ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:太政官布告

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 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、日本初の特許法令である「専売略規則」が発布された日ですが、新暦では5月25日となります。
 「専売略規則」(せんばいりゃくきそく)は、日本初の特許法令とされる太政官布告(明治4年太政官布告第175号)でした。これは、発明者への「専売」を認める権限を政府に付与するものであり、発明者に権利を認めるものではなかったとされます。
 明治新政府が殖産興業のための制度として導入したものと考えられ、福沢諭吉著の『西洋事情外編』(1868年刊行)に触発されたものとされてきました。しかし、技術の未発達により特許を得られる発明品が少なかったことや審査員の不足などがあり、1件の官許もないまま、翌年には施行が停止されています。
 その後、ガラ紡や人力車のように、特許制度が整備されていないことで様々な問題が生じると、再び制度の必要性が確認され、復活が求められるようになりました。これを受け、新たに1884年(明治17)に「商標条例」が、1885年(明治18)に本格的な特許法である「専売特許条例」(明治18年太政官布告第7号)が公布・施行(明治21年に特許条例に改正)される及び、「専売略規則」は廃止されています。さらに、1888年(明治21)には、「意匠条例」が公布され、本格的な特許制度が開始されました。
 以下に、「専売略規則」(明治4年太政官布告第175号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「専売略規則」(明治4年太政官布告第175号)明治4年4月7日布告

何品ニ寄ラス新発明致シ候者ハ爾来専売御差許相成候間府藩県管下ニ於テ願人有之節ハ別紙規則ニ照準シ当分ノ内民部省ヘ可伺出事
(別紙)
     専売略規則
一是迄御国内ニ未タ開ケサル舎密諸機関器械諸器物武器織物類其外都テ新発明及有来リノ器物トイヘトモ別ニ工夫ヲ為シ一層世用ノ便利ヲ為スモノハ年限ヲ以官許ヲ与フヘシ
一年限ノ儀ハ発明ノ次第ニ寄リ第一等ヲ十五年第二等ヲ十年第三等ヲ七年トス
一官許願出度モノハ明細書絵図面等相添其管轄地方官ヘ願出ヘシ地方官之ヲ民部省ヘ差出シ免許状ヲ受クヘシ
一発明ノ品柄及工夫ノ手続等竪図横図平図等ニ形ヲ図写シ機関ノ箇所ハイロハ或ハ一二三ノ番号ヲ加ヘ明細書ト照合セ一覧了然タラシムヘシ尤発明ノ本人並証拠人共調印ノ上差出スヘシ
  但絵図面ニ写取難キモノハ雛形ニ仕立差出スヘシ
一民部省ヨリ免許状相渡候ハヽ其地方官ニ於テ発明ノ本人並証人ヘ請証文為差出候上相渡スヘシ
一税銀ノ儀ハ年限中一ケ年金五両ツヽ管轄地方官ヘ前納スヘシ
  但発明ノ品柄ニ寄リ税銀増減アルヘシ尤管轄地方官ヨリ共節々民部省ヘ差送ルヘシ
一専売免許状相渡候トモ売試ノ為六ケ月ノ間ハ税銀差出ニ不及七ケ月目ニ至リ売レ方見留相付候ハヽ其節一ケ年ノ税銀ヲ地方官ヘ相納ムヘシ
一六ケ月売試ノ内売方アシク御免願出候儀ハ勝手タルヘシ若シ七ケ月後御免願出候者ハ其年前納一ケ年ノ税銀ヲ差戻サス
一民部省ヘ差出候願書ハ都テ着到ノ順序ヲ以テ前後ヲ分ツヘシ
一他人ノ発明セシ品ヘ更ニ工夫ヲ加ヘタル分ハ某発明ノ品ヘ何々ノ廉改正ト委詳ニ書記スヘシ若他人ノ発明セシ品ニ似寄リタルモ其実品物ノ工用或ハ工夫等全ク相違致シ候ハヽ異同ノ辧ヲ具サニ書分差出スヘシ
一世用有益ノ品ニテ某ノ発明ニ相違ナク現ニ其本人存在スト雖モ既ニ世間ニ年久シク流布スル分ハ官許ヲ与フヘカラス
一数人心ヲ合セ発明シタル品ハ官許状ヲ与フルニ各通ニ相渡サス社中連名ニ認メ下ケ渡スヘシ
一免許済ノ株ヲ相当ノ代金ヲ以テ年限中他人ニ売渡シ候儀勝手タルヘシ尤其段ハ双方ヨリ免許状ヘ書添ヲ願出ヘシ
一官許相成候者ハ年限中我名前ニテ所々ヘ出店ヲ設ケ或ハ他人ヘ発明ノ品ヲ伝授スルコト苦シカラス
一発明ノモノ官許年限中死亡致シ候節ハ身寄リノモノヘ譲リ渡シ苦シカラス尤免許状ヘ書添ヲ願出ヘシ
一何管轄所何国何郡何町村誰何品新発明ニ付専売免許相成候趣其節々民部省ヨリ遍ク布告スヘシ
一官許年限中損失償ヒ兼候節ハ世間必用闕クヘカラサルノ品柄篤ト取調ノ上延期聞届クヘシ
一官許ノ文字及発明人ノ名前一々相記シ売出スヘシ
一発明人ノ名前ヲ偽リ或ハ官許ナキ品物ヲ官許ト偽リ候モノハ過料申付ヘシ

