ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:天皇

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 今日は、鎌倉時代の1231年(寛喜3)に、第83代の天皇とされる土御門天皇が、配流先の阿波国で亡くなった日ですが、新暦では11月6日となります。
 土御門天皇(つちみかどてんのう)は、1195年(建久6年11月1日)に、後鳥羽天皇の第一皇子(母は法勝寺執行法印能円の女)として生まれましたが、名は為仁と言いました。1198年(建久9)の4歳の時、父・後鳥羽天皇の譲位により践祚し、第83代とされる天皇として即位したものの、父による院政がしかれます。
 1199年(正治元年1月13日)に、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われるようになりました。1210年(承元4)の16歳の時、父の意向により、異母弟の守成親王(順徳天皇)に譲位させられ、上皇となったものの、遺恨を残したと伝えられています。
 歌を能くし、1216年(建保4)には、『土御門院御百首』が成立しましたが、藤原定家・家隆の合点、定家の評が付されました。1221年(承久3)の承久の乱では。父・後鳥羽上皇の倒幕計画に直接にかかわらず、乱鎮圧後幕府からの沙汰もなかったものの、後鳥羽・順徳両上皇が配流が決まると、自ら申し出て同年閏11月に土佐国に流されます。
 翌年には幕府の意向により阿波国に移り、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇を受け、1231年(寛喜3)には出家して、法名は行源となりました。しかし、同年10月11日に配流先の阿波国(現在の徳島県)において、数え年37歳で亡くなり、陵墓は京都の金原陵(現在の京都府長岡京市金ヶ原金原寺)とされたものの、徳島県板野郡堀江 (現在の鳴門市) に火葬塚も残されています。
 尚、優れた歌人でもあり、御製を集めた『土御門院御集』が残され、『続後撰和歌集』以後の勅撰集に154首入集し、新三十六歌仙にも選ばれました。

<代表的な歌>

・「しづかなる心のうちも久方の空に隈なき月やしるらむ」(土御門院御百首)
・「雪のうちに春はありとも告げなくにまづ知るものは鶯の声」(続後撰和歌集)
・「舟つなぐ影も緑になりにけり六田の淀のたまのを柳」(風雅和歌集)
・「むら雲のたえまたえまに星見えてしぐれをはらふ庭の松風」(玉葉和歌集)
・「白雲をそらなるものと思ひしはまだ山こえぬ都なりけり」(続古今和歌集)

〇土御門天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1195年(建久6年11月1日) 後鳥羽天皇の第一皇子(母は法勝寺執行法印能円の女)として生まれる
・1198年(建久9年1月11日) 4歳の時、父・後鳥羽天皇の譲位により践祚する
・1198年(建久9年3月3日) 第83代とされる天皇として即位するが、父による院政がしかれる
・1199年(正治元年1月13日) 鎌倉幕府初代将軍源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われる
・1210年(承元4年11月25日) 16歳の時、異母弟の守成親王(順徳天皇)に譲位する
・1210年(承元4年12月5日) 上皇となる
・1216年(建保4年3月) 『土御門院御百首』が成立するが、藤原定家・家隆の合点、定家の評が付される
・1221年(承久3年6月) 承久の乱が起きる、
・1221年(承久3年閏11月) 自ら申し出て土佐国に流される
・1222年(承久4年) 幕府の意向により阿波国に移る
・1231年(寛喜3年10月) 出家して、法名は行源となる
・1231年(寛喜3年10月11日) 配流先の阿波国(現在の徳島県)において、数え年37歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1940年(昭和15)俳人種田山頭火の命日(一草忌)詳細
1945年(昭和20)幣原首相・マッカーサー会談で、GHQから「五大改革指令」が通達される詳細
1950年(昭和25)新日本観光地百選」が毎日新聞紙上で発表される詳細


