ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:奥の細道

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 今日は、江戸時代中期の1718年(享保3)に、俳人で蕉門の十哲の一人とされる立花北枝が亡くなった日ですが、新暦では6月10日となります。
 立花北枝(たちばな ほくし)は、生年は不詳ですが、加賀国小松町研屋小路に生まれ、後に金沢へ移住、兄牧童と刀研ぎを業とし、通称を研屋 (とぎや) 源四郎と言いました。初め談林系に属したとされ、1680年(延宝8)に神戸友琴編『白根草』、1681年(天和元)に杉野長之編『加賀染』、1685年(貞享2) 鈴木清風編『稲筵』、1687年(貞享4)に江左尚白編『孤松』に、兄牧童とともに句が載せられています。
 1688年(元禄元)に小杉一笑没に際し、追悼の句「佛にもなられう秋の庵すき」を詠み、また翌年刊行の山本荷兮編『曠野』にも、兄牧童とともに句が載せられていました。1689年(元禄2年7月)に『おくのほそ道』の旅で金沢を訪れた松尾芭蕉に、兄牧童と共に入門、越前国松岡まで随行、8月11日に、町はずれの茶屋で芭蕉と別れています。
 『おくのほそ道』には「所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ」という北枝評が載せられました。随行中に得た芭蕉の教えを筆録したものをもとに後年刊行された『三四考』(1836年)、『やまなかしう』(1839年)、『山中(やまなか)問答』(1862年)は、芭蕉の連句研究上の貴重な資料とされています。
 1690年(元禄3年3月)の金沢の大火で類焼しましたが、「焼にけりされども花はちりすまし」と詠み、芭蕉らの称賛を得ました。1691年(元禄4)に楚常の編んだものに北枝が増補した『卯辰集』を刊行、1694年(元禄7)に芭蕉の亡くなったことを知ると1697年(元禄10)の芭蕉三回忌では、義仲寺に参詣し、記念の集『喪の名残』を編んでいます。
 また、1701年(元禄14)刊行の『射水川』、1707年(宝永4)刊行の『日和山』、1708年(宝永5)刊行の『桃盗人』に序跋を書きました。金沢の蕉門の中心的存在として活躍してきたものの、1718年(享保3年5月12日)に金沢において亡くなり、没後に追善集『けしの花』を覇充が刊行しています。

<代表的な句>

・「馬かりて燕追ひ行く別れかな」(山中集)
・「焼にけりされども花はちりすまし」
・「川音やむくげ咲(さく)戸はまだ起(おき)ず」
・「書て見たりけしたり果はけしの花」(辞世)

〇立花北枝の主要な著作

・『三四考』(1836年)
・『やまなかしう』(1839年)
・『山中(やまなか)問答』(1862年)
・編著『卯辰集』 (1691年) 
・編著『山中集』 (1704年)
・編著『喪の名残』 (1697年) 

☆立花北枝関係略年表(日付は旧暦です)

