ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:天皇機関説

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 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、貴族院で菊地武夫議員が美濃部達吉の「天皇機関説」を非難し、天皇機関説問題の端緒となった日です。
 「天皇機関説(てんのうきかんせつ)」は、「大日本帝国憲法」の解釈をめぐる一つの憲法学説で、法人たる国家が統治権の主体で、天皇は国家の最高機関であり、内閣はじめ他の機関から支えられながら統治権を行使すると説いたものでした。ドイツのG・イェリネック等の学説(国家法人説)を取り入れた、憲法学者の美濃部達吉に代表される学説で、上杉慎吉や穂積八束らの天皇主権説(国家の主権または統治権は天皇に属し、その行使に制限はないというという学説)などと対立します。
 そして、1935年(昭和10)2月18日の貴族院本会議で菊池武夫議員が、美濃部達吉らの著作を挙げて天皇機関説を排撃し、2月25日には貴族院本会議にて、美濃部達吉の「一身上の弁明」演説が行われました。これを契機に国家主義団体、軍部、官僚などによる国体明徴運動が起こり、攻撃されて政治問題化します。
 その結果、美濃部達吉は貴族院議員を辞職させられ、その『憲法撮要』、『憲法講話』など主著は発禁とされ、天皇機関説は大学の講壇から排除されるに至りました。これにより、「大日本帝国憲法」下における立憲主義の統治理念は、公然と否定されることとなります。
 以下に、1935年(昭和10)2月25日の貴族院本会議での、美濃部達吉の「一身上の弁明」演説を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇美濃部達吉(みのべ たつきち)とは?

 明治時代後期から昭和時代前期に活躍した憲法学者・行政法学者です。1873年(明治6)5月7日に、兵庫県加古郡高砂町(現在の高砂市)の漢方医の次男として生まれ、第一高等中学校予科を経て、1894年(明治27)に、東京帝国大学法科大学政治学科(現在の東京大学法学部)に進みました。
 1897年(明治30)に大学卒業後、内務省に勤務し、1899年(明治32)よりドイツ、フランス、イギリスに留学することになります。1902年(明治35)帰国後、すぐに東京帝国大学法科大学に助教授として向かい入れられ、2年後教授になりました。
 1911年(明治44)帝国学士院会員になり、1912年(大正元)に出した『憲法講話』で、天皇機関説を発表して、君権絶対主義を唱える上杉慎吉と論争することになります。1932年(昭和7)に貴族院議員となりますが、1935年(昭和10)国体明徴問題で右翼・軍部に攻撃され、貴族院議員を辞任し、著書「逐条憲法精義」「憲法撮要」などは発禁処分となりました。
 敗戦後の1946年(昭和21)に枢密顧問官に任じられ、現行憲法案の審議に参加しましたが、1948年(昭和23)5月23日に76歳で、亡くなっています。尚、東京都知事を務めた、美濃部亮吉は長男でした。