    「法令全書」より

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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、明治新政府が「地所永代売買ヲ許ス」(明治5年太政官布告第50号)を発布して「田畑永代売買禁止令」を廃止し、土地の永代売買を解禁した日ですが、新暦では3月23日となります。
 「地所永代売買ヲ許ス」(ちしょえいだいばいばいをゆるす)は、明治新政府が「田畑永代売買禁止令」を廃止し、土地の永代売買を解禁するために発布した太政官布告でした。これによって、1643年(寛永20年3月10日)以来の「田畑永代売買禁止令」が廃止され、土地の自由な売買が公認されることとなります。
 これに伴い、同月24日に、大蔵省達第25号「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」全14条が公布され、土地の売買譲渡のつど、土地の所有者、面積、地価等を記載した地券が発行されることとなりました。さらに、同年7月には、地券発行の対象が全ての私有地に広げられることとなり、その後の地租改正事業の進展へと繋がっていきます。
 以下に、「地所永代売買ヲ許ス」(明治5年太政官布告第50号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「地所永代売買ヲ許ス」(明治5年太政官布告第50号)1872年(明治5年2月15日)

地所永代賣買ノ儀從來禁制ノ處自今四民共賣買致所持候儀被差許候事

  「ウィキソース」より

〇「田畑永代売買禁止令」(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)とは?

 1643年(寛永20年3月)に、江戸幕府の発した田畑の売買を禁止する法令の総称でした。3月10日付の「堤川除普請其外在方取扱之儀二村御書付」全7ヶ条の第3条、3月11日付の在々御仕置之儀ニ付御書付」全17ヶ条の第13条、及び3月に出された罰則規定「田畑永代売買御仕置」全4ヶ条を含める場合もあります。前年の寛永の大飢饉を契機に、窮乏化した農民が田畑を売り払って没落・流民化していく問題が顕在化しました。そこで、江戸幕府は農民の担税能力維持を目的として、富農への土地集積による農民の階層分化を防ぐために、今後の田畑の売買を禁じたものです。違反者については、「田畑永代売買御仕置」において、売主は入牢の上追放、買主は入牢、買い取った田畑は没収、証人も入牢という重い刑罰を定めました。しかし、重い年貢を支払うために、農民が田畑の質入れをすることは容認されたため、質入れした田畑が質流れによって移動し、富農への田畑の集中が進み、地主階級が誕生していくことになります。このことにより、事実上法令は空洞化し、明治維新後の1872年(明治5年2月15日)に、新政府が「地所永代売買ヲ許ス」(明治5年太政官布告第50号)を発布して廃止されました。

