ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:天文学者

teraohisashi01
 今日は、大正時代の1923年(大正12)に、天文学者・初代東京天文台長寺尾寿が亡くなった日です。
 寺尾寿(てらお ひさし)は、江戸時代後期の1855年(安政2年9月25日)に、福岡藩士寺尾喜平太の長男として、筑前国那珂郡春吉村(現在の福岡県福岡市博多区中洲)に生まれました。藩校修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)に学んで学才を示し、1873年(明治6)に東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学しフランス語を修めます。
 1874年(明治7)に開成学校(東京大学の前身)へ入学し物理学を専攻、フランス人お雇い外国人エミール・レピシエから天文学を学び、1878年(明治11)には、東京大学理学部物理学科を卒業しました。1879年(明治12)に官費留学生としてフランスに留学し、モンスウリ天文台に入り星学修業、パリ天文台に入り実地星学修業し、1882年(明治15)には、仏国文部卿より「リサンシェ・エス・シアンス・アマティク」の学位受領(パリ大学)、金星日面経過観察のため、仏国政府より「マルチニク島」へ観察委員派遣につき随行します。
 1883年(明治16)に米国を経て帰国、東京大学理学部講師となり、東京物理学校初代校長に就任、1884年(明治17)には、東京大学理学部星学科教授に昇任しました。1888年(明治21)に東京大学附属東京天文台(現在の国立天文台)の初代台長に就任、理学博士号を授与され、1889年(明治22)には、仏国パリ府において万国測地学会議開設に付、委員として派遣されます。
 1896年(明治29)に東京物理学校を辞め、勲、1897年(明治30)には、日本で初となる海外遠征でインドにおける日食観測を行ない、コロナの撮影に成功しました。1903年(明治36)に東京学士会院(帝国学士院の前身)会員となり、1908年(明治41)には、日本天文学会を創立し、初代会長に就任します。
 1915年(大正4)に東京帝国大学理科大学教授を退官、1919年(大正8)に日本天文学会長、東京天文台台長を退き、1920年(大正9)には、東京帝国大学名誉教授の称号を授与されました。1922年(大正11)には、フランス共和国政府より、「コンマンドール・メリット・アグリコル」勲章を受けます。
 引退後は、静岡県の伊東にある別荘において暮らしていましたが、1923年(大正12)8月6日に、67歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈されました。

