ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:学士院会員

kikuchiseishi01
 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、実験物理学者菊池正士の亡くなった日です。
 菊池正士(きくち せいし)は、明治時代後期の1902年(明治35)8月25日に、東京において、数学者・教育者・貴族院議員・枢密顧問官として活躍し男爵だった父・菊池大麓(だいろく)の四男として生まれました。東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1923年(大正12)に、東京帝国大学理学部物理学科へ入学します。
 1926年(大正15)に卒業し、理化学研究所(西川正治研究室)に入り、1928年(昭和3)には、雲母の単結晶による電子線回折の実験に成功、菊池線と名づけられ、世界的に認められました。1929年(昭和4)にドイツ留学に出発し、ボルン、ハイゼンベルクのもとで量子力学の理論を学び、1931年(昭和6)に帰国、服部報公会賞を受賞します。
 1932年(昭和7)に論文「Zur Theorie des Comptoneffektes(コンプトン効果に就て)」で、東京大学より理学博士を得、第1回帝国学士院メンデンホール記念賞を受賞、翌年には、大阪大学理学部助教授となりました。1934年(昭和9)に教授に昇進し、サイクロトロンを建設、原子核実験の新しい展開に寄与、戦時下において、1941年(昭和16)に海軍技師となりレーダーの研究に従事します。
 太平洋戦争後、1950年(昭和25)にベーテによって、米カリフォルニア大学、コーネル大学に招かれ、原子核実験を続け、1952年(昭和27)に帰国後、大阪大学に200万電子ボルト・サイクロトロンを再建しました。1951年(昭和26)に文化勲章を受章、1952年(昭和27)に文化功労者となり、1954年(昭和29)には、東京大学教授を兼任します。
 1955年(昭和30)に東大原子核研究所初代所長、1957年(昭和32)に東大宇宙線観測所長、学士院会員、1958年(昭和33)には、原子力委員となりました。1959年(昭和34)に日本原子力研究所(現在の日本原子力研究開発機構)理事長(~1964年)、1966年(昭和41)に東京理科大学学長(~1970年)、1968年(昭和43)には、原子力委核融合専門部会長として核融合研究開発の基本計画をまとめます。
 1972年(昭和47)に勲一等瑞宝章を受章しましたが、1974年(昭和49)11月12日に、東京において、72歳で亡くなり、正三位を追贈されました。

〇菊池正士の主要な著作

・『原子物理学概論』(1947年)
・『物理学の概説』(1947年)
・『原子論より素粒子論へ』(1948年)
・『物質の構造』(1948年)
・『粒子と波』(1948年)
・『原子核物理学』(1949年)
・『現代自然科學講座12・原子核の光分解』(1952年)
・『原子核の世界』第二版(1973年)

