊行をきっかけとして、文化人、遺族、学生によって結成された平和運動団体で、通称「わだつみ会」とも呼ばれてきました。太平洋戦争の下で、戦局の悪化に伴って、徴兵猶予措置の停止に伴う学生・生徒の出陣を学徒出陣と呼んでいますが、東条英機内閣は、1943年(昭和18)10月に大学や専門学校などに通う学生・生徒の徴兵猶予を取り消し、同月21日に明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場跡地)で出陣学徒壮行会が開かれます。敗戦までに、兵役についた学徒の総数は、13万人とも言われるほど多数に及び、多くの戦死者を出しました。
 敗戦後の1947年(昭和22)に東京大学戦没学生の手記『はるかなる山河に』が出され、1949年(昭和24)には、全国の大学の戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』が出版されて、大きな反響を呼び、約200万部を売り上げる大ベストセラーとなります。1950年(昭和25)には映画化(関川秀雄監督)も実現し、その年の4月22日には、次の世代に戦争体験を伝える日本戦没学生記念会(通称「わだつみ会」)が結成されました。
 各地の大学に支部が設けられ、学生による反戦・平和運動団体としても活動し、戦没学生を記念する「わだつみ像」を制作すると共に、不戦と平和の活動を展開します。しかし、運動方針を巡る内部対立により、1958年(昭和33)の第9回大会をもっていったん解散したものの、翌年には、「戦争体験を持つ世代と持たない世代との交流と連帯」を趣旨として再建されました。
 その後紆余曲折を経て、2006年(平成18)には、東京都文京区本郷のマンション内に「わだつみのこえ記念館」を設立し、戦没学徒兵の遺品などを展示しています。

〇日本戦没学生記念会(わだつみ会) 趣意書

 一九四九年十月、敗戦の廃墟のなかに生まれた一冊の書物が、以来四十余年発行を続け——およそ二百万部に達し、読み継がれています。それが『きけ わだつみのこえ—日本戦没学生の手記—』です。日本戦没学生記念会(通称・わだつみ会)は、この本を基として翌年四月に、「戦争によって流された血は、ふ たたび、それが決して流されぬようにすること以外によってはつぐなわれない」との信念に立って設立されました。わだつみ会は、死者の遺念を継いで思索し、 発言し、行動する、不戦・反戦・平和の団体です。
 会の歴史には紆余曲析がありましたが、その活動は、死者を記念するとはかれらの悲劇を繰り返さないことだ、という信念に貫かれています。『きけ わだつ みのこえ』に収められたすべての文章から、私たちは、「軍隊と戦争のない世界」への痛切な願いを聴き取ります。わだつみ会の会員は、ジョン・レノンも『イマジン』で歌った、人類普遍の、この高い理想に導かれて、自分の態度と見解を決め、行動にとりくみます。
 わだつみ会は、明治以来日本が行なった戦争がすべて他国・他民族への侵略・掠奪・凌辱であったという冷厳な事実を直視します。したがって、過去の戦争の 合理化や肯定に反対し、また戦没者のことさらな美化、まして神格化に断固反対します。戦没者の追憶・記念と、日本近代史への反省・他の民族への戦争責任の 自覚・不戦反戦の努力とを結び合わせなければなりません。
 戦争は国家の所業であり、戦死は国家の命令による死であります。日本では侵略戦争の遂行に、天皇・天皇制・皇国史観が決定的な役割を果たしました。わだつみ会は、このことを重視して、一九七○年代初めからこの間題の解明に努め、『天皇制を間いつづける』(一九七八年)、『今こそ間う天皇制』(一九八九年)を 世に問いました。また、昭和天皇の死と国葬に際して「幾千万戦争犠牲者の声に聴きつつ」の声明を発しました。報道や警備における皇族の特別扱い、天皇批判 にたいする右翼からの暴力の行使、自衛隊の「皇軍」化の策動、「君が代」、「日の丸」の強制などを批判し、内外にたいする天皇・天皇制の戦争責任を追及 し、「象徴天皇制」の役割と本質を解明することは、ひきつづきわだつみ会の大切な課題であります。
 わだつみ会の規約第二条は「戦没学生を記念することを契機とし、戦争を体験した世代とその体験をもたない世代の交流、協力をとおして戦争責任を間い続 け、平和に寄与することを目的とする」と規定していますが、体験の異なる世代の交流・協力の成功には、いっそうの工夫・努力が必要だと考えています。誤っ た歴史教育によって日本の若者たちが文字どおり「戦争を知らない子どもたち」にされていることを重視するとともに、若い世代の感性と関心に十分考慮を払っ て、連帯の輪を広げたいと思います。わだつみ会は、経済大国が生み出す「私生活保守主義」や新しいナショナリズム、軍国主義を批判し、「国家」・「国益」と区別された公的・社会的・人類的な視点をもって生きる新しい世代の誕生をねがい、そのために努力します。
 「わだつみ記念館」の設立は、わだつみ会の創立以来の宿願でありました。今年、「学徒出陣」五〇周年にあたって、この実現の第一歩を踏みだします。もし、 いま着手しなければ、遺品も記録も、また記憶も証言も、永遠に失われるでしょう。現在の会の力に余る大事業ですが、二百万に近い『きけ わだつみのこえ』の読者、これを上回る映画『きけ、わだつみの声』の鑑賞者、また、五〇年代の機関紙『わだつみのこえ』の数万の読者と数百の支部——これ らの潜在する力を信頼して着手します。これらの人びとに「わだつみ記念館」の設立への支持と協力をよびかけることは、わだつみ会の歴史的な責任でもありま す。無残な死を強いられた若者たちを記念し、日本と世界にいつも不戦と反戦のメッセージを発信しつづける恒久的な施設をつくる——この運動によって、わだ つみ会は、日本の社会のなかに、広く深い協力間係を作り上げたいと思います。
  日本は、経済大国であり、また、核兵器こそ持ちませんが最新の兵器を装備した軍事大国です。「国際貢献」の美名のもとに「自衛隊」の海外への派兵を開始 し、この既成の事実を挺子とし、憲法の平和主義と第九条を改悪しようとの動きがふたたび、そして本格的に高まっています。これからの数年間は、不戦・平和 を信念とする私たちにとって、まさに正念場であります。
 戦争体験から現状を憂慮する老年の方々、朝鮮戦争・ベトナム戦争の時期を経験し、いま経済大国を支えながらこの国の行方に深い危惧を抱く壮年の方々、そして、 冷戦終結ののちに生じた新しい危機に不安を抱き、自らの人生を模索する青年学生のみなさん、——各世代の協同の努力によって、平和な二一世紀を獲得するた めに、わだつみ会の諸事業にご協力ください。すすんで本会にご入会ください。
 
    一九九三年四月

                         日本戦没学生記念会

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1910年(明治43)彫刻家荻原守衛(碌山)の命日詳細
1912年(明治45)映画監督・脚本家新藤兼人の誕生日詳細
1993年(平成5)全国103ヶ所の施設が「道の駅」として初めて正式登録される詳細
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