ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:天皇

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 今日は、鎌倉時代の1267年(文永4)に、第91代の天皇とされる後宇多天皇(大覚寺統)の生まれた日ですが、新暦では12月17日となります。
 後宇多天皇(ごうだてんのう)は、京都において、大覚寺統の亀山天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれましたが、名は世仁(よひと)と言いました。1268年(文永5)に生後8ヶ月で立太子し、1274年(文永11)の8歳の時、父・亀山天皇の譲位を受けてで践祚、第91代とされる天皇として即位しましたが、父による院政が敷かれます。
 この年11月に、第一次元寇(文永の役)、1281年(弘安4年)には、第二次元寇(弘安の役)が起き、困難な政治状況が続きました。1286年(弘安9)に第一皇子の邦治が親王宣下を受けましたが、1287年(弘安10)の21歳の時、持明院統の皇太子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位します。
 1298年(永仁6)に伏見天皇は胤仁親王(後伏見天皇)に譲位、上皇として院政をとり、持明院統の治世が続いたものの、1301年(正安3年)には、第一皇子の邦治親王(後二条天皇)の即位により、第一次院政を開始しました。1303年(嘉元元)に二条為世に命じて『新後撰和歌集』を撰進させ、1307年(徳治2)には、寵妃の遊義門院が亡くなったことを契機に、仁和寺で落飾(得度)し、金剛性と称します。
 翌年に後二条天皇が亡くなり、持明院統の花園天皇(伏見天皇の皇子)が践祚すると、伏見上皇が院政を行ない、政務から離れ、第一次院政は終了しました。1313年(正和2)に高野山参詣を行ない、1318年(文保2)に第二皇子尊治親王(後醍醐天皇)が践祚すると、第二次院政を開始します。
 1320年(元応2)頃に二条為世に命じて『続千載和歌集』を撰進させ、1321年(元享元)には、院政の停止を幕府に申し出て、後醍醐天皇の親政に委ね、第二次院政は終了しました。好学の天皇で内外の典籍を修め、仏道に帰依して仏典の講究に熱心で、また、和歌も能くして嘉元百首・文保百首・探題歌会「亀山殿七百首」などを催し、日記『後宇多天皇宸記』も残しましたが、1324年(元亨4年6月25日)に京都大覚寺において、数え年58歳で亡くなり、陵墓は蓮華峰寺陵(現在の京都市右京区北嵯峨朝原山町)とされます。
 尚、『新後撰和歌集』初出後、『続千載和歌集』では最多入集し、勅撰和歌集の入集は146首に及びました。

<代表的な歌>

・「樛(つが)の木のいやつぎつぎに伝ふべき天(あめ)の位は神のまにまに」(嘉元仙洞御百首)
・「春来れば雪とも見えず大空の霞を分けて花ぞちりける」(新後撰和歌集)
・「二月(きさらぎ)やなほ風さむき袖のうへに雪まぜにちる梅の初花」(風雅和歌集)
・「過ぎにけり軒のしづくは残れども雲におくれぬ夕立の雨」(新続古今和歌集)
・「長月や雲ゐの秋のこととはん昔にめぐれ菊のさかづき」(新千載和歌集)
・「しろたへの色よりほかの色もなし遠き野山の雪の朝明け」(玉葉和歌集)

