ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:天保の改革

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 今日は、江戸時代後期の1841年(天保12)に、将軍・徳川家慶が、享保・寛政の改革にならった幕政改革を上意し、老中・水野忠邦が幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じ、天保の改革が始まった日ですが、新暦では7月3日となります。
 天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代後期の1841年(天保12)から、江戸幕府第12代将軍徳川家慶の厚い信任を受け、老中首座の水野忠邦が主導した幕政改革で、享保の改革、寛政の改革と共に江戸幕府の三大改革の一つとされています。内憂外患の深刻な危機の打開をめざし、奢侈一掃と質素倹約を強調、特に都市に厳しい統制を実施しました。
 その内容は、株仲間解散、「人返し令」、「異国船打ち払い令」を撤回した「薪水給与令」、「上知令」、印旛沼工事、御料所改革、貨幣改革、日光社参などです。しかし、あまりに急激な改革で、大名・旗本から農民、町人に至るまであらゆる階層の利害と衝突して失敗し、水野忠邦は1843年(天保14年閏9月13日)に老中を罷免されて失脚しました。

<天保の改革の主要政策>

【経済政策】
・「倹約令」
 ぜいたくや初物の禁止
・「株仲間解散令」
 物価引き下げと在郷商人の直接統制を意図する
・「人返し令」
 都市に流入した農民を帰村させる
・「上知令」
 江戸と大坂周辺を直轄地とする
・印旛沼干拓工事
・御料所改革
・貨幣改革
 貨幣を改鋳して質を落とす

【文教政策】
・出版統制
 人情本の為永春水、合巻の柳亭種彦を処罰する
・江戸の歌舞伎三座を場末の浅草に移転する
・日光社参

【外交政策】
・「天保の薪水給与令」
 「異国船打ち払い令」の緩和

〇水野 忠邦】(みずの ただくに)とは?

 江戸時代の大名・老中で天保の改革の主導者です。江戸時代後期の1794年(寛政6年6月23日)に、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男(母は側室中川恂)として、江戸の同藩上屋敷にて生まれましたが、幼名は於菟五郎と言いました。
 1805年(文化2)に、長兄の芳丸が早世したため、唐津藩の世子となり、忠邦と称し、1807年(文化4)に元服、従五位下・式部少輔に叙位・任官します。1812年(文化9)に父・忠光が隠居したため、家督を相続し、唐津藩第4代藩主となりました。
 1815年(文化12)に奏者番、1817年(文化14)には、遠江国浜松に移封と共に、寺社奉行兼任となります。その後、第11代将軍・家斉のもとで重く用いられるようになり、1825年(文政8)に大坂城代となり、従四位下に昇位し、1826年(文政9)には京都所司代となって、侍従・越前守に昇叙しました。
 1828年(文政11)に西丸老中、1834年(天保5)に本丸老中、1839年(天保10)に老中首座へと登り詰めます。1841年(天保12)に大御所・家斉が亡くなると御側御用取次水野忠篤らの側近を迅速果断に一掃し、第12代将軍・家慶の信任を得て、天保の改革を断行しました。
 しかし、きびしい奢侈取り締まりや年貢増などが反発を呼び、1843年(天保14)の「上知令」断行が大名・旗本の反対に遭うなどして、同年閏9月13日に老中を罷免されて失脚します。翌年復職しましたが、まもなく辞任し、1845年(弘化2)には、在任中の不正を理由に減封され、隠居・謹慎となりました。
 そして、出羽国山形に懲罰的転封を命じられましたが、忠邦は山形には同行できないままとなります。その中で、1851年(嘉永4年2月10日)に、江戸において、数え年58歳で亡くなりました。

☆水野忠邦関係略年表(日付は旧暦です)