・生年不詳 加賀国小松町研屋小路に生まれる
・後に 金沢へ移住し、兄牧童と刀研ぎを業とする
・1680年(延宝8年) 神戸友琴編『白根草』に、兄牧童とともに句が載せられる
・1681年(天和元年) 杉野長之編『加賀染』に、兄牧童とともに句が載せられる
・1685年(貞享2年) 鈴木清風編『稲筵』に、兄牧童とともに句が載せられる
・1687年(貞享4年) 江左尚白編『孤松』に、兄牧童とともに句が載せられる
・1688年(元禄元年) 小杉一笑没に際し、追悼の句「佛にもなられう秋の庵すき」を詠む
・1689年(元禄2年) 山本荷兮編『曠野』に、兄牧童とともに句が載せられる
・1689年(元禄2年7月) 『おくのほそ道』の旅で金沢を訪れた松尾芭蕉に兄牧童とともに入門する
・1689年(元禄2年7月25日) 小松山王宮神主藤村伊豆守章重(俳号)鼓蟾(こせん)の館に1泊し、山王句会が催される
・1689年(元禄2年7月26日) 歓水亭で句会が催される 
・1689年(元禄2年7月27日) 多太神社に詣で、句を奉納する
・1689年(元禄2年8月5日) 『奥の細道』の旅に随行、芭蕉は山中温泉で曽良と別れ、北枝と那谷寺に赴き、再び小松へ行く
・1689年(元禄2年8月11日) 芭蕉は北枝と共に天龍寺を旅立ち、町はずれの茶屋で北枝と別れる
・1690年(元禄3年3月) 金沢の大火で類焼した北枝は、「焼にけりされども花はちりすまし」と詠み、芭蕉らの称賛を得る
・1690年(元禄3年4月24日) 芭蕉の北枝宛書簡が出される
・1691年(元禄4年4月) 楚常の編んだものに北枝が増補した『卯辰集』を刊行する
・1694年(元禄7年11月3日) 芭蕉の亡くなったことを知る
・1697年(元禄10年10月12日) 芭蕉三回忌として義仲寺に参詣し、記念の集『喪の名残』を編む
・1701年(元禄14年7月12日) 刊行された『射水川』に序跋を書く
・1703年(元禄16年秋) 岩田涼菟は山中温泉に遊び、北枝は汐越の松に案内する
・1707年(宝永4年) 刊行された『日和山』に序跋を書く
・1708年(宝永5年) 刊行された『桃盗人』に序跋を書く
・1718年(享保3年5月12日) 金沢において亡くなり、没後に追善集『けしの花』を覇充が刊行する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1534年(天文3)戦国大名織田信長の誕生日(新暦6月23日)詳細
1698年(元禄11)儒学者・蘭学者青木昆陽の誕生日(新暦6月19日)詳細
1925年(大正14)「治安維持法」が施行される詳細
1962年(昭和37)劇作家・詩人・児童文学者・小説家秋田雨雀の命日詳細
1979年(昭和54)本州四国連絡橋計画の最初として、アーチ橋の大三島橋が完成(翌日から供用開始)する詳細
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 今日は、旅の日です。松尾芭蕉が『奥の細道』に旅立った日(旧暦元禄2年3月27日)を新暦に換算すると5月16日になるので、それにちなみ、1988年(昭和63)に日本旅のペンクラブが提唱したものです。
 松尾芭蕉は、江戸時代の俳聖で、1644年(寛永21)に生まれ、伊賀の武士出身といわれ、さび・しおり・細みで示される幽玄閑寂の蕉風俳諧を確立しました。その生涯は日本各地を旅して、名所旧跡を回り、歌枕を巡り、様々な人とまじわっています。それは、『笈の小文』、『更級紀行』、『野ざらし紀行』などの書物に著されていますが、最も有名なのは晩年の『奥の細道』の旅です。そして、最後に西へ向かって旅立ち、大阪の南御堂で門人に囲まれて、1694年(元禄7)に息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も「旅に病んで夢は枯れ野を かけ廻る」というものでした。
 『奥の細道』は、松尾芭蕉が書いた紀行文で、最も代表的なものです。1689年(元禄2)の3月27日(新暦では5月16日)に深川芭蕉庵を愛弟子の河合曾良一人を連れて出立し、東北・北陸地方を回りながら、弟子を訪ね、歌枕を巡って歩いた日数150日、旅程600里に及ぶ大旅行のもので、9月6日(新暦では10月18日)に大垣から伊勢へ旅立つところで、結びになっています。また、近年芭蕉の自筆本が発見されて話題になりました。
 私も、その足跡をたどって何度か旅したことがありますが、各所に句碑が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、資料館などもあって、いにしえの芭蕉の旅をしのぶことができます。
 以下に、『奥の細道』の冒頭部分を載せておきますのでご参照ください。

〇『奥の細道』冒頭部分

<冒頭> 
 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
  草の戸も 住替る代ぞ ひなの家
面八句を庵の柱にかけ置く。

           紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より
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