
山川菊栄(やまかわ きくえ)は、明治時代中頃の1890年(明治23)11月3日に、東京府麹町区番町において、父・森田龍之助、母・青山千世の二女として生まれました。東京府立第二高等女学校(現在の東京都立竹早高等学校)を経て、1912年(明治45)に、女子英学塾(現在の津田塾大学)を卒業し、英語辞書編集や翻訳などで生計を助けます。
1914年(大正3)に、神近市子らの雑誌『番紅花』(さふらん)にカーペンターの翻訳を寄稿、1915年(大正4)には、堺利彦、幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会に神近市子の誘いで参加しました。1916年(大正5)に、平民講演会の散会後に拘束検挙され、一夜拘留、この会で山川均と知り合い、山川均編集の『新社会』へ寄稿し、その後、結婚します。
1919年(大正8)に『女の立場から』を刊行、合衆国労働省婦人局の統計調査資料を入手開始し、1921年(大正10)には、山川均とともに、『社会主義研究』の主筆となり、日本初の社会主義を標榜する女性団体「赤瀾会」を堺真柄、九津美房子らの発起で結成、同年メーデーに初参加しました。1922年(大正11)に、ロシア飢饉救済運動を提唱し、七日会メンバーとともに募金活動など成果をあげ、『女性の叛逆』を刊行します。
1923年(大正12)に、雑誌『種蒔く人』3月号の特集「無産婦人号ー国際婦人デー記念」を実質的に企画し、巻頭論文「プロレタリアと婦人問題」を執筆、1925年(大正14)には、日本労働組合評議会設立に際し、「婦人部テーゼ」を執筆しました。1928年(昭和3)に、『労農』婦人版の編集を1号から7号まで行い、山川均との共著『無産者運動と婦人の問題』を刊行します。
1936年(昭和11)に、鎌倉郡村岡村弥勒寺にて「湘南うづら園」を開業し、鶉の卵を販売して生計をたて、1937年(昭和12)には、第一次人民戦線事件で夫・山川均が検挙されました。1940年(昭和15)に『女は働いている』を刊行、1943年(昭和18)には、柳田国男の企画による女性叢書として、『武家の女性』(三国書房)と『わが住む村』を刊行します。
大平洋戦争後の1946年(昭和21)に新歴史協会創立し、雑誌『新歴史』に水戸藩生瀬事件を執筆、1947年(昭和22)には、神近市子、平林たい子らとともに民主婦人協会(のちの民主婦人同盟)結成に参加、日本社会党に入党、片山内閣のもとで労働省の初代婦人少年局長に就任、『明日の女性のために』(鱒書房)を刊行しました。1951年(昭和26)に、労働省を退職、渡英し、イギリス労働党を中心とした労働運動を調査研究、欧州視察ののちインド経由で帰国、1952年(昭和27)には、各地の労働組合会合で講演、日本社会党左派婦人部の準機関誌『婦人のこえ』発刊、主宰します。
1954年(昭和29)に『平和と革命の国―イギリス』を刊行、1958年(昭和33)には、夫・山川均が亡くなりました。1959年(昭和34)に、建国10周年にあたる中華人民共和国を招聘訪問、1962年(昭和37)には、「婦人問題懇話会」(後の日本婦人問題懇話会)を設立します。
1974年(昭和49)に『覚書 幕末の水戸藩』を刊行し、翌年に第2回大佛次郎賞を受賞、1977年(昭和52)にまは、『女性解放へ』を刊行しました。1978年(昭和53)に「日本婦人問題懇話会」代表となり、『二十世紀をあゆむ』を刊行、1979年(昭和54)には、『日本婦人運動小史』を刊行しましたが、1980年(昭和55)11月2日に、東京都において、脳梗塞により、90歳で亡くなっています。
1914年(大正3)に、神近市子らの雑誌『番紅花』(さふらん)にカーペンターの翻訳を寄稿、1915年(大正4)には、堺利彦、幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会に神近市子の誘いで参加しました。1916年(大正5)に、平民講演会の散会後に拘束検挙され、一夜拘留、この会で山川均と知り合い、山川均編集の『新社会』へ寄稿し、その後、結婚します。
1919年(大正8)に『女の立場から』を刊行、合衆国労働省婦人局の統計調査資料を入手開始し、1921年(大正10)には、山川均とともに、『社会主義研究』の主筆となり、日本初の社会主義を標榜する女性団体「赤瀾会」を堺真柄、九津美房子らの発起で結成、同年メーデーに初参加しました。1922年(大正11)に、ロシア飢饉救済運動を提唱し、七日会メンバーとともに募金活動など成果をあげ、『女性の叛逆』を刊行します。
