ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:太閤検地

kenchinozu01
 今日は、安土桃山時代の1582年(天正10)に、羽柴秀吉が近江で初めて検地(太閤検地)を行った日ですが、新暦では7月27日となります。
 太閤検地(たいこうけんち)は、安土桃山時代の1582年(天正10)の豊臣秀吉による山城の検地以後、全国的に行なった検地のことです。山城の検地以来、平定した領地に奉行を派遣し、土地の面積・収穫高・等級・耕作人などを実測調査させ検地帳を作成させました。
 1歩を6尺3寸四方、300歩を1反、田畑の等級を上・中・下・下々の四段階と定め、枡を京枡に一定して石高を算定し、耕地1筆ごとに耕作者を検地帳に記載して年貢負担者を確定します。1594年(文禄3)には、「検地条目」を制定し、翌年にかけて行なった検地は最も大規模なもので、特に文禄検地といわれました。
 これにより、荘園制は完全に解体し、生産者農民は検地帳に登録されて土地保有が確定し、石高制に基づく近世封建社会の基礎が築かれたとされます。

〇太閤検地関係略年表

・1582年(天正10) 秀吉が明智光秀を山崎に破った直後、山城の寺社から土地台帳を徴集し、現実の土地所有・保有関係の確認を行ったことに始まる
・1585年(天正13) 紀伊検地では小堀新介が惣奉行となって推進する
・1589年(天正17) 山城検地では、検地奉行が縄打ちを行ない、以後は実際に土地丈量を行うことが原則となる
・1590年(天正18) 奥羽検地の折に出された朱印状で、「山の奥、海は櫓櫂(ろかい)の続き候迄」も入念に調査するよう指示する
・1591年(天正19) 国ごとに御前帳を提出させ、全国の土地が石高で一元的に表示されることとなり、秀吉は関白を養子秀次に譲ったのち、太閤と称したので、彼の実施した検地も太閤検地とよばれるようになる
・1593年(文禄2) 日向・大隅・薩摩の検地では石田三成が惣奉行に任命される
・1594年(文禄3) 「検地条目」を制定する
・1598年(慶長3)8月 各地を再三検地し、越前検地(長束正家が惣奉行)を最後とする
・1604年(慶長9) 徳川家康も、単位を国から郷に改めて御前帳と国絵図を徴収している(慶長御前帳)

☆太閤検地関係史料

<検地の指示>

 其許検地の儀、一昨日仰せ出され候如く、斗代等の儀は御朱印の旨に任せて、 何も所々、いかにも念を入れ申し付くべく候。もしさそうニ仕り候ハヾ各越度たるべく候事
一、仰せ出され候趣、国人並百姓共ニ合点行き候様ニ能々申聞かすべく候。自然相届かざる覚悟の輩之れあるに於ては、城主にて候ハヾ、其もの城へ追入れ、各相談、一人も残置かずなでぎりニ申し付くべく候。百姓以下にいたるまで相届かざるニ付ては、一郷も二郷も悉くなでぎり仕るべく候。六十余 州堅く仰せ付けられ、出羽、奥州迄そさうニハさせらる間敷候。たとへ亡所ニ成り候ても苦しからず候間、其意を得べく候。山のおく、海ハろかいのつゞき候迄、念を入るべき事専一に候。自然各退屈するに於ては、関白殿御自身御座成され候ても、仰せつけらるべく候。急度此返事然るべく候也。
  天正十八年八月十二日     秀吉朱印
   浅野弾正少弼どのへ

(現代語訳)

 其許検地の儀、一昨日仰せ出され候如く、斗代等の儀は御朱印の旨に任せて、 何も所々、いかにも念を入れ申し付くべく候。もしさそうニ仕り候ハヾ各越 度たるべく候事
一、(豊臣秀吉が)命令された趣旨について、国人ならび百姓達に納得が行くまで、よくよく説明すべきである。もし、納得しない者がいたならば、城主ならば、その者の城へ追い込み、検地担当者が相談し、一人も残らず皆殺しにしてしまえ。百姓以下にいたる者まで納得しない場合は、一村でも二村でもことごとく皆殺しにしてしまえ。日本全国六十余州に厳しく申し付けられて堅く仰せ付けられているので、出羽・奥州に至るまで、おろそかにしてはならない。例え、その土地に耕作する者がいなくなっても、かまわないので、その命令通りに実行せよ。山の奥、海は船の行きつくところまで、念を入いれて、実行することが大切である。もし検地担当者が怠けるのであれば、関白殿御自身が出向いてでも、命令するであろう。必ず、この命令書にたいする返答書を提出せよ。
  天正十八年(1590年)八月十二日     秀吉朱印
   浅野長政殿へ

