ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:女流文学者賞

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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、小説家・随筆家宇野千代の生まれた日です。
 宇野千代(うの ちよ)は、山口県玖珂郡横山村(現在の岩国市)で、酒造業を営む父・宇野俊次の子として生まれましたが、幼い頃に母を亡くし、義母に育てられました。1911年(明治44)の14歳の時、義母の姉の子藤村亮一に嫁入りしましたが、10日ほどで帰宅、1913年(大正2)には、父・俊次が57歳で亡くなります。
 1914年(大正3)に岩国高等女学校を卒業し、川上村小学校の代用教員となり、翌年には鑓田研一らと回覧雑誌を作り、同僚教師との恋愛で退職、大池房代を頼って朝鮮京城に渡りました。1916年(大正5)に帰国し、第三高等学校学生だった亮一の弟忠を頼って京都へ行き同棲、翌年に忠が東京帝国大学に入学、ともに上京し、各種職業を転々とし、燕楽軒で働きます。
 1919年(大正8)に忠と正式に結婚し藤村姓となり、翌年に忠が大学卒業、北海道拓殖銀行札幌支店に勤務すると、北海道で暮しました。1921年(大正10)に『脂粉の顔』が「時事新報」の懸賞小説一等に当選、翌年に上京、「中央公論」に『墓を暴く』が掲載されたことを知り、郷里岩国へ帰り、再び上京、尾崎士郎と同棲を始めます。
 1923年(大正12)に尾崎とともに馬込に住み小説を発表、短編集『脂粉の顔』を上梓、翌年に忠と協議離婚、筆名を宇野千代に改め、1926年(大正15)には尾崎士郎と正式結婚しました。1928年(昭和3)に梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居、1930年(昭和5)には、東郷青児と知り合い同棲、尾崎と正式に離婚しています。
 1933年(昭和8)に「中央公論「に『色ざんげ』を発表、1934年(昭和9)に東郷青児と別れ、1936年(昭和11)には『スタイル』誌を創刊しました。1939年(昭和14)に北原武夫と結婚、1947年(昭和22)にスタイル社の「文体」誌に『おはん』の連載を開始、これが、第10回野間文芸賞・第9回女流文学者賞を受賞します。
 その後も1971年(昭和46)に『幸福』で第10回女流文学賞、1972年(昭和47)に芸術院賞、1974年(昭和49)に勲三等瑞宝章、1982年(昭和57)に菊池寛賞など数々の栄誉に輝きました。女性的な情感にあふれた作風で知られ、1990年(平成2)には文化功労者ともなりましたが、1996年(平成8)6月10日に、東京都港区の虎の門病院において、急性肺炎のため98歳で亡くなっています。

〇宇野千代の主要な著作

・『脂粉の顔』(1921年)「時事新報」懸賞小説一等当選
・『色ざんげ』(1933~35年)
・『別れも愉(たの)し』(1935年)
・『未練』(1936年)
・『人形師天狗(てんぐ)屋久吉』(1942年)
・『おはん』(1947~57年)第10回野間文芸賞、第9回女流文学者賞受賞
・『刺す』(1963~66年)
・『風の音』(1969年)
・『幸福』(1970年)第10回女流文学賞受賞
・『或る一人の女の話』(1982年)
・『生きて行く私』(1982~83年)