〇美濃部達吉の「一身上の弁明」演説(全文) 1935年(昭和10)2月25日貴族院本会議

去る2月19日(注:2月18日の誤り)の本会議に於きまして、菊池男爵其他の方から、私の著書のことに付きまして御発言がありましたに付き、茲に一言一身上の弁明を試むるの已むを得ざるに至りましたことは、私の深く遺憾とする所であります。菊池男爵は昨年65議会に於きましても、私の著書のことを挙げられまして、斯の如き思想を懐いて居る者は文官高等試験委員から追払ふが宜いと云ふやうな、激しい言葉を以て非難せられたのであります。今議会に於きまして再び私の著書を挙げられまして、 明白な反逆的思想であると言はれ、謀反人であると言はれました。又学匪であると迄断言せられたのであります。日本臣民に取りまして反逆者である、謀反人であると言はれまするのは侮辱此上もないことと存ずるのであります。又学問を専攻して居ります者に取って、学匪と言はれますことは、等しく堪へ難い侮辱であると存ずるのであります。私は斯の如き言論が貴族院に於て、公の議場に於て公言せられまして、それが議長からの取消の御命令もなく看過せられますことが、果して貴族院の品位の為に許され得ることであるかどうかを疑ふ者でありまするが、それは兎も角と致しまして、貴族院に於て、貴族院の此公の議場に於きまして、斯の如き侮辱を加へられましたことに付ては、私と致しまして如何に致しましても其儘には黙過し難いことと存ずるのであります。本議場に於きまして斯の如き問題を論議することは、所柄甚だ不適当であると存じまするし、又貴重な時間を斯う云ふ事に費しまするのは、甚だ恐縮に存ずるのでありますし、私と致しましても不愉快至極のことに存ずるのでありまするが、万已むを得ざることと御諒承を願ひたいのであります。凡そ如何なる学問に致しましても、其学問を専攻して居りまする者の学説を批判し、其当否を論じまするには、其批評者自身が其学問に付て相当の造詣を持って居り、相当の批判能力を備へて居なければならぬと存ずるのであります。若し例へば私の如き法律学を専攻して居まする者が軍学に喙を容れまして、軍学者の専門の著述を批評すると云ふやうなことがあると致しますならば、それは唯物笑に終るであらうと存ずるのであります。私は菊池男爵が憲法の学問に付て、どれ程の御造詣があるのかは更に存じない者でありますが、菊池男爵の私の著書に付て論ぜられて居りまする所を速記録に依って拝見いたしますると、同男爵が果して私の著書を御通読になったのであるか、仮りに御読みになったと致しましても、それを御理静なされて居るのであるかと云ふことを深く疑ふ者であります。恐らくは或他の人から断片的に、私の著書の中の或片言隻句を示されて、其前後の連絡をも顧みず、唯其片言隻句だけを見て、それをあらぬ意味に誤解されて、軽々に是は怪しからぬと感ぜられたのではなからうかと想像せられるのであります。若し真に私の著書の全体を精読せられ、又正当にそれを理解せられて居りまするならば、斯の如き批判を加へらるべき理由は断じてないものと確信いたすのであります。菊池男爵は私の著書を以て、我国体を否認し、君主主権を否定するものの如くに論ぜられて居りますが、それこそ実に同君が私の著書を読まれて居りませぬか、又は読んでもそれを理解せられて居らない明白な証拠であります。我が憲法上、国家統治の大権が天皇に属すると云ふことは、天下万民一人として之を疑ふべき者のあるべき筈はないのであります。憲法の上論には「国家統治ノ大権ハ朕力之ヲ祖宗二承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナリ」と明言して居ります。又憲法第1条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。更に第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依り之ヲ行フ」とあるのでありまして、日月の如く明白であります。若し之をして否定する者がありますならば、それこそ反逆思想であると云はれましても余儀ない事でありませうが、私の著書の如何なる場所に於きましても之を否定して居る所は決してないばかりか、却て反対にそれが日本憲法の最も重要な基本原則であることを繰返し説明して居るのであります。例へば菊池男爵の挙げられました『憲法精義』15頁から16頁の所を御覧になりますれば、日本の憲法の基本主義と題しまして其最も重要な基本主義は、日本の国体を基礎とした君主主権主義である、之に西洋の文明から伝はった立憲主義の要素を加へたのが日本の憲法の主要な原則である、即ち君主主権主義に加ふるに立憲主義を以てしたのであると云ふ事を述べて居るのであります。又それは万世動かすべからざるもので、日本開闢以来曾て変動のない、又将来永遠に亙って動かすべからざるものであると云ふ事を言明して居るのであります。他の著述でありまする『憲法撮要』にも同じ事を申して居るのであります。菊池男爵は御挙げになりませぬでありましたが、私の憲法に関する著述は其外にも明治39年に既に『日本国法学』を著して居りまするし、大正10年には『日本憲法』第1巻を出版して居ります。更に最近昭和9年には『日本憲法の基本主義』と題するものを出版いたして居りまするが、是等のものを御覧になりましても君主主権主義が日本の憲法の最も貴重な、最も根本的な原則であると云ふことは、何れに於きましても詳細に説明いたして居るのであります。唯それに於きまして憲法上の法理論として問題になりまする点は、凡そ二点を挙げることが出来るのであります。第一点は、此天皇の統治の大権は、天皇の御一身に属する権利として観念せらるべきものであるか、又は天皇が国の元首たる御地位に於て総攬し給ふ権能であるかと云ふ問題であります。一言で申しまするならば、天皇の統治の大権は法律上の観念に於て権利と見るべきであるか、権能と見るべきであるかと云ふことに帰するのであります。第二点は、天皇の統治の大権は絶対に無制限な万能の権力であるか、又は憲法の条規に依って行はせられまする制限ある権能であるか、此の二点であります。私の著書に於て述べて居まする見解は、第一には、天皇の統治の大権は、法律上の観念としては権利と見るべきものではなくて、権能であるとなすものでありまするし、又第二に、それは万能無制限の権力ではなく、憲法の条規によって行はせられる権能であるとなすものであります、此二つの点が菊池男爵其他の方の御疑を生じた主たる原因であると信じまするので、成るべく簡単に其要領を述べて御疑を解くことに努めたいと思ふのであります。第一に天皇の国家統治の大権は法律上の観念として天皇の御一身に属する権利と見るべきや否やと云ふ問題でありますが、法律学の初歩を学んだ者の熟知する所でありますが法律学に於て権利と申しまするのは利益と云ふ事を要素とする観念でありまして自己の利益の為に……自己の目的の為に存する法律上のカでなければ権利と云ふ観念には該当しないのであります。或人が或権利を持つと云ふ事は其力を其人自身の利益の為に、言換れば其人自身の目的の為に認められて居ると云ふ事を意味するのであります。即ち権利主体と云へば利益の主体目的の主体に外ならぬのであります。従つて国家統治の大権が天皇の御一身の権利であると解しますならば、統治権が天皇の御一身の利益の為め、御一身の目的の為に存するカであるとするに帰するのであります。さう云ふ見解が果して我が尊貴なる国体に通するでありませうか。我が古来の歴史に於きまして如何なる時代に於ても天皇が御一身御一家の為に、御一家の利益の為に統治を行はせられるものであると云ふ様な思想の現はれである事は出来ませぬ。天皇は我国開闢以来天の下しろしめす大君と仰がれ給ふのでありますが、天の下しろしめすのは決して御一身の為ではなく、全国家の為であると云ふ事は古来常に意識せられて居た事でありまするし、歴代の天皇の大詔の中にも、其の事を明示されて居るものが少くないのであります。日本書紀に見えて居りまする崇神天皇の詔には「惟フニ我ガ皇祖諸々ノ天皇ノ宸極ニ光臨シ給ヒシハ豈一身ノ為ナラズヤ蓋シ人神ヲ司牧シテ天下ヲ経倫スル所以ナリ」とありまするし、仁徳天皇の詔には「其レ天ノ君ヲ立ツルハ是レ百姓ノ為ナリ然ラハ則チ君ハ百姓ヲ以テ本トス」とあります。西洋の古い思想には国王が国を支配する事を以て恰も国王の一家の財産の如くに考へて、一個人が自分の権利として財産を所有して居りまする如くに、国王は自分の一家の財産として国土国民を領有し支配して、之を子孫に伝へるものであるとして居る時代があるのであります。普通に斯くの如き思想を家産国思想、「パトリモニアル、セオリイ」家産説、家の財産であります家産説と申して居ります。国家を以て国王の一身一家に属する権利であると云ふ事に帰するのであります。斯の如き西洋中世の思想は、日本の古来の歴史に於て曾て現はれなかつた思想でありまして、固より我国体の容認する所ではないのであります。伊藤公の憲法義解の第1条の註には「統治は大位に居り大権を統へて国土及臣民を治むるなり」中略「蓋祖宗其の天職を重んじ、君主の徳は八洲臣民を統治するに在つて一人一家に享奉するの私事にあらざる事を示されたり、是れ即ち憲法の依て以て基礎をなす所以なり」とありますのも、是れ同じ趣旨を示して居るのでありまして統治が決して天皇の御一身の為に存するカではなく、従て法律上の観念と致しまして天皇の御一身上の私利として見るべきものではない事を示して居るのであります。古事記には天照大神が出雲の大国主命に問はせられました言葉といたしまして「汝カウシハケル葦原ノ中ツ国ハ我カ御子ノシラサム国」云々とありまして「ウシハク」と云ふ言葉と書き別けしてあります。或国学者の説に依りますと、「ウシハク」と云ふのは私領と云ふ意味で「シラス」は統治の意味で即ち天下の為に土地人民を統べ治める事を意味すると云ふ事を唱へて居る人があります。此説が正しいかどうか私は能く承知しないのでありますが若し仮りにそれが正当であると致しまするならば、天皇の御一身の権利として統治権を保有し給ふものと解しまするのは即ち天皇は国を「シラシ」給ふのではなくして国を「ウシハク」ものとするに帰するのであります。それが我が国体に適する所以でない事は明白であらうと思ひます。統治権は、天皇の御一身の為に存する力であつて従つて天皇の御一身に属する私の権利と見るべきものではないと致しまするならば、其権利の主体は法律上何であると見るべきでありませうか、前にも申しまする通り権利の主体は即ち目的の主体でありますから、統治の権利主体と申せば即ち統治の目的の主体と云ふ事に外ならぬのであります。而して天皇が天の下しろしまするのは、天下国家の為であり、其の目的の帰属する所は永遠恒久の団体たる国家であると観念いたしまして天皇は国の元首として、言換れば、国の最高機関として此国家の一切の権利を総攬し給ひ、国家の一切の活動は立法も司法も総て天皇に其最高の源を発するものと観念するのであります。所謂機関説と申しまするのは、国家それ自身で一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の団体、即ち法律学上の言葉を以てせば一つの法人と観念いたしまして天皇は此法人たる国家の元首たる地位に在しまし国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給ひ天皇が憲法に従つて行はせられまする行為が、即ち国家の行為たる効力を生ずると云ふことを云ひ表はすものであります。