ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:天武天皇

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 今日は、飛鳥時代の684年(天武天皇13)に、「八色の姓(やくさのかばね)」を制定した日ですが、新暦では11月13日となります。
 八色の姓(やくさのかばね)は、天武天皇が制定した姓制度で、「はっしきのせい」、「はっしきのかばね」とも呼ばれてきました。従来の姓制度を改めて、新たに①真人(まひと)、②朝臣(あそみ)、③宿禰(すくね)、④忌寸(いみき)、⑤道師(みちのし)、⑥臣(おみ)、⑦連(むらじ)、⑧稲置(いなき)の順に、八姓(はっせい)を定め、家格の尊卑を明らかにすると同時に氏族を朝廷の統制のもとにおこうとしものです。
 皇室との親疎や政界での地位を規準に、継体朝以後の天皇を祖とする公姓の豪族に真人、皇別の諸氏に朝臣、臣・連姓の有力氏族に宿禰、帰化系氏族に忌寸、技芸を世襲する氏族に道師、宿禰にもれた旧来の臣・連姓の氏族に臣と連、もとの稲置姓の氏族に稲置をそれぞれ与えられたとされますが、道師は実例がなくはっきりしていません。
 以下に、『日本書紀』巻第29の天武天皇13年の条に載っている、「八色の姓」制定の部分を掲載(現代語訳付)しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』巻第29で姓を与えたことが確認できる記事

・683年(天武12年9月23日) 倭直など38氏に連の姓を授ける。
・684年(天武13年10月1日) 守山公・路公・高橋公・三国公・当麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・息長公・羽田公・酒人公・山道公の13氏に真人の姓を授ける。
・684年(天武13年11月1日) 大三輪君など52氏に朝臣の姓を授ける。
・684年(天武13年12月2日) 大伴連など50氏に宿禰の姓を授ける。
・685年(天武14年6月20日) 大和連など11氏に忌寸の姓を授ける。

〇『日本書紀』巻第29 天武天皇13年の条

<原文>

 冬十月己卯朔、詔曰、更改諸氏之族姓、作八色之姓、以混天下萬姓。一曰眞人、二曰朝臣、三曰宿禰、四曰忌寸、五曰道師、六曰臣、七曰連、八曰稻置。是日、守山公・路公・高橋公・三国公・當麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公、十三氏賜姓曰眞人。

<読み下し文>

 冬十月己卯朔、詔して日く、「また諸の氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混す。一に日く、真人、二に日く、朝臣、三に日く、宿禰、四に日く、忌寸、五に日く、道師、六に日く、臣、七に日く、連、八に日く、稲置」。是の日に、守山公・路公・高橋公・三国公・當麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公、十三氏に姓を賜ひて真人と日う。

<現代語訳>

 冬10月1日。(天武天皇は)詔の中で次のように言いました。「さらに諸々の氏族の族姓(かばね)を改めて、八色の姓を作って、天下のすべての姓を統一する。一番目は真人(まひと)、二番目は朝臣(あそみ)、三番目は宿禰(すくね)、四番目は忌寸(いみき)、五番目は道師(みちのし)、六番目は臣(おみ)、七番目は連(むらじ)、八番目は稲置(いなぎ)」。この日に、守山公(もりやまのきみ)・路公(みちのきみ)・高橋公(たかはしのきみ)・三国公(みくにのきみ)・当麻公(たきまのきみ)・茨城公(うまらきのきみ)・丹比公(たじひのきみ)・猪名公(いなのきみ)・坂田公(さかたのきみ)・羽田公(はたのきみ)・息長公(いきながのきみ)・酒人公(さかひとのきみ)・山道公(やまじのきみ)の13氏に姓を与えて真人と言うようになりました。