1923年(大正12)に、雑誌『種蒔く人』3月号の特集「無産婦人号ー国際婦人デー記念」を実質的に企画し、巻頭論文「プロレタリアと婦人問題」を執筆、1925年(大正14)には、日本労働組合評議会設立に際し、「婦人部テーゼ」を執筆しました。1928年(昭和3)に、『労農』婦人版の編集を1号から7号まで行い、山川均との共著『無産者運動と婦人の問題』を刊行します。
1936年(昭和11)に、鎌倉郡村岡村弥勒寺にて「湘南うづら園」を開業し、鶉の卵を販売して生計をたて、1937年(昭和12)には、第一次人民戦線事件で夫・山川均が検挙されました。1940年(昭和15)に『女は働いている』を刊行、1943年(昭和18)には、柳田国男の企画による女性叢書として、『武家の女性』(三国書房)と『わが住む村』を刊行します。
大平洋戦争後の1946年(昭和21)に新歴史協会創立し、雑誌『新歴史』に水戸藩生瀬事件を執筆、1947年(昭和22)には、神近市子、平林たい子らとともに民主婦人協会(のちの民主婦人同盟)結成に参加、日本社会党に入党、片山内閣のもとで労働省の初代婦人少年局長に就任、『明日の女性のために』(鱒書房)を刊行しました。1951年(昭和26)に、労働省を退職、渡英し、イギリス労働党を中心とした労働運動を調査研究、欧州視察ののちインド経由で帰国、1952年(昭和27)には、各地の労働組合会合で講演、日本社会党左派婦人部の準機関誌『婦人のこえ』発刊、主宰します。
1954年(昭和29)に『平和と革命の国―イギリス』を刊行、1958年(昭和33)には、夫・山川均が亡くなりました。1959年(昭和34)に、建国10周年にあたる中華人民共和国を招聘訪問、1962年(昭和37)には、「婦人問題懇話会」(後の日本婦人問題懇話会)を設立します。
1974年(昭和49)に『覚書 幕末の水戸藩』を刊行し、翌年に第2回大佛次郎賞を受賞、1977年(昭和52)にまは、『女性解放へ』を刊行しました。1978年(昭和53)に「日本婦人問題懇話会」代表となり、『二十世紀をあゆむ』を刊行、1979年(昭和54)には、『日本婦人運動小史』を刊行しましたが、1980年(昭和55)11月2日に、東京都において、脳梗塞により、90歳で亡くなっています。
<山川菊栄の主要な著作>
・『女の立場から』(1919年)
・『女性の叛逆』(1922年)
・山川均との共著『無産者運動と婦人の問題』(1928年)
・『女は働いている』(1940年)
・『武家の女性』(1943年)
・『わが住む村』(1943年)
・『明日の女性のために』(1951年)
・『平和と革命の国―イギリス』(1954年)
・『おんな二代の記』(1963年)
・『覚書 幕末の水戸藩』(1974年)第2回大佛次郎賞受賞
・『女性解放へ』(1977年)
・『二十世紀をあゆむ』(1978年)
・『日本婦人運動小史』(1979年)
〇山川菊栄関係略年表
・1890年(明治23)11月3日 東京府麹町区番町において、父・森田龍之助、母・青山千世の二女として生まれる
・1902年(明治35) 東京府立第二高等女学校(現在の東京都立竹早高等学校)へ入学する
・1907年(明治40) 府立第二高等女学校を卒業、国語伝習所に通うかたわら、朝方、成美女学校での開催の勉強会、閨秀文学会を通じて馬場孤蝶に師事し、与謝野晶子、平塚らいてう達と知り合う
・1908年(明治41) 女子英学塾(現在の津田塾大学)へ入学する
・1912年(明治45) 女子英学塾(現在の津田塾大学)を卒業、英語辞書編集や翻訳などで生計を助ける。
・1914年(大正3) 神近市子らの雑誌『番紅花』(さふらん)にカーペンターの翻訳を寄稿する
・1915年(大正4) 堺利彦、幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会に神近市子の誘いで参加する
・1916年(大正5) 平民講演会の散会後に拘束検挙され、一夜拘留、この会で山川均と知り合い、山川均編集の『新社会』へ寄稿し、結婚する
・1917年(大正6) 肺結核を患いながら、長男振作を出産する