国家を法人と見ると云ふことは、勿論憲法の明文には掲げてないのでありまするが、是は憲法が法律学の教科書ではないと云ふことから生ずる当然の事柄でありますが併し憲法の条文の中には、国家を法人と見なければ説明することの出来ない規定は少からず見えて居るのであります。憲法は其の表題に於て既に大日本帝国憲法とありまして、即ち国家の憲法であることを明示して居りますのみならず、第55条及び第56条には「国務」といふ言葉が用ゐられて居りまして、統治の総べての作用は国家の事務であると云ふことを示して居ります。第62条第3項には「国債」及び「国庫」とありまするし、第64条及び第72条には「国家ノ歳出歳入」といふ言葉が見えて居ります。又第66条には、国庫より皇室経費を支出すべき義務のあることを認めて居ります。総べて此等の字句は国家自身が公債を起し、歳出歳入を為し、自己の財産を有し、皇室経費を支出する主体であることを明示して居るものであります。即ち国家それ自身が法人であると解しなければ、到底説明し得ない処であります。其の他国税と云ひ、国有財産といひ、国際条約といふやうな言葉は、法律上普く公認せられて居りますが、それは国家それ自身の租税を課し、財産を所有し、条約を結ぶものであることを示してゐるものであることは申す迄もないのであります。即ち国家それ自身が一つの法人であり、権利主体であることが、我が憲法及び法律の公認するところであると云はねばならないのであります。併し法人と申しますると一つの団体であり、無形人でありまするから、其の権利を行ひまする為には、必らず法人を代表するものがあり、其の者の行為が法律上法人の行為たる効力を有する者でなければならぬのでありまして、斯くの如き法人を代表して法人の権利を行ふものを、法律学上の観念として法人の機関と申すのであります。卒然として天皇が国家の機関たる地位に在ますといふやうなことを申しますると、法律学の知識のない者は、或は不穏の言を吐くものと感ずる者があるかも知れませぬが、 其意味するところは天皇は御一身、御一家の権利として、統治権を保有し給ふのではなく、それは国家の公事であり天皇は御一身を以て国家を体現し給ひ、国家の総ての活動は天皇に其の最高の源を発し天皇の行為が天皇の御一身上の私の行為としてではなく、国家の行為として、効力を生ずることを言ひ表はすものであります。例へば憲法は明治天皇の欽定に係るものでありますが、明治天皇御一個、御一人の著作物ではなく其の名称に依つても示されて居りまする通り大日本帝国の憲法であり、国家の憲法として永久に効力を有するものであります。条約は憲法第13条に明言して居りまする通り、天皇の締結し給ふところでありまするが、併しそれは国際条約即ち国家と国家との条約として効力を有するものであります。若し所謂機関説を否定いたしまして、統治権は天皇御一身に属する権利であるとしますならば、その統治権に基いて賦課せられまする租税は国税ではなく、天皇の御一身に属する収入とならなければなりませぬし、天皇の締結し給ふ条約は国際条約ではなくして、天皇御一身としての契約とならねばならぬのであります。その外国債といひ、国有財産といひ、国家の歳出歳入といひ、若し統治権が国家に属する権利であることを否定しまするならば、如何にしてこれを説明することが出来るのでありませうか。勿論統治権が国家に属する権利であると申しましてもそれは決して天皇が統治の大権を有せられることを否定する趣旨ではないことは申す迄もありません。国家の一切の統治権は天皇の総攬し給ふことは憲法の明言してゐるところであります。私の主張しまするところは只天皇の大権は天皇の御一身に属する私の権利ではなく、天皇が国家の元首として行はせらるゝ権能であり、国家の統治権を活動せしむるカ、即ち統治の総べての権能が天皇に最高の源を発するものであるといふに在るのであります。それが我が国体に反するものでないことは勿論、最も良く我が国体に通する所以であらうと堅く信じて疑はないのであります。第二点に我が憲法上、天皇の統治の大権は万能無制限の権力であるや否や、この点に就きましても我が国体を論じまするものは、動もすれば絶対無制限なる万能の権力が天皇に属してゐる ことが我が国体の存する処なると云ふものがあるのでありまするが、私は之を以て我が国体の認識に於て大いなる誤であると信じてゐるものであります。君主が万能の権力を有するといふやうなのは、これは純然たる西洋の思想である。「ローマ」法や17、8世紀のフランスなどの思想でありまして、我が歴史上に於きましては如何なる時代に於ても、天皇の無制限なる万能の権力を以て臣民に命令し給ふといふやうなことは曾つて無かつたことであります。天の下しろしめすといふことは、決して無限の権力を行はせられるといふ意味ではありませぬ。憲法の上論の中には「朕力親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ」云々と仰せられて居ります。即ち歴代天皇の臣民に対する関係を「恵撫慈養」と云ふ言葉を以て御示しになつて居るのであります。況や憲法第4条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依り之ヲ行フ」と明示されて居ります。又憲法の上諭の中にも、「朕及朕力子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章二循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ」と仰せられて居りまして天皇の統治の大権が憲法の規定に従つて行はせられなければならないものであると云ふことは明々白々疑を容るべき余地もないのであります。天皇の帝国議会に対する関係に於きましても亦憲法の条規に従つて行はせらるべきことは申す迄もありませぬ。菊池男爵は恰も私の著書の中に、議会が全然天皇の命令に服従しないものであると述べて居るかの如くに論ぜられまして、若しさうとすれば解散の命があつても、それに拘らず会議を開くことが出来ることになると云ふやうな議論をせられて居るのでありまするが、それも同君が曾つて私の著書を通読せられないか、又は読んでも之を理解せられない明白な証拠であります。議会が天皇の大命に依つて召集せられ、又開会、閉会、停会及衆義院の解散を命ぜられることは、憲法第7条に明に規定して居る所でありまして、又私の書物の中にも縷々説明して居る所であります。私の申して居りまするのは唯是等憲法又は法律に定つて居りまする事柄を除いて、それ以外に於て即ち憲法の条規に基かないで、天皇が議会に命令し給ふことはないと言つて居るのであります。議会が原則として天皇の命令に服するものでないと言つて居りまするのは其の意味でありまして「原則として」と申すのは、特定の定あるものを除いてと云ふ意味であることは言ふ迄もないのであります。詳しく申せば議会が立法又は予算に協賛し緊急命令其の他を承諾し又は上奏及建議を為し、質問に依つて政府の弁明を求むるのは、何れも議会の自己の独立の意見に依つて為すものであつて、勅命を奉じて勅命に従つて之を為すものではないと言ふのであります。一例を立法の協賛に取りまするならば、法律案は或は政府から提出れ、或は議院から提出するものもありまするが、議院提出案に付きましては固より君命を奉じて協賛するものでないことは言ふ迄もないことであります。政府提出案に付きましても、議会は自己の独立の意見に依つて之を可決すると否決するとの自由を持つてゐることは、誰も疑はない所であらうと思ひます。若し議会が陛下の命令を受けて、其の命令の儘可決しなければならぬもので、之を修正し又は否決する自由がないと致しますれば、それは協賛とは言はれ得ないものであり、議会制度設置の目的は全く失はれてしまふ外はないのであります。それであるからこそ憲法第66条には、皇室経費に付きまして特に議会の協賛を要せずと明言せられて居るのであります。それとも菊池男爵は議会に於て政府提出の法律案を否決し、其協賛を拒んだ場合には、議会は違勅の責を負はなければならぬものと考へておいでなのでありませうか。上奏、建議、質問等に至りまして、君命に従つて之を為すものでないことは固より言ふ迄もありませぬ。菊池男爵は其御演説の中に、陛下の御信任に依つて大政輔弼の重責に当つて居られまする国務大臣に対して、現内閣は儀表たるに足らない内閣であると判決を下すより外はないと言はれまするし、又陛下の至高顧問府たる枢府院議長に対しても、極端な悪言を放たれて居ります。それは畏くも陛下の御任命が其の人を得て居らないと云ふことに外ならないのであります。若し議会の独立性を否定いたしまして、議会は一に勅命に従つ て其の権能を行ふものとしまするならば、陛下の御信任遊ばされて居ります是等の重臣に対し、如何にして斯の如き非難の言を吐くことが、許され得るでありませうか。それは議会の独立性を前提としてのみ説明し得らるる所であります。或は又私が議会は国民代表の機関であつて、天皇から権限を与へられたものではないと言つて居るのに対して甚しい非難を加へて居るものもあります。併し議会が天皇の御任命に係る官府ではなく、国民代表の機関として設けられて居ることは一般に疑はれない所であり、それが議会が旧制度の元老院や今日の枢密院と法律上の地位を異にする所以であります。元老院や枢密院は、天皇の官吏か ら成立つて居るもので、元老院議官と云ひ、枢密院顧問官と云ふのでありまして官と云ふ文字は天皇の機関たることを示す文字であります。天皇が之を御任 命遊ばされまするのは、即ちそれに其の権限を授与せらるゝ行為であります。帝国議会を構成しまするものは之に反して、議員と申し議官とは申しませぬ。それは天皇の機関として設けられて居るものでない証拠であります。再び憲法義解を引用いたしますると、第33条の註には「貴族院は貴紳を集め衆議院は庶民に選ぶ両院合同して一の帝国議会を成立し以て全国の公議を代表す」とありまして、即ち全国の公議を代表する為に設けられて居るものであることは憲法義解に於ても明に認めて居る所であります。それが元老院や枢密院のやうな天皇の機関と区別せられねばならぬことは明白であらうと思ひます。以上述べましたことは憲法学に於て極めて平凡な真理でありまして、学者の普通に認めて居る所であり、又近頃に至つて初めて私の唱へ出したものではなく、30年来既に主張し来 つたものであります。今に至つて斯の如き非難が本議場に現はれると云ふやうなことは、私の思も依らなかつた所であります。今日此席上に於て斯の如き憲法の講釈めいたことを申しますのは甚だ恐縮でありますが、是も万己むを得ないものと御諒察を願ひます。私の切に希望いたしまするのは、若し私の学説に付て批評せられまするならば処々から拾ひ集めた断片的な片言隻句を捉へて徒に讒誣中傷の言を放たれるのではなく、真に私の著書の全体を通読して、前後の脈絡を明にし、真の意味を理解して然る後に批評せられたいことであります。之を以て弁明の辞と致します。(拍手)