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 今日は、鎌倉時代の1242年(仁治3)に、第84代の天皇とされる順徳天皇の亡くなった日ですが、新暦では10月7日となります。
 順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、1197年(建久8年9月10日)に、京都において、後鳥羽天皇の第三皇子(母は寵妃藤原重子・修明門院)として生まれましたが、名は守成(もりなり)と言いました。1199年(正治元年)の3歳の時、父院の御所に引き取られて親王宣下され、翌年には、土御門天皇の皇太弟となって東宮となります。
 1208年(承元2)に莫大な八条院領の相続人である異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母とし、元服してから、翌年には、故九条良経の息女、立子(東一条院)が入台しました。1210年(承元4)の14歳の時、後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚しで第84代とされる天皇として即位したものの、父・後鳥羽上皇の院政下にあり、実権の備わらないものとなります。
 1211年(建暦元)に、昇子内親王の死後、八条院領を相続し、有職故実の研究や和歌、詩、管弦など芸能の修練に傾倒、1212年(建暦2)に内裏詩歌合、1214年(建保2)に当座禁裏歌会、1215年(建保3)に内裏名所百首、1216年(建保4)には、百番歌合、1217年(建保5)に四十番歌合・中殿和歌御会を主催、また有職故実書『禁秘抄』を著したりしました。1218年(建保6)に中宮立子との間にもうけた懐成親王を皇太子とし、1221年(承久3)には、懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退きます。
 同年5月に後鳥羽院と共に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わり、7月に佐渡島へ配流となりました。1232年(貞永元)に佐渡で『順徳院御百首』を成し、藤原定家と隠岐の後鳥羽院のもとに送って合点を請い、1237年(嘉禎3)に藤原定家は『順徳院御百首』に評語を添えて進上しています。
 在島21年の後、1242年(仁治3年9月12日)に佐渡において、数え年46歳で亡くなりましたが、翌年に遺骨は京都に持ち帰られ、後鳥羽院の大原法華堂の側に安置されました。尚、特に和歌に優れ、自撰の『順徳院御集』や歌学書『八雲御抄』を成し、『続後撰和歌集』初出(17首)以後、勅撰集に計159首入集、新三十六歌仙、小倉百人一首にも歌を採られています。

<代表的な歌>

・「ももしきや古き軒端の忍ぶにもなほ余りある昔なりけり」(小倉百人一首)
・「ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰の白雪」(風雅和歌集)
・「佐保姫の染めゆく野べはみどり子の袖もあらはに若菜つむらし」(順徳院御集)
・「夢さめてまだ巻きあげぬ玉だれのひま求めてもにほふ梅が香」(順徳院御百首)
・「夕立のなごりばかりの庭たづみ日頃もきかぬかはづ鳴くなり」(玉葉和歌集)

〇順徳天皇の主要な著作

・和歌集『順徳院御集』
・歌学書『八雲御抄(やくもみしょう)』
・有職故実書『禁秘抄(きんぴしょう)』
・日記『順徳院御記』

☆順徳天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1197年(建久8年9月10日) 京都において、後鳥羽天皇の第三皇子(母は寵妃藤原重子・修明門院)として生まれる
・1199年(正治元年) 3歳の時、父院の御所に引き取られる
・1199年(正治元年11月) 親王宣下される
・1200年(正治2年4月) 土御門天皇の皇太弟となって東宮となる
・1208年(承元2年8月) 莫大な八条院領の相続人である異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母とする
・1208年(承元2年12月) 元服する
・1209年(承元3年) 故九条良経の息女、立子(東一条院)を御息所する
・1210年(承元4年11月) 14歳の時、後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚しで即位する
・1211年(建暦元年11月) 昇子内親王の死後、八条院領を相続する
・1212年(建暦2年) 内裏詩歌合を主催する
・1214年(建保2年) 当座禁裏歌会を主催する
・1215年(建保3年) 内裏名所百首を成す
・1215年(建保3年) 俊成卿女出家の際に歌を贈答する
・1216年(建保4年) 百番歌合を主催する
・1217年(建保5年) 四十番歌合・中殿和歌御会を主催する
・1218年(建保6年11月) 中宮立子との間にもうけた懐成親王(後の仲恭天皇)を皇太子とする
・1219年(承久元年) 内裏百番歌合を主催する
・1221年(承久3年4月20日) 子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退く
・1221年(承久3年5月) 後鳥羽院と共に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わる
・1221年(承久3年7月21日) 京都から佐渡へ配流となる
・1232年(貞永元年) 佐渡で『順徳院御百首』を成し、藤原定家と隠岐の後鳥羽院のもとに送って合点を請う
・1237年(嘉禎3年) 藤原定家は『順徳院御百首』に評語を添えて進上する
・1242年(仁治3年9月12日) 在島21年の後、佐渡において、数え年46歳で亡くなる
・1243年(寛元元年) 遺骨は都に持ち帰られ、後鳥羽院の大原法華堂の側に安置される
・1249年(建長元年) 順徳院の諡号を贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1571年(元亀2)織田信長による比叡山の焼き討ちが起きる(新暦9月30日)詳細
1821年(文政4)国学者塙保己一の命日(新暦10月7日)詳細
1872年(明治5)新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成し、鉄道開業式典が行われる(新暦10月14日)詳細


