
1805年(文化2)に、長兄の芳丸が早世したため、唐津藩の世子となり、忠邦と称し、1807年(文化4)に元服、従五位下・式部少輔に叙位・任官します。1812年(文化9)に父・忠光が隠居したため、家督を相続し、唐津藩第4代藩主となりました。
1815年(文化12)に奏者番、1817年(文化14)には、遠江国浜松に移封と共に、寺社奉行兼任となります。その後、第11代将軍・家斉のもとで重く用いられるようになり、1825年(文政8)に大坂城代となり、従四位下に昇位し、1826年(文政9)には京都所司代となって、侍従・越前守に昇叙しました。
1828年(文政11)に西丸老中、1834年(天保5)に本丸老中、1839年(天保10)に老中首座へと登り詰めます。1841年(天保12)に大御所・家斉が亡くなると御側御用取次水野忠篤らの側近を迅速果断に一掃し、第12代将軍・家慶の信任を得て、天保の改革を断行しました。
しかし、きびしい奢侈取り締まりや年貢増などが反発を呼び、1843年(天保14)の「上知令」断行が大名・旗本の反対に遭うなどして、同年閏9月13日に老中を罷免されて失脚します。翌年復職しましたが、まもなく辞任し、1845年(弘化2)には、在任中の不正を理由に減封され、隠居・謹慎となりました。
そして、出羽国山形に懲罰的転封を命じられましたが、忠邦は山形には同行できないままとなります。その中で、1851年(嘉永4年2月10日)に、江戸において、数え年58歳で亡くなりました。
内憂外患の深刻な危機の打開をめざし、奢侈一掃と質素倹約を強調、特に都市に厳しい統制を実施しました。その内容は、株仲間解散、「人返し令」、「異国船打ち払い令」を撤回した「薪水給与令」、「上知令」、印旛沼工事、御料所改革、貨幣改革、日光社参などです。しかし、あまりに急激な改革で、大名・旗本から農民、町人に至るまであらゆる階層の利害と衝突して失敗し、水野忠邦は1843年(天保14年閏9月13日)に老中を罷免されて失脚しました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
585年(敏達天皇14) | 仏教排斥を唱える物部守屋が、疫病の流行が原因が仏教崇拝にあると奏上する(新暦4月5日) | 詳細 |
1871年(明治4) | 郵便制度が新設され、郵便物の取扱、最初の切手(竜文切手)の発行が始まる(新暦4月20日) | 詳細 |
1912年(明治45) | 余部鉄橋の完成により、山陰鉄道の香住駅~浜坂駅間が開業し、京都駅~出雲今市駅間が全通する | 詳細 |
1941年(昭和16) | 「国民学校令」が公布される | 詳細 |
1952年(昭和27) | 小説家・劇作家・俳人久米正雄の命日(三汀忌) | 詳細 |
1954年(昭和29) | 第五福竜丸が太平洋のビキニ環礁のアメリカ水爆実験で被曝する(ビキニデー) | 詳細 |
1982年(昭和57) | 当時の日本国有鉄道が「青春18きっぷ」の前身にあたる「青春18のびのびきっぷ」の発売を開始する | 詳細 |