  「官報号外」第67回帝国議会貴族院議事速記録より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1212年(建暦2)第86代の天皇とされる後堀河天皇の誕生日(新暦3月22日)詳細
1825年(文政8)江戸幕府が「異国船打払令」を出す(新暦4月6日)詳細
1889年(明治22)日本画家奥村土牛の誕生日詳細
1908年(明治41)米国移民に関する「日米紳士協約」第七号が締結され、日本からの移民が制限される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、岡田啓介内閣によって「国体明徴に関する政府声明」(第2次国体明徴声明)が出された日です。
 国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)は、国会議員や軍部・右翼が美濃部達吉の天皇機関説を国体に反するとして攻撃する事件(天皇機関説事件)が起きる中、1935年(昭和10)4月9日には、美濃部の3著書である『憲法撮要』、『逐条憲法精義』、『日本国憲法ノ基本主義』を発売禁止処分とし、さらにこれを排撃することで政治的主導権を掌握しようとした立憲政友会・軍部・右翼諸団体が当時の岡田啓介内閣に出させた政府声明でした。その内容は、統治権の主体を国家とし、天皇をその国家の最高機関とする天皇機関説は、天皇の絶対性を否定し、天皇の統治権を制限しようとする反国体的なものとしています。
 これを受けて軍部・右翼は、攻撃の中止を指示し、一端は終息するかに見えたものの、同年9月18日に、美濃部達吉が貴族院議員を辞するに際して出した声明が、再び軍部・右翼の反発を招いて攻撃が再燃し、国体明徴の徹底を岡田啓介首相に迫ることとなりました。そこで、同年10月15日に、政府は再び「国体明徴に関する政府声明」(第2次国体明徴声明)を発することとなりますが、その内容は、「機関説は国体の本義に反する」としていたものをさらに進めて、「「機関説は芟除(取り除く、摘み取るとの意味)されるべし」というものとなります。
 その後、11月に文部大臣を会長とする教学刷新評議会を設置、その答申に基づいて、1937年(昭和12)5月31日、文部省は『国体の本義』を刊行し、全国の学校等へ配布しました。この事件によって、軍強硬派や右翼勢力は政治的進出を果す重要な突破口をつくることになったとされています。
 以下に、「国体明徴に関する政府声明」(第1次・第2次)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「国体明徴に関する政府声明」1935年8月3日 (第1次国体明徴声明)

