ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:天皇

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 今日は、飛鳥時代の709年(和銅2)に、第49代の天皇とされる光仁天皇が生まれた日ですが、新暦では11月18日となります。
 光仁天皇(こうにんてんのう)は、奈良において、天智天皇の第7皇子である施基親王(志貴皇子)の第6皇子(母は紀橡姫)として生まれましたが、名は白壁(しらかべ)と言いました。716年(霊亀2)に8歳で父・志貴皇子が亡くなり、後ろ盾を失ない、737年(天平9)、29歳でやっと無位から従四位下に叙せられます。
 759年(天平宝字3)に従三位となり、761年(天平宝字5)に井上内親王45歳の時、他戸親王(第4皇子)が誕生、762年(天平宝字6)には中納言に任ぜられました。764年(天平宝字8)に藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧に功績を挙げて称徳天皇の信任を得、766年(天平神護2)には、大納言に昇進します。
 その頃、称徳天皇が寵愛する道鏡が権力を握り、769年(神護景雲3)に宇佐八幡宮神託事件が起きました。770年(神護景雲4)に称徳天皇が没し、天武系の皇統が絶え、皇太子となると、道鏡を下野国薬師寺別当へ左遷し、大隅に配流されていた和気清麻呂を召し返し、入京させるなど政治の刷新をします。
 同年10月1日に藤原永手、百川らに擁立されて、62歳で第49代とされる天皇として即位し、宝亀と改元、井上内親王が皇后、他戸親王が皇太子となりました。不要の令外官を廃止して財政を緊縮し、また虚弱な兵士にかえて富裕な農民を採用するなど、農民の労役負担を軽減する措置をとったりします。
 しかし、772年(宝亀3)に皇后の井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために皇后を廃され、皇太子の他戸親王も廃され、翌年には高野新笠所生の山部親王(のちの桓武天皇)が皇太子に立てられました。775年(宝亀6)に井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急逝、翌年には、祟りを恐れて秋篠寺建立の勅願を発します。
 777年(宝亀8)冬に、雨が降らず井戸や河川が涸れ果て、780年(宝亀11)に大きな雷があり、新薬師寺西塔、葛城寺の塔と金堂などが焼け落ち、同年に東北地方の支配拡大の反発から蝦夷伊治呰麻呂の反乱(宝亀の乱)が起きるなど、治世の課題が提起されました。ところが、781年(宝亀12年2月)に第1皇女・能登内親王に先立たれると同年4月3日に病を理由に皇太子山部親王(桓武天皇)に譲位し、太上天皇となります。
 そして、782年(天応元年12月23日)に奈良平城京において、数え年73歳で亡くなり、広岡山陵(現在の奈良市)に葬られ、4年後には田原東陵(現在の奈良市)に改葬されました。

