ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:奥州平泉

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 今日は、平安時代後期の1105年(長治2)に、後三年の役の戦没者を弔うため、藤原清衡が奥州平泉に最初院多宝寺(現在の中尊寺)を建立した日ですが、新暦では3月3日となります。
 後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代中期の1083年(永保3)に、清原氏の族長、真衡(さねひら)が病死し、領土の配分をめぐって、家衡、清衡の異父兄弟が争った合戦です。弟の家衡に妻子を殺された清衡が、源義家に助けを求めて戦いの火ぶたが再び切られました。
 戦の中で沼の柵に立てこもって、源義家を退けた家衡は、叔父武衡のすすめにより、難攻不落といわれる金沢柵に移りました。ところが、義家の実弟 源義光の参戦でますます意気あがる義家軍の執拗な攻撃と、兵糧攻めにあい、必死の防戦もむなしく、1087年(寛治元年11月14日)に、金沢柵は落ち、家衡、武衡は捕らえられようやく合戦が終わつさています。しかし、翌年1月に源義家は陸奥守を解任され、藤原清衡が奥六郡を与えられて陸奥押領使に任ぜらました。
 尚、1105年(長治2年2月15日)には、後三年の役の戦没者を弔うため、藤原清衡が奥州平泉に最初院多宝寺(後の中尊寺)を建立しています。

〇後三年の役関係略年表(日付は旧暦です)

<1083年(永保3)>
・清原真衡が一族の長老吉彦秀武の怒りをかい対立する
・清原真衡が吉彦秀武を討つため出羽に出兵する
・清原清衡・家衡が真衡の館を襲撃する
・秋 清原真衡が急死し、源義家が奥六郡を清衡・家衡に分け与える

<1086年(応徳3)>
・家衡、清衡の館を襲い妻子同族を殺害する
・義家・清衡連合軍、家衡の本拠地沼柵を攻撃するが大敗する

<1087年(寛治元)>
・7月9日 朝廷では「奥州合戦停止」の官使の派遣が決定する
・8月 源義家の三弟義光が無断で義家のもとに下向する
・9月 朝廷は義光が勝手に陸奥国に下向したとして官職を剥奪、源義家・藤原清衡連合軍が沼柵から金沢柵に移った清原家衡軍を包囲する
・11月14日 藤原清衡・源義家の聯合軍が、清原家衡・武衡が立籠る秋田の金沢柵を攻略し、後三年の役が終結する
・12月 源義家の報告書「国解」の中で、後付けの追討官符を要請するが、朝廷はこれを下さなかった

<1088年(寛治2)>
・1月 源義家が陸奥守を解任される
・清衡、奥六郡を与えられて陸奥押領使に任ぜられる

<1105年(長治2)>
・2月15日 後三年の役の戦没者を弔うため、藤原清衡が奥州平泉に最初院多宝寺(現在の中尊寺)を建立する

☆中尊寺(ちゅうそんじ)とは?

 岩手県西磐井郡平泉町にある、天台宗東北大本山で、号は関山、本尊は釈迦如来です。寺伝によると、平安時代前期の850年(嘉祥3)に、円仁(慈覚大師)が関山し、弘台寿院を開創したのが始まりとされ、859年(貞観元)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったと伝えられてきました。
 しかし、実質的には、平安時代後期の1105年(長治2)に、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が、後三年の役の戦没者を弔うため、釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが中尊寺の創建と考えられています。
 その後、1124年(天治元)には、金色堂が建立され、奥州藤原氏三代の栄華を象徴し、そのミイラを収め、平安時代を代表する国宝建造物として知られてきました。鞘堂内の金色の堂宇と仏像はまばゆいばかりで、古代人の阿弥陀信仰が目に浮かぶようです。
 境内は、1979年(昭和54)に国の特別史跡に指定されました。尚、2011年(平成23)には、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)元明天皇が平城京造営の詔を布告する(新暦3月11日)詳細
1239年(延応元)僧侶・時宗の開祖一遍の誕生日(新暦3月21日)詳細
1858年(安政5)水産増殖研究家・十和田湖開発の先駆者和井内貞行の誕生日(新暦3月29日)詳細
1872年(明治5)明治新政府が「地所永代売買ヲ許ス」を発布、「田畑永代売買禁止令」を廃止する(新暦3月23日)詳細
1877年(明治10)薩摩軍の一番隊が鹿児島を出発し、西南戦争(西南の役)が始まる詳細
1930年(昭和5)野呂栄太郎著『日本資本主義発達史』が鉄塔書院より刊行される詳細
1938年(昭和13)実業家で「電力王」とも呼ばれた福沢桃介の命日詳細
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 今日は、鎌倉時代初期の1189年(文治5)に、源頼朝が28万の大軍を率いて奥州平泉に来攻(奥州合戦)し、藤原泰衡は逃走中に家臣・河田次郎に殺され、奥州藤原氏が滅亡した日ですが、新暦では10月14日となります。
 奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、この年の7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間での東北地方における一連の戦いの総称ですが、『吾妻鏡』では、奥州征伐としてきました。奥州藤原氏は鎌倉政権を脅かす存在でしたが、さきに秀衡・泰衡父子が義経をかくまっていたことを口実とし、7月19日には頼朝自らが兵を率いて鎌倉を出発、奥州へ向かいます。
 頼朝は全軍を東海道軍・大手軍・北陸道軍の三手に分けて奥州へ侵攻し、8月22日には平泉を陥落させました。泰衡は平泉から逃れたものの、9月3日に比内郡贄柵で、家臣・河田次郎に殺され、奥州藤原氏は滅亡します。これによって、全国統一を完了し、頼朝による武士政権が確立しました。