恭しく惟みるに、我が國體[1]は天孫降臨[2]の際下し賜へる御神勅[3]に依り昭示[4]せらるる所にして、萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚[5]の隆は天地と倶に窮なし。されば憲法發布の御上諭[6]に「國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ」と宣ひ、憲法第一條には「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と明示し給ふ。即ち大日本帝國統治の大權は儼[7]として天皇に存すること明かなり。若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關[8]なりと爲すが如きは、是れ全く萬邦無比[9]なる我が國體[1]の本義[10]を愆る[11]ものなり。近時憲法學説を繞り國體[1]の本義に關聯[12]して兎角[13]の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。政府は愈々國體[1]の明徴[14]に力を效し、其の精華[15]を發揚[16]せんことを期す。乃ち茲に意の在る所を述べて廣く各方面の協力を希望す。

   「官報」より

【注釈】

[1]國體:こくたい=国のあり方。国家の根本体制。
[2]天孫降臨:てんそんこうりん=天照大神の孫の瓊瓊杵尊が大神の命を受けて、葦原中国を治めるために、高天原から筑紫の日向の高千穂(たかちほ)峰に降りて来たこと。
[3]御神勅:ごしんちょく=天照大神が皇孫瓊瓊杵尊を下界に降す際に、八咫鏡とともに授けたことば。
[4]昭示:しょうじ=あきらかに示すこと。明示。
[5]寶祚:ほうそ=天皇の位の敬称。皇位のこと。
[6]御上諭:ごじょうゆ=1889年の「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭のこと。
[7]儼:げん=おかしがたく、おごそかなさま。厳然。
[8]天皇は之を行使する爲の機關:てんのうはこれをこうしするためのきかん=美濃部達吉の天皇機関説のこと。
[9]萬邦無比:ばんぽうむひ=どこの国にも比べるものがないこと。 世界中どこを見渡しても類のない様。
[10]本義:ほんぎ=本来の意義。根本となる大事な意義。本質。
[11]愆る:あやまる=あやまつ。あやまちをおかす。
[12]關聯:かんれん=ある事柄と他の事柄との間につながりがあること。連関。
[13]兎角:とかく=兎(うさぎ)の角(つの)。実在しないもののたとえ。
[14]明徴:めいちょう=明らかに証明すること。
[15]精華:せいか=そのものの本質をなす、最もすぐれている点。真髄。
[16]發揚:はつよう=威光・勢威などを盛んにすること。奮い起こす。

<現代語訳>

謹んで考えてみると、我が国のあり方とは、天照大神の孫の瓊瓊杵尊が大神の命を受けて、葦原中国を治めるために、高天原から筑紫の日向の高千穂峰に降りての際に下賜された御神勅によって、あきらかに示された所であって、万世一系の天皇が国を統治しはじめて、皇位は天地と共に永久に栄え続けて極まりないことである。そこで「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭には「国家統治の大権は朕が祖先から受け継ぎ、子孫に伝えるものである」と宣言され、憲法第一条には「大日本帝国は万世一系の天皇がこれを統治する」と明示されている。すなわち大日本帝国統治の大権は厳然として天皇にあることは明確とされている。すなわち、統治権が天皇にあるものではなくて、天皇はこれを行使するための機關であるとするような考えは、これは全くあらゆる国の中で比べるものがない我が国の在り方の本質を見誤るものである。近頃憲法学説をめぐって、国の在り方の本質に関連して、ありもしない論議を見るようになったのは、大変残念でならない。政府はますます国の在り方を明らかにするために力を尽し、その真髄を奮い起こすことを必ず実現することを約束する。すなわちここに意思のあるところを述べて、広く各方面の協力を希望するものである。

〇「国体明徴に関する政府声明」1935年10月15日 (第2次国体明徴声明)