〇後宇多天皇の主要な著作

・日記『後宇多天皇宸記』
・『伝法灌頂注』

☆後宇多天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1267年(文永4年12月1日) 京都において、大覚寺統の亀山天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれる
・1268年(文永5年6月) 生後6ヶ月で親王宣下される
・1268年(文永5年8月25日) 生後8ヶ月で立太子する
・1274年(文永11年1月26日) 8歳の時、父・亀山天皇の譲位を受けてで践祚する
・1274年(文永11年3月) 第91代とされる天皇として即位するが、父による院政が敷かれる
・1274年(文永11年11月) 第一次元寇(文永の役)が起きる
・1275年(建治元年) 後深草上皇(持明院統)の鎌倉幕府への働きかけにより、後深草上皇の皇子で2歳年上の熈仁親王(のちの伏見天皇)を皇太子とする
・1281年(弘安4年) 第二次元寇(弘安の役)が起きる
・1286年(弘安9年) 第一皇子の邦治(のちの後二条天皇)が親王宣下を受ける
・1287年(弘安10年10月21日) 21歳の時、皇太子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位する
・1298年(永仁6年) 伏見天皇は胤仁親王(後伏見天皇)に譲位、上皇として院政をとり、持明院統の治世が続く
・1301年(正安3年) 第一皇子の邦治親王(後二条天皇)の即位により、第一次院政を開始する
・1303年(嘉元元年) 二条為世に命じて『新後撰集』を撰進させる
・1307年(徳治2年) 寵妃の遊義門院が亡くなったことを契機に、仁和寺で落飾(得度)し、金剛性と称する
・1308年(徳治3年) 後二条天皇が亡くなり、持明院統の花園天皇(伏見天皇の皇子)が践祚すると、伏見上皇が院政を行ない、政務から離れる(第一次院政終了)
・1313年(正和2年) 高野山参詣を行なう
・1318年(文保2年) 第二皇子尊治親王(後醍醐天皇)が践祚し、第二次院政を開始する
・1320年(元応2年)頃  二条為世に命じて『続千載集』を撰進させる
・1321年(元享元年) 院政の停止を幕府に申し出、後醍醐天皇の親政に委ねる(第二次院政終了)
・1324年(元亨4年6月25日) 京都大覚寺において、数え年58歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1903年(明治36)小説家小林多喜二の誕生日詳細
1934年(昭和9)東海道本線丹那トンネル(熱海~函南)が開通する詳細
1977年(昭和52)小説家海音寺潮五郎の命日詳細


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 今日は、江戸時代後期の1840年(天保11)に、第119代の天皇とされる光格天皇が亡くなった日ですが、新暦では12月11日となります。
 光格天皇(こうかくてんのう)は、1771年(明和8年8月15日)に京都において、東山天皇の皇孫である閑院宮典仁親王の第六王子(母は贈従一位岩室磐代)として生まれました。1779年(安永8)に後桃園天皇が亡くなくなったものの、皇女しかいなくて皇子がいなかったため、血筋が近いとして選ばれ、急遽養子として迎え入れられ、翌年践祚し、1781年(天明元)には、第119代とされる天皇として即位します。
 1788年(天明8)の天明の大火により京都御所が焼失、再建されるまで聖護院を仮御所(3年間)としました。1789年(寛政元)に父である閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして江戸幕府に拒否される事件(尊号一件)が起きます。
 1794年(寛政6)に欣子内親王(後桃園天皇皇女)を中宮に冊立、1800年(寛政12)に中宮との間に温仁親王が誕生し儲君に治定したものの、同年に亡くなりました。1807年(文化4)に第四皇子の恵仁親王(のちの仁孝天皇)を儲君に治定、1809年(文化6)には皇太子としています。
 1817年(文化14)に恵仁親王(仁孝天皇)に譲位し、太上天皇となりました。経学を好み、博学能文で詩作に長じ、和歌や音楽も能くし、旧儀の再興に意を用い、石清水社、賀茂社の臨時祭をはじめ儀式公事の再興を図っています。
 歌集『光格天皇御詠草』、日記『光格院日記案』などを残しましたが、1840年(天保11年11月18日)に京都において、数え年70歳で亡くなり、陵墓は京都泉涌寺内の後月輪陵(現在の京都市東山区今熊野泉山町)とされました。

<光格天皇の代表的な歌>

・「民草に露の情(なさけ)をかけよかし代々の守りの国の司は」
・「よろづ民やすくたのしむときつ風とよあし原の国さかえつつ」(内裏和歌御会)