・1794年(寛政6年6月23日) 唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男(母は側室中川恂)として、江戸の同藩上屋敷にて生まれる
・1805年(文化2年) 長兄の芳丸が早世したため、唐津藩の世子となる
・1807年(文化4年9月7日) 元服し、従五位下・式部少輔に叙位・任官する
・1812年(文化9年8月) 父・忠光が隠居したため、家督を相続し、唐津藩第3代藩主となり、和泉守に遷任される
・1815年(文化12年11月12日) 江戸幕府の奏者番となる
・1817年(文化14年8月) 遠江国浜松6万石に移封される、
・1817年(文化14年9月10日) 寺社奉行兼務となり、左近衛将監に遷任される
・1825年(文政8年) 大坂城代となり、従四位下に昇位する
・1826年(文政9年) 京都所司代となって、侍従・越前守に昇叙する
・1828年(文政11年) 西丸老中となる
・1834年(天保5年) 本丸老中となる
・1837年(天保8年4月) 家斉が隠居し、第12代将軍に家慶が就く
・1839年(天保10年) 老中首座へと登り詰める
・1841年(天保12年) 大御所・家斉が亡くなると御側御用取次水野忠篤らの側近を一掃し、第12代将軍・家慶の信任を得て、天保の改革を断行する
・1843年(天保14年3月) 「人返し令」を発布する
・1843年(天保14年6月1日) 「上知令」を発布する
・1843年(天保14年閏9月7日) 「上知令」を撤回する
・1843年(天保14年閏9月13日) 老中を罷免されて失脚する
・1844年(弘化元年5月) 江戸城本丸が火災により焼失する
・1844年(弘化元年6月21日) 老中首座に復職する
・1845年(弘化2年2月22日) 老中を辞職する
・1845年(弘化2年9月2日) 在任中の不正を理由に減封され、隠居・謹慎となり、1万石没収される
・1845年(弘化2年11月30日) 出羽国山形5万石に転封させられる
・1851年(嘉永4年2月10日) 江戸において、数え年58歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3)幕府方の北条泰家軍と反幕府方の新田義貞軍とで、分倍河原の戦いが始まる(新暦6月27日)詳細
1615年(慶長20)武将・安土桃山時代の大名長宗我部盛親が斬首される(新暦6月11日)詳細
1868年(慶応4)寛永寺の彰義隊が新政府軍の総攻撃(上野戦争)で敗走、新政府が江戸を掌握する(新暦7月4日)詳細
1884年(明治17)群馬県陣場ヶ原に農民と自由党員が集結、警察分署と高利貸しを襲撃したが挫折する(群馬事件)詳細
1889年(明治22)大槻文彦が編纂した日本初の近代的国語辞典『言海』第一冊が発刊される詳細
1891年(明治25)建築家村野藤吾の誕生日詳細
1912年(明治45)長塚節著の『土』が春陽堂から刊行される詳細
1932年(昭和7)五・一五事件が起こり、犬養首相が暗殺される詳細
1972年(昭和47) 「沖縄返還協定」が発効する(沖縄復帰記念日)詳細
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 今日は、江戸時代後期の1834年(天保5)に、水野忠邦(天保の改革を推進)が、江戸幕府の老中に就任した日ですが、新暦では4月9日となります。
 水野忠邦(みずの ただくに)は、江戸時代の大名・老中で天保の改革の主導者です。江戸時代後期の1794年(寛政6年6月23日)に、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男(母は側室中川恂)として、江戸の同藩上屋敷にて生まれましたが、幼名は於菟五郎と言いました。
 1805年(文化2)に、長兄の芳丸が早世したため、唐津藩の世子となり、忠邦と称し、1807年(文化4)に元服、従五位下・式部少輔に叙位・任官します。1812年(文化9)に父・忠光が隠居したため、家督を相続し、唐津藩第4代藩主となりました。
 1815年(文化12)に奏者番、1817年(文化14)には、遠江国浜松に移封と共に、寺社奉行兼任となります。その後、第11代将軍・家斉のもとで重く用いられるようになり、1825年(文政8)に大坂城代となり、従四位下に昇位し、1826年(文政9)には京都所司代となって、侍従・越前守に昇叙しました。
 1828年(文政11)に西丸老中、1834年(天保5)に本丸老中、1839年(天保10)に老中首座へと登り詰めます。1841年(天保12)に大御所・家斉が亡くなると御側御用取次水野忠篤らの側近を迅速果断に一掃し、第12代将軍・家慶の信任を得て、天保の改革を断行しました。
 しかし、きびしい奢侈取り締まりや年貢増などが反発を呼び、1843年(天保14)の「上知令」断行が大名・旗本の反対に遭うなどして、同年閏9月13日に老中を罷免されて失脚します。翌年復職しましたが、まもなく辞任し、1845年(弘化2)には、在任中の不正を理由に減封され、隠居・謹慎となりました。
 そして、出羽国山形に懲罰的転封を命じられましたが、忠邦は山形には同行できないままとなります。その中で、1851年(嘉永4年2月10日)に、江戸において、数え年58歳で亡くなりました。

〇天保の改革(てんぽうのかいかく)とは?