☆菊池正士関係略年表

・1902年(明治35)8月25日 東京において、数学者・教育者・貴族院議員・枢密顧問官として活躍し男爵だった父・菊池大麓(だいろく)の四男として、生まれる
・1915年(大正4) 東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を卒業する
・1920年(大正9) 東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校へ入学する
・1923年(大正12) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部物理学科へ入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、理化学研究所(西川正治研究室)に入る
・1928年(昭和3) 雲母の単結晶による電子線回折の実験に成功、菊池線と名づけられ、世界的に認められる
・1929年(昭和4) ドイツ留学に出発し、ボルン、ハイゼンベルクのもとで量子力学の理論を学ぶ
・1931年(昭和6) ドイツ留学から帰国、服部報公会賞を受賞する
・1932年(昭和7) 論文「Zur Theorie des Comptoneffektes(コンプトン効果に就て)」で、東京大学より理学博士を得、第1回帝国学士院メンデンホール記念賞を受賞する
・1933年(昭和8) 大阪大学理学部助教授となる
・1934年(昭和9) 大阪大学理学部教授となり、サイクロトロンを建設、原子核実験の新しい展開に寄与する
・1941年(昭和16) 海軍技師となりレーダーの研究に従事する
・1950年(昭和25) ベーテによって、米カリフォルニア大学、コーネル大学に招かれ、原子核実験を続ける
・1952年(昭和27) 帰国後、大阪大学に200万電子ボルト・サイクロトロンを再建する
・1951年(昭和26) 文化勲章を受章する
・1952年(昭和27) 文化功労者となる
・1954年(昭和29) 東京大学教授を兼任する
・1955年(昭和30) 東大原子核研究所初代所長となる
・1957年(昭和32) 東大宇宙線観測所長、学士院会員となる
・1958年(昭和33) 原子力委員となる
・1959年(昭和34) 日本原子力研究所(現在の日本原子力研究開発機構)理事長となる
・1964年(昭和39) 日本原子力研究所理事長を辞任する
・1966年(昭和41) 東京理科大学学長(~1970年)となる
・1968年(昭和43) 原子力委核融合専門部会長として核融合研究開発の基本計画をまとめる
・1972年(昭和47) 勲一等瑞宝章を受章する
・1974年(昭和49)11月12日 東京において、72歳で亡くなり、正三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)岩倉使節団が欧米視察のために、横浜港を出港する(新暦12月23日)詳細
1898年(明治31)幕末の漂流民・幕臣・英語教育者・啓蒙家ジョン万次郎(中浜万次郎)の命日詳細
1945年(昭和20)GHQ「美術品、記念物、及文化的並に宗敎的地域、施設の保護に関する政策及手続に関する覚書」 が出る詳細
1946年(昭和21)「財産税法」が公布(施行は11月20日)される詳細
1986年(昭和61)小説家島尾敏雄の命日詳細
1988年(昭和63)詩人草野新平の命日詳細
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ogatatomosaburou01
 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、病理学者緒方知三郎が生まれた日です。
 緒方知三郎(おがた ともざぶろう)は、東京において、幕末の蘭学者・緒方洪庵の次男である父・緒方惟準(これよし)の三男として生まれました。旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に学び、1908年(明治41)に卒業後、同大学助手となり病理学教室に勤務します。
 1910年(明治43)にドイツへ留学し、主としてアショフについて病理学を研究、1913年(大正2)に留学から帰国し、翌年には、東京帝国大学医科大学助教授となりました。1915年(大正4)に、論文「輸精管結紮及びイクテローゲン中毒に際する肝硬変及び黄疸の発生」で、医学博士を得て、1923年(大正12)には教授に昇任し、病理学を担当します。
 1926年(大正15)に、島薗順次郎と共に「ビタミンB欠乏症についての実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1943年(昭和18)には、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、東京医学専門学校校長に就任しました。1944年(昭和19)に、「唾液腺内分泌に関する研究」で、帝国学士院恩賜賞を受賞、太平洋戦争後の1946年(昭和21)には、東京医科大学学長兼理事長、学士院会員となります。
 1954年(昭和29)に財団法人老人病研究会を設立、老人病の研究に努め、1952年(昭和27)に東京医科大学学長兼理事長を辞任し、名誉学長となり、1957年(昭和32)には、文化勲章を受章しました。1968年(昭和43)に日本医科大学に迎えられ、老人病研究所長を兼任しましたが、1973年(昭和48)8月25日に、東京において、90歳で亡くなっています。

〇緒方知三郎の主要な著作

・『病理学総論』
・『病理学入門』
・『常用医語事典』

☆緒方知三郎関係略年表

・1883年(明治16)1月31日 東京において、幕末の蘭学者・緒方洪庵の次男である父・緒方惟準(これよし)の3男として生まれる
・追手門学院を卒業する
・1908年(明治41) 東京帝大医科大学を卒業後、同大学助手となり病理学教室に勤務する
・1910年(明治43) ドイツへ留学し、主としてアショフについて病理学を研究する
・1913年(大正2) 留学から帰国し、東京帝国大学医科大学講師となる
・1914年(大正3) 東京帝国大学医科大学助教授となる 
・1915年(大正4) 論文「輸精管結紮及びイクテローゲン中毒に際する肝硬変及び黄疸の発生」で、医学博士を得る
・1923年(大正12) 東京帝国大学医学部教授(病理学)となる
・1926年(大正15) 島薗順次郎と共に「ビタミンB欠乏症についての実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1943年(昭和18) 東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、東京医学専門学校校長に就任する
・1944年(昭和19) 「唾液腺内分泌に関する研究」で、帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1946年(昭和21) 東京医科大学学長兼理事長、学士院会員となる
・1954年(昭和29) 財団法人老人病研究会を設立する
・1952年(昭和27) 東京医科大学学長兼理事長を辞任し、名誉学長となる
・1957年(昭和32) 文化勲章を受章する
・1968年(昭和43) 日本医科大学に迎えられ、老人病研究所長を兼任する
・1973年(昭和48)8月25日 東京において、90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1892年(明治25)詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の誕生日詳細
1893年(明治26)北村透谷・島崎藤村らが文藝雑誌「文学界」を創刊する詳細
1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細
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takanoiwasaburou01

