ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:天皇

reizeitennou01
 今日は、平安時代中期の950年(天暦4年)に、第63代の天皇とされる冷泉天皇の生まれた日ですが、新暦では6月12日となります。
 冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、京都において、村上天皇の第2皇子(母は右大臣師輔の娘藤原安子)として生まれ、2ヶ月後に外祖父師輔宅で立太子しました。967年(康保4年5月25日)に父・村上天皇の死没と共に践祚し、同年10月11日に即位礼が行われ、第63代とされる天皇として即位したものの、病弱で奇行があったため、叔父実頼が関白に就任して後見補佐します。
 しかし、藤原氏による他氏排斥事件(安和の変)が起こり、969年(安和2年3月)に源高明が失脚しました。天皇の第一皇子師貞(もろさだ)親王の立太子を急ぐ藤原伊尹(これただ)の策略により、在位2年の969年(安和2年8月13日)に、同母弟の守平親王(円融天皇)に譲位させられ、太上天皇(冷泉院)となります。
 翌年に実頼が亡くなると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぎ、以降藤原氏の摂関職設置が常態化しました。984年(永観2年8月24日)に、円融天皇の息子の懐仁親王の立太子を条件に、冷泉帝の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位され。以後後一条天皇の即位まで約50年間、弟の円融系との皇位迭立が続きます。
 986年(寛和2年6月22日)に、息子の花山天皇が、花山寺で仏門に入り退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられました。その後、991年(正暦2年2月12日)に円融院(円融天皇)が亡くなり、1008年(寛弘5年2月8日)には、息子の花山院(花山天皇)も亡くなります。
 退位後42年という長い上皇生活を東三条南院で暮らしてきましたが、1011年(寛弘8年10月24日)に数え年62歳で亡くなり、陵墓は桜本陵(現在の京都市左京区鹿ヶ谷法然院町)とされました。

<冷泉天皇の主要な和歌>

・「年へぬる竹の齢(よはひ)をかへしてもこのよを長くなさむとぞ思ふ」(詞花和歌集)
・「雲の上をかけ離れたるすみかにももの忘れせぬ秋の夜の月」

〇冷泉天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・950年(天暦4年5月24日) 京都において、村上天皇の第2皇子(母は右大臣師輔の娘藤原安子)として生まれ、2ヶ月後に外祖父師輔宅で立太子する
・967年(康保4年5月25日) 父・村上天皇の死没とともに践祚する
・967年(康保4年10月11日) 即位礼が行われ、第63代とされる天皇として即位する
・969年(安和2年3月) 安和の変が起こり源高明が失脚する
・969年(安和2年8月13日) 同母弟の円融天皇に譲位し、太上天皇となる
・970年(天禄元年5月18日) 藤原実頼が亡くなると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぐ
・976年(貞元元年5月) 内裏が焼亡する
・977年(貞元2年) 内裏が新造される
・980年(天元3年11月) 内裏が再び火災に遭う
・982年(天元5年) 三たび内裏が焼亡する
・984年(永観2年8月24日) 円融天皇の息子の懐仁親王の立太子を条件に、冷泉帝の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位される
・986年(寛和2年6月22日) 息子の花山天皇が、花山寺で仏門に入り退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられる
・991年(正暦2年2月12日) 円融院(円融天皇)が亡くなる
・1008年(寛弘5年2月8日) 息子の花山院(花山天皇)が亡くなる
・1011年(寛弘8年10月24日) 京都において、数え年62歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1636年(寛永13)武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の命日(新暦6月27日)詳細
1790年(寛政2)老中主座・松平定信が昌平坂学問所で、朱子学以外の学問の教授を禁止する(寛政異学の禁)詳細
1925年(大正14)日本労働組合評議会が結成される詳細
1926年(大正15)北海道の十勝岳が大噴火(十勝岳1926年噴火)し、高温の岩屑なだれが発生、大被害を出す詳細
1956年(昭和31)「売春防止法」が公布(施行は1957年4月1日)される詳細
1971年(昭和46)評論家・婦人解放運動家平塚らいてう(平塚雷鳥)の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