 江戸時代後期の1841年(天保12)から、江戸幕府第12代将軍徳川家慶の厚い信任を受け、老中首座の水野忠邦が主導した幕政改革で、享保の改革、寛政の改革と共に江戸幕府の三大改革の一つとされています。
 内憂外患の深刻な危機の打開をめざし、奢侈一掃と質素倹約を強調、特に都市に厳しい統制を実施しました。その内容は、株仲間解散、「人返し令」、「異国船打ち払い令」を撤回した「薪水給与令」、「上知令」、印旛沼工事、御料所改革、貨幣改革、日光社参などです。しかし、あまりに急激な改革で、大名・旗本から農民、町人に至るまであらゆる階層の利害と衝突して失敗し、水野忠邦は1843年(天保14年閏9月13日)に老中を罷免されて失脚しました。

<天保の改革の主要政策>

【経済政策】

・「倹約令」
 ぜいたくや初物の禁止
・「株仲間解散令」
 物価引き下げと在郷商人の直接統制を意図する
・「人返し令」
 都市に流入した農民を帰村させる
・「上知令」
 江戸と大坂周辺を直轄地とする
・印旛沼干拓工事
・御料所改革
・貨幣改革
 貨幣を改鋳して質を落とす

【文教政策】

・出版統制
 人情本の為永春水、合巻の柳亭種彦を処罰する
・江戸の歌舞伎三座を場末の浅草に移転する
・日光社参

【外交政策】

・「天保の薪水給与令」
 「異国船打ち払い令」の緩和

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)仏教排斥を唱える物部守屋が、疫病の流行が原因が仏教崇拝にあると奏上する(新暦4月5日)詳細
1871年(明治4)郵便制度が新設され、郵便物の取扱、最初の切手(竜文切手)の発行が始まる(新暦4月20日)詳細
1912年(明治45)余部鉄橋の完成により、山陰鉄道の香住駅~浜坂駅間が開業し、京都駅~出雲今市駅間が全通する詳細
1941年(昭和16)国民学校令」が公布される詳細
1952年(昭和27)小説家・劇作家・俳人久米正雄の命日(三汀忌)詳細
1954年(昭和29)第五福竜丸が太平洋のビキニ環礁のアメリカ水爆実験で被曝する(ビキニデー)詳細
1982年(昭和57)当時の日本国有鉄道が「青春18きっぷ」の前身にあたる「青春18のびのびきっぷ」の発売を開始する詳細
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 今日は、江戸時代後期の1851年(嘉永4)に、江戸幕府により、江戸に於て、「株仲間再興令」が布達された日ですが、新暦では4月10日となります。
 「株仲間再興令」(かぶなかまさいこうれい)は、それまでの「株仲間解散令」を改め、株仲間・問屋・組合の再興を許可した幕府法令でした。老中水野忠邦を中心とする天保の改革によって、天保12年12月13日(1842年1月24日)に、「株仲間解散令」が出され、株仲間・問屋・組合の解散が命じられます。
 株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるという認識から、冥加金の上納を停止させ、江戸十組問屋仲間を解散させたものでしたが、流通上の混乱を招き、また江戸・大坂以外へ商品が流れることになり、かえって物価が高騰し、意図した効果をあげることができなくなりました。そこで、多くの役人が株仲間の再結成を幕府に進言することとなり、「株仲間解散令」を撤回したこの法令が、嘉永4年(1851年)3月9日に江戸、3月21日に大坂、3月中の京都をはじめ、駿府、伏見、奈良などの直轄都市を中心に布達されます。
 しかし、株札の発行や冥加金の徴収を行わないなど、必ずしも天保の改革以前の状態に戻したものではありませんでした。その後、全体として仲間数や加入者数が急増することとなり、大坂では、11857年(安政4)に町人からの出願により冥加金の上納と株札の発行が復活、江戸でもやがて冥加金の再上納が行われるようになります。
 以下に、「株仲間再興令」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「株仲間再興令」 1851年(嘉永4年3月)布達

