ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:太平記

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 今日は、南北朝時代の1392年(元中9/明徳3)に、武将・守護大名・室町幕府管領細川頼之の亡くなった日ですが、新暦では3月25日となります。
 細川頼之(ほそかわ よりゆき)は、鎌倉時代末期の1329年(元徳元)に、三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)で、阿波守護・侍所頭人だった父・細川頼春と母・黒沢禅尼の息子として生まれましたが、幼名は弥九郎と言いました。父・頼春は、元弘の変より足利尊氏に従い、鎌倉幕府を倒すのに貢献し、建武政権では蔵人となります。
 1350年(正平5/観応元)から翌年にかけて、父の名代として阿波に派遣され、南朝方と戦いました。1352年(正平7/文和元)に、父・頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継承し、1354年(正平9/文和3)には、伊予守護も兼ねます。
 1356年(正平11/延文元)に中国管領となって足利直冬党を追討、1358年(正平13/延文3)に足利尊氏がなくなって、義詮が第2代将軍となり、従兄細川清氏が執事に就任しました。しかし、1362年(正平17/貞治元)に、幕命により従兄の前幕府執事細川清氏を讃岐に討ち取り、一族の分立を淘汰して讃岐・土佐守護を兼ねます。
 1367年(正平22/貞治6)に第2代将軍義詮の遺命により、幕府の管領となって幼少の第3代将軍義満を助けることとなり、翌年には公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行しました。1369年(正平24/応安2)に、楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功、翌年には、今川貞世が九州探題に任じて懐良親王(後醍醐天皇の皇子)の軍勢を駆逐し、南朝勢力に大打撃を与えます。
 ところが、斯波義将らの諸大名の反発を招き、1379年(天授5/康暦元)に失脚し、剃髪して四国に下り(康暦の政変)、1381年(弘和元/永徳元)には、通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進めました。1389年(元中6/康応元)に第3代将軍義満の厳島神社参詣の折には、船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免され、翌年には、備後守護となって山名時煕の反乱を討ちます。
 1391年(元中8/明徳2)に斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、管領に就任した細川頼元を後見してふたたび幕政に参画、明徳の乱の鎮定に殊功を収めたものの、1392年(元中9/明徳3年3月2日)には、病気によって数え年64歳で亡くなりました。尚、歌や連歌の素養もあり、『新千載和歌集』他に13首が掲載されていますし、失脚して四国に落ちていく際に詠んだ漢詩「海南行」も有名です。

〇「海南行」(かいなんこう)

<原文>
 人生五十愧無功
 花木春過夏已中
 満室蒼蝿掃難尽
 去尋禅榻臥清風

<書き下し文>
 人生五十功無きを愧(は)ず
 花木(かぼく)春過ぎて夏已(すで)に中ばなり
 満室の蒼蝿(そうよう)掃(はら)えども去り難し
 起って禅榻(ぜんとう)を尋ねて清風に臥(が)せん

<現代語訳>
 人生50にもなって、何の功績もないのが恥ずかしい。
 花や木は、春が過ぎ去り、夏は既に半ばになっている。
 部屋中に青蠅が飛び交っており、いくら追い払っても逃げ去らない。
 座禅に使う腰掛をもってきて、清らかな風の吹くところで寝転がろうか。

〇『太平記』巻第四十 

細河右馬頭自西国上洛事

爰に細河右馬頭頼之、其比西国の成敗を司て、敵を亡し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍、少し先代貞永・貞応の旧規に相似たりと聞へける間、則天下の管領職に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴に定りしかば、右馬頭頼之を武蔵守に補任して、執事職を司る。外相内徳げにも人の云に不違しかば、氏族も是を重んじ、外様も彼命を不背して、中夏無為の代に成て、目出かりし事共也。

☆細川頼之関係略年表(日付は旧暦です)

・1329年(元徳元年) 三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)で、父・細川頼春と母・黒沢禅尼の息子として生まれる
・1350年(正平5/観応元年) 父の名代として阿波にある南朝方と戦う
・1352年(正平7/文和元年) 父・頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継ぐ
・1354年(正平9/文和3年) 伊予守護を兼ねる
・1356年(正平11/延文元年) 中国管領となって足利直冬党を追討する
・1358年(正平13/延文3年) 足利尊氏がなくなって、義詮が第2代将軍となり、従兄細川清氏が執事に就任する
・1362年(正平17/貞治元年) 従兄の前幕府執事細川清氏を幕命により讃岐に討ち取り、一族の分立を淘汰して讃岐・土佐守護を兼ねる
・1367年(正平22/貞治6年) 室町幕府第2代将軍義詮の遺命により、幕府の管領となって幼少の将軍義満を助ける
・1368年(正平23/応安元年) 公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行、武蔵守となる
・1369年(正平24/応安2年) 楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功する
・1370年(建徳元/応安3年) 今川貞世が九州探題に任じて懐良親王(後醍醐天皇の皇子)の軍勢を駆逐する
・1371年(建徳2/応安4年) 相模守となる
・1379年(天授5/康暦元年) 失脚し、剃髪して四国に下る(康暦の政変)
・1381年(弘和元/永徳元年) 通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進める
・1389年(元中6/康応元年) 義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免される
・1390年(元中7/明徳元年) 備後守護となって山名時煕の反乱を討つ
・1391年(元中8/明徳2年) 斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、管領に就任した細川頼元を後見してふたたび幕政に参画し、明徳の乱の鎮定に殊功を収める
・1392年(元中9/明徳3年3月2日) 病気によって数え年64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