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 今日は、平安時代前期の858年(天安2)に、第55代の天皇とされる文徳天皇が亡くなった日ですが、新暦では10月7日となります。
 文徳天皇(もんとくてんのう)は、827年(天長4)に、京都平安京において、仁明天皇の第一皇子(母は左大臣・藤原冬嗣の娘順子)として生まれましたが、名は道康(みちやす)と言いました。842年(承和9)の承和の変で皇太子・恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父・藤原良房にも推されて代わりに立太子します。
 850年(嘉祥3)に、父・仁明天皇の病死により位を譲られ、第55代とされる天皇として即位しましたが、実権は伯父・藤原良房に握られました。同年に女御・明子(藤原良房の娘)が第四皇子惟仁親王(後の清和天皇)を産むと、第一皇子惟喬親王を押しのけて、生後8ヶ月で立太子させます。
 855年(斉衡2)に、勅命により『続日本後紀』の編纂を藤原良房、伴善男、春澄善縄、安野豊道により開始させました。しかし、858年(天安2年8月27日)に、京都平安京において、突然の病により数え年32歳で亡くなり、陵墓は田邑陵(現在の京都市右京区太秦)とされています。
 尚、没後の879年(元慶3)に天皇一代の歴史を編年体で記した『日本文徳天皇実録』10巻が完成しました。

〇文徳天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・827年(天長4年8月) 京都平安京において、仁明天皇の第一皇子(母は左大臣・藤原冬嗣の娘順子)として生まれる
・842年(承和9年) 承和の変で皇太子・恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父・藤原良房にも推されて代わりに立太子する
・844年(承和11年) 更衣・紀静子(三条町)が第一皇子惟喬親王を産む
・846年(承和13年) 更衣・紀静子(三条町)が第二皇子惟条親王を産む
・850年(嘉祥3年) 宮人・滋野奥子が第三皇子惟彦親王を産む
・850年(嘉祥3年3月19日) 父・仁明天皇の病死により位を譲られ、第55代とされる天皇として即位する
・850年(嘉祥3年3月25日) 女御・明子(藤原良房の娘)が第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を産む
・850年(嘉祥3年11月) 第四皇子・惟仁親王を立太子させる
・855年(斉衡2年) 勅命により『続日本後紀』の編纂が開始される
・858年(天安2年8月27日) 京都平安京において、突然の病で数え年32歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1714年(正徳4)本草学者・儒学者・教育者貝原益軒の命日(新暦10月5日)詳細
1896年(明治29)詩人・童話作家宮沢賢治の誕生日詳細
1949年(昭和24)GHQによって「第一次税制改革勧告文概要」(シャウプ勧告)が出される詳細


