ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:孝謙天皇

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 今日は、奈良時代の770年(神護景雲4)に、第46代・48代の天皇とされる孝謙天皇(称徳天皇)が亡くなった日ですが、新暦では8月28日となります。
 孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう)は、718年(養老2)に聖武天皇の第2皇女(母は光明皇后)として生まれましたが、名は阿倍(あべ)と言いました。738年(天平10)に立太子し、史上唯一の女性皇太子となり、744年(天平17)に安積親王が没すると、聖武天皇の皇子がいなくなります。
 749年(天平勝宝元)に、父・聖武天皇の譲位により即位しましたが、母・光明皇后に後見され、皇太后のために新たに紫微中台が設置されました。752年(天平勝宝4)に大仏開眼供養会を行いましたが、756年(天平勝宝8)に父・聖武上皇が亡くなり、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔が残されます。
 ところが、翌年に皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、舎人親王の子大炊王を新たな皇太子としました。同年に橘奈良麻呂や大伴古麻呂らが、新帝擁立のクーデターを計画して粛清される(橘奈良麻呂の乱)事件も起きています。
 758年(天平宝字2)に病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となり、760年(天平宝字4)には、藤原仲麻呂が太師(太政大臣)に任命されました。760年(天平宝字4)に、母・光明皇太后が亡くなると、淳仁天皇らと共に小治田宮に移り、翌年には保良宮に移ります。
 この頃、病気を患った際、傍に道鏡が侍して看病してからと寵愛するようになり、淳仁天皇と対立、762年(天平宝字6)に淳仁天皇は平城宮に戻りましたたが、自身は平城京に入らず法華寺に住居を定めました。764年(天平宝字8)に、藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂を誅し、同年に五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言します。
 翌年には、「墾田永年私財法」の停止を勅して、貴族の墾田はいっさい禁じましたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、弓削寺行幸の際、道鏡を太政大臣禅師に任じたものの、和気王の謀叛事件が起きました。766年(天平神護2)に、道鏡を法王に任じたものの、769年(神護景雲3)には、異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑とします。
 同年に、豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」との神託を奏上(宇佐八幡宮神託事件)、和気清麻呂を天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮させ、神託が虚偽であることが上申されましたが、清麻呂を大隅国への流罪としました。しかし、道鏡を皇嗣とすることには失敗し、769年(神護景雲3)に道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸したものの、翌年そこで発病し、8月4日には奈良平城京において、数え年53歳で亡くなり、白壁王(光仁天皇)が後継となります。

☆孝謙天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・718年(養老2年) 聖武天皇の第二皇女(母は光明皇后)として生まれる
・738年(天平10年1月13日) 立太子し、史上唯一の女性皇太子となる
・744年(天平17年) 安積親王が没し、聖武天皇の皇子はいなくなる
・749年(天平勝宝元年) 父・聖武天皇の譲位により即位する
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会を行う
・756年(天平勝宝8年5月2日) 父・聖武上皇が崩御し、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔を残す
・757年(天平勝宝9年3月) 皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とする
・757年(天平勝宝9年5月) 橘奈良麻呂や大伴古麻呂らは、新帝擁立のクーデターを計画したが粛清される(橘奈良麻呂の乱)
・758年(天平宝字2年8月1日) 病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となる
・759年(天平宝字3年) 光明皇太后が淳仁天皇の父・舎人親王に尊号を贈ることを提案する
・760年(天平宝字4年1月4日) 藤原仲麻呂が太師(太政大臣)に任命される
・760年(天平宝字4年7月16日) 光明皇太后が亡くなる
・760年(天平宝字4年8月) 孝謙上皇・淳仁天皇らは小治田宮に移る
・761年(天平宝字5年) 孝謙上皇・淳仁天皇らは保良宮に移る
・761年(天平宝字5年6月3日) 五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言する
・761年(天平宝字5年) 近江国保良宮で、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に道鏡が侍して看病する
・762年(天平宝字6年5月23日) 淳仁天皇は平城宮に戻ったが、自身は平城京に入らず法華寺に住居を定める
・764年(天平宝字8年9月) 藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂を誅する
・764年(天平宝字8年10月9日) 淳仁天皇を廃して大炊親王とし、淡路公に封じて流刑とし、事実上の皇位に復帰(称徳天皇)する
・765年(天平神護元年3月5日) 「墾田永年私財法」の停止を勅し、貴族の墾田をいっさい禁じたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許す
・765年(天平神護元年閏10月) 弓削寺行幸の際、道鏡を太政大臣禅師に任じる
・765年(天平神護元年) 和気王の謀叛事件が起きる
・766年(天平神護2年10月) 海龍王寺で仏舎利が出現したとして、道鏡を法王に任じる
・767年(神護景雲元年) 阿波国の王臣の功田、位田を収めて口分田として班給するなど貴族を抑圧する
・769年(神護景雲3年5月) 異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑とする
・769年(神護景雲3年5月) 豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」との神託を奏上する(宇佐八幡宮神託事件)
・769年(神護景雲3年8月) 和気清麻呂を天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮させ、神託が虚偽であることが上申されたが、清麻呂を大隅国への流罪とする
・769年(神護景雲3年10月) 道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、ここに行幸する
・770年(神護景雲4年2月) 再び由義宮に行幸する
・770年(神護景雲4年3月) 由義宮で発病する
・770年(神護景雲4年8月4日) 奈良平城京において、数え年53歳で亡くなり、白壁王(光仁天皇)を後継とする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、奈良時代の752年(天平勝宝4)に、奈良・東大寺の蘆舎那仏(東大寺大仏)の開眼供養が行われた日ですが、新暦では5月26日となります。
 盧舎那大仏開眼供養(るしゃなだいぶつかいげんくよう)は、いくつか行われてきていますが、奈良時代の752年(天平勝宝4年4月9日)に、東大寺の蘆舎那仏(東大寺大仏)の開眼供養会を指す場合が一般的でした。開眼とは新造の彫像、鋳像、画像などに筆墨などで眼に点睛を加え、魂を入れる仏教儀式のことで、この時は、孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇太后を初めとする要人が列席し、インド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)によって行われています。
 参列者は1万数千人に及んだといわれ、『華厳経』の講義や読み上げが行われ、五節・久米・楯伏・踏歌などの歌舞もあり、『続日本紀』では、この様子を「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」と記しました。この際に使用された器物が正倉院に多く収められ、宝物とされています。
 以下に、『続日本紀』巻第十八の天平勝宝4年条の盧舎那大仏の開眼供養の記述を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第十八の天平勝宝4年条の盧舎那大仏の開眼供養の記述

