ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:婦人標準服

fujinhyoujyunhuku01
 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、婦人標準服が公募され、入選発表された日です。
 婦人標準服(ふじんひょうじゅんふく)は、太平洋戦争下で厚生省が決定した女性用の服装の標準として考案されたものです。スカート式の甲型(洋服型)と和服式の乙型(和服型)のそれぞれに一部式、二部式があり、さらにモンペ式の活動衣があり、全部で7種類が示されました。
 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、まず男子の服装として国民服を定めるため、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募、翌年1月に発表され、1940年(昭和15)11月2日に「国民服令」(昭和15年勅令第725号)が公布・施行されます。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされまして。
 その後、女性用には、1941年(昭和16)3月19日に、厚生省が婦人標準服研究会を組織し、同年7月に試作品と公募が行われて10月19日入選発表があり、翌年2月19日に婦人標準服と活動衣が決定されます。これは、原則として、手作りのリフォーム・リメイク服とされ、手持ち衣料から自分で作るものなので、できるだけ簡単なものが考案され、これを基本として自由に応用されたものでした。
 しかし、普及はなかなか進まなかったものの、モンペ式の活動衣は、足首でしぼったズボンのような服で、戦局が悪化すると、空襲時の防空用として、多くの女性が着るようになります。

〇モンペ(もんぺ)とは?

 和服における袴の形状をした下半衣で、腰、膝にゆとりがあり、裾が細く絞られたものです。多くは農山村における男女が、仕事着に用いる山袴の一種でしたが、太平洋戦争中に婦人標準服の活動衣として着用が奨励されてから、全国的に一般化しました。
 1942年(昭和17)2月19日に厚生省が、婦人標準服の活動衣としてこれを定め、「モンペ普及運動」として奨励されます。その後の戦局悪化に伴い、空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、半ば強制されました。
 戦後は、その機能性から農作業着として全国的に使用されるようになります。

☆国民服令(こくみんふくれい)とは?

 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、男子の服装として国民服を定めるため、1940年(昭和15)11月2日に公布・施行した勅令(昭和15年勅令第725号)です。
 国民服は、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募され、翌年1月に発表されました。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされます。
 尚、女性用には、1942年(昭和17)2月に、公募作品を元に、スカート式の甲号、和服式の乙号、モンペ式の活動衣の3種類の“婦人標準服”が定められました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1873年(明治6)「公園設置ニ付地所選択ノ件」で、国内初の5公園が指定され、芝公園、深川公園、飛鳥山公園が開園する詳細
1899年(明治32)彫刻家山本豊市の誕生日詳細
1929年(昭和4)東京の日比谷公園に日比谷公会堂(当時東洋一の規模)が開場する詳細
1948年(昭和23)東宝争議(第3次)が終結し、解雇通告の撤回と引き換えに、山本薩夫ら組合幹部20人が退社する詳細
1956年(昭和31)日本とソビエト連邦が、「日ソ共同宣言」に調印する詳細
1960年(昭和35)生活保護処分に関する朝日訴訟の第一審判決が出される詳細
1962年(昭和37)鉄道開業90周年記念事業の一環として、国鉄によって、青梅鉄道公園が開園する詳細
2018年(平成30)ノーベル賞(化学賞)受賞者・有機化学者・海洋生物学者下村脩の命日詳細
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fujinhyoujyunhuku01
 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1942年(昭和17)に婦人標準服と活動衣が決定され、モンペ姿流行のきっかけとなった日です。
 婦人標準服(ふじんひょうじゅんふく)は、太平洋戦争下で厚生省が決定した女性用の服装の標準として考案されたものでした。スカート式の甲型(洋服型)と和服式の乙型(和服型)のそれぞれに一部式、二部式があり、さらにモンペ式の活動衣があり、全部で7種類が示されています。
 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、まず男子の服装として国民服を定めるため、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募、翌年1月に発表され、1940年(昭和15)11月2日に「国民服令」(昭和15年勅令第725号)が公布・施行されました。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされます。
 その後、女性用には、1941年(昭和16)3月に、厚生省が婦人標準服研究会を組織し、同年7月に試作品と公募が行われて10月19日入選発表があり、翌年2月19日に婦人標準服と活動衣が決定されました。これは、原則として、手作りのリフォーム・リメイク服とされ、手持ち衣料から自分で作るものなので、できるだけ簡単なものが考案され、これを基本として自由に応用されたようです。
 しかし、普及はなかなか進まなかったものの、モンペ式の活動衣は、足首でしぼったズボンのような服で、戦局が悪化すると、空襲時の防空用として、多くの女性が着るようになりました。

〇モンペ(もんぺ)とは?

 和服における袴の形状をした下半衣で、腰、膝にゆとりがあり、裾が細く絞られたものです。多くは農山村における男女が、仕事着に用いる山袴の一種でしたが、太平洋戦争中に婦人標準服の活動衣として着用が奨励されてから、全国的に一般化しました。
 1942年(昭和17)2月19日に厚生省が、婦人標準服の活動衣としてこれを定め、「モンペ普及運動」として奨励されます。その後の戦局悪化に伴い、空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、半ば強制されました。
 戦後は、その機能性から農作業着として全国的に使用されるようになります。

☆国民服令(こくみんふくれい)とは?

 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、男子の服装として国民服を定めるため、1940年(昭和15)11月2日に公布・施行した勅令(昭和15年勅令第725号)です。
 国民服は、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募され、翌年1月に発表されました。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされます。尚、女性用には、1942年(昭和17)2月に、公募作品を元に、スカート式の甲号、和服式の乙号、モンペ式の活動衣の3種類の“婦人標準服”が定められました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(元暦2)屋島の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に勝利する(新暦3月22日)詳細
1837年(天保8)大塩平八郎の乱が起きる(新暦3月25日)詳細
1917年(大正6)詩人峠三吉の誕生日詳細
1934年(昭和9)経済学者・社会運動家野呂栄太郎の命日詳細
1946年(昭和21)GHQより「刑事裁判権行使に関する覚書」 (SCAPIN-756) が出される詳細
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