ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:天台宗

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 今日は、平安時代前期の822年(弘仁13)に、平安初期の僧・日本天台宗の開祖最澄の亡くなった日ですが、新暦では6月26日となります。
 最澄(さいちょう)は、奈良時代の767年(神護景雲元年8月18日)に、近江国坂本(現在の滋賀県大津市)の一帯を統治する豪族の父・三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれましたが、幼名は広野と言いました。778年(宝亀9)、12歳のときに近江国分寺の行表を師として出家、780年(宝亀11)、14歳のときに得度し名を最澄と改めます。
 785年(延暦4)、19歳のとき東大寺の戒壇で具足戒(小乗戒)を受け、比叡山に登り山林に入り、天台三大部を研修しました。801年(延暦20)に南都の大徳10人を招いて法華会を修し、翌年には自ら高雄山寺で天台法華一乗を説きます。
 同年に桓武天皇から入唐の勅命を受け、804年(延暦23)に遣唐使の一員として、空海、橘逸勢らと共に入唐し、天台山で行満から天台の教えを受け、また禅法、大乗菩薩の戒法、密教を学びました。805年(延暦24)に帰国し、密教を伝えるために高雄山寺に灌頂壇を設け、翌年最澄の上表により、天台宗としての年分度者を許されます。
 しかし旧仏教の反対は強く、晩年には、法相宗の徳一との間で教理論争(三乗一乗権実論争)をおこない、819年 (弘仁10) に比叡山に大乗戒壇建立を奏上したものの、南都六宗の反対で許されませんでした。
 そして、822年(弘仁13)に、比叡山において、数え年56歳で亡くなりますが、没後7日目に大乗戒壇設立が勅許されます。尚、866年(貞観8)に、清和天皇より伝教大師(日本最初の大師号)の諡号が贈られました。

〇最澄の主要な著作

・『照権実鏡(しょうごんじっきょう)』
・『法華去惑(こわく)』
・『守護国界章(しゅごこっかいしょう)』(818年)
・『決権実論』
・『法華秀句(しゅうく)』
・『山家学生式(さんげがくしょうしき)』(818~819年)
・『顕戒論(けんかいろん)』
・『内証仏法血脈譜(ないしょうぶっぽうそうしょうけちみゃくふ)』
・『通六九証破比量文(つうろくきゅうしょうはひりょうもん)』
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 今日は、平安時代中期の985年(永観3)に、天台宗の僧・比叡山中高の祖良源の亡くなった日ですが、新暦では1月26日となります。
 良源(りょうげん)は、912年(延喜12)9月3日に、近江国浅井郡虎姫(現在の滋賀県長浜市)で、地元の豪族であった木津氏の子として生まれましたが、幼名は観音丸(日吉丸とも)と言いました。
 幼時から霊童とされ、梵釈寺覚阿に勧められ、923年(延長元)に比叡山宝幢院月燈のもとへ行きます。ついで、比叡山西塔理仙の弟子となり、928年(延長6)に座主尊意から受戒し、出家しました。喜慶や満賀、相応らを歴学して天台教学顕密二教に通じます。
 937年(承平7)に興福寺維摩会の番論議で、法相宗の義昭を論破して名声をあげ、藤原忠平に認められました。949年(天暦3)に横川の首楞厳院に籠居しましたが、翌年師輔の推挙で東宮護持僧となります。
 その後、963年(応和3)に内供奉十禅師となり、966年(康保3)には第18世天台宗座主に就任しました。同年、焼失した比叡山の諸堂伽藍を再興するとともに、比叡山内に六月会広学竪義(論義問答)をおこして天台宗の教学振興を図ります。
 968年(安和元)に権少僧都となり、970年(天禄元)に『二十六箇条起請』を布告して綱紀粛正を図りました。981年(天元4)には、史上第2番目の大僧正となり、仏教界の綱位を極めます。
 984年(永観2)暮れに、横川から坂本弘法寺に下り、翌年1月3日に、74歳で没したので、「元三大師」とも呼ばれました。
 没後、987年(寛和3)に慈恵の諡号を贈られたので、「慈恵大師」とも言われています。比叡山中興の祖とされ、門下3,000人といわれ、源信、覚運、尋禅、覚超の4人は、良源の弟子中の四哲と呼ばれてきました。

〇良源の主要な著作

・『極楽浄土九品往生義』
・『二十六条式』
・『百五十尊口訳』
・『胎金念誦行記』
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