〇「田畑永代売買禁止令」

☆「堤川除普請其外在方取扱之儀二村御書付」全7ケ条の第3条 1643年(寛永20年3月10日)

一、身上[1]能き百姓は田地を買ひ取り、弥宜く成り、身代成らざる者[2]は田畑沽却[3]せしめ、猶々身上成るべからざるの間、向後[4]田畑売買停止たるべき事。

   寛永二十年未三月 

    『御触書寛保集成』より

【注釈】

[1]身上:しんしょう=資産。ここでは暮らし向きの意味。
[2]身代成らざる者:しんだいならざるもの=家計の苦しい者。生活困窮者。
[3]沽却:こきゃく=売却。
[4]向後:きょうこう=以後。

<現代語訳>

一、経済力のある農民は田地を買い取って、ますます裕福になり、困窮する農民は田畑を売却して、いっそう暮らし向きが悪くなるので、今後は田畑の売買を禁止する。

   寛永20年(1643年)未3月

☆「在々御仕置之儀ニ付御書付」全17条の中の第13条 1643年(寛永20年3月11日) 

(一条略)
一、百姓之衣類、此以前より御法度の如く庄屋は妻子共に絹・紬、布・木綿、 脇百姓は布・木綿ばかり之を着す可し、此外はゑり帯にもいたす間敷事
(一条略)
一、百姓之食物常々雑穀を用べし、八木は猥に食はざる様に申し聞かすべき事
一、在々所々にて饂飩・切麦・素麺・蕎麦切・饅頭・豆腐以下、五穀に費に成候間、商売無用の事
一、在々にて、酒一切作る可からず。並に他所より買人、商売仕る間敷事
一、市町へ出、むざと酒のむべからざる事
一、耕作田畑共に手入よく致し、草をも油断無く取り、念を入れ申す可し。若不念に致し、不届成百姓之有らば、穿鑿之上、曲事に申付く可き事
一、壱人身之百姓煩い紛れ無く、耕作成兼侯時は、五人組は申すに及ばず、其一村として、相互に助会、田畑仕付、収納せしめ候様ニ仕るべき事
一、五穀之費になり候間、たばこ之儀、当年より本田畑新田畑共、一切作る間敷事
(二条略)
一、田畑永代之売買仕間敷事
(四条略)

   寛永二十年未三月十一日

    『御触書寛保集成』より

<現代語訳>

(一条略)
一、百姓の衣類は、これ以前より御法度のように、庄屋は妻子とも絹・紬・布・木綿、脇百姓は布・木綿ばかりを着ること。この外は衿や帯などに使ってはいけない。
(一条略)
一、百姓の食物は、通常雑穀を用いるべきで、米はみだりに食べないように言い聞かせなさい。
一、村々所々では、うどん・切り麦・そうめん・そば・まんじゅう・豆腐などは、五穀の無駄になるので、商売してはいけない。
一、村々では、酒は一切造ってはいけない。また、外より仕入れてきて、商売してもいけない。
一、市や町へ出て、理由もなく酒を飲んではいけない。
一、耕作している田や畑は、共に手入れをよくし、草も油断なく取り、念を入れなさい。もし、念を入れないでいる不届きな百姓がいたら、調査の上、罰を言い渡す。
一、独身の百姓が病気で耕作ができない時は、五人組は言うまでもなく、その村で、相互扶助によって、田畑仕事をし、年貢が納入できるようにしなさい。
一、五穀の無駄になるので、煙草は今年より、本田畑でも新田畑でも、一切作ってはいけない。
(二条略)
一、田畑の永代売買はしてはいけない。
(四条略)

  右の条々、全ての所に必ず知らせ、これから必ずこれらのことを守らせるように、常々念を入れ取り調べる。
   寛永20年(1643年)未3月11日

☆「田畑永代売買御仕置」1643年(寛永20年3月)
 