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 今日は、江戸時代前期の1617年(元和3)に、第107代の天皇とされる後陽成天皇の亡くなった日ですが、新暦では9月25日となります。
 後陽成天皇(ごようぜいてんのう)は、1571年(元亀2年12月15日)に、京都において、正親町天皇の子誠仁親王の第1皇子(母は新上東門院勧修寺晴子)として生まれましたが、名は初め和仁(かずひと)のち周仁(かたひと)と言いました。1586年(天正14)に父・誠仁親王が皇位を継承する前に亡くなると立親王し、正親町天皇の譲位を受けて、同年11月25日に第107代とされる天皇として即位します。1588年(天正16)に室町幕府第15代将軍・足利義昭が豊臣秀吉とともに参内、征夷大将軍職を朝廷に返上し、朝廷は義昭に准三宮の待遇を与え、同年には秀吉の奏請により聚楽第に行幸しました。1593年(文禄2)に秀吉は、文禄の役で日本に持ち帰られた李朝銅活字の器具と印刷書籍を献上、この技術を用いて『古文孝経』を印刷(文禄勅版)したとされ、1597年(慶長2)には、李朝銅活字に倣って大型木活字による勅版「錦繍段」を開版(慶長勅版)させ、『日本書紀(神代巻)』、『四書』、『職原抄』や医書などを印刷させています。また、深く学問を好み、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに際して、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させて、八条宮に古今伝授を受けさせました。1607年(慶長12)に宮中女官の密通事件が発覚、猪熊教利を京都から追放処分とし、1609年(慶長14)に再び宮中女官の密通事件が発覚(猪熊事件)し、その処分を巡って江戸幕府と対立、1611年(慶長16)の政仁親王(後水尾天皇)への譲位へ至ったとされています。1614年(慶長19)に大坂冬の陣が開始されると、武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条を使者として徳川家康に和議を勧告しましたが、拒否されました。和漢の学問的教養に造詣が深く、『伊勢物語愚案抄』、『百人一首抄』、『詠歌之大概抄』、『名所方輿勝覧』などを撰し、『後陽成院製詠五十首』、『慶長六年正月叙位記』を残しましたが、1617年(元和3年8月26日)に、京都において数え年47歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区深草坊町)とされています。

<代表的な歌>

・「日にそへてただしき道の嬉しさはつつむ袖なく国ゆたかなり」(後陽成院一夜百首)
・「秋近きそらも知られてみそぎする川辺にかよふ風のすゞしさ」
・「さわらびを採りつゝ山のかくれ家に朝夕おくる人もありけり」
・「よむ歌のふかき心を慕ふ躬に過ぎにしむかしかへる世もがな」 

〇後陽成天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1571年(元亀2年12月15日) 京都において、正親町天皇の子誠仁親王の第1皇子(母は新上東門院勧修寺晴子)として生まれる
・1586年(天正14年7月24日) 父・誠仁親王が皇位を継承する前に亡くなる
・1586年(天正14年9月17日) 立親王する
・1586年(天正14年11月7日) 正親町天皇の譲位を受けて践祚する
・1586年(天正14年11月25日) 第107代とされる天皇として即位する
・1588年(天正16年1月) 室町幕府第15代将軍・足利義昭が豊臣秀吉とともに参内、征夷大将軍職を朝廷に返上し、朝廷は義昭に准三宮の待遇を与える
・1588年(天正16年4月) 秀吉の奏請により聚楽第に行幸する
・1588年(天正16年5月5日) 第1皇子として覚深入道親王が生まれる
・1591年(天正19年2月14日) 第2皇子として承快法親王が生まれる
・1593年(文禄2年1月5日) 祖父・正親町上皇が亡くなる
・1593年(文禄2年) 秀吉は文禄の役で日本に持ち帰られた李朝銅活字の器具と印刷書籍を後陽成天皇に献上する
・1596年(文禄5年6月4日) 第3皇子として政仁親王(後の後水尾天皇)が生まれる
・1597年(慶長2年) 李朝銅活字に倣って大型木活字による勅版「錦繍段」を開版させる
・1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させて、八条宮に古今伝授を受けさせる
・1607年(慶長12年2月) 宮中女官の密通事件が発覚、猪熊教利は京都から追放処分を受ける
・1609年(慶長14年7月) 再び宮中女官の密通事件が発覚する(猪熊事件)
・1611年(慶長16年3月27日) 政仁親王(後水尾天皇)へ譲位する
・1614年(慶長19年11月) 大坂冬の陣が開始される
・1614年(慶長19年12月) 武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条を使者として徳川家康に和議を勧告しましたが、拒否される
・1617年(元和3年8月26日) 京都において数え年47歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