曩に[1]政府は國體[2]の本義[3]に關し所信を披瀝[4]し、以て國民の嚮ふ[5]所を明にし、愈々[6]その精華[7]を發揚[8]せんことを期したり。抑々我國に於ける統治權の主體が天皇にましますことは我國體[2]の本義[3]にして、帝國臣民の絶對不動の信念なり。帝國憲法の上諭[10]竝條章の精神、亦此處に存するものと拝察[11]す。然るに漫り[12]に外國の事例・學説を援いて[13]我國體[2]に擬し[14]、統治權の主體は天皇にましまさずして國家なりとし、天皇は國家の機關なりとなすが如き、所謂天皇機關説は、神聖なる我が國體[2]に悖り[15]、其の本義[3]を愆る[16]の甚しきものにして嚴に之を芟除[17]せざるべからず。政教其他百般の事項總て萬邦無比[18]なる我國體[2]の本義[3]を基とし、其眞髄を顯揚[19]するを要す。政府は右の信念に基き、此處に重ねて意のあるところを闡明[20]し、以て國體[2]觀念を愈々[6]明徴[21]ならしめ、其實績[22]を收むる爲全幅[23]の力を效さん[24]ことを期す。

【注釈】

[1]曩に:さきに=以前に。前に。かつて。さきごろ。
[2]國體:こくたい=国のあり方。国家の根本体制。
[3]本義:ほんぎ=本来の意義。根本となる大事な意義。本質。
[4]披瀝:ひれき=心の中を包みかくさずうちあけること。腹蔵なく心中を披露すること。
[5]嚮ふ:むかふ=ある方向に向かうこと。
[6]愈々:いよいよ=1持続的に程度が高まるさま。ますます。より一層。
[7]精華:せいか=そのものの本質をなす、最もすぐれている点。真髄。
[8]發揚:はつよう=威光・勢威などを盛んにすること。奮い起こす。
[9]抑々:よくよく=つつしむさま。ひかえ目にするさま。
[10]上諭:じょうゆ=1889年の「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭のこと。
[11]拝察:はいさつ= 推察することをへりくだっていう語。
[12]漫り:みだり=道理に反するさま。筋道が通らぬさま。
[13]援いて:ひいて=他から例を引き入れる。援用。
[14]擬し:ぎし=ある物を他の物に見立てる。なぞらえる。
[15]悖り:もとり=道理に外れること。
[16]愆る:あやまる=あやまつ。あやまちをおかす。
[17]芟除:さんじょ=刈りのぞくこと。のぞき去ること。
[18]萬邦無比:ばんぽうむひ=どこの国にも比べるものがないこと。 世界中どこを見渡しても類のない様。
[19]顯揚:けんよう=功績などをたたえて世間に広く知らせること。顕彰。
[20]闡明:せんめい=明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。
[21]明徴:めいちょう=明らかに証明すること。
[22]實績:じっせき=実際にやり遂げた成果・業績。
[23]全幅:ぜんぷく=あるだけ全部。あらんかぎり。ありったけ。
[24]效さん:かいさん=力をつくす。つとめる。

<現代語訳>

以前に政府は国のあり方の本質に関し所信を披露し、もって国民の向かう所を明確にし、より一層その真髄を奮い起こすことの実現を約束した。よくよく我国における統治権の主体が天皇にあることは我国のあり方の本質にして、大日本帝国臣民の絶対不動の信念である。「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭ならび条文の精神、またここに存在するものと推察する。しかるに筋道が通らない外国の事例・学説を援用し、我国のあり方になぞらえ、統治権の主体は天皇にあるのではなく国家にあるとし、天皇は国家の機関であるとするような、いわゆる天皇機関説は、神聖である我国のあり方の道理に外れ、その本質を誤ることの甚しきもので、厳然としてこれを除き去らないわけにはいかない。政治・教育その他諸々の事項すべて、どこの国にも比べるものがない我国のあり方の本質を基本とし、その眞髄を顕彰することが必要である。政府は右の信念に基づいて、ここに重ねて意思のあるところを明瞭にし、もって国のあり方に関する觀念をいよいよ明らかにして、その実績を收めるためあらんかぎりの力を尽くし、実現することを約束する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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kokutaimeichyouseimei01

 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、岡田啓介内閣によって「国体明徴に関する政府声明」(第1次国体明徴声明)が出された日です。
 国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)は、国会議員や軍部・右翼が美濃部達吉の天皇機関説を国体に反するとして攻撃する事件(天皇機関説事件)が起きる中、1935年(昭和10)4月9日には、美濃部の3著書である『憲法撮要』、『逐条憲法精義』、『日本国憲法ノ基本主義』を発売禁止処分とし、さらにこれを排撃することで政治的主導権を掌握しようとした立憲政友会・軍部・右翼諸団体が当時の岡田啓介内閣に出させた政府声明でした。その内容は、統治権の主体を国家とし、天皇をその国家の最高機関とする天皇機関説は、天皇の絶対性を否定し、天皇の統治権を制限しようとする反国体的なものとしています。
 これを受けて軍部・右翼は、攻撃の中止を指示し、一端は終息するかに見えたものの、同年9月18日に、美濃部達吉が貴族院議員を辞するに際して出した声明が、再び軍部・右翼の反発を招いて攻撃が再燃し、国体明徴の徹底を岡田啓介首相に迫ることとなりました。そこで、同年10月15日に、政府は再び「国体明徴に関する政府声明」(第2次国体明徴声明)を発することとなりますが、その内容は、「機関説は国体の本義に反する」としていたものをさらに進めて、「「機関説は芟除(取り除く、摘み取るとの意味)されるべし」というものとなります。
 その後、11月に文部大臣を会長とする教学刷新評議会を設置、その答申に基づいて、1937年(昭和12)5月31日、文部省は『国体の本義』を刊行し、全国の学校等へ配布しました。この事件によって、軍強硬派や右翼勢力は政治的進出を果す重要な突破口をつくることになったとされています。
 以下に、「国体明徴に関する政府声明」(第1次・第2次)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「国体明徴に関する政府声明」1935年8月3日 (第1次国体明徴声明)