〇奥州合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<1189年(文治5)>
・閏4月30日 藤原泰衡の軍勢が衣川館を襲撃し、源義経が自害する
・5月22日 奥州より義経誅殺を伝える飛脚が鎌倉に参着する
・6月8日 義経滅亡を受けて、後白河法皇より戦闘停止の院宣が鎌倉に届く
・6月13日 藤原高衡が義経の首を鎌倉に持参、和田義盛・梶原景時が実検する
・6月25日 源頼朝が泰衡追討宣旨の発給を朝廷に要請する
・6月26日 奥州で兵乱が起き、藤原忠衡が殺害される
・6月30日 頼朝は奥州征伐について大庭景義に諮問する
・7月16日 泰衡追討の延期を命じる宣旨が鎌倉に届くが、頼朝は宣旨なしでの出兵を決断する
・7月17日 終日審議し、東海道軍・大手軍・北陸道軍の三軍を編成して、進攻ルートを決定する
・7月18日 北陸道軍が鎌倉を出発する
・7月19日 頼朝が率いる大手軍が鎌倉を出発、越後の囚人・城長茂を軍勢に加える
・7月25日 頼朝は下野国古多橋駅に到着、宇都宮社に奉幣する
・7月26日 頼朝は宇都宮を出発、常陸の佐竹秀義を軍勢に加える
・7月28日 新渡戸駅に到着、城長茂の郎従200余人が参集する
・7月29日 頼朝は白河関を通過する
・8月7日 頼朝は国見駅に到着する
・8月8日~10日 阿津賀志山、石那坂、根無藤で戦闘があり、藤原国衡・金剛別当秀綱・佐藤基治・金十郎らが戦死して奥州軍が大敗する
・8月11日 頼朝は船迫宿に到着、国衡の首を実検する
・8月12日 頼朝は多賀城国府に到着、東海道軍が合流する
・8月13日 北陸道軍は出羽国で田川行文・秋田致文を討ち取る
・8月14日 頼朝は玉造郡に発向、小山朝政、物見岡を攻略する
・8月20日 頼朝は玉造郡多加波々城を攻略する
・8月21日 頼朝は平泉に発向、栗原・三迫の要害を攻略して津久毛橋に達するが、泰衡は平泉に火を放って逃走する
・8月22日 平泉が陥落する
・8月25日 衣川館の藤原基成父子が投降する
・8月26日 頼朝の宿所に投降をほのめかす泰衡の書状が投げ込まれる
・9月2日 頼朝は平泉から岩手郡厨河柵に発向する
・9月3日 泰衡が比内郡贄柵で郎従の河田次郎に殺害される
・9月4日 頼朝は志波郡に到着、陣岡で北陸道軍が合流する
・9月6日 河田次郎が泰衡の首を陣岡に持参、頼朝は前九年の役の故事に倣い、釘を打ち付けて梟首とする
・9月8日 頼朝は奥州平定の飛脚を京都に送る
・9月9日 一条能保の使者が陣岡に到着、7月19日付の泰衡追討宣旨を持参する
・9月11日 頼朝は陣岡を出て厨河柵に入る
・9月19日 頼朝は厨河柵を出発し、平泉に戻る
・9月22日 頼朝は陸奥国の奉行を葛西清重に命じる
・9月28日 頼朝は鎌倉に向けて帰還する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

740年(天平12)藤原広嗣の乱が起きる(新暦9月28日)詳細
1161年(応保元)第80代の天皇とされる高倉天皇の誕生日(新暦9月23日)詳細
1950年(昭和25)ジェーン台風が四国に上陸、近畿地方を横断し、甚大な被害をもたらす詳細
1953年(昭和28)民俗学者・国文学者・詩人・歌人折口信夫(釈迢空)の命日詳細
1981年(昭和56)「女子差別撤廃条約」が発効する詳細
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