 一、売主牢舎[1]之上追放[2]。本人死候時ハ子同罪。
 一、買主過怠牢。本人死候時ハ子同罪。但買候田畑ハ売主之御代官又ハ地頭[4]江 取上之。
 一、証人[5]過怠牢。本人死候時ハ子ニ構なし[6]。 
 一、質に取り候者、作り取り[7]にして質に置き候者より年貢役相勤候得ハ、永代 売同前之御仕置[8]、但頼納買[9]といふ。
   右の通り田畑永代売買御停止之旨被仰出候。
    寛永二十年未三月 

    『御触書寛保集成』より

【注釈】

[1]牢舎:ろうしゃ=入獄。牢屋へ入れること。
[2]追放:ついほう=所払い。居住地から追い払う刑。
[3]過怠牢:かたいろう=罰金の代わりに入獄させる刑。
[4]地頭:じとう=領主のこと。
[5]証人:しょうにん=売買に当たっての証人。
[6]構なし:かまいなし=無罪。
[7]作り取り:つくりどり=年貢を納めず収穫物をすべて自分のものとすること。
[8]御仕置:おしおき=処罰のこと。
[9]頼納買:らいのうがい=江戸時代の田地質入方法の一つで質入主は通常の相場よりも多くの金銭を借り、質取主がその土地を耕作して全収穫を取得した。

<現代語訳>

一、田畑の売主は入牢の上、追放とする。本人が亡くなった時は、子供も同罪とする。
一、田畑の買主は入牢とする。本人が亡くなった時は、子供も同罪とする。ただし、買った田畑は売主を支配している代官又は領主がこれを取り上げる。
一、売買の証人も入牢とする。本人が亡くなった時は、子供は無罪とする。
一、田畑を質のかたに取った者が、その田畑からの収穫をすべて収入とし、質に入れた者が年貢を納入する場合には、永代売買と同様の処罰とする。ただし、こういう売買形式を頼納買という。
 右の通り、田畑の永代売買を禁止する旨を命じられた。
  寛永20年(1643年)未3月

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 今日は、明治時代前期の1870年(明治3)に、太政官が「郵船商船規則」を布告、日本の商船は日章旗を掲揚することとし、日章旗の規格を定めた日ですが、新暦では2月27日となります。
 「郵船商船規則」(ゆうせんしょうせんきそく)は、明治維新後、近代的汽船の航行に対応するため、英国法を範として、商船について規定した太政官布告(明治3年太政官布告第57号)でした。和船から西洋型蒸気船への大々的な転換を図るため、西洋型船舶の所有を奨励したものですが、この中で日章旗を「御国旗」として規定しています。
 それによると、①毎朝8時から日没まで掲揚し、②祝日には必ず掲揚すること、③商船が軍艦に出遭った時は商船側が3度国旗を昇降すること、④国旗を掲げていない船は海賊船とみなされることなどを厳重に申し渡していました。また、国旗の作図法を定めた、詳しい付図を掲載していますが、規格は現行とは若干異なり、縦横比は7:10、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされています。
 この日を記念して、一般社団法人・国旗協会は、「国旗制定記念日」と制定し、国旗掲揚の日としました。
 以下に、「郵船商船規則(抄)」(明治3年太政官布告第57号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「郵船商船規則(抄)」(明治3年太政官布告第57号) 1870年(明治3年1月27日)