heizeitennou01
 今日は、奈良時代の774年(宝亀5)に、第51代の天皇とされる平城天皇が生まれた日ですが、新暦では9月25日となります。
 平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の第一皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれましたが、はじめ名は小殿(おて)とされたものの、783年(延暦2)には、安殿(あて)と改名されました。785年(延暦4)に、藤原種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わって立太子し、788年(延暦7)に元服します。
 790年(延暦9)に罹病し、792年(延暦11)に占いによりこの病が早良親王の祟りであるとされ、翌年には、春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂されました。藤原式家縄主と藤原薬子(式家種継の子)の間の長女を妃とした以後、薬子を寵愛し、東宮坊宣旨として臥処に出入りさせるなどしたので、醜聞を嫌った桓武天皇により薬子は宮廷から一時追放されます。
 806年(延暦25)に父・桓武天皇が亡くなったため第51代とされる天皇として即位し、賀美能親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立て、薬子を尚侍(ないしのかみ)として復権させました。即位当初は政治に意欲的に取り組み、造都と蝦夷征討で疲弊した国家財政緊縮のため、808年(大同3)に中央官司の大規模な整理統合を実施、また、民情把握のため畿内七道に観察使を置いて地方政治に関する献策を行わせるなど政治の刷新に努めます。
 しかし、809年(大同4)に病により賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城旧京の故右大臣中臣清麻呂宅に移りました。810年(大同5)に平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図りましたが、嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪、それに怒って兵を発し、薬子と共に東国に入ろうとしたものの、遮られて平城京に戻り、薬子は自殺します(薬子の変)。
 これにより、直ちに剃髪入道して政治に関与せず、平城旧京に留まり、822年(弘仁13年)には、空海から戒を受け、灌頂を授かりました。しかし、824年(天長元年7月7日)に、奈良において、数え年51歳で亡くなり、大和)国添下郡の楊梅(やまもも)陵(現在の奈良市佐紀町)に葬られます。尚、詩歌を能くし、『凌雲集』、『経国集』に漢詩を残し、『古今和歌集』にも和歌が収載されました。

<平城天皇の代表的な歌>

・「故郷(ふるさと)と なりにし奈良の 都にも 色はかはらず 花は咲きけり」(古今和歌集)

〇平城天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年8月15日) 奈良において、桓武天皇の第一皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれる
・783年(延暦2年) 安殿(あて)と改名する
・784年(延暦3年11月11日) 長岡京に遷都される
・785年(延暦4年11月25日) 藤原種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わり、立太子する
・788年(延暦7年1月15日) 元服する
・790年(延暦9年) 罹病する
・792年(延暦11年) 占いによりこの病が早良親王の祟りであるとされる
・793年(延暦12年) 春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂される
・794年(延暦13年10月22日) 平安京に遷都される
・806年(延暦25年3月17日) 父・桓武天皇が亡くなったため践祚する
・806年(延暦25年5月18日) 第51代とされる天皇として即位式を行い、賀美能親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立てる
・808年(大同3年) 官司の統廃合を行い、緊縮財政に努める
・809年(大同4年4月1日) 病により賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となる
・809年(大同4年12月) 平城旧京の故右大臣中臣清麻呂宅に入御する
・810年(大同5年9月6日) 平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図る
・810年(弘仁元年9月10日) 嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪する
・810年(弘仁元年9月11日) 薬子の官位を剥奪に怒って兵を発し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、遮られて平城京に戻る(薬子の変)
・822年(弘仁13年) 空海から戒を受け、灌頂を授かる
・824年(天長元年7月7日) 奈良において、数え年51歳で亡くなる
・824年(天長元年7月12日) 大喪儀が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

952年(天暦6)第61代の天皇とされる朱雀天皇の命日(新暦9月6日)詳細
1716年(享保元)俳人山口素堂の命日(新暦9月30日)詳細
1808年(文化5)フェートン号事件が起きる(新暦10月4日)詳細
1940年(昭和15)立憲民政党が解党して、戦前の日本で全政党が解散に至る(大政翼賛会へ合流)詳細
1945年(昭和20)「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)がラジオで流されて、太平洋戦争敗戦が国民に伝えられる詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