〇光仁天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・709年(和銅2年10月13日) 天智天皇の第7皇子である施基親王(志貴皇子)の第6皇子(母は紀橡姫)として生まれる
・716年(霊亀2年8月11日) 8歳で父・志貴皇子が亡くなり、後ろ盾を失う
・737年(天平9年) 29歳で無位から従四位下に叙せられる
・743年(天平勝宝元年) 聖武天皇が譲位し、皇太子・阿倍内親王(孝謙天皇)が即位する
・754年(天平勝宝6年) 井上内親王38歳の時、酒人内親王が誕生する
・758年(天平宝字2年8月1日) 孝謙天皇が譲位し、大炊王(淳仁天皇)が即位する
・759年(天平宝字3年) 従三位となる
・761年(天平宝字5年) 井上内親王45歳の時、他戸親王(第4皇子)が誕生する
・762年(天平宝字6年) 中納言に任ぜられる
・764年(天平宝字8年) 恵美押勝の乱鎮圧に功績を挙げて称徳天皇の信任を得る
・764年(天平宝字8年10月9日) 淳仁天皇を淡路に流し、孝謙上皇が重祚(称徳天皇)する
・766年(天平神護2年) 大納言に昇進する
・769年(神護景雲3年9月25日) 宇佐八幡宮神託事件が起きる
・770年(神護景雲4年8月4日) 称徳天皇が没し、天武系の皇統が絶え、皇太子となる
・770年(神護景雲4年8月21日) 道鏡を下野国薬師寺別当へ左遷する
・770年(神護景雲4年9月) 大隅に配流されていた和気清麻呂を召し返し、入京させる
・770年(宝亀元年10月1日) 62歳で、藤原永手、百川らに擁立されて、第49代とされる天皇として即位し、宝亀と改元する
・770年(宝亀元年11月6日) 井上内親王が皇后になる
・771年(宝亀2年1月23日) 他戸親王が皇太子となる 
・772年(宝亀3年3月2日) 皇后の井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために皇后を廃される
・772年(宝亀3年5月27日) 皇太子の他戸親王も皇太子を廃される
・773年(宝亀4年1月2日) 高野新笠所生の山部親王(のちの桓武天皇)が皇太子に立てられる
・774年(宝亀5年7月25日) 蝦夷が桃生城を攻め、その西郭を破ると陸奥国司が言上する
・775年(宝亀6年4月27日) 井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急逝する
・776年(宝亀7年) 祟りを恐れて秋篠寺建立の勅願を発する
・777年(宝亀8年2月28日) 畿内五ヵ国で疫神を祀る
・777年(宝亀8年11月1日) 不豫(病)となる
・777年(宝亀8年冬) 雨が降らず井戸や河川が涸れ果てる
・780年(宝亀11年1月14日) 大きな雷があり、新薬師寺西塔、葛城寺の塔と金堂などが焼け落ちる
・780年(宝亀11年3月) 蝦夷伊治呰麻呂(えぞいじのあざまろ)の反乱(宝亀の乱)が起きる
・781年(宝亀12年2月) 第1皇女・能登内親王に先立たれる
・781年(天応元年4月3日) 病を理由に皇太子山部親王(桓武天皇)に譲位し、太上天皇となる
・782年(天応元年12月23日) 奈良平城京において、数え年73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1282年(弘安5)鎌倉時代の僧侶・日蓮宗の開祖日蓮の命日(新暦11月14日)詳細
1707年(宝永4)俳人・蕉門十哲の一人服部嵐雪の命日(新暦11月6日)詳細
1804年(文化元)華岡青洲が世界初の麻酔薬を使った手術に成功(新暦11月14日)詳細
1908年(明治41)明治天皇により「戊申詔書」が発布(翌日の官報掲載)される詳細


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 今日は、江戸時代後期の1831年(天保2)に、第121代の天皇とされる孝明天皇の生まれた日ですが、新暦では7月22日となります。
 孝明天皇(こうめいてんのう)は、京都において、仁孝天皇の第四皇子(母は贈左大臣正親町実光の女雅子)として生まれましたが、名は統仁(おさひと)と言いました。1835年(天保6)に親王宣下され、1840年(天保11)には、立太子の儀が行われ皇太子となります。
 1846年(弘化3)に、父・仁孝天皇が亡くなると践祚の儀を行い、翌年には即位礼をあげて、第121代とされる天皇となりました。黒船来航(1853年)、大地震(1854年)、内裏炎上(1854年)と不安の状況が続いたため、1855年(嘉永3年11月27日)に元号を安政と改元します。
 1858年(安政5)に上洛してきた老中堀田正睦が「日米修好通商条約」調印の承認を求めた時、諸大名の意見を聞いた上で判断するとして許可を与えず、幕府が独断で「日米修好通商条約」調印を行ったとの報告に接し譲位を表明、井伊直弼の幕政指導に不信を示して、戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達しました。1860年(万延元)に公武の合体による国内一致のため、妹和宮の江戸降嫁による第14代将軍徳川家茂との婚姻を認め、1862年(文久2)には、島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣します。
 続いて、薩長土3藩主の要請に基づき三条実美、姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促、翌年には将軍家茂の上洛に際して、攘夷の勅命を下しました。1863年(文久3)の「文久三年八月十八日の政変」の時、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放、翌年に再度上洛した将軍家茂に公武一和の協力を命じています。
 1865年(慶応元)に幕府の要請を受けて長州再征を許可、翌年の第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、征長の停止を幕府に指示しました。しかし、1866年(慶応2年12月25日)に京都において、36歳で急逝し、墓所は京都東山泉涌寺の後月輪東山陵(現在の京都市東山区今熊野)とされています。