959年(天徳3)第64代の天皇とされる円融天皇の誕生日(新暦4月12日)詳細
1886年(明治19)「帝国大学令」が公布される詳細
1899年(明治32)北海道アイヌの「保護」を名目として、「北海道旧土人保護法」が公布(同年4月1日施行)される詳細
1943年(昭和18)敵性語をやめ、野球用語も全面日本語化することを職業野球の理事会で決定する詳細
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 今日は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3)に、鎌倉幕府方の北条泰家軍と反鎌倉幕府方の新田義貞軍との間で、分倍河原の戦いが始まった日ですが、新暦では6月27日となります。
 分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府方と新田義貞率いる反幕府方との間で行われた合戦で、反幕府方の勝利となり、義貞は勢いに乗って鎌倉へ攻め入り,鎌倉幕府を倒すこととなりました。1333年(元弘3)5月8日に、新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げます。
 その後、南下するに従い、鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍に対し、5月11日に小手指原の戦い(現在の埼玉県所沢市)、5月12日に久米川の戦い(現在の東京都東村山市)と、相次いで打ち破りました。そこで、鎌倉幕府方は分倍河原まで退却、執権北条高時の弟の北条泰家を大将とする10万の援軍と合流し、迎え撃とうとします。
 これを5月15日に反幕府方の新田義貞軍が攻撃したものの、今度は援軍を得ていた幕府方が優勢になり、反幕府方の新田軍は堀金(現在の埼玉県狭山市)までの退却を余儀なくされました。しかし、相模国の軍勢を率いた三浦義勝が新田軍の援軍に入ると、翌16日早朝には義勝を先鋒として義貞は2万の軍勢で一気に分倍河原に押し寄せ、緊張が緩んでいた幕府方に奇襲をかけて大勝し、鎌倉幕府方は敗走することになります。
 ここで幕府方を圧倒したことで、反幕府方には次々と援軍が合流し、ついには60万もの大軍勢となりました。その後、反幕府方は勢いに乗り、5月21日には、義貞率いる軍勢が稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入り、翌22日には鎌倉幕府を滅亡させることとなります。
 以下に、『太平記』巻第十の分倍河原の戦いの部分を抜粋して掲載しておきますので、御参照下さい。

〇新田義貞の挙兵から鎌倉幕府滅亡までの略年表(日付は旧暦です)

<1333年(元弘3)>

・5月8日 新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げる
・5月9日 義貞挙兵の報を受けた幕府の評定が鎌倉で行われる
・5月10日 桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野の幕府方が迎撃に向かう
・5月11日 小手指原の戦い(現在の埼玉県所沢市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月12日 久米川の戦い(現在の東京都東村山市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月15・16日 分倍河原の戦い(現在の東京都府中市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月16日 関戸の戦い(現在の東京都多摩市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月18日 反鎌倉幕府方は大軍で鎌倉に対し攻撃を開始する
・5月21日 新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入る
・5月22日 東勝寺で北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣が自害し、鎌倉幕府が滅亡する

〇「太平記」巻第十 (69)新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事より

去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相摸入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。義貞は敵に荒手の大勢加りたりとは不思寄。十五日の夜未明に、分陪へ押寄て時を作る。鎌倉勢先究竟の射手三千人を勝て面に進め、雨の降如散々に射させける間、源氏射たてられて駈ゑず。平家是に利を得て、義貞の勢を取篭不余とこそ責たりけれ。新田義貞逞兵を引勝て、敵の大勢を懸破ては裏へ通り、取て返ては喚て懸入、電光の如激、蜘手・輪違に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵而も荒手にて、先度の恥を雪めんと、義を専にして闘ひける間、義貞遂に打負て堀金を指て引退く。其勢若干被討て痛手を負者数を不知。其日軈て追てばし寄たらば、義貞爰にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定て武蔵・上野の者共が、討て出さんずらんと、大様に憑で時を移す。是ぞ平家の運命の尽ぬる処のしるし也。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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