gohanazonotennou01
 今日は、室町時代の1419年(応永26)に、第102代の天皇とされる後花園天皇が生まれた日ですが、新暦では7月10日となります。
 後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、京都において、伏見宮貞成親王の第1王子(母は源幸子)として生まれましたが、名は彦仁(ひこひと)と言いました。先代の称光天皇は病弱で皇子がないまま、1428年(正長元年7月28日)に亡くなると、親王宣下のないまま、践祚することとなります。
 翌年12月27日に第102代とされる天皇として即位したものの、後小松上皇の院政が続きました。1433年(永享5)に、飛鳥井雅世に第二十一代勅撰集『新続古今和歌集』の撰進を下命、同年10月に後小松上皇が亡くなると、親政を執ります。
 1438年(永享10)の永享の乱勃発時には治罰綸旨を発給、翌年に勅撰和歌集(二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立、1441年(嘉吉元)に嘉吉の乱が起きると、赤松満祐討伐に治罰綸旨を出し、朝廷権威の高揚を図りました。1443年(嘉吉3)に、後南朝勢力が土御門内裏に夜襲をかけ放火、左大臣・近衛房嗣邸に逃れましたが、三種の神器の一部を奪われる「禁闕の変」が起きます。
 しかし、1457年(長禄元)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲って神璽を奪還する「長禄の変」が起き、翌年には奪還された神璽が朝廷へ返還されましした。1461年(寛正2)の大飢饉のさなか、山荘造営に明け暮れる第8代将軍足利義政に漢詩を贈って諷諫したことは有名です。
 1462年(寛正3)に皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与え、1464年(寛正5年7月19日)には、成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、左大臣足利義政を院執事として院政を敷きました。1467年(応仁元)に京都で応仁の乱が勃発すると、それを憂えてひそかに出家し、法名を円満智と号します。
 1471年(文明2年12月27日)に京都において、数え年53歳で亡くなり、陵所は後山国陵(京都府京都市右京区)とされています。尚、和漢の学に通暁し、和歌・管弦にすぐれ、『後花園院御集』を残すと共に、勅撰入集は『新続古今和歌集』の12首に及びました。

<後花園天皇の代表的な和歌>

・「このごろの風のにほひになしはてて花にはうすき四方の梅が香」(後花園院御集)
・「袖ぬらすほどだにもなし朝顔の花をかごとのあけぼのの露」(後花園院御集)
・「けさよりは袂もうすく立ちかへて花の香とほき夏ごろもかな」(新続古今和歌集)
・「月も今み山出づらしほととぎすふけゆく空に声のきこゆる」(新続古今和歌集)

〇後花園天皇の主要な著作

・歌集『後花園院御集』
・日記『後花園院御記』
・『後花園院御文庫類』
・『後花園院御消息』(1462年)

☆後花園天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1419年(応永26年6月18日) 京都において、伏見宮貞成親王の第1王子(母は源幸子)として生まれる
・1428年(正長元年7月28日) 称光天皇が崩御すると、親王宣下のないまま、践祚する
・1429年(永享元年12月27日) 第102代とされる天皇として即位する
・1433年(永享5年8月25日) 飛鳥井雅世に第二十一代勅撰集『新続古今和歌集』の撰進を下命する
・1433年(永享5年10月) 後小松上皇の崩後、親政を執る
・1438年(永享10年) 永享の乱勃発による治罰綸旨を発給する
・1439年(永享11年6月) 勅撰和歌集(二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立する
・1441年(嘉吉元年6月) 嘉吉の乱が起き、赤松満祐討伐に治罰綸旨が出される
・1443年(嘉吉3年9月) 後南朝勢力が土御門内裏に夜襲をかけ放火、左大臣・近衛房嗣邸に逃れるが、三種の神器の一部を奪われる(禁闕の変)
・1444年(文安元年2月) 同母弟の伏見宮貞常親王に親王宣下を行なう
・1447年(文安4年11月) 父の貞成親王に太上天皇の尊号を奉つる
・1455年(享徳4年1月) 後二条天皇の五世の孫にあたる木寺宮邦康王に親王宣下を行なう
・1457年(長禄元年12月) 嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲って神璽を奪還する(長禄の変)
・1458年(長禄2年8月) 奪還された神璽が朝廷へ返還される
・1461年(寛正2年) 大飢饉のさなか、山荘造営に明け暮れる将軍足利義政に漢詩を贈って諷諫する
・1462年(寛正3年10月) 皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与える
・1464年(寛正5年7月19日) 成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、左大臣足利義政を院執事として院政を敷く
・1467年(応仁元年) 京都で応仁の乱が勃発する
・1467年(応仁元年9月20日) 応仁の乱を憂えて、ひそかに出家し、法名を円満智と号する
・1471年(文明2年12月27日) 京都において、数え年53歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