 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、社会統計学者・社会運動家高野岩三郎の生まれた日ですが、新暦では10月15日となります。
 高野岩三郎(たかの いわさぶろう)は、長崎県西彼杵郡長崎区銀屋町(現在の長崎市)で生まれ、慶應義塾幼稚舎、共立学校(現・開成高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学しました。在学中は金井延(のぶる)に学び、1895年(明治28) に政治学科を卒業、大学院へ進んで労働問題と統計学を専攻、1897年(明治30)桑田熊蔵、小野塚喜平次らと社会政策学会を創立、その中心的世話役となります。
 1899年(明治32)にドイツのミュンヘン大学へ留学、経済学をブレンターノに、統計学をマイヤーに学んで、1903年(明治36)に帰国、東京帝国大学教授となり、統計学講座を担当しました。1904年(明治37)に法学博士の学位を授与され、社会統計学の研究と普及に努め、1908年(明治41)には再度渡欧します。
 1910年(明治43)に国勢調査準備委員となり、日本最初のセンサス実施を指導、1916年(大正5)には、わが国最初の試みとして、東京で「二十職工家計調査」を実施しました。1919年(大正8)に東大法科大学より経済学部を独立させるため努力し、実現させましたが、国際労働機関 (ILO) 代表任命に関わって、教授を辞めます。
 1920年(大正9)に大原社会問題研究所所長となり、労働者家計調査を実施、労働問題を研究、労働運動、無産政党運動の助言者ともなり、大阪労働学校の経営委員長としてその運営にも献身しました。1925年(大正14)には、学士院会員となり、1928年(昭和3)には、日本大衆党結成に際して委員長となりましたが、翌年同党は分裂してしまいます。
 1938年(昭和13)に国際統計協会正会員となり、『統計学古典選集』13巻の編集、翻訳(1941~49年)にあたりました。太平洋戦争後、1945年(昭和20)に鈴木安蔵、森戸辰男、馬場恒吾らと憲法研究会を設立、「憲法草案要綱」を発表、これとは別に大統領制・土地国有化などを盛り込む「改正憲法私案要綱」を独自に発表しています。
 また、安部磯雄、賀川豊彦らと連名で社会主義政党結成を呼びかけ、のち日本社会党の顧問となりました。一方で、1946年(昭和21)に日本放送協会会長となり、放送民主化に尽力したものの、1949年(昭和24)4月5日に、東京において、77歳で亡くなっています。
 以下に、「改正憲法私案要綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇高野岩三郎の主要な著作

・『統計学研究』(1915年)
・『東京ニ於ケル二十職工家計調査』 (1916年)
・『月島労働者家計調査』(1917年)
・『東京及び附近小学校教員家計調査』(1917年)
・『社会統計学史研究』(1925年)
・監集『統計学古典選集』11巻(1941~49年)
・訳書『産業民主制論』ウェッブ夫妻著(1927年)
・『かっぱの屁』
・『本邦人口の現状及未来』

〇「改正憲法私案要綱」(高野岩三郎)