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 今日は、飛鳥時代の672年(弘文天皇元)に、出家・隠棲していた大海人皇子(後の天武天皇)が弘文天皇を討つ為に吉野を出発し、壬申の乱が始まった日ですが、新暦では7月24日となります。
 壬申の乱(じんしんのらん)は、天智天皇が亡くなった後、大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(のちの天武天皇)との間で、皇位継承をめぐって争われた内乱でした。
 大化改新を指導(大海人皇子が補佐)し、668年(天智天皇7) に即位した天智天皇は、671年(天智天皇10)正月に、大友皇子を太政大臣に任命し、蘇我赤兄と中臣金を左右大臣に任じ、政治の表面から大海人皇子を締出しました。同年10月大海人皇子は病床の天皇に招かれ、後事を託されましたが拒否して東宮を辞し、出家剃髪して、妻(後の持統天皇)子やわずかの従者とともに吉野宮に引退します。
 同年12月に天智天皇が近江大津宮で病死し、大友皇子は近江朝で即位して弘文天皇となりました。672年(弘文天皇元年6月24日)に、近江朝方の先制攻撃を察知した大海人皇子は美濃国へ向かい、野上(現在の岐阜県関ヶ原町)に行宮を置き、本拠とします。東国の兵を集め、大和で呼応した豪族らとともに、同年7月2日に近江京へ進撃し、7月22日最後の一線であった瀬田川の戦いに勝利しました。
 その結果、大津宮は陥落し、大友皇子は自害、右大臣中臣金は斬刑、左大臣蘇我赤兄は流刑となります。勝利した大海人皇子は、翌年2月に飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。
 以後大化の改新が一層強力に推進されて律令体制が整備され、天皇を中心とする強力な中央集権国家が形成されていきます。

〇壬申の乱関係略年表(日付は旧暦です)

・668年(天智天皇7年1月3日) 天智天皇が即位する
・671年(天智天皇10年正月) 大友皇子を太政大臣に任命し、蘇我赤兄と中臣金を左右大臣に任じ、政治の表面から大海人皇子を締出す
・671年(天智天皇10年9月) 天智天皇が病の床に就く
・671年(天智天皇10年10月17日) 大海人皇子は病床の天智天皇に招かれ、後事を託されるが拒否して東宮を辞し、出家剃髪して吉野宮に引退する
・671年(天智天皇10年12月3日) 天智天皇が近江大津宮で病死する
・671年(弘文天皇元年12月5日) 大友皇子は近江朝で即位して弘文天皇となる
・672年(弘文天皇元年6月22日) 大海人皇子は使者を美濃国へ向かわせる
・672年(弘文天皇元年6月24日) 近江朝方の先制攻撃を察知した大海人皇子は美濃国へ向かう
・672年(弘文天皇元年7月2日) 軍勢を二手にわけて、近江京へ進撃を始める
・672年(弘文天皇元年7月7日) 息長の横河で戦端を開く
・672年(弘文天皇元年7月22日) 瀬田川の戦いに大海人皇子方が勝利する
・672年(弘文天皇元年7月23日) 大津宮は陥落し、大友皇子(弘文天皇)は自害する
・672年(天武天皇元年8月25日) 右大臣中臣金らが斬刑に処せられる
・672年(天武天皇元年9月) 大海人皇子は大和の飛鳥へ帰り、浄御原の新宮に入る
・673年(天武天皇2年2月27日) 大海人皇子が飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となる

〇大海人皇子(天武天皇)とは?