887年(仁和3)第58代天皇とされる光孝天皇の命日(新暦9月17日)詳細
1988年(昭和63)奈良そごう建設予定地で大量の木簡が発見され、長屋王邸跡であることが判明する詳細
1993年(平成5)東京港連絡橋(レインボーブリッジ)が開通する詳細
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 今日は、古墳時代の雄略天皇23年(479年?)に、第21代の天皇とされる雄略天皇の亡くなった日(『日本書紀』による)です。
 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、生年は不詳ですが、父は允恭天皇の第五皇子(母は忍坂大中姫命)とされ、名は『日本書紀』では大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)、『古事記』では大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)とされてきました。記紀によれば、同母兄の安康天皇を殺害した眉輪王(まゆわのおおきみ)を誅し、さらに履中天皇の皇子の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)らをも殺して、泊瀬朝倉宮に即位したとされています。
 平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣に、大伴連室屋と物部連目を大連とし、秦氏や漢氏をはじめ渡来人をも重用して王権を強化、諸氏族の反乱を鎮圧し、朝鮮半島の乱れに乗じて、百済や新羅、高麗への影響力強化を画策するなど、対外関係においても注目すべきことが伝えられてきました。また、『宋書』倭国伝にみえる倭王武は雄略天皇に比定され、478年に南朝宋へ遣使上表し、「使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸事事安東大将軍倭王」に任命され、『南斉書』には479年に倭王武が鎮東大将軍になったと記されています。
 そして、『日本書紀』によれば、雄略天皇22年1月1日に白髪皇子(後の22代清寧天皇)を皇太子とし、翌年8月7日に病いのために数え年62歳で亡くなり、陵墓は丹比高鷲原陵(現在の大阪府羽曳野市島泉)とされてきました。尚、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘「獲加多支鹵大王」と熊本県江田船山古墳出土大刀銘「獲〇〇〇鹵大王」は、雄略天皇に比定されています。
 以下に、参考のため『宋書』倭国伝を掲載しておきましたので、御参照下さい。

〇『宋書』倭国伝とは?

 中国の『宋書』夷蛮伝の東夷の条に属している倭国伝のことです。『宋書』は、中国南朝の宋(420 ~ 479年)について書かれた歴史書、本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体のもので、沈約が斉の武帝に命ぜられて編纂しました。夷蛮伝は、宋朝と諸国の交渉記事中心に記述されていて、倭国伝には、“倭の五王”(讃・珍・済・興・武)と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが書かれています。その中で、讃は応神・仁徳・履中のいずれか、珍は仁徳か反正、済は允恭、興は安康、武は雄略の各天皇に比定されてきました。ここに記された武(雄略天皇)の上表文は有名です。

☆『宋書』倭国伝

<原文>

倭國在高驪東南大海中丗修貢職
髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授
太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽
二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王
二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻
丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

<読み下し文>

倭国は高驪[1]の東南、大海の中にあり、世々貢職[2]を修む。
高祖[3]の永初二年[4]、詔して日く、「倭の讃[5]、万里[6]貢を修む。遠誠宣しくあらわすべく、除授を賜ふ[7]べし」と。
太祖[8]の元嘉二年[9]、讃[5]また司馬曹達を遣わして表を奉り方物[10]を献ず。
讃[5]死して弟珍[11]立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられん[18]ことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。
珍[11]また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。
二十年、倭国王済[19]、使を遣はして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。
二十八年、使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。済[19]死す。世子[21]興[22]、使を遣わして貢献す。
世祖[23]の大明六年[24]、詔して曰く、「倭王世子[21]興[22]、奕世戴ち忠、藩[25]を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職[2]を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」と。興[22]死して弟武[26]立ち、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。
順帝[27]の昇明二年[28]、使を遣わして上表[29]して曰く、「封国[30]は偏遠にして、藩[25]を外に作す[31]。昔より祖禰[32]、躬ら甲冑を環き、山川を跋渉[33]して、寧処[34]に遑あらず。東は毛人[35]を征すること五十五国、西は衆夷[36]を服すること六十六国を渡りて海北[37]を平ぐること九十九国。王道融泰[38]にして、土を廓き畿を遐にす累葉朝宗して歳に愆たず。臣、下愚[39]なりといえども、忝なくも先緒[40]を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極[41]に帰崇[42]し、道百済[13]を遙て、船舫[43]を装治[44]す。而るに句驪[45]無道[46]にして、図りて見呑せんと欲し、辺隷[47]を掠抄[48]し、虔劉[49]して巳まず。毎に稽滞[50]を致し、以って良風を失い、路に進と日うと雖も、或は通じ或は不らず。臣が亡考済[19]、実に寇讐[51]の天路を壅塞[52]するを忿り、控弦[53]百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功[54]をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇[55]にあり兵甲[56]を動かさず。これを以て、偃息[57]して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父・兄の志しを申べんと欲す。義士[58]虎賁[59]、文武功を効し、自刃前に交わるとも亦顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司[60]を仮し、その余は咸な仮授[61]して以て忠節を勧む」と。詔して武[26]を使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事安東大将軍倭王に叙す。