改正憲法私案要綱

根本原則
天皇制ニ代ヘテ大統領ヲ元首トスル共和制ノ採用

第一 主権及ビ元首
日本国ノ主権ハ日本国民ニ属スル
日本国ノ元首ハ国民ノ選挙スル大統領トス
大統領ノ任期ハ四年トシ再選ヲ妨ゲザルモ三選スルヲ得ズ
大統領ハ国ノ内外ニ対シ国民ヲ代表ス
立法権ハ議会ニ属ス
議会ノ召集開会及ビ閉会ハ議会ノ決議ニヨリ大統領之ニ当ル大統領ハ議会ヲ解散スルヲ得ズ
議会閉会中公益上緊急ノ必要アリト認ムルトキハ大統領ハ臨時議会ヲ召集ス
大統領ハ行政権ヲ執行シ国務大臣ヲ任免ス
条約ノ締結ハ議会ノ議決ヲ経テ大統領之ニ当ル
爵位勲章其他ノ栄典ハ一切廃止ス、其ノ効力ハ過去与へラレタルモノニ及ブ

第二 国民ノ権利義務
国民ハ居住及ビ移転ノ自由ヲ有ス 国民ハ通信ノ自由ヲ有ス
国民ハ公益ノ必要アル場合ノ外其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ
国民ハ言論著作出版集会及ビ結社ノ自由ヲ有ス
国民ハ憲法ヲ遵守シ社会的協同生活ノ法則ヲ遵奉スルノ義務ヲ有ス
国民ハ納税ノ義務ヲ有ス
国民ハ労働ノ義務ヲ有ス
国民ハ生存ノ権利ヲ有ス
国民ハ教育ヲ受クルノ権利ヲ有ス
国民ハ休養ノ権利ヲ有ス
国民ハ文化的享楽ノ権利ヲ有ス

第三 議会
議会ハ第一院及ビ第二院ヲ以テ成立ス
第一院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依り国民ノ直接選挙シタル議員ヲ以テ組織ス
第二院ハ各種職業等ニ(原文ノママ)其ノ中ニ於ケル階層ヨリ選挙セラレタル議員ヲ以テ組織ス議員ノ任期ハ三年トシ毎年三分一ヅツヲ改選ス
何人モ同時ニ両院ノ議員タルコトヲ得ズ
二タビ第一院ヲ通過シタル法律案ハ第二院ニ於テ否決スルコトヲ得ズ
両院ハ各々其ノ総議員三分ノ一以上出席スルニ非ザレバ議決ヲナスコトヲ得ズ
両院ノ議事ハ一切公開トシ之ヲ速記シテ公表ヅ
両院ハ各々其ノ議決ニヨリ特殊問題ニ付キ委員会ヲ設ケコレニ人民ヲ召喚シ意見ヲ聴問スルコトヲ得
両院ノ議員ハ院内ニ於テナシタル発言及ビ表決ニ付キ院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ
両院ノ議員ハ現行犯罪ヲ除ク外会期中又ハ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルルコトナシ
両院ハ各々政府又ハ大臣ニ対シ不信任ノ表決ヲナスコトヲ得此ノ場合政府又ハ大臣ハ直チニ其ノ職ヲ去ルベシ

第四 政府及ビ大臣
政府ハ各省大臣及ビ無住所大臣ヲ以テ組織ス

第五 経済及ビ労働
土地ハ国有トス
公益上必要ナル生産手段ハ議会ノ議決ニ依り漸次国有ニ移スヘシ
労働ハ如何ナル場合ニモ一日八時間ヲ超ユルヲ得ズ
労働ノ報酬ハ労働者ノ文化生活水準ニ下ルコトヲ得ズ

第六 文化及科学
凡テ教育其他文化ノ享受ハ男女ノ間ニ差異ヲ設クベカラズ
一切ノ教育ハ真理ノ追官真実ノ闡明ヲ目標トスル科学性ニ其ノ根拠ヲ置クベシ

第七 司法
司法権ハ裁判所構成法及ビ審法ノ規定ニ従ヒ裁判所之ヲ行フ
司法権ハ行政権ニヨリ侵サルルコトナシ
行政官庁ノ処分ニヨリ権利ヲ傷害セラレ又ハ正当ノ利益ヲ損害セラレタリトスル場合ニ対シ別ニ行政裁判所ヲ設ク

第八 財政
国ノ歳出歳入ハ詳細明確ニ予算ニ規定シ毎年議会ニ提出シテ其ノ承認ヲ経ベシ
予算ハ先ヅ第一院ニ提出スベシ其ノ承認ヲ経タル項目及ビ金額ニ就テハ第二院之ヲ否決スルヲ得ズ
租税ノ賦課ハ公正ニ行ハレ苟モ消費税ヲ偏重シテ民衆ノ負担ノ過重ヲ来サザルヤウ注意スルヲ要ス
歳入歳出ノ決算ハ速ニ会計検査院ニ提出シ其ノ検査確定ヲ経ル後政府ハ之ヲ次ノ会計年度ニ議会ニ提出シテ承認ヲ得ベシ