〇孝明天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1831年(天保2年6月14日) 京都において、仁孝天皇の第四皇子(母は贈左大臣正親町実光の女雅子)として誕生する
・1835年(天保6年6月21日) 儲君治定される
・1835年(天保6年9月18日) 親王宣下される、
・1840年(天保11年3月14日) 立太子の儀が行われ皇太子となる
・1843年(天保14年) 侍講に中沼了三を迎える
・1846年(弘化3年2月13日) 父天皇の崩御のあとをうけて践祚の儀をあげる
・1846年(弘化3年8月29日) 対外関係が急迫の度を強めたため、幕府に対して海防を厳重にするよう沙汰書を出す
・1847年(弘化4年3月9日) 学習所(学習院)の開講式が行われる
・1847年(弘化4年4月25日) 石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈る
・1847年(弘化4年9月23日) 即位礼をあげる
・1847年(弘化4年9月27日) 将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀する
・1850年(嘉永3年4月8日) 「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じる
・1854年(嘉永7年4月6日)、内裏が炎上する
・1858年(安政5年2月) 上洛の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」調印の承認を求めたとき、諸大名の意見を聞いた上で判断するとして許可を与えず
・1858年(安政5年6月) 幕府が独断で「日米修好通商条約」調印を行ったとの報告に接し譲位を表明する
・1858年(安政5年8月) 井伊直弼の幕政指導に不信を示す、いわゆる戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達する
・1858年(安政5年12月) 鎖国の状態に引き戻すことを条件に「日米修好通商条約」調印を了承する
・1860年(万延元年) 公武の合体による国内一致のため、妹和宮の江戸降嫁を認める
・1861年(文久元年) 長井雅楽の「航海遠略策」を受理する
・1862年(文久2年5月) 島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣する
・1862年(文久2年10月) 薩長土3藩主の要請に基づき三条実美、姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促する
・1863年(文久3年3月) 将軍家茂の上洛に際して、攘夷の勅命を下す
・1863年(文久3年3月) 攘夷の成功を祈願するため、賀茂社に行幸する
・1863年(文久3年4月) 攘夷の成功を祈願するため、石清水社に行幸する
・1863年(文久3年8月) 「文久三年八月十八日の政変」の時、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放する
・1864年(元治元年1月) 再度上洛した将軍家茂に公武一和の協力を命じる
・1865年(慶応元年9月) 幕府の要請を受けて長州再征を許可する
・1865年(慶応元年10月) 徳川慶喜の強要を容れ条約を許可、ただし兵庫開港は不可とする
・1866年(慶応2年7月) 第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、天皇は征長の停止を幕府に指示する
・1866年(慶応2年12月25日) 京都において、痘瘡によって36歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1571年(元亀2)戦国武将・大名毛利元就の命日(新暦7月6日)詳細
1899年(明治32)小説家川端康成の誕生日詳細
1920年(大正9)北炭夕張炭鉱(北上坑)で爆発事故があり、死者・行方不明者209人を出す詳細
1992年(平成4)「環境と開発に関する国際連合会議」が「環境と開発に関するリオ宣言」などを採択して閉幕する詳細


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 今日は、戦国時代の1526年(大永6)に、第104代の天皇とされる後柏原天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月18日となります。
 後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)は、1464年(寛正5年10月20日)に、京都において、後土御門天皇の第1皇子(母は贈皇太后源朝子)として生まれましたが、名は勝仁(かつひと)と言いました。1480年(文明12)に親王宣下され、元服の儀も行われ、1484年(文明16)に勧修寺藤子が入内、1497年(明応5)には、その間に第二皇子知仁親王(後の後奈良天皇)が誕生します。
 1500年(明応9年10月25日)に、父・後土御門天皇の崩御を受けて践祚し、第104代とされる天皇となったものの、応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、すぐに即位礼を行うことが出来ませんでした。1507年(永正4)に執政細川政元が暗殺され、兵革連続して洛中不穏の際に、伊勢神宮などをして天下の和平、国家の安全を祈らせます。
 経費節約をし、将軍足利義稙や大坂本願寺僧光兼の献金により、1521年(大永元)に即位22年目にして、ようやく即位の礼を執り行うことができました。また、朝儀の再興に努め、学を好み、仏教の信仰が深く、詩歌管絃や書道にも長じ、和歌集『柏玉集』、日記『後柏原天皇宸記』も残しています。
 1525年(大永5)の疱瘡大流行時に自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納したりしましたが、1526年(大永6年4月7日)に京都において、数え年63歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区深草坊町)とされました。