☆宇野千代関係略年表

・1897年(明治30)11月28日 山口県玖珂郡横山村(現在の岩国市)で、酒造業を営む父・宇野俊次の子として生まれる
・1911年(明治44) 14歳の時、義母の姉の子藤村亮一に嫁入りするが十日ほどで帰宅する
・1913年(大正2) 父・俊次が57歳で没。
・1914年(大正3) 岩国高等女学校を卒業し、川上村小学校の代用教員となる
・1915年(大正4) 鑓田研一らと回覧雑誌を作り、同僚教師との恋愛で退職、大池房代を頼って朝鮮京城に渡る。
・1916年(大正5) 帰国し、亮一の弟忠が第三高等学校学生だったので頼って京都へ行き同棲生活をする
・1917年(大正6) 忠が東京帝国大学に入学、ともに上京し、各種職業を転々とし、燕楽軒に働く
・1919年(大正8) 忠と正式に結婚し藤村姓となる
・1920年(大正9) 忠が大学卒業、北海道拓殖銀行札幌支店に勤務、北海道に暮す
・1921年(大正10) 『脂粉の顔』が「時事新報」の懸賞小説一等に当選する
・1922年(大正11) 滝田樗陰に送った原稿の返事がないので上京、『墓を暴く』が「中央公論」に掲載されたことを知り、郷里岩国へ帰り、再上京して尾崎士郎と同棲を始める
・1923年(大正12) 尾崎とともに馬込に住み小説を発表、短編集『脂粉の顔』を上梓する
・1924年(大正13) 忠と協議離婚、筆名を宇野千代に改め、吉屋信子と親しくなる
・1926年(大正15) 尾崎士郎と正式に結婚する
・1928年(昭和3) 梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居する
・1930年(昭和5) 東郷青児と知り合い同棲、尾崎と正式に離婚する
・1933年(昭和8)  「中央公論」に『色ざんげ』を発表する
・1934年(昭和9) 東郷青児と別れる
・1936年(昭和11) 「スタイル」誌を創刊する
・1939年(昭和14) 北原武夫と結婚、媒酌人は、吉屋信子と藤田嗣治が勤める
・1947年(昭和22) スタイル社の「文体」誌に『おはん』の連載を開始する
・1949年(昭和24) 井上友一郎の『絶壁』が宇野夫妻をモデルとしたものと言われ紛糾する
・1951年(昭和26)  フランス旅行をする
・1957年(昭和32) 『おはん』を上梓、第10回野間文芸賞を受賞する
・1959年(昭和34) スタイル社が倒産する
・1964年(昭和39)  北原と離婚する
・1966年(昭和41) 『刺す』を上梓する
・1971年(昭和46)  『幸福』で第10回女流文学賞を受賞する
・1972年(昭和47) 芸術院賞を受賞、芸術院会員てなる
・1974年(昭和49)  勲三等瑞宝章を受章する
・1977年(昭和52) 『宇野千代全集』の刊行が始まる
・1982年(昭和57)  菊池寛賞を受賞する
・1983年(昭和58) 自伝『生きて行く私』を刊行する
・1990年(平成2) 文化功労者となる
・1996年(平成8)6月10日 東京都港区の虎の門病院において、急性肺炎のため98歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1872年(明治5)徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1878年(明治11)物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細


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 今日は、大正時代の1912年(大正元)に、小説家大原富枝の生まれた日です。
 大原富枝(おおはら とみえ)は、高知県長岡郡吉野村(現在の本山町)で、小学校校長だった父・大原亀次郎と母・米の次女として生まれましたが、10歳の時に母を亡くしました。1927年(昭和2)に高知県女子師範学校に入学したものの、18歳の時に学校で喀血して入院、退院後は自宅での10年近い療養生活を余儀なくされます。
 療養中に文筆活動を始め、1932年(昭和7)に初めて投稿した『姉のプレゼント』が「令女界」に入選、1935年(昭和10)には、『氷雨』で文壇にデビューしました。1938年(昭和13)に『祝出征』を「文芸首都」に発表、芥川賞候補となり、1941年(昭和16)には、生家の没落を機に、創作に専念するため上京して「文芸首都」の同人となります。
 1943年(昭和18)に『若い渓間』が「改造」の懸賞小説に当選、1957年(昭和32)に結核による長い闘病の体験を題材にした『ストマイつんぼ-第七感界の囚人』で第8回女流文学者会賞受賞、1960年(昭和35)には、40年の幽獄生活を耐えた野中婉の生涯をテーマにした『婉という女』を刊行し、第14回毎日出版文化賞、第13回野間文芸賞を受賞しました。1963年(昭和38)に日本文藝家協会代表として中国を訪問、1965年(昭和40)には、日ソ文学シンポジュウムにも参加出席します。
 1970年(昭和45)に『於雪 土佐一條家の崩壊』で、第9回女流文学者賞を受賞、1973年(昭和48)に『婉という女』のロシア語訳が、ソビエト作家同盟で刊行され、1976年(昭和51)には、キリスト教(カトリック)に入信しました。1991年(平成3)に「大原富枝文学館」が故郷の高知県本山町に開館、本山町名誉町民賞を受賞、翌年に高知県の文学を振興するため、高知新聞社等の支援をうけて「大原富枝賞」を創設、1995年(平成7)から翌年にかけて「大原富枝全集(全8巻)」が小沢書店から刊行されています。
 1998年(平成10)には、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、日本芸術院会員となりましたが、2000年(平成12)1月27日に、『草を褥に 小説 牧野富太郎』執筆・連載中、東京において心不全のため、87歳で亡くなりました。