〇光格天皇主要な著作

・歌集『光格天皇御詠草』
・日記『光格院日記案』

☆光格天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1771年(明和8年8月15日) 京都において、東山天皇の皇孫である閑院宮典仁親王の第六王子(母は贈従一位岩室磐代)として生まれる
・1779年(安永8年10月29日) 後桃園天皇が亡くなる
・1780年(安永8年11月25日) 践祚する
・1781年(天明元年12月) 第119代とされる天皇として即位する
・1788年(天明8年1月30日) 天明の大火により京都御所が焼失、再建されるまで聖護院を仮御所とする
・1789年(寛政元年) 父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして幕府に拒否される(尊号一件)
・1791年(寛政3年) 京都御所が再建される
・1794年(寛政6年3月7日) 欣子内親王(後桃園天皇皇女)を中宮に冊立する
・1797年(寛政9年11月7日) 善光寺の等順より、三帰戒及び十念を授け奉られる
・1799年(寛政11年) 聖護院宮盈仁法親王が役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行う
・1799年(寛政11年1月25日) 権大納言烏丸光祖を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩の諡号を贈る
・1800年(寛政12年1月22日)中宮との間に温仁親王が誕生する
・1800年(寛政12年3月7日) 温仁親王を儲君に治定する
・1800年(寛政12年4月4日) 温仁親王が亡くなる
・1807年(文化4年7月18日) 恵仁親王(のちの仁孝天皇)を儲君に治定する
・1809年(文化6年3月24日) 恵仁親王を皇太子とする
・1817年(文化14年3月22日) 恵仁親王(仁孝天皇)に譲位する
・1817年(文化14年3月24日) 太上天皇となる
・1840年(天保11年11月18日) 京都において、数え年70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1901年(明治34)官営八幡製鉄所が操業を開始する詳細
1943年(昭和18)小説家徳田秋声の命日詳細
1966年(昭和41)陶芸家・随筆家河井寛次郎の命日詳細
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 今日は、江戸時代前期の1638年1月1日(寛永14年11月16日)に、第111代の天皇とされる後西天皇が生まれた日です。
 後西天皇(ごさいてんのう)は、京都において、後水尾天皇の第八皇子(母は贈左大臣櫛笥隆致の女隆子)として生まれましたが、名は良仁(ながひと)と言いました。1647年(正保4)に叔父にあたる高松宮好仁親王の遺跡を継ぎ、桃園宮・花町宮を称し、1648年(慶安元)に親王宣下され、その後式部卿に任ぜられ、ついで一品に叙せられます。
 1651年(慶安4)に元服に伴い、明子女王と婚儀が行われ、1654年(承応3)に後光明天皇が亡くなると同天皇の養子となった皇弟識仁親王(霊元天皇)の成長までしばらく皇位を継ぐこととなりました。1655年1月5日(承応3年11月28日)に践祚し、明暦2年1月23日に、第111代とされる天皇として即位、同年に明子女王が女御宣下されています。
 1657年(明暦3)に江戸で明暦の大火が起こって江戸城天守が焼失、地方の地震、水害などが多発しました。1661年(寛文元)には、皇居炎上により大半の御府蔵書が焼失しましたが、侍臣をして御府の記録類を謄写させ、副本を作成していたので、それを基に京都御所東山御文庫蔵書が成ったとされています。
 しかし、在位期に天変地異が多く幕府から退位を迫られ、1663年(寛文3)に、10歳に成長した識仁親王(霊元天皇)に譲位したとされてきました。退位後も記録類の謄写につとめ、文芸に秀で、茶華や香道に練達し、特に和歌・連歌に堪能であり、古典の造詣も深かったことで知られています。
 歌集『水日集』、日記『後西院御記』、御撰『集外歌仙』、『源氏聞書』、『百人一首聞書』などを残し、1685年(貞享2年2月22日)に京都において、数え年49歳で亡くなり、墓所は月輪陵(現在の京都市東山区)とされました。

<代表的な歌>

・「へだてじな人の恵は春とともによにみちのくも花のみやこも」(水日集)