去ル丑年中諸問屋組合停止被仰出候処、其巳来問屋組合商法取締相崩、諸品下直二も不相成、却て不融通の趣も相聞候二付、此度問屋組合の儀、都て文化巳前の通再興被申付候、左侯迎元十組の者共冥加金上納等の御沙汰ハ弥以無之候間、文化以来の商法二不流、諸商人共物価引下ケ方の義厚心掛、実意二渡世相営候様得と申諭、取締方等精々可申渡候

   三 月

右の通町奉行え申渡候間,向々え可被相触候,
右の趣於江戸表二同所町奉行え被仰渡候段,此旨三郷町中可触知者也

   亥三月       加 賀
                日 向 

〇「株仲間解散令」(かぶなかまかいさんれい)とは?

 江戸時代後期の天保12年12月13日(1842年1月24日)に、江戸幕府が天保の改革の一つとして、株仲間・問屋・組合の解散を命じた幕府法令です。天保の改革の中心人物であった老中水野忠邦は、株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるという認識から、冥加金の上納を停止させ、江戸十組問屋仲間を解散させたものでした。
 翌年3月2日には、全国の商人・職人に対して、あらゆる業種の株仲間の解散を命じるものに拡大し、素人直売買など自由な取引が奨励されます。その結果、流通上の混乱を招き、また江戸・大坂以外へ商品が流れることになり、かえって物価が高騰し、意図した効果をあげることができずに失敗しました。
 そこで、1851年(嘉永4)3月9日には、「株仲間再興令」が出されることとなります。
 以下に、「株仲間解散令」(抄)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
 
☆「株仲間解散令」 (抄文) 天保12年12月13日(1842年1月24日)発布 

仲間株札[1]は勿論、此外共都而問屋仲間[2]並組合[3]抔と唱候儀相成らず旨、十組問屋[4]共江申渡書。
             菱垣迴船[5]積問屋[6]、十組問屋[4]共
 其方共儀、是迄年々金壱万弐百両冥加上納[7]致来たり候処、問屋共不正の趣[8]に相聞に付、以来上納に及ばず候。尤向後[9]仲間株札[1]は勿論、此外共都而問屋仲間[2]並組合[3]抔と唱候儀は相成らず候。
一、右に付而は、是迄右船に積来候諸品は勿論、都而何国より出候何品に而も素人直売買[10]勝手次第[11]たるべく候。且又諸家国産類[12]其外惣而は江戸表江相迴し候品々も、問屋に限らず銘々出入りの者共引受け売捌候儀も、是又勝手次第[11]に候間其の旨存じすべし。
 (中略)

  天保十二年丑十二月十三日

     『徳川禁令考』より

【注釈】

[1]仲間株札:なかまかぶふだ=株仲間構成員の鑑札。
[2]問屋仲間:とんやなかま=問屋の同業組合で、営業の独占権を持っていた。
[3]組合:くみあい=営業の独占権を持つ同業組合。
[4]十組問屋:とくみとんや=江戸の荷受問屋の株仲間で、1694年(元禄7)に大坂から江戸へ下る荷物を扱う問屋仲間として発足する。
[5]菱垣迴船:ひがきかいせん=江戸~大阪間の定期的廻船。
[6]積問屋:つみとんや=発送元と発送する商品が固定化されている事業問屋。
[7]冥加上納:みょうがじょうのう=株仲間が特権的に営業を独占する代わりに幕府に収めさせた税金、
[8]不正の趣:ふせいのおもむき=当時、不当に値をつり上げて儲けていたことを指す。
[9]向後:きょうご=今後、事後。
[10]素人直売買:しろうとじきばいばい=仲間に入っていない一般商人・在郷商人の直接取引のこと。
[11]勝手次第:かってしだい=自分の思いどおりにすること。勝手きままに振る舞ってよいこと。自由に行ってよいこと。
[12]諸家国産類:しょかこくさんるい=諸藩の国産品。 

<現代語訳> 

株仲間構成員の鑑札はもちろん、この他すべての問屋仲間や問屋組合などと称えることを禁止する旨、十組問屋たちへ申し渡す書。
              菱垣迴船積問屋、十組問屋たち
 その方たちは、これまで毎年金1万200両の冥加金を上納してきたが、問屋たちに不正行為があるとの風評が立っているので、今後は上納しなくてもよい。よって今後は株仲間構成員の鑑札はもちろん、この他すべての問屋仲間や問屋組合などと称えてはならない。
  