恭しく惟みるに、我が國體[1]は天孫降臨[2]の際下し賜へる御神勅[3]に依り昭示[4]せらるる所にして、萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚[5]の隆は天地と倶に窮なし。されば憲法發布の御上諭[6]に「國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ」と宣ひ、憲法第一條には「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と明示し給ふ。即ち大日本帝國統治の大權は儼[7]として天皇に存すること明かなり。若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關[8]なりと爲すが如きは、是れ全く萬邦無比[9]なる我が國體[1]の本義[10]を愆る[11]ものなり。近時憲法學説を繞り國體[1]の本義に關聯[12]して兎角[13]の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。政府は愈々國體[1]の明徴[14]に力を效し、其の精華[15]を發揚[16]せんことを期す。乃ち茲に意の在る所を述べて廣く各方面の協力を希望す。

   「官報」より

【注釈】

[1]國體:こくたい=国のあり方。国家の根本体制。
[2]天孫降臨:てんそんこうりん=天照大神の孫の瓊瓊杵尊が大神の命を受けて、葦原中国を治めるために、高天原から筑紫の日向の高千穂(たかちほ)峰に降りて来たこと。
[3]御神勅:ごしんちょく=天照大神が皇孫瓊瓊杵尊を下界に降す際に、八咫鏡とともに授けたことば。
[4]昭示:しょうじ=あきらかに示すこと。明示。
[5]寶祚:ほうそ=天皇の位の敬称。皇位のこと。
[6]御上諭:ごじょうゆ=1889年の「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭のこと。
[7]儼:げん=おかしがたく、おごそかなさま。厳然。
[8]天皇は之を行使する爲の機關:てんのうはこれをこうしするためのきかん=美濃部達吉の天皇機関説のこと。
[9]萬邦無比:ばんぽうむひ=どこの国にも比べるものがないこと。 世界中どこを見渡しても類のない様。
[10]本義:ほんぎ=本来の意義。根本となる大事な意義。本質。
[11]愆る:あやまる=あやまつ。あやまちをおかす。
[12]關聯:かんれん=ある事柄と他の事柄との間につながりがあること。連関。
[13]兎角:とかく=兎(うさぎ)の角(つの)。実在しないもののたとえ。
[14]明徴:めいちょう=明らかに証明すること。
[15]精華:せいか=そのものの本質をなす、最もすぐれている点。真髄。
[16]發揚:はつよう=威光・勢威などを盛んにすること。奮い起こす。

<現代語訳>

謹んで考えてみると、我が国のあり方とは、天照大神の孫の瓊瓊杵尊が大神の命を受けて、葦原中国を治めるために、高天原から筑紫の日向の高千穂峰に降りての際に下賜された御神勅によって、あきらかに示された所であって、万世一系の天皇が国を統治しはじめて、皇位は天地と共に永久に栄え続けて極まりないことである。そこで「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭には「国家統治の大権は朕が祖先から受け継ぎ、子孫に伝えるものである」と宣言され、憲法第一条には「大日本帝国は万世一系の天皇がこれを統治する」と明示されている。すなわち大日本帝国統治の大権は厳然として天皇にあることは明確とされている。すなわち、統治権が天皇にあるものではなくて、天皇はこれを行使するための機關であるとするような考えは、これは全くあらゆる国の中で比べるものがない我が国の在り方の本質を見誤るものである。近頃憲法学説をめぐって、国の在り方の本質に関連して、ありもしない論議を見るようになったのは、大変残念でならない。政府はますます国の在り方を明らかにするために力を尽し、その真髄を奮い起こすことを必ず実現することを約束する。すなわちここに意思のあるところを述べて、広く各方面の協力を希望するものである。

〇「国体明徴に関する政府声明」1935年10月15日 (第2次国体明徴声明)

曩に[1]政府は國體[2]の本義[3]に關し所信を披瀝[4]し、以て國民の嚮ふ[5]所を明にし、愈々[6]その精華[7]を發揚[8]せんことを期したり。抑々我國に於ける統治權の主體が天皇にましますことは我國體[2]の本義[3]にして、帝國臣民の絶對不動の信念なり。帝國憲法の上諭[10]竝條章の精神、亦此處に存するものと拝察[11]す。然るに漫り[12]に外國の事例・學説を援いて[13]我國體[2]に擬し[14]、統治權の主體は天皇にましまさずして國家なりとし、天皇は國家の機關なりとなすが如き、所謂天皇機關説は、神聖なる我が國體[2]に悖り[15]、其の本義[3]を愆る[16]の甚しきものにして嚴に之を芟除[17]せざるべからず。政教其他百般の事項總て萬邦無比[18]なる我國體[2]の本義[3]を基とし、其眞髄を顯揚[19]するを要す。政府は右の信念に基き、此處に重ねて意のあるところを闡明[20]し、以て國體[2]觀念を愈々[6]明徴[21]ならしめ、其實績[22]を收むる爲全幅[23]の力を效さん[24]ことを期す。

【注釈】

[1]曩に:さきに=以前に。前に。かつて。さきごろ。
[2]國體:こくたい=国のあり方。国家の根本体制。
[3]本義:ほんぎ=本来の意義。根本となる大事な意義。本質。
[4]披瀝:ひれき=心の中を包みかくさずうちあけること。腹蔵なく心中を披露すること。
[5]嚮ふ:むかふ=ある方向に向かうこと。
[6]愈々:いよいよ=1持続的に程度が高まるさま。ますます。より一層。
[7]精華:せいか=そのものの本質をなす、最もすぐれている点。真髄。
[8]發揚:はつよう=威光・勢威などを盛んにすること。奮い起こす。
[9]抑々:よくよく=つつしむさま。ひかえ目にするさま。
[10]上諭:じょうゆ=1889年の「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭のこと。
[11]拝察:はいさつ= 推察することをへりくだっていう語。
[12]漫り:みだり=道理に反するさま。筋道が通らぬさま。
[13]援いて:ひいて=他から例を引き入れる。援用。
[14]擬し:ぎし=ある物を他の物に見立てる。なぞらえる。
[15]悖り:もとり=道理に外れること。
[16]愆る:あやまる=あやまつ。あやまちをおかす。
[17]芟除:さんじょ=刈りのぞくこと。のぞき去ること。
[18]萬邦無比:ばんぽうむひ=どこの国にも比べるものがないこと。 世界中どこを見渡しても類のない様。
[19]顯揚:けんよう=功績などをたたえて世間に広く知らせること。顕彰。
[20]闡明:せんめい=明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。
[21]明徴:めいちょう=明らかに証明すること。
[22]實績:じっせき=実際にやり遂げた成果・業績。
[23]全幅:ぜんぷく=あるだけ全部。あらんかぎり。ありったけ。
[24]效さん:かいさん=力をつくす。つとめる。