<後柏原天皇の代表的な歌>

・「いくたびか 世はうつりても めぐりあふ 昔のままの 月を見るらむ」
・「さやかなる 月の霜夜に 鳴く蟲の こゑのうちにも 秋ぞふけゆく」
・「心だに 西に向はば 身の罪を 写すかがみは さもあらばあれ」
・「はかなしや 夕かげ草に 鳴く蟲(むし)の あすとたのまぬ 露のいのちは」
・「あふぎみむ 人のためにも 悲しきは わが世くもれる 雲の上の月」(柏玉集)

〇後柏原天皇の主要な著作

・和歌集『柏玉(はくぎょく)集』
・和歌集『後柏原院御百首部類』
・日記『後柏原天皇宸記』

☆後柏原天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1464年(寛正5年10月20日) 京都において、後土御門天皇の第1皇子(母は贈皇太后源朝子)として生まれる
・1480年(文明12年12月13日) 親王宣下される
・1480年(文明12年12月20日) 元服の儀が行われる
・1484年(文明16年) 勧修寺藤子が入内する。
・1497年(明応5年12月23日) 勧修寺藤子を母として、第二皇子知仁親王(後の後奈良天皇)が誕生する
・1500年(明応9年10月25日) 後土御門天皇の崩御を受けて践祚し、第104代とされる天皇となる
・1507年(永正4年6月23日) 執政細川政元が暗殺される
・1507年(永正4年8月) 兵革連続して洛中不穏の際に、伊勢神宮などをして天下の和平、国家の安全を祈らせる
・1508年(永正5年) 執政が細川澄元・高国の間で目まぐるしく替わる
・1521年(大永元年3月22日) 即位22年目にして、ようやく即位の礼を執り行う
・1525年(大永5年11月) 疱瘡大流行時に自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納する
・1526年(大永6年4月7日) 京都において、数え年63歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

772年(宝亀3)法相宗の僧道鏡の命日(新暦5月13日)詳細
1133年(長承2)浄土宗の開祖法然の誕生日(新暦5月13日)詳細
1947年(昭和22)労働基準法」が公布される詳細
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 今日は、平安時代前期の850年(嘉祥3)に、第54代の天皇とされる仁明天皇の亡くなった日ですが、新暦では5月4日となります。
 仁明天皇(にんみょうてんのう)は、平安時代前期の810年(弘仁元年)に、京都において、嵯峨天皇の第二皇子(母は橘清友の娘)として生まれましたが、名は正良(まさら)と言いました。823年(弘仁14年2月)に立太子し、827年(天長4年8月)には、藤原順子を母として、第一皇子の道康親王(後の文徳天皇)が生まれています。
 また、藤原沢子を母として、828年(天長5)に第二皇子の宗康親王、830年(天長7)には、第三皇子の時康親王(後の光孝天皇)が生まれました。833年(天長10年2月28日)に、叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位し、第54代とされる天皇となり、同年11月には、道康親王の母、藤原順子を女御としています。
 嵯峨上皇の家父長的権威の下、政情は安定していましたが、嵯峨・淳和両上皇没後の842年(承和9年7月)には、伴健岑らの謀反が発覚、皇太子恒貞親王(淳和天皇の皇子)が廃され(承和の変)、藤原北家の政権独占の端を開くこととなりました。生来病弱なこともあって医学に詳しく、経史にも造詣が深く、また詩文、書法、管弦などを能くし、『経国集』に詩1首が入集しています。
 『令義解』の施行や『日本後紀』40巻の編修などもこの時代に行われました。天皇40歳の算賀行事は盛大を極めましたが、850年(嘉祥3年3月19日)に病により出家し、3日後の21日には京都において、数え年41歳で亡くなり、陵墓は深草陵(現在の京都市伏見区深草東伊達町)とされています。