 飛鳥時代に活躍した第40代とされる天皇です。生年は明らかではありません(631年説がある)が、父・舒明天皇の第3皇子(母・皇極天皇)として生まれ、名は大海人 (おおあま) と言いました。
 668年(天智天皇7)に、兄が天智天皇として即位すると、皇太弟として政治を助けたとされています。671年(天智天皇10)に重病となった天智天皇が後事を託そうとしましたが、病気平癒祈願ため出家するとの名目で辞退し、吉野に引きこもりました。
 天智天皇の死後、672年(弘文天皇元)6月に挙兵し、鈴鹿と不破の関をふさいで東国の兵を動員して戦い、約1ヶ月後に近江大津宮に攻め込み、天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇)を自殺させて勝利を得ます(壬申の乱)。
 翌年2月27日、飛鳥浄御原宮にて即位し、天智天皇の子の鸕野讃良皇女(後の持統天皇)をたてて皇后としました。天皇中心の政治の確立をめざして、改新事業の推進、律令体制の強化に努め、675年(天武天皇4)には、諸氏族の部曲の廃止や諸王臣私有の山野の収公などの処置を行います。
 681年(天武天皇10)に、「飛鳥浄御原宮律令」の制定を命じ、史書の編纂事業(後に『古事記』、『日本書紀』として結実)も始めました。豪族たちを統制するための官僚化にも努め、684年(天武天皇13)に八色の姓の制を定め、翌年に親王、諸王に十二階、諸臣に四十八階の位階制(冠位四十八階)を制定します。
 このように、天皇を頂点とする中央集権的支配体制を整備してきましたが、686年(朱鳥元)に飛鳥で亡くなり、墓所は檜隈大内陵(現在の奈良県明日香村)として造られました。
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 今日は、飛鳥時代の686年(朱鳥元)に、天武天皇(第40代天皇)が亡くなった日ですが、新暦では10月1日となります。
 天武天皇の生年は明らかではありません(631年説がある)が、父・舒明天皇の第3皇子(母・皇極天皇)として生まれ、名は大海人 (おおあま) と言いました。
 668年(天智天皇7)に、兄が天智天皇として即位すると、皇太弟として政治を助けたとされています。671年(天智天皇10)に重病となった天智天皇が後事を託そうとしましたが、病気平癒祈願ため出家するとの名目で辞退し、吉野に引きこもりました。
 天智天皇の死後、672年(弘文天皇元)6月に挙兵し、鈴鹿と不破の関をふさいで東国の兵を動員して戦い、約1ヶ月後に近江大津宮に攻め込み、天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇)を自殺させて勝利を得ます(壬申の乱)。
 翌年2月27日、飛鳥浄御原宮にて即位し、天智天皇の子の鸕野讃良皇女(後の持統天皇)をたてて皇后としました。
 天皇中心の政治の確立をめざして、改新事業の推進、律令体制の強化に努め、675年(天武天皇4)には、諸氏族の部曲の廃止や諸王臣私有の山野の収公などの処置を行います。
 681年(天武天皇10)に、「飛鳥浄御原宮律令」の制定を命じ、史書の編纂事業(後に『古事記』、『日本書紀』として結実)も始めました。
 豪族たちを統制するための官僚化にも努め、684年(天武天皇13)に八色の姓の制を定め、翌年に親王、諸王に十二階、諸臣に四十八階の位階制(冠位四十八階)を制定します。
 このように、天皇を頂点とする中央集権的支配体制を整備してきましたが、686年(朱鳥元)に飛鳥で亡くなり、墓所は檜隈大内陵(現在の奈良県明日香村)として造られました。

〇天武天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・631年(舒明天皇3) 生誕したという説がある
・668年(天智天皇7)1月3日 兄が天智天皇として即位すると、皇太弟として政治を助ける(否定説あり)
・671年(天智天皇10) 重病となった天智天皇が後事を託そうとするが、辞退して吉野に引きこもる
・672年(弘文天皇元)6月 挙兵して約1ヶ月後に近江大津宮に攻め込み、大友皇子を自殺させる(壬申の乱)
・673年(弘文天皇2)2月27日 飛鳥浄御原宮で即位、鸕野讃良皇女(後の持統天皇)をたてて皇后とする
・675年(天武天皇4) 諸氏族の部曲の廃止や諸王臣私有の山野の収公などの処置を行なう
・676年(天武天皇5) 陰陽寮を設置する
・677年(天武天皇6) 諸王臣の封戸(ふこ)に対して強い統制を及ぼす
・678年(天武天皇7) 官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定める
・679年(天武天皇8) 吉野に行幸する
・679年(天武天皇8) 皇后、草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる(吉野の盟約)
・680年(天武天皇9) 皇后(後の持統天皇)の病気平癒祈願ために薬師寺の建立を命じる
・681年(天武天皇10) 「飛鳥浄御原宮律令」の制定を命じ、草壁皇子を皇太子に立てる
・681年(天武天皇10) 史書の編纂事業(後に『古事記』、『日本書紀』として結実)も始める
・682年(天武天皇11) 匍匐礼を廃し、立礼にすることを命じる
・683年(天武天皇12)2月1日 大津皇子にも朝政をとらせる
・683年(天武天皇12) 日本最初の貨幣である富本銭が発行される
・684年(天武天皇13) 八色の姓の制を定める
・685年(天武天皇14) 親王、諸王に十二階、諸臣に四十八階の位階制(冠位四十八階)を制定する
・686年(朱鳥元)9月9日 飛鳥において亡くなる(墓所は檜隈大内陵)
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