
1864年(元治元)の第一次長州征討は戦わずして休戦となりましたが、その後、長州藩論が高杉晋作らの倒幕派によって再び掌握されることとなりました。そこで、1866年(慶応2)閏5月16日に、江戸幕府第14代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとって江戸城を出立し西へ向かいますが、薩長連合のため薩摩藩は出兵を拒否します。
10万石削封ほかを内容とする長州藩の処分を打ち出したものの、長州藩は応ぜず、諸隊は戦闘態勢を整えました。6月7日に幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃によって開戦されましたが、洋式の兵器を備えた長州軍を相手に苦戦、幕府軍は各地で敗れます。
折悪しく、7月20日に征討途上の将軍徳川家茂が大坂城で病没し、8月21日に孝明天皇から休戦の勅令が出されたので、それを名目として兵を引くこととなり、長州藩の勝利となりました。この戦いで幕府の権威の失墜を国内外に示すこととなり、討幕運動を加速させ、1867年(慶応3)の大政奉還へと至ることとなります。
父は生まれる前に亡くなり、1847年(弘化4)に第12代藩主斉彊(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)には、斉彊の死去により、4歳で家督を継いで第13代紀州藩主となります。1851年(嘉永4)に元服とて慶福(よしとみ)と名乗り、従三位に叙位しました。
1853年(嘉永6年10月23日)に、徳川家定が第13代将軍に就任しましたが、病弱で子がなかったため将軍継嗣問題が起きます。井伊直弼らの擁立で、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を抑え、1858年(安政5年6月20日)に家定の世子となりました。
その後、家定の死去に伴い、同年10月25日に第14代将軍に就任し、名を家茂と改めます。1860年(万延元)に桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が暗殺されると、老中久世広周、安藤信正らの画策により、公武合体を推進すべく、1862年(文久2)に孝明天皇の皇妹・和宮と結婚(和宮降嫁)しました。
1863年(文久3)に朝廷の攘夷実施の求めに応じて、初めて上洛し、翌年の2回目の上洛時には、従一位に昇叙し、右大臣となります。この年、第1次長州征伐が始まり、翌年の第2次長州征伐の折りには、みずからも大軍を率いて、3度目の上洛の後、大坂城の征長軍本営に入りました。
しかし、幕府軍敗戦の報が相次ぐうちに、1866年(慶応2年7月20日)、大坂城内において数え年21歳の若さで病死します。
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