〇大原富枝の主要な著作

・『若い渓間』(1943年)「改造」懸賞小説当選
・『ストマイつんぼ』(1956年)第8回女流文学者会賞受賞
・『婉という女』(1960年)第14回毎日出版文化賞・第13回野間文芸賞受賞
・『正妻』(1961年)
・『於雪(おゆき)――土佐一条家の崩壊』(1970年)第9回女流文学賞受賞
・紀行小説『イェルザレムの夜』(1980年)
・『アブラハムの幕舎(ばくしゃ)』(1981年)
・『忍びてゆかな――小説津田治子』(1982年)
・『地上を旅する者』(1983年)
・伝記小説『今日ある命――小説・歌人三ヶ島葭子(みかじまよしこ)の生涯』(1994年)
・『原阿佐緒(あさお)』(1996年)
・『詩歌(うた)と出会う時』(1997年)
・自伝小説『眠る女』(1974年)
・『地籟(ちらい)』(1984年)
・『ハガルの荒野』(1986年)
・『彼もまた神の愛(め)でし子か――洲之内(すのうち)徹の生涯』(1989年)
・『草を褥(しとね)に――小説牧野富太郎』(2001年)

☆大原富枝関係略年表

・1912年(大正元)9月28日  高知県長岡郡吉野村(現在の本山町)で、小学校校長だった父・大原亀次郎と母・米の次女として生まれる
・1922年(大正11) 10歳の時、母が亡くなる
・1927年(昭和2) 15歳の時、高知県女子師範学校に入学する
・1930年(昭和5) 18歳の時、学校で喀血して入院、退院後、自宅で10年近い療養生活を送る
・1932年(昭和7) 20歳の時、初めて投稿。 「姉のプレゼント」令女界に入選する
・1935年(昭和10) 23歳の時、『氷雨』で文壇にデビューする
・1938年(昭和13) 26歳の時、『祝出征』を「文芸首都」に発表、芥川賞候補になる
・1941年(昭和16) 29歳の時、生家の没落を機に、創作に専念するため上京して「文芸首都」の同人となる
・1943年(昭和18) 31歳の時、『若い渓間』が「改造」懸賞小説に当選する
・1944年(昭和19) 32歳の時、帰郷し、「野中婉」の書簡を写すため県立図書館に通う
・1957年(昭和32) 45歳の時、『ストマイつんぼ-第七感界の囚人』で第8回女流文学者会賞受賞、父が急逝する
・1959年(昭和34) 47歳の時、『婉という女』260枚脱稿する
・1960年(昭和35) 48歳の時、『婉という女』を刊行し、第14回毎日出版文化賞、第13回野間文芸賞を受賞する
・1963年(昭和38) 51歳の時、日本文藝家協会代表として中国を訪問する
・1965年(昭和40) 53歳の時、日本文藝家協会代表として日ソ文学シンポジュウムに参加出席する
・1970年(昭和45) 58歳の時、『於雪 土佐一條家の崩壊』で、第9回女流文学者賞を受賞する
・1973年(昭和48) 61歳の時、『婉という女』のロシア語訳が、ソビエト作家同盟で刊行される
・1976年(昭和51) 64歳の時、キリスト教(カトリック)に入信。中目黒ミカエル修道院で洗礼を受ける
・1990年(平成2) 78歳の時、勲三等瑞宝章を受章する
・1991年(平成3) 79歳の時、「大原富枝文学館」が故郷の高知県本山町に開館、本山町名誉町民賞を受賞する
・1992年(平成4) 80歳の時、高知県の文学を振興するため、高知新聞社等の支援をうけて「大原富枝賞」を創設する
・1995年(平成7) 83歳の時、翌年にかけて「大原富枝全集(全8巻)」が小沢書店から刊行される
