ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大隈重信

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 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、明治十四年の政変が起き、御前会議で立憲政体方針、開拓使官有物払い下げ中止、大隈重信らの参議罷免が決定された日です。
 明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)は、国会開設・憲法制定をめぐる政府内部の対立から、漸進派の伊藤博文・井上馨らが、開拓使官有物払下事件を契機として、急進派の参議大隈重信らを追放した事件です。1879年(明治12)から翌年にかけての自由民権派の国会開設運動が高まる中で、政府は国会開設の構想づくりに着手し、諸参議が次々に意見書を提出しました。
 1881年(明治14)3月、大隈重信が早期国会開設(1983年)とイギリス流政党政治の実現を左大臣有栖川宮熾仁(たるひと)親王に提出しましたが、その時期をめぐり漸進論の伊藤博文・井上馨とが対立します。このような中で、開拓使官有物払下げ事件が起き、民権派の政府攻撃が高まると、背後に大隈の薩長派打倒の策動があるとしてて対立を深めました。
 その結果、10月11日に明治天皇が帰京すると、早急に御前会議を開いて払下げを再考するべきであると上奏、三条・岩倉の二大臣、伊藤・黒田・山縣・西郷・井上・山田の六参議は有栖川宮左大臣と密談し、大隈罷免について合意します。翌12日には、払下げの中止と「国会開設の勅諭」が公表され、事件は終息しました。
 これにより、伊藤博文・井上馨を中心とする薩長藩閥政府が確立し、明治国家体制形成のその後の方向を決定したとされています。

〇開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん)とは?

 明治時代前期の1881年(明治14)に、北海道の開拓使長官だった黒田清隆が、官有の施設・設備を安値で払い下げる決定を行ない、「開拓使官有物払下げ事件」として政治問題化しものです。この事件は、北海道開拓使長官の黒田清隆が、1,400万円余を投じて得た船舶、工場、農園、倉庫、鉱山などの官有物を、開拓使上級官僚の結社や鹿児島出身の政商五代友厚らの関西貿易商会に38万7千余円、無利子30年賦で払い下げようとして起こりました。
 これに対し、薩摩閥が結託して公の財産を私するものだという世論のはげしい非難が起き、自由民権派の攻撃も鋭く、政府内では意見対立も深まったのです。その結果、追い詰められた政府は払下げを中止し、「国会開設の勅諭」を発するとともに、国会早期開設を唱えた筆頭参議大隈重信らの官吏を罷免し、政府部内の結束を固めました。
 この政府の変動を「明治十四年の政変」といい、薩長藩閥体制が確立することになります。またその後、黒田清隆も開拓使長官を辞職し、内閣顧問の閑職に退くことになりました。
 そして、1882年(明治15)2月8日には、開拓使が廃止されることになり、これに伴って、函館県、札幌県、根室県が設置されることになります。

〇国会開設の勅諭(こっかいかいせつのちょくゆ)とは?

 明治時代前期の1881年(明治14)10月12日に、明治天皇が出した勅諭でした。これは、憲法の制定と国会の一刻も早い開設を主張する自由民権運動などに対し、明治のはじめから漸進的に立憲政体を樹立のため、元老院や府県会を設置してきたことに言及し、9年後の1890年(明治23)を期して、議員を招集して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明したものです。
 官僚の井上毅が起草し、太政大臣の三条実美が奉詔したもので、憲法は政府官僚起草の原案を天皇自身が裁定し公布するとの姿勢が明示され、自由民権運動の尖鋭化を抑えようとしたものでもありました。これによって、1889年(明治22)2月11日の大日本帝国憲法の発布、1890年(明治23)11月29日の帝国議会開設に繋がっていきます。

〇大隈重信(おおくま しげのぶ)とは?