第九 憲法ノ改正及ビ国民投票
将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アリト認メタルトキハ大統領又ハ第一院若クハ第二院ハ議案ヲ作成シ之ヲ議会ノ議ニ附スベシ
此ノ場合ニ於テ両院ハ各々其ノ議員三分ノ二以上出席スルニ非ザレバ議事ヲ開クコトヲ得ズ出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非ザレバ改正ノ議決ヲナスコトヲ得ズ
国民全般ノ利害ニ関係アル問題ヲシテ国民投票ニ附スル必要アリト認ムル事項アルトキハ前掲憲法改正ノ規定ニ準ジテ其ノ可否ヲ決スベシ
(付 枢密院ハ之ヲ廃止ス)

「国立国会図書館ウェブサイト」より

☆高野岩三郎関係略年表

・1871年(明治4年9月2日) 長崎県西彼杵郡長崎区銀屋町(現在の長崎市)で生まれる
・1895年(明治28) 東京帝国大学法科大学(現在の東大法学部)政治学科を卒業する
・1897年(明治30) 桑田熊蔵、小野塚喜平次らと社会政策学会を創立、その中心的世話役となる
・1899年(明治32) ドイツのミュンヘン大学留学に出発する
・1903年(明治36) ドイツ留学より帰国し、東京帝国大学教授となり、統計学を講じる
・1904年(明治37) 法学博士の学位を授与される
・1908年(明治41) 再度渡欧する
・1910年(明治43) 国勢調査準備委員となり、日本最初のセンサス実施を指導する
・1912年(大正元) 友愛会評議員となる
・1916年(大正5) わが国最初の試みとして、東京で「二十職工家計調査」を実施する
・1919年(大正8) 東大法科大学より経済学部を独立させるため努力し、実現させたが、辞職する
・1920年(大正9) 大原社会問題研究所所長となる
・1921年(大正10)7月1日 第一回国勢調査記念章を受章する
・1925年(大正14) 学士院会員となる
・1928年(昭和3)12月 日本大衆党が結成され委員長となる
・1938年(昭和13) 国際統計協会正会員となる
・1945年(昭和20) 「日本共和国憲法私案要綱」を発表して天皇制廃止と共和国大統領制を主張する
・1946年(昭和21) 日本放送協会会長となる
・1948年(昭和23) 日本統計学会初代会長となる
・1949年(昭和24)4月5日 東京において、77歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1828年(文政11)越前福井藩主・政治家松平慶永(春嶽)の誕生日(新暦10月10日)詳細
1913年(大正2)思想家・美術指導者岡倉天心の命日詳細
1945年(昭和20)東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板上において降伏文書に調印する詳細
連合国最高司令官の事務所からの最初の指令(SCAPIN-1)が出される詳細


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kogaittsaku01

 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、電気通信工学者・工学博士古賀逸策の生まれた日です。
 古賀逸策(こが いっさく)は、佐賀県三養基郡田代村(現在の鳥栖市)で生まれ、熊本中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学工学部へ入学しました。1923年(大正12)に同大学工学部電気工学科を卒業後、大学院に進み、東京市電気研究所の嘱託となります。
 1925年(大正14)に東京市の技師に任命されると共に大学院を退学、1929年(昭和4)には、東京工業大学設立と同時に助教授となりました。1930年(昭和5)に、東京帝国大学より工学博士が授与され、1932年(昭和7)に従来型より温度係数がはるかに小さいR1カット式水晶振動子を発明、翌年には特許を取得します。
 1937年(昭和12)に周波数逓降器を水晶発振器と組み合わせ、東京天文台の水晶時計を製作、1939年(昭和14)には、東京工業大学の教授となりました。1944年(昭和19)に東京大学教授(併任)となり、毎日通信賞および技術院賞、翌年には、服部報公会賞を受賞します。
 1947年(昭和22)に電気通信学会会長となり、1948年(昭和23)には、水晶発振器の基礎理論と応用についての業績で、日本学士院賞を受賞しました。1954年(昭和29)にNHK放送文化賞受賞、1956年(昭和31)に紫綬褒章受章、1957年(昭和32)には、電波技術審議会の委員となります。
 1958年(昭和33)に東京工業大学を退任、東京大学工学部長となり、1960年(昭和35)には、東京大学を退任し、同大学名誉教授と東京工業大学名誉教授となりました。1961年(昭和36)に国語審議会委員、1962年(昭和37)に郵政大臣賞(電波功労者)受賞、1963年(昭和38)には、文化勲章も受章します。
 1967年(昭和42)に中央教育審議会委員、1970年(昭和45)には、勲一等瑞宝章受章、電波監理審議会の会長となりました。1976年(昭和51)に学士院会員ともなりましたが、1982年(昭和57)9月2日に、東京において、82歳で亡くなっています。