【注釈】

[1]高驪:こうらい=高句麗。朝鮮三国の一つで、朝鮮半島北部にあった。
[2]貢職:こうしょく=貢物。貢献物。
[3]高祖:こうそ=宋の初代皇帝武帝。
[4]永初二年:えいしょにねん=武帝の年号で、西暦では421年。
[5]讃:さん=応神天皇、仁徳天皇、履中天皇に比定する説がある。
[6]万里:ばんり=非常に遠い距離。きわめて遠いこと。
[7]除授を賜ふ:じょじゅをたまふ=官職・爵位を授ける。
[8]太祖:たいそ=宋の第三代皇帝文帝。
[9]元嘉二年:げんかにねん=文帝の年号で、西暦では425年。
[10]方物:ほうぶつ=その地方の産物。土産。
[11]珍:ちん=仁徳天皇、反正天皇に比定する説がある。
[12]使持節都督:しじせつととく=支配を委ねられた地域の最上級軍政官。
[13]百済:くだら=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南西部にあった。
[14]新羅:しらぎ=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南東部にあった。
[15]任那:みなま=朝鮮半島南部にあった日本の植民地。
[16]秦韓:しんかん=朝鮮半島南東部の地域。
[17]慕韓:ぼかん=朝鮮半島南西部の地域。
[18]表して除正せられん:ひょうしてじょせいせられん=文書で正式に任命されること。
[19]済:せい=允恭天皇に比定されている。
[20]加羅:から=任那諸国中の一国。
[21]世子:せし=跡継ぎ。
[22]興:こう=安康天皇に比定されている。
[23]世祖:せそ=宋の第四代皇帝孝武帝。
[24]大明六年:だいめいろくねん=孝武帝の年号で、西暦では462年。
[25]藩:はん=領域のこと。
[26]武:ぶ=雄略天皇に比定されている。
[27]順帝:じゅんてい=宋の第八代皇帝順帝。
[28]昇明二年:しょうめいにねん=順帝の年号で、西暦では478年。
[29]上表:じょうひょう=君主に文書をたてまつること。また、その文書。上書。上疏。
[30]封国:ほうこく=王として封ぜられた国。宋から支配を任された国。
[31]外に作す:そとになす=遠いところにある。
[32]祖禰:そでい=祖先。
[33]跋渉:ばっしょう=山野を越え、川をわたり、各地を歩き回ること。
[34]寧処:ねいしょ=やすらかな所。安んずる処。また、やすらかに居ること。
[35]毛人:もうじん=東方の服属していない人々。蝦夷か?
[36]衆夷:しゅうい=西方の服属していない人々。九州南部か?
[37]海北:かいほく=朝鮮半島か?
[38]融泰:ゆうたい=行き届いていて、平安である。
[39]下愚:かぐ=はなはだ愚かであること。また、その人。至愚。
[40]先緒:せんしょ=先人の遺した事業。先祖の遺業。前緒。
[41]天極:てんきょく=地軸の延長と天球との交点。北極星。
[42]帰崇:きすう=すぐれたものを深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じること。
[43]船舫:ふなもやい=船をつなぎとめること。船を進めないで一か所に止めておくこと。ふなもよい。
[44]装治:そうち=旅装を整える。旅支度をする。
[45]句驪:くり=高句麗のこと。
[46]無道:ぶどう=人の道にはずれること。また、そのさま。非道。
[47]辺隷:へんれい=国境の人民。
[48]掠抄:りゃくしょう=かすめとること。
[49]虔劉:けんりゅう=むりに奪いとったり、殺したりする。
[50]稽滞:けいりゅう=とどこおる。停留。
[51]寇讐:こうしゅう=敵。かたき。
[52]壅塞:ようそく=ふさぐこと。また、ふさがること。
[53]控弦:こうげん=弓を引くこと。また、その兵士。
[54]垂成の功:すいせいのこう=完全な成功。
[55]諒闇:りょうあん=天皇が、その父母の死にあたり喪に服する期間。
[56]兵甲:へいこう=武器と甲冑(かっちゅう)。転じて、兵士。また、いくさ。
[57]偃息:えんそく=くつろいでやすむこと。休息。
[58]義士:ぎし=義を守り行なう士。節義の人。高節の士。義人。
[59]虎賁:こほん=剛勇をもって主君に仕える人。
[60]開府儀同三司:かいふぎどうさんし=従一位の唐名。もと中国の官名で、漢代末期から開府の制度がはじまり、その中でとくに重んぜられて、三公(三司)と同じ儀制を認められた者の呼び名。
[61]仮授:かじゅ=許し授ける。