<原文>

夏四月、丁丑朔乙酉、盧舍那大佛像成、始開眼。
 是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設斎大会。其儀一同元日。五位已上者、著禮服、六位已下者、當色。請僧一万。既而雅楽寮及諸寺種種音楽、並咸来集。復有王臣諸氏五節。久米舞。楯伏。踏歌。袍袴等哥舞。東西発声。分庭而奏。所作奇偉、不可勝記。仏法東帰。斎会之儀。未嘗有如此之盛也。

<読み下し文>

夏四月、丁丑朔乙酉、盧舎那大仏[1]の像も成りて始て開眼[2]す。
 この日東大寺[3]に行幸す。天皇みずから文武百官[4]を率い、斎を設けて[5]おおいに会せしむ。その儀もはら元日に同じ。五位已上は、禮服[6]を著し、六位已下は、當色[7]なり。僧一万を請ず。すでにして雅楽寮[8]及び諸寺より種々の音楽[9]並びにことごとく来集す。また王臣[10]諸氏の五節[11]、久米舞[12]、楯伏[13]、踏歌[14]、袍袴[15]等の歌舞、東西より声を発し、庭を分ちて奏す。作す所の奇偉[16]あげて記すべからず。仏法東帰より、斎会の儀[17]いまだかって批の如くの盛なること有らざるなり。

【注釈】

[1]盧舎那大仏:るしゃなだいぶつ=華厳経などで中心となる仏の大きな仏像。
[2]開眼:かいげん=新作の仏像・仏画を供養し、眼を点じて魂を迎え入れること。また、その儀式。
[3]東大寺:とうだいじ=南都七大寺の第一で、奈良市雑司町にある華厳宗の大本山。聖武天皇の発願により創建。
[4]文武百官:ぶんぶひゃっかん=文事と武事に関わるあらゆる役人。
[5]斎を設けて:=仏事のときの食事を設営して。
[6]禮服:らいふく=宮中儀式に用いた装束で、身分としては五位以上の官吏が用いた。
[7]當色:とうじき=位階に応じて定められた衣服の色、またはその衣服。
[8]雅楽寮:うたりょう=治部省に属し、日本で古くから伝承された歌舞や、唐、三韓などから伝来した歌舞を教習した。
[9]音楽:おんがく=天上の楽やそれを模した法会の楽のこと。
[10]王臣:おうしん=王の家来。天皇の臣下。
[11]五節:ごせち=五節の豊明節会(とよのあかりのせちえ)に行なわれる少女の舞。
[12]久米舞:くめまい=宮中の儀式歌舞。もと久米氏が、のちには大伴・佐伯両氏が大嘗会などに奉仕した。
[13]楯伏:たてふし=盾・刀などを持って舞うこと。
[14]踏歌:とうか=あらればしり。古代の群集舞踏で足で地を踏み、拍子をとって歌う。
[15]袍袴:ほうこ=袍や袴をつけた舞のこと。
[16]奇偉:きい=並はずれてりっぱであること。また、そのさま。
[17]斎会の儀:さいえのぎ=食事を教養する法会の儀式。

<現代語訳>

夏4月9日、盧舍那大仏像が完成して、開眼供養を行った。
 この日、天皇は東大寺へ行幸した。天皇みずからが文武の官人どもを率い、供養のための食事を設営して、盛大に催された。その儀式は、まるで元日と同じようであった。五位以上の官人は礼服を着用、六位以下の官人は位階に見合った朝服を着用した。僧は一万人が招請された。すでに雅楽寮および諸寺より種々の楽人がことごとく集められた。また王臣諸氏の五節の舞、久米舞、楯伏、踏歌、袍袴等の歌舞が催された。東西に分かれて声を発し、庭に分かれて演奏した。その状況のすばらしさは、書き尽せないほどであった。仏法が東方から伝来してより、食事を供与する法会としていまだかってこのような盛大なものはなかった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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