〇後西天皇の主要な著作

・歌集『水日集』
・日記『後西院御記』
・御撰『集外歌仙』
・『源氏聞書』
・『百人一首聞書』

☆後西天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1638年1月1日(寛永14年11月16日) 京都において、後水尾天皇の第八皇子(母は贈左大臣櫛笥隆致の女隆子)として生まれる
・1647年(正保4年11月) 叔父にあたる高松宮好仁親王の遺跡を継ぎ、桃園宮・花町宮を称する
・1648年(慶安元年7月) 親王宣下される
・1651年(慶安4年) 元服に伴い、明子女王と婚儀が行われる
・1654年(承応3年9月) 後光明天皇が亡くなる
・1655年1月5日(承応3年11月28日) 後光明天皇に後嗣がなかったため、践祚する
・1655年(明暦2年1月23日) 第111代とされる天皇として即位する
・1656年(明暦2年) 明子女王が女御宣下される
・1657年(明暦3年1月18日) 江戸で明暦の大火が起こり、江戸城天守が焼失する
・1661年(寛文元年) 皇居炎上により大半の御府蔵書が焼失する
・1663年(寛文3年1月26日) 10歳に成長した識仁親王(霊元天皇)に譲位する
・1680年(延宝8年7月8日) 明子女王が病が元で数え年43歳で亡くなる
・1685年(貞享2年2月22日) 京都において、数え年49歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(明治元)詩人・評論家北村透谷の誕生日(新暦12月29日)詳細
1962年(昭和37)日本を代表する刑法学者・京都大学総長瀧川幸辰の命日詳細
1972年(昭和47)第17回ユネスコ総会(於:パリ)において「世界遺産条約」が採択される詳細
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 今日は、南北朝時代の1348年(貞和4)に、第95代の天皇とされる花園天皇(持明院統)の亡くなった日ですが、新暦では12月2日となります。
 花園天皇(はなぞのてんのう)は、鎌倉時代の1297年(永仁5年7月25日)に、京都において、伏見天皇の第四皇子(母は左大臣洞院実雄の女)として生まれましたが、名は富仁(とみひと)と言いました。1301年(正安3)に着袴の儀があり、同日親王宣下され、兄後伏見上皇の猶子として、大覚寺統の後二条天皇の皇太子に立てられます。
 1308年(延慶元年)に大覚寺統の先帝後二条天皇が急死、12歳で践祚し、第95代とされる天皇として即位しました。1311年(応長元年)に二条富小路の里亭で元服、1317年(文保元)には、大覚寺統と持明院統の両統迭立の案、いわゆる文保の和談が行われています。
 1318年(文保2年)に大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位して太上天皇となり、1325年(正中2)には、本院の皇子量仁親王のために学問所を置き、自ら親王の教育にあたりました。1326年(正中3)に猶子となった量仁親王が立太子し、1330年(元徳2)に甥の量仁親王(後の光厳天皇)を訓戒するために『誡太子書』記します。
 翌年に後醍醐天皇が笠置寺に遷幸すると、鎌倉幕府の支持のもと量仁親王が即位(光厳天皇)しましたが、1333年(元弘3)に足利高氏らの兵が京に攻め入ったため、本院・光厳天皇と共に東国方面へ脱出し、鎌倉幕府も滅亡しました。しかし、近江国番場宿で敵方に襲われ、捕えられて帰京、再び持明院殿に住むことになります。
 1335年(建武2)に法勝寺の円観について出家、法名を遍行と称し、1342年(暦応5)には、仁和寺の花園御所を僧関山慧玄に賜与し、管領(のちの妙心寺)させました。学問・和歌に秀で、『学道之記』、『論語抄』、『誡皇太子書』などを著すとともに、『風雅和歌集』の撰にもあたりましたが、1348年(貞和4年11月11日)に、京都の花園萩原殿において、数え年52歳で亡くなり、陵墓は十楽院上陵(現在の京都市東山区粟田口三条坊町)とされます。
 尚、自筆日記の『花園天皇宸記』 (47巻)が残されて重要な歴史史料とされ、和歌は、『玉葉和歌集』初出後、勅撰集へ計118首が入集しました。

<代表的な歌>

・「わがこころ春にむかへる夕ぐれのながめの末も山ぞかすめる」(風雅和歌集)
・「みそぎ河ながれてはやく過ぐる日のけふみなづきは夜も更けにけり」(続後拾遺和歌集)
・「きりぎりす声かすかなる暁のかべにすくなき有明のかげ」(新拾遺和歌集)
・「今はわれむなしき舟のつながれぬ心にのする一こともなし」(新千載和歌集)
・「おきてみる朝けの軒ば霜しろし音せぬ風は身にさむくして」(藤葉集)