<現代語訳>

以前に政府は国のあり方の本質に関し所信を披露し、もって国民の向かう所を明確にし、より一層その真髄を奮い起こすことの実現を約束した。よくよく我国における統治権の主体が天皇にあることは我国のあり方の本質にして、大日本帝国臣民の絶対不動の信念である。「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭ならび条文の精神、またここに存在するものと推察する。しかるに筋道が通らない外国の事例・学説を援用し、我国のあり方になぞらえ、統治権の主体は天皇にあるのではなく国家にあるとし、天皇は国家の機関であるとするような、いわゆる天皇機関説は、神聖である我国のあり方の道理に外れ、その本質を誤ることの甚しきもので、厳然としてこれを除き去らないわけにはいかない。政治・教育その他諸々の事項すべて、どこの国にも比べるものがない我国のあり方の本質を基本とし、その眞髄を顕彰することが必要である。政府は右の信念に基づいて、ここに重ねて意思のあるところを明瞭にし、もって国のあり方に関する觀念をいよいよ明らかにして、その実績を收めるためあらんかぎりの力を尽くし、実現することを約束する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

701年(大宝元)藤原不比等らによる「大宝律令」の編纂が完了する(新暦9月9日)詳細
1872年(明治5)学制」が公布される(新暦9月5日)詳細
1987年(昭和62)建設省が「日本の道100選」を選定し、前年分と合わせて104本となる詳細
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shinminnomichi01

 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、文部省編纂『国体の本義』が発行され、全国の学校等へ配布された日です。
 『国体の本義(こくたいのほんぎ)』は、文部省教学局が天皇中心の国体護持の立場から編集・発行した国民教化用の出版物でした。1935年(昭和10)1月、帝国議会の貴族院が美濃部達吉の天皇機関説を「不敬の学説」とする議論を行ない、その排撃運動が国体明徴運動にまで発展します。
 その中で、反天皇機関説の立場で、文部省が独自に国体論の教材として編纂に着手したものでした。同年11月に、文部大臣の諮問機関として「教学刷新評議会」を設置し、国体観念に基づく教育・学問の改編方策を検討します。
 1936年(昭和11)10月の答申前に、思想局長伊東延吉の主導のもと、思想課長小川義章、国民精神文化研究所員志田延義等を中心として、省内外の委員を加えた編纂委員会が組織され、この本の編纂が開始されました。その内容は、「諸言」、「大日本国体」、「国史に於ける国体の顕現」、「結語」で構成され、『古事記』や『日本書紀』の引用を多用して、冒頭で神勅や万世一系を強調し、国体明徴運動の理論的な意味づけ、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。」と国体を定義しています。
 その上で、共産主義や無政府主義を否定するだけでなく、民主主義や自由主義も国体にそぐわないものとし、西洋近代思想を激しく排撃しました。また、共産主義、ファシズム、ナチズムなどが起こった理由として個人主義の行き詰まりを挙げています。
 1937年(昭和12)5月31日に発行し、全国の学校等へ配布、続いて、1941年(昭和16)7月21日に、『臣民の道』を刊行、これらは、太平洋戦争下の国民の精神生活を規制した基本的文献であったとされてきました。太平洋戦争後、1945年(昭和20)12月15日、占領下において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件(神道指令)」(SCAPIN-448)によって、『臣民の道』と共にその頒布が禁止されています。
 以下に、『国体の本義』の緒言の部分だけ掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『国体の本義』文部省編纂 1937年(昭和12)5月31日発行

 緒  言

 我が国は、今や国運頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途弥々多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。夙に支部・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神(かむながら)の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によつて諸種の文物は顕著な発達を遂げた。文物・制度の整備せる、学術の一大進歩をなせる、思想・文化の多彩を極むる、万葉歌人をして今日にあらしめば、再び「御民(みたみ)吾(われ)生ける験(しるし)あり天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく念(おも)へば」と謳ふであらう。明治維新の鴻業により、旧来の陋習を破り、封建的束縛を去つて、国民はよくその志を途げ、その分を竭くし、爾来七十年、以て今日の盛事を見るに至つた。
 併しながらこの盛事は、静かにこれを省みるに、実に安穏平静のそれに非ずして、内に外に波瀾万丈、発展の前途に幾多の困難を蔵し、隆盛の内面に混乱をつつんでゐる。即ち国体の本義は、動もすれば透徹せず、学問・教育・政治・経済その他国民生活の各方面に幾多の欠陥を有し、伸びんとする力と混乱の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕(くんいう)を併せつゝみ、こゝに種々の困難な問題を生じてゐる。今や我が国は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影相共に現れた感がある。併しながら、これ飽くまで発展の機であり、進歩の時である。我等は、よく現下内外の真相を把握し、拠つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、弥々国運の伸展に貢献するところがなければならぬ。
 現今我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民放を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。従つてそこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。かゝる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた。
 我国の啓蒙運動に於ては、先づ仏蘭西啓蒙期の政治哲学たる自由民権思想を始め、英米の議会政治思想や実利主義・功利主義、独逸の国権思想等が輸入せられ、固陋な慣習や制度の改廃にその力を発揮した。かゝる運動は、文明開化の名の下に広く時代の風潮をなし、政治・経済・思想・風習等を動かし、所謂欧化主義時代を現出した。然るにこれに対して伝統復帰の運動が起つた。それは国粋保存の名によつて行はれたもので、澎湃たる西洋文化の輸入の潮流に抗した国民的自覚の現れであつた。蓋し極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡せしめる惧れがあつたからである。かくて欧化主義と国粋保存主義との対立を来し、思想は昏迷に陥り、国民は、内、伝統に従ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。然るに、明治二十三年「教育ニ関スル勅語」の渙発せられるに至つて、国民は皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業とその履践すべき大道とを覚り、こゝに進むべき確たる方向を見出した。然るに欧米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この国体に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。即ち西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、又続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた。
 抑々社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る。久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米文化の摂取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。
        「国立国会図書館デジタルコレクション」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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