<現代語訳>

倭国は高句麗の東南の大海の中にあって、代々貢物を送ってきていた。
高祖(宋の武帝)の永初2年(421年)に、詔して言うには、「倭王の讃は、とても遠い所から貢物を献上してきた。遠方からの誠意に報いて、官職を授けよう。」と。
太祖(宋の文帝)の元嘉2年(425年)、讃王はまた司馬曹達を遣わして、上表文を奉り、倭の特産物を献上した。
讃王が死んで、弟の珍が王となった。使者を遣わして貢物を献上し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、文書で正式に任命されることを求めてきた。詔を下して安東将軍倭国王に任じた。
珍王はまた倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に任命されんことを求めた。詔を下して同じように聞き入れた。
元嘉20年(443年)、倭国王の済は、使者を遣わして貢物を献上してきた。そこで安東将軍倭国王に任命した。
元嘉28年(451年)、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の官職を加え、安東将軍はそのままとした。同じく上奏していた23人を将軍や郡長官に任命した。済王が死に、跡継ぎの興が、使者を遣はして貢物を献上してきた。
世祖(宋の孝武帝)の大明6年(462年)、詔して言うには、「倭王の跡継ぎ興は、これまでと変わらず忠節を重ね、領域を守る外海の垣根となり、中国の感化をうけて辺境を守り、うやうやしく貢物を献上し、新たにその守りを嗣いだ。よろしく爵号を授けるべきで、安東将軍倭国王とする。」と。興王が死に、弟の武が王となり、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称した。
宋の順帝の昇明2年(478年)、使者を遣わして上表文を奉って言うには、「封ぜられた国ははるか遠くにあり、領域の外側を形成しています。昔より祖先は、自ら甲冑を身に着け、山野を越え、川をわたり、各地を歩き回って、安んずる暇もありませんでした。東は蝦夷を征すること55国、西は熊襲等を服属させること66国、海を渡って朝鮮半島を平定すること99国となります。王権が行き届いて平安で、封土も広大です。我が国は先祖代々中国の天子に拝謁するのに、毎年時節をたがえ誤ることはありませんでした。私は、はなはだ愚かではありますが、かたじけなくも先祖の遺業を継いで、統治下にある人々を駆り率い、中国の教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じ、往来の道は百済を経由すべく、船をつなぎとめて旅装を整えています。しかし、高句麗は人の道にはずれ、はかりごとをしてこれを飲み込もうとして、国境の人民を略奪、殺害しています。そのどれもが滞ってしまい、従って良い風を失い、航路を進もうとしても、あるいは通じ、あるいは通ぜずといった状態です。わたくしの亡父の済は、実に敵(高句麗)の中国への路をふさぐことを怒り、弓矢をもつ兵士百万、正義の声に感激して、まさに大挙して向かおうとしましたが、にわかに父(済王)と兄(興王)を失ってしまい、完全な成功を成すための最後の一撃を加えることが出来ませんでした。そのまま喪に服する期間にあたり、兵士を動かさず。このようなわけで、休止せざるを得ず、いまだに戦いに勝つことが出来ないでいます。今に至って、武器を整え兵を訓練して、父・兄の志しを果たしたいと欲しています。義士も勇士も文官も武官も力を発揮して、敵と刃を交えようともおのれを顧み怯むことなどありません。もし皇帝の徳を以て援護していただけたら、この強敵を打ち破ることも、また我が地の乱れを収めることも、今までの功績に見劣りすることなどはないでしょう。ひそかに自ら開府儀同三司の任を負わせ、その他の部下・諸将にもみな許し授けていただければ、もって忠節を勧むでしょう。」と。詔を下して、武王を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命した。

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