  蒸気郵船規則

一郵船出入定日ノ儀ハ一ノ日ト相定甲乙二艘ヲ以一ケ月三度宛横浜神戸一日宛碇泊東京大阪往復ノ事
  但暴風雨ハ日送リノ事
一人数乗込ノ儀ハ出帆前々日迄ニ最寄廻船荷積仲間飛脚仲間取次ヲ以会社江申出候得ハ武家百姓町人婦女子タリ共無弁別望次第紙札ニ姓名ヲ記シ相渡可申其節乗船賃請取置出帆前日右紙札持参致候得ハ相改為乗込可申事
  但御用旅行ニテモ平人同様船賃取之尤廻船荷積仲間等取次ニ及申間敷事
一荷物御用ノ分ハ廻漕会社ニテ取扱其余ノ分ハ廻船荷積仲間飛脚仲間共ニ為取扱出帆前々日迄ニ廻漕会社江取集メ荷数品訳並荷主届所名前紙札ニ記シ相渡可申其節引替運賃請取之右紙札ヲ以相改船積致候且廻船荷積仲間飛脚仲間取来候口銭ハ運賃ノ内ヲ以差遣シ可申候事
  但御用荷物ニテモ同様運賃取立候事
一乗船人荷物其外食料等ハ別紙定書ノ通取極候事
一船中部屋料ノ儀ハ船ニ寄相違有之候間上中下弁別イタシ取極可申事
  但船客接待方ハ士商トモ身分ノ貴賤ニ不拘部屋料ノ高下ヲ以テ等級差定候事
一百姓町人所持船ヲ以テ郵船ニ仕立度願出候分ハ船ノ大小間数馬力等見分ノ上良船ニ候ヘハ御許容可有之廻漕会所付郵船同様取扱運賃ハ会社ニテ取立右ノ内為税金金高ノ十分ノ一廻漕会所江相納其余船主江相渡候事
一外国人乗船ノ節ハ都テ同様運賃取之食料ハ持参ノ事
一横浜神戸積入荷物人員ノ分ハ某所差配人等ヨリ荷積仲間江申付前以荷集方為致置積入可申事
一船中為取締廻漕掛吏員一人並運用方蒸気方勘定方トシテ廻漕会社差配人手代三人大船ハ四人乗組候事
右之通相定候事
  明治三午年正月            廻漕会社

      甲船            乙船 
朔日   東京出帆横浜入津      大阪出帆神戸入津 
二日   横浜出帆          神戸出帆 
三日   海上            海上 
四日   同断            同断 
五日   神戸着           横浜着 
六日   神戸出帆大阪入津      横浜出帆東京入津 
七日   荷揚            荷揚 
八日   同断            同断 
九日   荷積            荷積 
十日   同断            同断 
十一日  大阪出帆神戸入津      東京出帆横浜入津 
十二日  神戸出帆          横浜出帆 
十三日  海上            海上  
十四日  同断            同断 
十五日  横浜着           神戸着 
十六日  横浜出帆東京入津      神戸出帆大阪入津 
十七日  荷揚            荷揚 
十八日  同断            同断 
十九日  荷積            荷積 
二十日  同断            同断 
二十一日 東京出帆横浜入津      大阪出帆神戸入津 
二十二日 横浜出帆          神戸出帆 
二十三日 海上            海上 
二十四日 同断            同断 
二十五日 神戸着           横浜着 
二十六日 神戸出帆大阪入津      横浜出帆東京入津 
二十七日 荷揚            荷揚 
二十八日 同断            同断 
二十九日 荷積            荷積 
晦日   同断            同断 