746年(天平18)法相宗の僧玄昉の命日(新暦7月15日)詳細
1143年(康治2)第78代の天皇とされる二条天皇の誕生日(新暦7月31日)詳細
1723年(享保8)徳川吉宗が人材登用のための「足高の制」を制定(新暦7月19日)詳細
1877年(明治10)アメリカの動物学者モースの誕生日及び初来日の日(考古学出発の日)詳細
1988年(昭和63)朝日新聞のスクープによってリクルート事件が発覚する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

gokameyamatennou01
 今日は、室町時代の1424年(応永31)に、第99代(南朝第4代)の天皇とされる後亀山天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月10日となります。
 後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の1350年(正平5/観応元)頃?に、第97代(南朝第2代)の天皇とされる後村上天皇の第2皇子(母は阿野実為の娘)として生まれましたが、名は熙成(ひろなり)と言いました。1368年(正平23/応安元)に立太子し、皇太弟として既に兄の長慶天皇の政務を補佐していたとされます。
 和歌を能くし、1375年(天授元/永和元)に『五百番歌合』に「源資氏」、1376年(天授2/永和2)に『千首和歌』に「光長朝臣」の隠名で詠進したのではと考えられてきました。1392年(元中9/明徳3)に、和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して南北朝合一の下交渉が始められ、翌年閏10月に、①譲位の儀をもって神器を北朝の後小松天皇へ授けること、②皇統は両統迭立たること、③国衙領は大覚寺統の領地とすること、④長講堂領は持明院統の領地とすることを条件として、南北両朝合一によって京都へ還幸し、退位します。1394年(応永元)に京都・天竜寺においてはじめて室町幕府第3代将軍足利義満と面会、太上天皇の尊号が贈進されることとなりました。しかし、1397年(応永4)に、尊号および兵仗を辞退し、出家して金剛心と号し、隠遁生活に入ります。
 1408年(応永15)の義満没後は、武家側の待遇も悪く、和平条件は履行されず、1410年(応永17)には、突如嵯峨を出奔、吉野山に入りました。続いて、伊勢国司北畠満雅の挙兵もあり、南朝再興の動きも盛んとなったものの、1415年(応永22)に、説成親王の調停によって幕府との和睦が成立し、1416年(応永23)には、広橋兼宣らの仲介で京都へ帰還します。
 その後、1424年(応永31年4月12日)に、京都の大覚寺でおよそ数え年75歳で亡くなり、御陵は同寺近くの嵯峨小倉陵(現在の京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町)とされました。

<後亀山天皇の代表的な和歌>

・「いかがせむ しぐれて渡る 冬の日の みじかき心 くもりやすきを」(後亀山院千首和歌)

〇後亀山天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1350年(正平5年/観応元年)? 後村上天皇の第2皇子(母は阿野実為の娘)として生まれる
・1365年(正平20年/貞治4年) 『内裏三百六十首歌』に「無品親王」として詠進する
・1368年(正平23年/応安元年) 立太子する
・1375年(天授元年/永和元年) 『五百番歌合』に「源資氏」の隠名で詠進する
・1376年(天授2年/永和2年) 『千首和歌』に「光長朝臣」の隠名で詠進する
・1383年(弘和3年/永徳3年)冬 長慶天皇の譲位を受けて践祚する
・1392年(元中9年/明徳3年) 和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して南北朝合一の下交渉を始める
・1393年(元中9年/明徳3年閏10月) 南北両朝合一によって退位する
・1394年(応永元年2月6日) 天竜寺においてはじめて義満と面会する
・1394年(応永元年2月23日) 天皇に太上天皇の尊号が贈進される
・1397年(応永4年11月27日) 尊号および兵仗を辞退する
・1410年(応永17年11月27日) 突如嵯峨を出奔、吉野山に入る
・1412年(応永19年) 称光天皇が践祚する
・1415年(応永22年) 称光天皇践祚に反発した伊勢国司北畠満雅が蜂起するが、説成親王の調停によって幕府との和睦が成立する
・1416年(応永23年9月) 広橋兼宣らの仲介で京都へ帰還する
・1424年(応永31年4月12日) 京都の大覚寺で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1573年(元亀4)戦国大名武田信玄の命日(新暦5月13日)詳細
1905年(明治38)日本初の都市間電気鉄道である阪神電気鉄道が大阪(出入橋駅)~神戸(三宮駅)間で開業する詳細
1957年(昭和32)瀬戸内海の定期客船「第五北川丸」が座礁・沈没し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)詳細
1967年(昭和42)歌人・国文学者窪田空穂の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