〇寺尾寿関係略年表

・1855年(安政2年9月25日) 福岡藩士寺尾喜平太の長男として、筑前国那珂郡春吉村(現在の福岡県福岡市博多区中洲)に生まれる
・1873年(明治6) 東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学しフランス語を修める
・1874年(明治7) 開成学校(東京大学の前身)へ入学し物理学を専攻する
・1878年(明治11) 東京大学理学部物理学科を卒業する
・1879年(明治12) 官費留学生としてフランスに留学し、モンスウリ天文台に入り星学修業、パリ天文台に入り実地星学修業をする
・1882年(明治15) 仏国文部卿より「リサンシェ・エス・シアンス・アマティク」の学位受領(パリ大学)、金星日面経過観察のため、仏国政府より「マルチニク島」へ観察委員派遣につき随行する
・1883年(明治16) 米国を経て帰朝、東京大学理学部講師となり、東京物理学校初代校長に就任、渡仏前の黒田清輝に仏語を教授する
・1884年(明治17) 東京大学理学部星学科教授に就任する
・1886年(明治19) 従六位に叙される
・1888年(明治21) 東京大学附属東京天文台(現在の国立天文台)の初代台長に就任、理学博士号を授与される
・1889年(明治22) 仏国パリ府において万国測地学会議開設に付、委員として派遣される
・1892年(明治25) 正六位に叙される
・1893年(明治26) 東京大学理学部星学科が二講座制になると第一講座を担当する
・1896年(明治29) 東京物理学校を辞め、勲六等瑞宝章を受章する
・1897年(明治30) 日本で初となる海外遠征でインドにおける日食観測を行ない、コロナの撮影に成功し、正五位に叙される
・1900年(明治33) 勲四等瑞宝章を受章する
・1901年(明治34) 従四位に叙される
・1902年(明治35) 勲三等瑞宝章を受章する
・1903年(明治36) 東京学士会院(帝国学士院の前身)会員となる
・1908年(明治41) 日本天文学会を創立し、初代会長に就任する
・1909年(明治42) 勲二等瑞宝章を受章する
・1911年(明治44) 従三位に叙される
・1915年(大正4) 東京帝国大学理科大学教授を退官する
・1919年(大正8) 日本天文学会長、東京天文台台長を退く
・1920年(大正9) 東京帝国大学名誉教授の称号を授与される
・1922年(大正11) フランス共和国政府より、「コンマンドール・メリット・アグリコル」勲章を受ける
・1923年(大正12)8月6日 67歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1359年(正平14/延文4)筑後川の戦いで南朝方の懐良親王らと北朝方の少弍頼尚が戦い、夜襲で北朝方が勝利する(新暦8月29日)詳細
1896年(明治29)国際法学者・第3代最高裁判所長官横田喜三郎の誕生日詳細
1926年(大正15)東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局を統合し社団法人日本放送協会を設立する詳細
1945年(昭和20)アメリカ軍の中小型58機による都城大空襲が行われ、56人が亡くなる詳細
1949年(昭和24)「広島平和記念都市建設法」が公布・施行される詳細
1955年(昭和30)広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催される詳細
1981年(昭和56)電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電に成功する(太陽熱発電の日)詳細
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kimurahisashi01
 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、天文学者木村栄の亡くなった日です。
 木村栄(きむら ひさし)は、明治時代前期の1870年(明治3年9月10日)に、石川県石川郡野村字泉野(現在の金沢市泉野町)において、菜種油の生産や酒造りなどを手広く商う素封家の父・篠木庄太郎の次男として生まれましたが、翌年には、木村民衛の養子となりました。1877年(明治10)に越田善七の和算塾で算数、大島塾で漢文を学び、翌年には、養父の木村塾で小先生と呼ばれるようになります。
 1880年(明治13)に加賀藩藩校明倫館の流れを汲む石川県専門学校に入学、1887年(明治20)に同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進みました。1889年(明治22)に同校を首席で卒業し、帝国大学理科大学星学科に入学、今川覚神より天文学を学んで、1892年(明治25)に卒業後、星を研究するため、帝国大学大学院に進学、寺尾寿、田中館愛橘に師事して位置天文学および地球物理学を専攻します。
 1895年(明治28)に嘱託として「緯度変化観測方」となり、東京で緯度観測を始め、1896年(明治29)には、田中舘と共に観測地の選定のため、水沢に来て数カ所の経緯度を測定し、天文台の候補位置を決定しました。1897年(明治30)に、日本初の海外観測となるインドでの皆既日食観測に寺尾寿、平山信、水原準三郎と共に、インドへ出張し、翌年には、第12回万国測地学(学会)協会に出席、岩手県の水沢が万国共同緯度観測所に決まります。
 1899年(明治32)に帰国し、臨時緯度観測所(水沢)の所長となり、観測を開始、1901年(明治34)には、地軸運動の解析的研究で緯度変化の二つの変動成分X、Yのほかに1年周期の第3成分Z項(木村項)を発見、翌年に論文を発表し、国際的に認められました。この成果により、1904年(明治37)に理学博士の学位を授与され、ブダペストでの万国測地学協会総会に出席、1910年(明治43)に英国王立天文学会会友に推薦され、翌年には、帝国学士院恩賜賞を受賞します。
 1920年(大正9)に緯度観測所長、万国緯度変化委員会委員長となり、1922年(大正11)には、実績を認められ、国際緯度観測事業中央局長に推挙され、水沢が中央局を担当する事になりました。1925年(大正14)に帝国学士院会員となり、1935年(昭和10)には、国際緯度観測事業観測結果報告書第7巻を発行します。
 1936年(昭和11)に、14年間務めた中央局長の職を辞し、中央局はイタリアに移り、王立天文学会ゴールドメダル、朝日文化賞を受賞、1937年(昭和12)には、第1回文化勲章も受章しました。1941年(昭和16)に緯度観測所長を辞任し、東京都世田谷区新町に移り住み、国際緯度観測事業観測結果報告書第8巻を発行します。
 しかし、1942年(昭和17)に持病の喘息がひどくなり、暖かな伊東へ転地療養(翌年4月まで)したものの、1943年(昭和18年)9月26日に、東京都世田谷区の自宅において、72歳で亡くなりました。