・1998年(平成10) 86歳の時、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、日本芸術院会員となる
・2000年(平成12)1月27日 『草を褥に 小説 牧野富太郎』執筆・連載中、東京において心不全のため、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1500年(明応9)第103代の天皇とされる後土御門天皇の命日(新暦10月21日)詳細
1943年(昭和18)「官庁ノ地方疎開ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が決められる詳細
1967年(昭和42)上越線の新清水トンネルが開通する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、小説家吉屋信子の亡くなった日です。
 吉屋信子(よしや のぶこ)は、明治時代後期の1896年(明治29)1月12日に、新潟県新潟市で、官吏だった父・吉屋雄一、母・マサの長女として生まれました。その後、父の転勤に伴い、県内の佐渡郡相川町(現在の佐渡市)、北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)、そして、栃木県芳賀郡真岡町、同県下都賀郡栃木町と転居します。
 1908年(明治41)に栃木高等女学校(現在の県立栃木女子高等学校)に入学、少女雑誌に短歌や物語の投稿をはじめ、1910年(明治43)に「少女界」の懸賞に応募した『鳴らずの太鼓』が一等となり、1912年(明治45)に同校卒業後、一時日光小学校の代用教員となりました。1915年(大正4)に、兄忠明を頼って上京して文学の勉強を始め、1916年(大正5)には、「少女画報」誌に『花物語』を連載開始、女学生から圧倒的な支持を受けます。
 1917年(大正6)に、それまで執筆した童話をまとめて単行本『赤い夢』として刊行、1919年(大正8)には、兄忠明の任地・北海道十勝に身を寄せ、『地の果まで』を「大阪朝日新聞」の懸賞小説に応募して入賞しました。1920年(大正9)に「東京朝日新聞」に6ヶ月間連載された『海の極みまで』で作家としての地位を築き、翌年には、東京に戻って、大森で母や兄と共に暮らし始めます。
 1928年(昭和3)に、ソ連経由でヨーロッパに向い、1年近くパリに滞在した後、アメリカ経由で帰国しました。1937年(昭和12)に発表された『良人の貞操』で議論を巻き起こし、翌年の日中戦争勃発と共に「主婦之友」誌の特派員として中国に派遣され、従軍ルポルタージュを発表、1941年(昭和16)には、特派員として蘭印(インドネシア)、仏印(ベトナムなど)を訪問します。
 太平洋戦争下の1944年(昭和19)に、神奈川県鎌倉市に療養を兼ねて疎開し、俳句雑誌「鶴」に投句を始めましたが、翌年の空襲によって東京の留守宅が焼失しました。戦後の1947年(昭和22)に、雑誌「小説倶楽部」に掲載した『海潮音』で大衆文学懇話会賞を受賞、1952年(昭和27)には、短編『鬼火』で第4回日本女流文学者賞も受賞します。
 1962年(昭和37)に鎌倉市長谷に新居(現在の吉屋信子記念館)を建てて移り、1967年(昭和42)には、半世紀にわたる文学活動で第15回菊池寛賞を受賞したものの、1973年(昭和48)7月11日に鎌倉市内の病院において、77歳で亡くなりました。