  蒸気郵船出帆日並運賃定

 東京大阪共                  横浜神戸
  毎月一ノ日出帆                二ノ日出帆
   但暴風雨ハ日送之事
一乗船賃一人ニ付                 金五両
  但喰料一人前金弐分宛
一通用金古金共                  千両ニ付金弐両
一同銀                      同断金三両
一同金礼                     同断金壱両
一同銭                      目方拾貫目ニ付金弐両壱分
一大砲並銅鉄金物類目重之品            同断金三分
 但一品五拾貫目以上ハ定高之弐割増
 但百貫目以上ハ同断五割増
  此外五百貫目以上ハ其品ニ応シ運賃取極候事
一九尺以上長物                  一本ニ付金弐朱
一乗物駕籠                    曲尺一尺角ニ付金壱分
  但棒抜取不申分相断申候
一櫃物箇物大中小長持両掛             目方拾貫目ニ付金弐分
 箪筍樽入物ノ類                 曲尺方ニ付金壱分
一唐物反物類                   同断金壱分
一米百石ニ付                   金百二拾両
一商荷物酒綿木綿鰹節薬種鉄茶油砂糖蝋紙青莚之類ハ樽菱垣廻船定運賃一倍之積ニ候事
一武士百姓町人婦女子タリ共廻船荷積仲間飛脚仲間取次ヲ以申出候得ハ望次第為乗組候事
一御用旅行之向乗船賃並部屋代御用荷物之運賃モ都而相対之者同様差出可申事
一自身提候手包之外ハ何品ニテモ相当之運賃差出可申事
一部屋代床代之儀ハ船客之好モ有之其船ニ寄不同ニ候間上中下其時々相対ヲ以取極可申事
一フランケツト入用之向ハ船中限損料ニ而貸渡候事
一諸荷物者定日之前々日迄ニ差出可申乗船人ハ定日之前日廻漕会社江相越候而本船乗込候定ニ候事
一運賃之外可相払分者上陸前差出候定之事
一定日之外臨時ニ郵船仕出シ候節ハ別段引札差出候事
一風順ニ寄大阪安治川口江難乗入節ハ兵庫上陸之事
右之通相定候事
  明治三午年正月            廻漕会社

  商船規則

(略)

(別紙)
yuusenshyousenkisokufuzu0

  規  則

一 西洋形商船買入度モノハ其旨開港場運上所江可願出其上船之善悪新古検閲之上免許差遣可申事
一 御國旗之事
   右ハ決而取外シ候事不相成附属之艀舟ニ至迄必可揚置事
一 毎朝西洋時規第八字ニ引揚ケ夕方ハ日没迄ヲ限引卸スヘキ事
   但右御國旗引揚無之節ハ海賊船之取扱請候而モ申訳ナキ事萬國普通之公法タル事
一 御國旗之寸法別紙之通二候事
   但大旗ハ祝日ニ引揚平日ハ小旗引揚ケ風雨晦瞑之節ハ小旗迄引卸置不苦候事
 祝日
  正月朔日  正月十五日  三月三日
  五月五日  七月七日   七月十五日
  八月朔日  九月九日   九月廿二日
   右之通
一 御軍艦江出合候節ハ我旗章ヲ三度昇降イタシ礼儀ヲナスヘキ事
一 夜間ハ旗章ト引替ニ燈明可引揚燈明ハ青赤白之三坐ヲ設ケ航海中赤ハ左舷青ハ右舷ニ点火シ白ハ前檣頂遠方ヨリ見留易キ所ニ揚置燈明消ヘサル樣可致事
一 船之込合タル節並風雨浪高之折者別而心ヲ用ヒ互ニ突當ラサル樣可致右者日本船タリ共同樣ナレトモ外國船ハ別而此規則嚴重ナレハ精密ニ用心スヘシ

(略)

右之通相定候條嚴重ニ可相守事

 明治二巳年十二月
  民部省
  外務省
 
  「国立国会図書館デジタルコレクション」より

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 今日は、明治時代前期の1875年(明治8)に、「平民苗字必称義務令」(明治8年太政官布告第22号)により、平民にも苗字の使用を義務づけた日(苗字制定記念日)です。
 「平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい)」は、苗字制度を徹底させるため、改めて苗字の使用を義務づける法令(明治8年太政官布告第22号)でした。明治維新後の1870年(明治3年9月19日)に、明治新政府より「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が出され、華族や士族以外の平民にも「苗字」の使用が許されたものの、当時の平民は新政府をあまり信用せず、「苗字を附けたら税金を多く取られるようになるのではないか」などと警戒し、苗字の届出は、スムーズには進みませんでした。
 そこで、改めてこの法令が出されましたが、慣例として苗字を使用していた者はまだしも、祖先以来の苗字が分からない者は、苗字を決めるために困って、役所や寺などに相談したために混乱したところも出ます。また、この時にあわてて作ったので、多くの種類の苗字が生まれることとなりました。
 尚、この日を記念して、2月13日が「苗字制定記念日」と言われるようになります。
 以下に、「平民苗字許可令」と「苗字必称義務令」を掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)明治3年9月19日発布