〇木村栄の主要な著作

・『緯度観測所に就て』(1908年)
・『緯度変化に就て』(1908年)

☆木村栄関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1870年(明治3年9月10日) 石川県石川郡野村字泉野(現在の金沢市泉野町)において、菜種油の生産や酒造りなどを手広く商う素封家の父・篠木庄太郎の次男として生まれる
・1871年(明治4年) 木村民衛の養子となる
・1877年(明治10) 越田善七の和算塾で算数、大島塾で漢文を学ぶ
・1878年(明治11) 養父の木村塾で小先生と呼ばれる
・1880年(明治13年) 加賀藩藩校明倫館の流れを汲む石川県専門学校に入学する
・1885年(明治18年) 赴任してきた北条時敬に学んで数学に目覚める
・1887年(明治20年) 同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進む
・1889年(明治22年) 第四高等中学校を首席で卒業し、帝国大学理科大学星学科に入学する
・1892年(明治25年) 大学を卒業後、星を研究するため、帝国大学大学院に進学する
・1895年(明治28年) 嘱託として「緯度変化観測方」となり、東京で緯度観測を始める
・1896年(明治29年) 田中舘と共に観測地の選定のため、水沢に来て数カ所の経緯度を測定し、天文台の候補位置を決定する
・1897年(明治30年) 日本初の海外観測となるインドでの皆既日食観測に寺尾寿、平山信、水原準三郎と共に、インドへ出張する
・1898年(明治31年) 第12回万国測地学(学会)協会に出席、岩手県の水沢が万国共同緯度観測所に決まる
・1899年(明治32年) 帰国し、臨時緯度観測所(水沢)の所長となり、観測を開始する
・1901年(明治34年) 地軸運動の解析的研究で緯度変化の二つの変動成分X、Yのほかに1年周期の第3成分Z項(木村項)を発見する
・1902年(明治35年) Z項の発見論文を発表し、国際的に認められる
・1904年(明治37年) 理学博士の学位を授与され、ブダペストでの万国測地学協会総会に出席する
・1910年(明治43年) 英国王立天文学会会友に推薦される
・1911年(明治44年) 帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1920年(大正9年) 緯度観測所長、万国緯度変化委員会委員長となる
・1922年(大正11年) 実績を認められ、国際緯度観測事業中央局長に推挙され、水沢が中央局を担当する事になる
・1925年(大正14年) 帝国学士院会員となる
・1935年(昭和10年) 国際緯度観測事業観測結果報告書第7巻を発行する
・1936年(昭和11年) 14年間務めた中央局長の職を辞し、中央局はイタリアに移り、王立天文学会ゴールドメダル、朝日文化賞を受賞する
・1937年(昭和12年) 第1回文化勲章を受章する
・1941年(昭和16年) 緯度観測所長を辞任し、東京都世田谷区新町に移り住み、国際緯度観測事業観測結果報告書第8巻を発行する
・1942年(昭和17年) 持病の喘息がひどくなり、暖かな伊東へ転地療養する
・1943年(昭和18年)9月26日 東京都世田谷区の自宅において、72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)哲学者・評論家・思想家三木清の命日詳細
1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆する詳細
洞爺丸台風の暴風下において、北海道で岩内大火が起き、3,298戸が焼失する詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細
1968年(昭和43)厚生省が水俣病と新潟水俣病を公害病として認定する詳細
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