〇仁明天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・810年(弘仁元年) 京都において、嵯峨天皇の第二皇子(母は橘清友の娘)として生まれる
・823年(弘仁14年2月) 立太子する
・827年(天長4年8月) 藤原順子を母として、第一皇子の道康親王(後の文徳天皇)が生まれる
・828年(天長5年) 藤原沢子を母として、第二皇子の宗康親王が生まれる
・830年(天長7年) 藤原沢子を母として、第三皇子の時康親王(後の光孝天皇)が生まれる
・833年(天長10年2月28日) 叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位する
・833年(天長10年11月) 道康親王の母、藤原順子が女御となる
・842年(承和9年7月) 嵯峨上皇の死に際して、伴健岑らの謀反が発覚、皇太子恒貞親王(淳和天皇の皇子)が廃される(承和の変)
・842年(承和9年8月) 第一皇子道康親王(後の文徳天皇)が皇太子に立てられる
・843年(承和10年) 文室宮田麻呂が謀反を企てているとの告発を受け、宮田麻呂一族を流罪に処する
・845年(承和12年) 自身の更衣三国町と女御藤原貞子の弟で自身の幼少期からの側近の藤原有貞の密通を疑い、地方官に左遷する
・849年(嘉祥2年) 天皇40歳の算賀行事が盛大に催される
・850年(嘉祥3年3月19日) 病により出家する
・850年(嘉祥3年3月21日) 京都において、数え年41歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

835年(承和2)真言宗の開祖空海(弘法大師)の命日(新暦4月22日)詳細
1934年(昭和9)函館大火が起こり、22,667戸焼失、死者2,166名、負傷者9,485名を出す詳細
1972年(昭和47)奈良県明日香村の高松塚古墳の石室で極彩色壁画を発見する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1720年(享保5)に、第115代の天皇とされる桜町天皇の生まれた日ですが、新暦では2月8日となります。
 桜町天皇(さくらまちてんのう)は、京都において、父・中御門天皇と母・近衛尚子(新中和門院)の間に第一皇子として生まれましたが、名は昭仁(てるひと)と言いました。生後20日で、母・近衛尚子(新中和門院)が亡くなりましたが、同年に儲君に治定され、親王宣下されます。
 1728年(享保13)に立太子し、1735年(享保20)には、父・中御門天皇の譲位をうけて、第115代とされる天皇として即位しました。朝儀の振興と皇威の伸張に意を用い、1738年(元文3)に大嘗会を復興、新嘗祭や宇佐奉幣使発遣など多数の儀式公事の復旧に努めます。
 1747年(延享4)に、皇太子遐仁親王(桃園天皇)に譲位し、桜町上皇として院政を開始、また、和歌を能くし、『桜町院坊中御会和歌』 、『桜町院御集』、『桜町院御百首』などの歌集や御撰『桃蘂類題』、歌論『歌道御教訓書』等が伝えられ、書にも優れました。しかし、1750年(寛延3年4月23日)に、京都において、数え年31歳で亡くなり、陵墓は月輪陵(現在の京都市東山区今熊野泉山)とされています。

<代表的な歌>

・「思ふにはまかせぬ世にもいかでかはなべての民の心やすめむ」(桜町院御集)
・「煙たつ民のかまどのにぎはふと聞くは我が世のたのしみにして」
・「君も臣も身をあはせたる我が国の道に神代の春や立つらむ」

〇桜町天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1720年(享保5年1月1日) 京都において、父・中御門天皇と母・近衛尚子(新中和門院)の間に第一皇子として生まれる
・1720年(享保5年1月21日) 母・近衛尚子(新中和門院)が亡くなる
・1720年(享保5年10月) 儲君に治定される
・1720年(享保5年11月) 親王宣下される 
・1728年(享保13年6月) 立太子する
・1735年(享保20年3月21日) 父・中御門天皇の譲位をうけて、践祚する
・1735年(享保20年11月3日) 第115代とされる天皇として即位礼を挙げる
・1737年(元文2年4月11日) 父・中御門天皇が亡くなる
・1738年(元文3年11月19日) 大嘗会(だいじょうえ)を挙行する
・1747年(延享4年5月2日) 皇太子遐仁親王(桃園天皇)に譲位し、桜町上皇として院政を開始する
・1750年(寛延3年4月23日) 京都において、31歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)改新の詔」が発布される(新暦1月22日)詳細
1041年(長久2)平安時代中期の公卿・歌人藤原公任の命日(新暦2月4日)詳細
1946年(昭和21)昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)で自己の神格を否定する詳細
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