nakamikadotennou01
 今日は、江戸時代中期の元禄14年に、第114代の天皇とされる中御門天皇の生まれた日ですが、新暦では1702年1月14日となります。
 中御門天皇(なかみかどてんのう)は、京都において、東山天皇の第5皇子(母は藤原賀子)として生まれましたが、名は慶仁(やすひと)と言いました。1707年(宝永4)に儲君に治定されて、親王宣下し、1708年(宝永5)に立太子します。
 同年6月21日に、父・東山天皇の譲りを受けて践祚し、翌年11月に数え年9歳で、第114代とされる天皇として即位式が行われましたが、霊元上皇、東山上皇が院政を行いました。閑院宮創設、朝儀再興にみられるように江戸幕府とは協調関係にあり、第6代将軍徳川家宣から第7代家継を経て第8代吉宗にわたって良好な関係が続きます。
 1711年(正徳元)に元服の儀が行われ、1716年(享保元)には、近衛尚子(摂政関白太政大臣近衛家熙の娘)が入内し、女御宣下を受けました。1729年(享保14)に第8代将軍徳川吉宗自ら注文した交趾(ベトナム)広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受けています。
 朝儀に対する関心が深く、古記録から朝儀の記事を抄出、分類した『公事部類』などを著し、また多才で知られ、管絃(特に笛)、和歌、書道を能くしたものの、1735年(享保20)には、皇太子昭仁親王(桜町天皇)に譲位し、太上天皇となりました。しかし、1737年(元文2年4月11日)に京都において、数え年37歳で亡くなり、陵墓は京都泉涌寺内月輪陵(現在の京都市東山区今熊野)とされています。

<中御門天皇の代表的な歌>

・「わが代にも ところをえてや 民までも 心のどかに 春をたのしむ」(享保15年御会始)
・「時しあれは 人の国なる けたものも けふ九重に みるがうれしさ」

〇中御門天皇関係略年表

・1702年(元禄14年12月17日) 京都において、東山天皇の第5皇子(母は藤原賀子)として生まれる 
・1707年(宝永4年3月) 儲君に治定される
・1707年(宝永4年4月) 親王宣下される
・1708年(宝永5年2月) 立太子する
・1708年(宝永6年6月21日) 父・東山天皇の譲りを受けて践祚する
・1709年(宝永7年) 閑院宮創設、朝儀再興が行われる
・1709年(宝永7年11月11日) 即位式が挙行される
・1710年(宝永6年12月17日) 父・東山上皇が亡くなる
・1711年(正徳元年1月1日) 元服の儀が行われたが、天皇元服の儀は近来稀なことであった
・1716年(享保元年11月13日) 近衛尚子(摂政関白太政大臣近衛家熙の娘)が入内し、女御宣下を受ける
・1720年(享保5年1月1日) 第1皇子昭仁親王(後の桜町天皇)が生まれる
・1729年(享保14年) 第8代将軍徳川吉宗自ら注文した交趾(ベトナム)広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受ける
・1732年(享保17年8月6日) 祖父・霊元上皇が亡くなる
・1735年(享保20年3月21日) 皇太子昭仁親王(後の桜町天皇)に譲位し、太上天皇となる
・1737年(元文2年4月11日) 京都において、数え年37歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1709年(宝永6)第113代の天皇とされる東山天皇の命日(新暦1710年1月16日)詳細
1902年(明治35)小学校教科書の採定をめぐる府県担当官と教科書会社の贈収賄事件(教科書疑獄事件)が発覚する詳細
1938年(昭和13)日本画家小川芋銭の命日詳細
1957年(昭和32)恩賜上野動物園内に常設では日本初のモノレールが開業する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