〇花園天皇の主要な著作

・日記『花園天皇宸記』47巻
・『法華品釈』
・『学道之記』
・『論語抄』
・『誡皇太子書』(1330年)
・『風雅和歌集』監修

☆花園天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1297年(永仁5年7月25日) 京都において、伏見天皇の第四皇子(母は左大臣洞院実雄の女)として生まれる
・1301年(正安3年8月15日) 着袴の儀があり、同日親王宣下される
・1301年(正安3年8月24日) 兄後伏見上皇の猶子として、大覚寺統の後二条天皇の皇太子に立てられる
・1308年(延慶元年8月25日) 大覚寺統の先帝後二条天皇が急死する
・1308年(延慶元年8月26日) 12歳の時、践祚する
・1308年(延慶元年11月16日) 第95代とされる天皇として即位する
・1311年(応長元年1月3日) 二条富小路の里亭で元服する
・1313年(正和2年10月) 伏見院が出家し、後伏見院が院政を嗣ぐ
・1317年(文保元年4月) 大覚寺統と持明院統の両統迭立の案、いわゆる文保の和談が行われる
・1318年(文保2年2月26日) 大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位して太上天皇となる
・1325年(正中2年) 本院の皇子量仁親王のために学問所を置き、自ら親王の教育にあたる
・1326年(正中3年3月) 猶子となった量仁親王が立太子する
・1330年(元徳2年2月) 甥の量仁親王(後の光厳天皇)を訓戒するために『誡太子書』記す
・1331年(元弘元年) 後醍醐天皇が笠置寺に遷幸すると、鎌倉幕府の支持のもと量仁親王が即位(光厳天皇)する
・1333年(元弘3年) 足利高氏らの兵が京に攻め入ったため、本院・光厳天皇と共に東国方面へ脱出する
・1333年(元弘3年5月) 鎌倉幕府が滅亡する
・1335年(建武2年11月22日) 法勝寺の円観について出家、法名を遍行と称する
・1342年(暦応5年1月) 仁和寺の花園御所を僧関山慧玄に賜与し、管領させる(のちの妙心寺)
・1348年(貞和4年11月11日) 京都の花園萩原殿において、数え年52歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)浅草に12階建ての凌雲閣が完成し、日本初の電動式エレベーターが一般公開される詳細
1911年(明治44)新派俳優・興行師川上音二郎の命日詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争末期の本土決戦に備えて、松代大本営が着工される 詳細
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 今日は、江戸時代後期の1779年(安永8)に、第118代の天皇とされる後桃園天皇が亡くなった日ですが、新暦では12月6日となります。
 後桃園天皇(ごももぞのてんのう)は、江戸時代中期の1758年(宝暦8年7月2日)に、京都において、桃園天皇の第一皇子(母は関白太政大臣一条兼香の娘)として生まれましたが、名は英仁(ひでひと)と言いました。1759年(宝暦9)に儲君となり、同年に親王宣下されましたが、1762年(宝暦12)に父・桃園天皇が亡くなった時は幼少だったため、伯母の智子内親王(後桜町天皇)が第117代とされる天皇となります。
 1768年(明和5)に立太子し、同年に元服すると、1771年(明和7)には、伯母後桜町天皇の譲位を受けて践祚、第118代とされる天皇として即位しました。在位中の1773年(安永2年)に、朝廷の経理などを行う口向に属する地下官人による大規模な不正が発覚し、江戸幕府による処分(安永の御所騒動)が起き、江戸幕府の圧力が強化されています。
 生来病弱でしたが、好学で、在位中の日記『後桃園院宸記』(東山御文庫)、禁中儀式書『年中さかつきの次第』を残し、和歌集『後桃園院御点』も伝えられてきました。しかし、在位10年皇嗣をきめないまま、1779年(安永8年10月29日)に京都において、数え年22歳で亡くなり、陵墓は月輪陵(現在の京都市東山区今熊野泉山町)とされます。
 子が欣子内親王のみであったため、急遽、傍系にあたる閑院宮家より師仁親王を養子に迎えて、即位(光格天皇)させました。

〇後桃園天皇の主要な著作

・日記『後桃園院宸記(しんき)』8冊(東山御文庫)
・禁中儀式書『年中さかつきの次第』
・和歌集『後桃園院御点(ごてん)』1冊

☆後桃園天皇関係略年表年表(日付は旧暦です)

・1758年(宝暦8年7月2日) 京都において、桃園天皇の第一皇子(母は関白太政大臣一条兼香の娘)として生まれる
・1759年(宝暦9年1月18日) 儲君となる
・1759年(宝暦9年5月15日) 親王宣下される
・1762年(宝暦12年7月) 父・桃園天皇が亡くなり、伯母の智子内親王(後桜町天皇)が第117代とされる天皇となる
・1768年(明和5年2月19日) 立太子する
・1768年(明和5年8月9日) 元服する
・1771年(明和7年11月24日) 伯母後桜町天皇の譲位を受けて践祚する
・1772年(明和8年4月28日) 第118代とされる天皇として即位する 
・1773年(安永2年) 朝廷の経理などを行う口向に属する地下官人による大規模な不正が発覚し、江戸幕府による処分が行われる(安永の御所騒動)
・1779年(安永8年10月29日) 京都において、数え年22歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1815年(文化12)江戸幕府大老・彦根藩第15代藩主井伊直弼の誕生日(新暦11月29日)詳細
1961年(昭和36)小説家・劇作家・評論家長与善郎の命日詳細
1976年(昭和51)酒田大火で、1,774棟が焼失する詳細


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