 『浅野家文書』より

<検地の基準>

  右今度御検地を以て相定むる条々
一、六尺三寸の棹を以て、五間六拾間、三百歩壱反に相極むる事。
一、田畠並在所の上中下見届け、斗代相定むる事。
一、口米壱石に付い而弐桝充、其外役米一切出すべからざる事。
一、京升を以て年貢を納処致すべく候。売買も同じ升たるべき事。
一、年貢米、五里、百姓として持届くべく、其外ハ代官給人として持届くべき事。
   慶長三年七月十八日  木村宗左衛門尉(花押)
   はら村次郎右衛門方 惣百姓中

(現代語訳)

  右は、今度の御検地を定めた条文を列挙したものである。
一、六尺三寸の棹で、横五間、縦六拾間、三百歩を一段と定める事。
一、田畑ならび敷地の等級を上・中・下と判断し、石盛を定める事。
一、口米は、一石に付き二升を充て、その他の賦役は、一切出す必要はない事。
一、京升を使用して、年貢を納めること。売買の時も同じ升を使用するべき事。
一、年貢米について、五里(約20km)以内は、百姓が持参して届けること、その他は、領主の代官が徴収して、届けるべき事。
   慶長三年(1598年)七月十八日  木村宗左衛門尉(花押)
   はら村次郎右衛門方 惣百姓中

 『西福寺文書』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1588年(天正16)豊臣秀吉が「刀狩り令」を布告する(新暦8月29日)詳細
1783年(天明3)浅間山天明大噴火が起きる(新暦8月5日)詳細
1869年(明治2)北海道の開拓使が設置される(新暦8月15日)詳細
1908年(明治41)日本画家・著述家東山魁夷の誕生日詳細
1912年(明治45)日本とロシアとの間で、「第三次日露協約」が締結される詳細
1939年(昭和14)「国民徴用令」(勅令第451号)が公布される詳細
1950年(昭和25)GHQが自衛隊の前身となる警察予備隊の創設を求める「日本警察力増強に関する書簡」を送る詳細
1955年(昭和30)日本住宅公団を設立するための「日本住宅公団法」(昭和30年法律第53号)が公布される詳細
1957年(昭和32)立川基地拡張の為の強制測量で、測量阻止のデモ隊の一部が基地内に立ち入る(砂川闘争)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、安土桃山時代の1598年(慶長3)に、武将・大名・天下人豊臣秀吉が亡くなった日ですが、新暦では9月18日となります。
 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、1537年(天文6)に、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓で織田信秀の足軽だった父・木下弥右衛門、母・なか(天瑞院)の子として生まれましたが、幼名は日吉丸と言いました。7歳のときに父を亡くし、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚します。
 1551年(天文20)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出、行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲城主であった織田信長に小者として仕えました。1561年(永禄4)に浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗るようになります。
 清洲城普請、墨俣築城、京都警備などで活躍し、1570年(元亀元)の姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功を上げました。1573年(天正元)には、羽柴藤吉郎秀吉と名のり、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となって、近江長浜に築城します。
 1577年(天正5)に中国征伐の将として毛利氏と対戦しますが、1582年(天正10)に信長が明智光秀のために本能寺の変で横死すると、山崎の戦いで明智光秀を破り、次いで柴田勝家を倒して、信長の後継者としての地位を獲得しました。1583年(天正11)に大坂城を築城、四国・九州を征し、徳川家康を臣従させ、1590年(天正18)には小田原北条氏を滅ぼして天下統一を完成します。
 この間、1585年(天正13)に関白、翌年に太政大臣となり、豊臣の姓を賜りました。1591年(天正19)には関白を養子秀次に譲り太閤と称し、1592年(文禄元)と1597年(慶長2)の2度朝鮮に出兵しますが失敗します。
 貨幣統一、兵農分離、太閤検地、石高制等の施行によって幕藩体制の基礎をつくったとされますが、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城において、数え年63歳で亡くなりました。