 一、右のことについては、これまで右の船(菱垣廻船)に積載してきた諸商品はもちろん、すべてどの国より持ってきた、どのような商品においても、一般商人・在郷商人の直接取引を自由に行ってもよい。また、諸藩の国産品その他すべて江戸へ運送してきた品々も、問屋だけでなく、それぞれ出入りの商人が引き受けて、売りさばいても、これまた自由に行ってよいこととするから、そのことを申し渡せ。
 (中略)

  天保12年丑12月13日(1842年1月24日)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1634年(寛永11)将棋師・一世名人大橋宗桂(初代)の命日(新暦4月6日)詳細
1894年(明治27)日本初の記念切手(明治天皇銀婚記念切手)が発行される(記念切手記念日)詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「学童疎開強化要綱」を閣議決定する詳細
1958年(昭和33)下関~門司間の海底道路トンネルである関門国道トンネルが開通する詳細
1968年(昭和43)イタイイタイ病の患者・遺族が原因企業の三井金属鉱業に損害賠償を提訴する詳細
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 今日は、江戸時代後期の天保12年に、江戸幕府が天保の改革の一つとして、「株仲間解散令」を発布した日ですが、新暦では1842年1月24日となります。
 株仲間解散令(かぶなかまかいさんれい)は、天保の改革の一つとして、株仲間・問屋・組合の解散を命じた幕府法令でした。天保の改革の中心人物であった老中水野忠邦は、株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるという認識から、冥加金の上納を停止させ、江戸十組問屋仲間を解散させたものです。
 翌年3月2日には、全国の商人・職人に対して、あらゆる業種の株仲間の解散を命じるものに拡大し、素人直売買など自由な取引が奨励されました。その結果、流通上の混乱を招き、また江戸・大坂以外へ商品が流れることになり、かえって物価が高騰し、意図した効果をあげることができずに失敗します。そこで、1851年(嘉永4)3月9日には、「株仲間再興令」が出されることとなりました。
 以下に、「株仲間解散令」を注釈・現代語訳付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「株仲間解散令」 天保12年12月13日(1842年1月24日)発布

仲間株札[1]は勿論、此外共都而問屋仲間[2]並組合[3]抔と唱候儀相成らず旨、十組問屋[4]共江申渡書。
             菱垣迴船[5]積問屋[6]、十組問屋[4]共
 其方共儀、是迄年々金壱万弐百両冥加上納[7]致来たり候処、問屋共不正の趣[8]に相聞に付、以来上納に及ばず候。尤向後[9]仲間株札[1]は勿論、此外共都而問屋仲間[2]並組合[3]抔と唱候儀は相成らず候。
一、右に付而は、是迄右船に積来候諸品は勿論、都而何国より出候何品に而も素人直売買[10]勝手次第[11]たるべく候。且又諸家国産類[12]其外惣而は江戸表江相迴し候品々も、問屋に限らず銘々出入りの者共引受け売捌候儀も、是又勝手次第[11]に候間其の旨存じすべし。
(中略)

 天保十二年丑十二月十三日

   『徳川禁令考』より

【注釈】

[1]仲間株札:なかまかぶふだ=株仲間構成員の鑑札。
[2]問屋仲間:とんやなかま=問屋の同業組合で、営業の独占権を持っていた。
[3]組合:くみあい=営業の独占権を持つ同業組合。
[4]十組問屋:とくみとんや=江戸の荷受問屋の株仲間で、1694年(元禄7)に大坂から江戸へ下る荷物を扱う問屋仲間として発足する。
[5]菱垣迴船:ひがきかいせん=江戸~大阪間の定期的廻船。
[6]積問屋:づみとんや=発送元と発送する商品が固定化されている事業問屋。
[7]冥加上納:みょうがじょうのう=株仲間が特権的に営業を独占する代わりに幕府に収めさせた税金、
[8]不正の趣:ふせいのおもむき=当時、不当に値をつり上げて儲けていたことを指す。
[9]向後:きょうご=今後、事後。
[10]素人直売買:しろうとじきばいばい=仲間に入っていない一般商人・在郷商人の直接取引のこと。
[11]勝手次第:かってしだい=自分の思いどおりにすること。勝手きままに振る舞ってよいこと。自由に行ってよいこと。
[12]諸家国産類:しょかこくさんるい=諸藩の国産品。