 自今平民苗氏被差許候事

<現代語訳>
 
 これからは、平民も苗字を差し許されることとする。

〇「苗字必称義務令」(明治8年太政官布告第22号)1875年(明治8)2月13日発布

 平民苗字被差許候旨明治三年九月布告候處自今必苗字相唱可尤祖先以來苗字不分明ノ向ハ新タニ苗字ヲ設ケ候樣可致此旨布告候事

<現代語訳>

 平民に苗字を差し許すように明治3年(1870年)9月に布告したが、これからは必ず苗字を唱えるようにせよ、もっとも祖先以来の苗字が不明の者は、新たに苗字を設うけるようにせよ、この旨を布告する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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807年(大同2)斎部広成撰の『古語拾遺』が平城天皇に献上される(新暦3月25日)詳細
1900年(明治33)足尾鉱毒事件被害民二千余名が請願のため上京する途中、警官隊・憲兵と衝突した川俣事件が起きる詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1869年(明治2)に、新聞の発行に関する「新聞紙印行条例」(明治2年太政官布告第135号)が公布された日ですが、新暦では3月20日となります。
 「新聞紙印行条例(しんぶんしいんこうじょうれい)」は、明治新政府が初めて新聞の発行に関する規定を定めた太政官布告(明治2年太政官布告第135号)でした。
 明治維新直後の1868年(明治元年6月5日)に、江戸の市政裁判所の新聞紙官許の町触が出され、官許がない出版物の発行を禁止し、関係者を処罰する布告を発し、旧幕府の関係者が執筆した新聞などは一掃されます。その後、基礎的政治様式確立の手段としても、新聞の必要なることを考え、取締法規を整備するため、開成学校(東京大学の前身)の加藤弘之、細川潤次郎等に命じ、当時のドイツ法を原拠として、立案させたのがこの太政官布告です。
 その内容は、①各新聞紙には、夫々各個の表題をつけること、②その表題で免許を受けて、開板したものは毎号の検閲は要らないこと。但し即日二部で納本すること、③各号毎に出版の所、年月日、編集人若くは出版者の姓名及び各号の号数とを記載すること、④記事の可否を取調べる場合には編輯人の弁解を聴くこと、⑤天変地異・物価・商法・政法に関するでたらめな批評を許さず、軍事に関する誤報を禁じ、かつ訂正を命じているものの、「火災、嫁娶、生死、学芸、遊宴会、衣服、飲食、諸種官報、洋書訳文、海外雑話、凡事無害者は皆記載すべし」とする、などとなっています。これは、日本において最初に正式に新聞の発行を認めた関係法令で、これによって、幾多の新聞が復活、創刊され、のちの「新聞紙法」や「出版法」などの取締法規の骨子ともなりました。
 以下に、「新聞紙印行条例」(明治2年太政官布告第135号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「新聞紙印行条例」(明治2年2月8日太政官布告第135号)

新聞紙印行条例(明治2年2月8日、太政官布告第135号)