〇豊臣秀吉関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年正月元日?) 尾張国愛知郡中村で織田信長の足軽木下弥右衛門の子として生まれる
・1543年(天文12年) 秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死する
・1551年(天文20年) 元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出する
・1554年(天文23年) 18歳のとき、尾張清洲の城主であった織田信長に小者として仕えた
・1561年(永禄4年) 弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗る
・1566年(永禄9年) 濃尾国境に位置する墨俣(岐阜県大垣市)に築城し、美濃攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられる
・1568年(永禄11年9月) 信長が足利義昭を擁して上洛すると、京都の奉行の一人として活動する
・1570年(元亀元年) 姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功をたてる
・1573年(天正元年7月) 木下を改め羽柴 藤吉郎秀吉と名のる
・1573年(天正元年8月) 浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆攻めで活躍する
・1575年(天正3年12月) 筑前守に任じられる
・1577年(天正5年) 播磨に出陣して姫路城に本拠を置く
・1582年(天正10年) 備中に出兵し、清水宗治の拠る高松城に迫って水攻めにする
・1582年(天正10年6月2日) 信長が明智光秀のために本能寺の変で横死する
・1582年(天正10年6月13日) 光秀を山崎の戦いで破る
・1582年(天正10年6月27日) 清須会議が行われる
・1583年(天正11年) 秀吉打倒を策する信長の三男信孝、滝川一益に対し、美濃・伊勢に出兵して攻める
・1583年(天正11年) 柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、越前に攻め入って北庄城の柴田氏を滅ぼす
・1583年(天正11年) 滝川一益を降して尾張・伊勢を支配下に入れる
・1584年(天正12年) 信雄・徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いをする
・1584年(天正12年11月) 従三位・権大納言となる
・1585年(天正13年) 信雄・家康に呼応して蜂起した紀伊根来・雑賀の一揆を討伐する
・1585年(天正13年) 四国征伐を行って長宗我部氏を降す
・1585年(天正13年3月) 正二位・内大臣となる
・1585年(天正13年) 徳川家康に対しては、実妹(旭姫)を嫁がせる
・1585年(天正13年7月) 近衛龍山の猶子として関白・従一位となる
・1586年(天正14年) 徳川家康を臣従させる
・1586年(天正14年12月) 太政大臣となり、豊臣の姓を賜る
・1587年(天正15年) 九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多・長崎を直轄化する
・1587年(天正15年) キリシタン禁令を発する
・1587年(天正15年9月13日) 聚楽第が完成する
・1587年(天正15年10月1日) 茶頭千利休の演出のもとで、庶民を集めて北野大茶湯を催す
・1588年(天正16年) 聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぐ
・1590年(天正18年) 小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、天下統一を成し遂げる
・1591年(天正19年) 側室淀殿との間にもうけた愛児鶴丸を喪う
・1591年(天正19年8月) 関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤と称する
・1591年(天正19年) 全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握する
・1592年(文禄元年) 関白秀次により人掃令が出され、全国の家数・人数の調査が行われる
・1592年(文禄元年) 諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋の本陣に赴き、総指揮にあたる(文禄の役)
・1593年(文禄2年) 側室淀殿に実子秀頼が生まれる
・1594年(文禄3年8月) 伏見城が完成し、秀吉が入城する 
・1595年(文禄4年7月) 秀次を謀反人として切腹せしめ、妻妾子女悉くを処刑する
・1597年(慶長2年) ふたたび朝鮮出兵となる(慶長の役)
・1598年(慶長3年) 醍醐の花見を行なう
・1598年(慶長3年8月5日) 五大老に幼い秀頼の将来のことを訴えた遺言状を認める
・1598年(慶長3年8月18日) 伏見城において、数え年63歳で亡くなる
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