<現代語訳>

株仲間構成員の鑑札はもちろん、この他すべての問屋仲間や問屋組合などと称えることを禁止する旨、十組問屋たちへ申し渡す書。
             菱垣迴船積問屋、十組問屋たち
 その方たちは、これまで毎年金1万200両の冥加金を上納してきたが、問屋たちに不正行為があるとの風評が立っているので、今後は上納しなくてもよい。よって今後は株仲間構成員の鑑札はもちろん、この他すべての問屋仲間や問屋組合などと称えてはならない。
 
一、右のことについては、これまで右の船(菱垣廻船)に積載してきた諸商品はもちろん、すべてどの国より持ってきた、どのような商品においても、一般商人・在郷商人の直接取引を自由に行ってもよい。また、諸藩の国産品その他すべて江戸へ運送してきた品々も、問屋だけでなく、それぞれ出入りの商人が引き受けて、売りさばいても、これまた自由に行ってよいこととするから、そのことを申し渡せ。
(中略)

 天保12年丑12月13日(1842年1月24日)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1921年(大正10)ワシントン軍縮会議において、「四カ国条約」(日・英・米・仏)を結び、日英同盟を解消する詳細
1924年(大正13)東京で市川房枝らが婦人参政権獲得期成同盟会を発足する詳細
1969年(昭和44)小説家・演出家獅子文六の命日詳細
1980年(昭和55)国際的な版画家長谷川潔の命日詳細
2006年(平成18)第61回国連総会本会議で「障害者権利条約」が採択される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1842年(天保13)に、江戸幕府によって、「天保の薪水給与令」が出された日ですが、新暦では8月28日となります。
 「天保の薪水給与令(てんぽうのしんすいきゅうよれい)」は、江戸幕府が、1825年(文政8)に出した「異国船打払令」を撤廃し、来航した外国船には薪水、食料を与え、速やかに退去させることを命じた法令でした。この間に、1837年(天保8)のモリソン号事件を契機に幕政批判が高まり、1840年(天保11)のアヘン戦争における清の劣勢に驚いて攘夷の不得策を知ったこと、また、天保の改革の進行が幕府の外交方針変更の背景となり、それまでの異国船打払の方針を緩和したものです。
 その後、1853年(嘉永6)のペリー来航までに、3回にわたって「異国船打払令」の復活が図られましたが、いずれも実現せず、開国へ向かっていくこととなりました。
 以下に、「天保の薪水給与令」を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「天保の薪水給与令」 1842年(天保13年7月23日)発布

天保十三寅年七月二十三日、異国船打払いの儀停止御書付

異国船渡来の節、二念無く打払い[1]申すべき旨、文政八年仰せ出され候。然る処当時[2]万事御改正[3]にて、享保・寛政の御政事に復せられ[4]、何事によらず御仁政[5]を施され度との有難き思召に候。右については、外国のものにても難風に逢ひ、漂流にて食物薪水を乞候迄に渡来候を、其の事情相分らざるに、一図に打払い[6]候ては、万国に対せられ候御処置とも思召されず候。これに依って文化三年異国船渡来の節、取計方[7]の儀につき仰せ出され候趣相復し候様仰せ出され候間、異国船と見受け候はば、得と様子相糺し[8]、食料薪水等乏しく帰帆[9]成り難き趣候はば、望の品[10]相応に与へ、帰帆[9]致すべき旨申し諭し、尤上陸は致させ間敷候。併し此の通り仰出され候に付ては、海岸防禦の手当[11]ゆるがせにいたし置き、時宜など心得違ひ[12]、又は猥に異国人に親み候儀等はいたす間敷筋に付、警衛向の儀は弥々厳重に致し、人数共武器手当等の儀は、是よりは一段手厚く、聊にても心弛み[13]これ無き様相心得申すべく候。若し異国船より海岸様子を伺ひ、其の場所人心の動静を試し候ためなどに、鉄砲を打懸け候類これ有るべき哉も計り難く候得共、夫等の事に動揺致さず、渡来の事実能々相分り、御憐恤[14]の御主意貫き候様取計い申すべく候。され共 彼方より乱妨の始末[15]これ有り候歟、望の品[9]相与へ候ても帰帆[8]致さず、異儀[16]に及び候はば速に打払ひ、臨機の取計は勿論の事に候。備向手当の儀[17]は猶追て相達し候次第もこれ有るべき哉に候。文化三年相触れ候紙面[18]はこれ有るべく候得共、心得の為[19]、別紙写し相達すべく候。
    七月
右の通り相触れべく候。
  文化三年寅年相触れ候趣(省略)