・1918年(大正7) 母性保護論争で平塚らいてうや伊藤野枝らに対して、社会主義の立場を明確にしながら『婦人公論』誌上で批判を開始し、論壇の地位を確立する
・1919年(大正8) 『女の立場から』(三田書房)を刊行、合衆国労働省婦人局の統計調査資料を入手開始する
・1921年(大正10) 山川均とともに、『社会主義研究』の主筆となり、日本初の社会主義を標榜する女性団体「赤瀾会」を堺真柄、九津美房子らの発起で結成、同年メーデーに初参加する
・1922年(大正11) ロシア飢饉救済運動を提唱し、七日会メンバーとともに募金活動など成果をあげ、『女性の叛逆』(三穂社)を刊行する
・1923年(大正12) 種蒔き社主催の第1回国際婦人デー記念講演会、神田青年会館で開催、40分ほどで中止解散となり、雑誌『種蒔く人』3月号の特集「無産婦人号ー国際婦人デー記念」を実質的に企画し、巻頭論文「プロレタリアと婦人問題」を執筆する
・1925年(大正14) 日本労働組合評議会設立に際し、「婦人部テーゼ」を執筆する
・1927年(昭和2) 社会主義者への偏見から自己名義で借家できず、母千世の名義で借家を転々とし、鎌倉稲村ケ崎に借地し、ようやく自宅を建築する
・1928年(昭和3) 『労農』婦人版の編集を1号から7号まで行い、山川均との共著『無産者運動と婦人の問題』(白揚社)を刊行する
・1933年(昭和8) 夫や長男の看病の間、執筆活動にも支障があったが、各新聞雑誌への寄稿文をまとめた『女性五十講』(改造社)を発表、即日発行禁止処分となる
・1936年(昭和11) 稲村ケ崎自宅を貸家として、鎌倉郡村岡村弥勒寺にて「湘南うづら園」を開業し、鶉の卵を販売して生計をたてる
・1937年(昭和12) 第一次人民戦線事件で山川均が検挙される
・1938年(昭和13) 山川均が留置場で肺結核発病、「治安維持法」違反で起訴、巣鴨留置場に移送される
・1939年(昭和14) 山川均が2年の留置生活を経て、保釈され帰宅する
・1940年(昭和15) 『女は働いている』(育生社)を刊行する
・1943年(昭和18) 柳田国男の企画による女性叢書として、『武家の女性』(三国書房)と『わが住む村』(三国書房)を刊行する
・1945年(昭和20) 広島に疎開、敗戦を迎え、年末藤沢に帰宅する
・1946年(昭和21) 新歴史協会創立し、雑誌『新歴史』に水戸藩生瀬事件を執筆する
・1947年(昭和22) 神近市子、平林たい子らとともに民主婦人協会(のちの民主婦人同盟)結成に参加、日本社会党に入党、片山内閣のもとで労働省の初代婦人少年局長に就任、『明日の女性のために』(鱒書房)を刊行する
・1951年(昭和26) 労働省を退職、渡英し、イギリス労働党を中心とした労働運動を調査研究、欧州視察ののちインド経由で帰国する
・1952年(昭和27) 各地の労働組合会合で講演、日本社会党左派婦人部の準機関誌『婦人のこえ』発刊、主宰する
・1954年(昭和29) 『平和と革命の国―イギリス』(慶友社)を刊行する
・1955年(昭和30) 神奈川県婦人図書館員研究会の第1回研究会で講演を行なう
・1958年(昭和33) 夫・山川均が亡くなる
・1959年(昭和34) 建国10周年にあたる中華人民共和国を招聘訪問する
・1962年(昭和37) 「婦人問題懇話会」(後の日本婦人問題懇話会)を設立する
・1963年(昭和38) 『おんな二代の記』(平凡社)を刊行する
・1967年(昭和42) 労働省婦人少年局廃止の動きに対する反対運動の先頭に立ち、陳情の発起人代表の一人となる
・1974年(昭和49) 『覚書 幕末の水戸藩』(岩波書店)を刊行する
・1975年(昭和50) 『覚書 幕末の水戸藩』で、第2回大佛次郎賞を受賞する
・1977年(昭和52) 『女性解放へ』(日本婦人会議出版部)を刊行する
・1978年(昭和53) 「日本婦人問題懇話会」代表となり、『二十世紀をあゆむ』(大和書房)を刊行する
・1979年(昭和54) 『日本婦人運動小史』(大和書房)を刊行する
・1980年(昭和55)11月2日 東京都において、脳梗塞により、90歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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