〇古賀逸策の主要な著作

・『圧電気と高周波:新興基礎電気工学講座』第10巻(1937年)
・『圧電気と高周波』(1938年)
・『誰にも出来る : ラジオの故障修理』(1947年)
・『1万分の1直角きざみ10ケタ三角函数表』(1960年)

☆古賀逸策関係略年表

・1899年(明治32)12月5日 佐賀県三養基郡田代村(現在の鳥栖市)で生まれる
・1923年(大正12) 東京帝国大学工学部電気工学科を卒業、大学院に進み、東京市電気研究所の嘱託となる
・1925年(大正14) 東京市の技師に任命されると共に大学院を退学する
・1929年(昭和4) 東京工業大学設立と同時に助教授となる
・1930年(昭和5) 学術論文(古賀 1930)を修め、東京帝国大学より工学博士が授与される
・1932年(昭和7) 従来型より温度係数がはるかに小さいR1カット式水晶振動子を発明する
・1933年(昭和8)2月21日 R1カット式水晶振動子で特許(99670号)を取得する
・1934年(昭和9) 電気学会より浅野博士記念祝金を受ける
・1937年(昭和12) 周波数逓降(ていこう)器を水晶発振器と組み合わせ、東京天文台の水晶時計を製作する
・1939年(昭和14) 東京工業大学の教授となる
・1944年(昭和19) 東京大学教授(併任)となり、毎日通信賞および技術院賞を受賞する
・1945年(昭和20) 服部報公会賞を受賞する
・1947年(昭和22) 電気通信学会会長となる 
・1948年(昭和23) 水晶発振器の基礎理論と応用についての業績で、日本学士院賞を受賞する
・1950年(昭和25) 電気通信学会通信功績賞を受賞する
・1951年(昭和26) 放送技術審議会委員となり、電気通信大臣表彰を受ける
・1954年(昭和29) NHK放送文化賞を受賞する
・1956年(昭和31) 紫綬褒章を受章、東京大学評議員となる
・1957年(昭和32) 電波技術審議会の委員となる
・1958年(昭和33) 東京工業大学を退任、東京大学工学部長となる
・1960年(昭和35) 東京大学を退任し、同大学名誉教授と東京工業大学名誉教授となる
・1961年(昭和36) 国語審議会委員となる
・1962年(昭和37) 郵政大臣賞(電波功労者)を受賞する
・1963年(昭和38) 文化勲章を受章、電波監理審議会の委員となる
・1964年(昭和39) 電気通信学会名誉員となる
・1965年(昭和40) 電気学会名誉員となる
・1967年(昭和42) 中央教育審議会委員となる
・1970年(昭和45) 勲一等瑞宝章を受章、電波監理審議会の会長となる
・1976年(昭和51) 学士院会員となる
・1982年(昭和57)9月2日 東京において、82歳で亡くなる
・2011年(平成23) 電気学会より「第4回でんきの礎」の顕彰をうける

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

603年(推古天皇11)日本最初の位階制度である冠位十二階が制定される(新暦604年1月11日)詳細
1903年(明治36)物理学者長岡半太郎が原子模型の理論を発表する詳細
1912年(大正元)映画監督・脚本家木下惠介の誕生日詳細
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