  「徳川禁令考」より

【注釈】

[1]二念無く打払い:にねんなくうちはらい=1825年(文政8)に出した「異国船打払令」のことを指す。
[2]当時:とうじ=現在。
[3]万事御改正:ばんじごかいせい=天保の改革が進行していることを指す。
[4]享保・寛政の御政事に復せられ:きょうほう・かんせいのごせいじにふくせられ=享保・寛政の両改革にならって。
[5]仁政:じんせい=恵み深く、思いやりのある政治。
[6]一図に打払い:いちずにうちはらい=「異国船打払令」の条文中にある語。
[7]文化三年異国船渡来の節、取計方:ぶんかさんねんいこくせんとらいのせつ、とりはからいかた=1806年(文化3)の「文化の撫恤令」のこと。
[8]得と様子相糺し:とくとようすあいただし=念を入れて事情を調べ。よく事情を聞き。
[9]帰帆:きはん=帰国。
[10]望の品:のぞみのしな=希望する品物。
[11]海岸防禦の手当:かいがんぼうぎょのてあて=江戸幕府の海岸防備強化の指示。
[12]心得違ひ:こころえちがい=対応を誤ること。
[13]聊にても心弛み:いささかにてもこころゆるみ=少しでも油断する。
[14]憐恤:れんじゅつ=あわれんで恵むこと。情をかけて物を施すこと。
[15]乱妨の始末:らんぼうのしまつ=暴力を使って物を奪い取る次第。
[16]異儀:いぎ=他と違った議論や意見。また、相手の期待したのとは反対の意志を表わすこと。異論。異存。
[17]備向手当の儀:そなえむきてあてのぎ=警備体制のこと。
[18]文化三年相触れ候紙面:ぶんかさんねんあいふれそうろうしめん=1806年(文化3)の「文化の撫恤令」の書付。
[19]心得の為:こころえのため=心得るため。物事の細かい事情などを理解してもらうため。理解のため。会得のため。

<現代語訳>

天保13年(1842年)7月23日、「異国船打払い令」停止の公文書

外国船が渡来した時、無条件に打払うべきことを文政8年(1825年)に命令された。しかしながら、現在すべてのことが改革中(天保の改革)なので、享保・寛政の両改革にならって、何事によらず恵み深く、思いやりのある政治を行いたいという有り難いお考えである。これについては外国船でも暴風に遭遇して、漂流等で食物、薪水を乞う為に来航した際は、その事情が分らない内に、一様に打払うのは、諸外国に対する適切な処置とも思われない。従って、文化3年(1806年)の「文化の撫恤令」の趣旨に戻すように命令されたので、外国船を見かけたならば、念を入れて事情を調べ、食料や薪水などが欠乏して帰国出来ないのであれば、希望する品物を相応に与えて、帰国させるように、とはいっても、上陸はさせてはならないこと。しかし、この命令が出されたからと言って、幕府の海岸防備強化の指示などをゆるがせにして、適切な対応を誤ったり、またむやみに外国人と親しくしたりしないこととし、警備体制についてはさらに厳重にし、守備人数や武器の準備等はこれまでよりいっそう充実させ、少しでも油断することが無い様に心得ること。もし外国船が海岸の様子をうかがって試しに鉄砲を撃ちかけるようなことが有っても、それらのことに動揺せず、来航の目的をよくよく把握し、情をかけて物を施すという通達の趣旨を貫いて取り計らうべきこと。しかし、相手より暴力を使って物を奪い取る次第で、希望する品物与えても帰国せず、異存がある時は、速やかに打払い、臨機応変に対応することは当然である。警備体制については追って通達することもあると思われる。文化3年(1806年)の「文化の撫恤令」の書付は有るとは思うが、理解のために別紙として添付するものである。
   7月
右のように通達するものである。
   文化3年(1806年)の「文化の撫恤令」(省略)

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