1、各箇の新聞紙は宜しく各箇の表題あるべし。
1、標題を以て開版免許の上は、毎号検印を受くるを要せず。只、出版即日2部を官に納むべし。
1、各号毎に出版の所、年月日、編集人若くは出版者の姓名及び各号の号数とを載すべし。
1、凡、記載する事件に付て吟味すべき事有時は、編集人其弁解をなすべし。若し弁解無き者は罰金を出さしむ。
1、一切天変地異物価商法政法(不許妄加批評)、軍事(其説錯誤而不政治者有責)、火災、嫁娶、生死、学芸、遊宴会、衣服、飲食、諸種官報、洋書訳文、海外雑話、凡事無害者は皆記載すべし。
1、贈答書籍或は各人作る所の文、若くは雑説等、其姓名を註す(只だ歌詞の内、作者不詳者は此例にあらず)。
1、新聞紙中、人罪を評告する事、厳禁なり。
1、妄りに教法を説くことを許さず。
   別紙附録  
1、官権の新聞紙は開成学校の関する所に非ず。
1、各府県にて出版の新聞紙は其府県裁判所にて検閲すべし。
1、外国人国字を以て出版する者は各地運上所にて之を監し、毎事必ず裁判所に報知すべし。裁判所は皆、新に定めたる条例に拠て齟齬すべからず。
1、開成学校に於ては専ら東京中出版の者を監す。
1、東京出版の新聞紙若し条例に背く者ある時は、開成学校より之を東京裁判所に告げ、同所にて出版願人を糾問し、罪に従って科断す。

   『新聞五十年史』(ウィキソース)より

☆明治時代の政府による新聞規制の推移

・1868年(明治元年6月5日) 江戸の市政裁判所の新聞紙官許の町触
 官許がない出版物の発行を禁止し、関係者を処罰する布告を発し、旧幕府の関係者が執筆した新聞などは一掃する

・1869年(明治2年2月8) 「新聞紙印行条例」(明治2年太政官布告第135号)
 新聞紙発行の免許主義と記事吟昧を存置する

・1871年(明治4年7月) 「第一次新聞紙条例」
 新聞紙発行目的の啓蒙主義と国家為治の御益訟よび海外諸邦不敬記事禁止処分を採用する

・1873年(明治6年)10月 「改正条例」
 新聞紙発行の文部省管轄による許可制度の採用と官許後の検閲不要、禁令違反は律による処断を定める

・1875年(明治8年)6月 「第二次新聞紙条例」
 新聞紙発行の内務省管轄による許可主義の採用と政府変壊記事の罰則規定の新設、反政府運動取り締まり規定を強化する

・1876年(明治9年)7月 「改正条例」
 国安妨害記事による内務卿の行政処分によって新聞紙の発行禁止および発行停止権を布告する

・1883年(明治16年)4月16日 「第三次新聞紙条例」
 新聞紙発行の保証金制度の採用と代理新聞の発行停止権および地方新聞の府県知事の発行停止権・差押権の規定を新設、一方では政府側の言論自由制限の権力規定強化に舛する反省を促す

・1887年(明治20)12月28日 「第四次新聞紙条例」
 立憲議会制度の設置を予想して、新聞紙発行の許可主義を届出主義に緩和し、新聞紙持主編集入に対する発行禁停止処分条項の緩和措置および雑誌発行の新聞紙条例適用主義の原則化を採用する

・1897年(明治30年)3月 政府提案の「新聞紙条例改正」
 内務大臣の新聞紙発行禁停止権並びに発売頒布差押権の廃止と行政処分による新聞の発行禁止を廃止して、司法手続処分によって新聞の発行禁止をすることとする

・1909年(明治42年)5月6日 「新聞紙法」公布
 ①新聞紙の発行要件(題号・継続的発行・種別)を制度化する
 ②新聞発行手続(届出主義・保証金・納本)を厳格化する
 ③新聞に対する行政処分(発行差止・発売頒布の禁止・差押処分・治安妨害と風俗壊乱記事掲載の外国新聞紙発売頒布禁止)の規定を明確化する
 ④新聞に対する司法処分(差押執行妨害の罪・安寧秩序素乱の罪・風俗壌乱の罪・皇室尊厳冒濱の罪・政体変壊朝憲紊乱の罪)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1899年(明治32)「高等女学校令」が公布される詳細
1915年(大正3)歌人・小説家長塚節の命日(節忌)詳細
1946年(昭和21)連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)へ「憲法改正要綱」(松本私案)が提出される詳細
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