〇吉屋信子の主要な著作

・『地の果まで』(1919年)「大阪朝日新聞」懸賞入賞
・長編小説『海の極みまで』(1921~23年)
・童話集『花物語』(1924年)
・長編小説『女の友情』(1933~34年)
・長編小説『良人 (おっと) の貞操』(1936~37年)
・長編小説『海潮音』(1947年)大衆文学懇話会賞受賞
・長編小説『安宅家の人々』(1951~52年)
・短編小説『鬼火』(1951年)第4回女流文学者賞受賞
・『凍蝶(いてちょう)』(1953年)
・エッセイ『自伝的女流文壇史』(1962年)
・伝記小説『ときの声』(1965年)
・歴史小説『徳川の夫人たち』(1966年)
・歴史小説『女人平家』(1971年)

☆吉屋信子関係略年表

・1896年(明治29)1月12日 新潟県新潟市で、警察官だった父・吉屋雄一、母・マサの長女として生まれる
・1901年(明治34) 父が芳賀郡長へなったため栃木県真岡へ移る
・1902年(明治35) 父が下都賀郡長へなったため栃木県栃木町へ移る
・1908年(明治41) 栃木高等女学校(現在の県立栃木女子高等学校)に入学する
・1910年(明治43) 「少女界」の懸賞に応募した『鳴らずの太鼓』が一等となる
・1912年(明治45) 栃木高等女学校(現在の県立栃木女子高等学校)を卒業、一時日光小学校の代用教員となる
・1915年(大正4) 兄忠明を頼って上京して文学の勉強を始める
・1916年(大正5) 「少女画報」誌に『花物語』を連載開始、女学生から圧倒的な支持を受ける
・1917年(大正6) それまで執筆した童話をまとめて単行本『赤い夢』として刊行する
・1919年(大正8) 兄忠明の任地・北海道十勝に身を寄せ、『地の果まで』を「大阪朝日新聞」の懸賞小説に応募して入賞する
・1920年(大正9) 「東京朝日新聞」に6ヶ月間連載された『海の極みまで』で作家としての地位を築く
・1921年(大正10) 東京に戻って、大森で母や兄と共に暮らし始める
・1928年(昭和3) 東京駅から神戸港・満州。ソ連経由でヨーロッパに2年の計画で出発する
・1937年(昭和12) 発表された『良人の貞操』で議論を巻き起こす
・1938年(昭和13) 内閣情報部選定の漢口攻略戦「ペン部隊」役員に選ばれる
・1941年(昭和16) 特派員として蘭印(インドネシア)、仏印(ベトナムなど)を訪問する
・1944年(昭和19) 神奈川県鎌倉市に療養を兼ねて疎開し、俳句雑誌「鶴」に投句を始める
・1945年(昭和20) 空襲によって東京の留守宅が焼失する
・1947年(昭和22) 雑誌「小説倶楽部」に掲載した『海潮音』で大衆文学懇話会賞を受賞する
・1950年(昭和25) 母・マサが亡くなる
・1952年(昭和27) 短編『鬼火』で第4回日本女流文学者賞を受賞する
・1962年(昭和37)10月 神奈川県鎌倉市長谷に新居(現在の吉屋信子記念館)を建てて移る
・1967年(昭和42) 半世紀にわたる文学活動で第15回菊池寛賞を受賞する
・1973年(昭和48)7月11日 神奈川県鎌倉市の病院で、S字結腸癌のため77歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1156年(保元元)保元の乱が起きる(新暦7月29日)詳細
1864年(元治元)思想家・洋学者佐久間象山の命日(新暦8月12日)詳細
1950年(昭和25)日本労働組合総評議会(総評)が結成される詳細
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