 明治時代から大正時代に活躍した政治家・教育者です。江戸時代後期の1838年(天保9年2月16日)に、肥前国佐賀(現在の佐賀県佐賀市)に、佐賀藩砲術長の父大隈信保、母三井子の長男として生まれましたが、幼名は八太郎といいました。
 7歳で藩校弘道館に入学しましたが、教育方針に不満を持ち、学制改革を試みるものの、退学するに至ります。1856年(安政2)に、蘭学寮に移って西欧の学問に接し、1865年(元治2)には長崎に出て、アメリカ人宣教師フルベッキに英学を学びました。
 また、京都や長崎を往来して、尊王攘夷派として活動し、1867年(慶応3)には脱藩上京して徳川慶喜に政権返還を説こうとしますが、捕らえられて謹慎処分を受けます。明治政府成立時の1868年(明治元)に、参与兼外国事務局判事に登用され、外国官副知事に昇進、翌年会計官副知事、次いで大蔵大輔として手腕を発揮し、1870年(明治3)には参議となりました。
 その中で、秩禄処分、地租改正、殖産興業政策などを推進しましたが、明治十四年の政変で下野することとなります。1882年(明治15)に、立憲改進党を結成して総理となり、同年に東京専門学校(後の早稲田大学)を創立し、青年教育にも当たりました。
 1888年(明治21)に外務大臣となり、条約改正交渉にあたりましたが、反対派に爆弾をなげつけられて右足を失います。1898年(明治31)に板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織し、総理大臣となったものの、党内抗争と薩長の妨害でわずか4ヵ月で総辞職するに至りました。
 1914年(大正3)に第2次内閣を組織して、再び総理大臣となり、第一次大戦に参戦、翌年には「対華二十一ヵ条要求」を提出、軍備拡張を行ったします。しかし、1916年(大正5)に侯爵に叙せられた後に辞職し、1922年(大正11)1月10日に、東京において83歳で亡くなりました。
 著作には、『大隈伯昔日譚』、『開国五十年史』(編著)、『開国大勢史』、『東西文明の調和』等があります。

☆明治十四年の政変関係略年表

<1878年(明治11)>
・5月 大久保利通が暗殺され、政府の中枢を担う内閣は参議伊藤博文が主導権を握る形となる

<1879年(明治12)>
・国会開設運動が興隆し、政府内でも憲法制定や国会開設について議論が開始される
・12月 参議山縣有朋が立憲政体に関する意見書を提出する

<1880年(明治13)>
・2月 立憲政体に関する意見を黒田清隆が提出する
・7月 立憲政体に関する意見を井上馨が提出する
・12月 立憲政体に関する意見を伊藤博文が提出する

<1881年(明治14)>
・1月~2月 伊藤は熱海の旅館に大隈・井上・黒田を招き、立憲政体等について語り合ったが、合意は行われなかった
・3月 未だ意見書を提出していなかった大隈重信に対し、左大臣有栖川宮熾仁親王から督促が行われる
・7月 伊藤博文が大隈重信の意見書の内容を知り、激怒して出仕を行わなくなる
・7月4日 大隈重信は伊藤博文の元に赴いて弁解する
・7月5日 伊藤博文が再び出仕するようになる
・7月21日 黒田は閣議において、開拓使の官僚によって構成された「北新社」と、五代が参加していた「関西貿易社」への払下げを提議する
・7月26日 『東京横浜毎日新聞』において、「関西貿易商会の近状」と題した記事で払下げの事案が暴露され、黒田が同郷の五代に対して利益供与を行っているという報道が行われる
・7月30日 明治天皇が裁下する
・8月1日 明治天皇が裁下したことが公表されたため、各新聞紙上では大きな批判が繰り広げられる
・10月8日 この日までに東京政府のメンバー内では、大隈の罷免、憲法制定と9年後の国会開設、そして払下げの中止が合意される
・10月11日 天皇が帰京すると、岩倉は千住駅で拝謁し、大隈の謀略によって払下げ問題が批判を受けているため、早急に御前会議を開いて払下げを再考するべきであると上奏、三条・岩倉の二大臣、伊藤・黒田・山縣・西郷・井上・山田の六参議は有栖川宮左大臣と密談し、大隈罷免について合意する
・10月12日 払下げの中止と「国会開設の勅諭」が公表され、事件は終息する

<1882年(明治15)>
・1月1日 黒田が参議および開拓長官を辞職し、内閣顧問の閑職に退き、政府内は伊藤を中心とする長州閥の主導権が確立される
・2月8日 開拓使が廃止され、北海道は函館県、札幌県、根室県に分けられる(三県一局時代)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1231年(寛喜3)第83代の天皇とされる土御門天皇が、配流先の阿波国で亡くなる(新暦11月6日)詳細
1940年(昭和15)俳人種田山頭火の命日(一草忌)詳細
1945年(昭和20)幣原首相・マッカーサー会談で、GHQから「五大改革指令」が通達される詳細
1950年(昭和25)「新日本観光地百選」が毎日新聞紙上で発表される詳細
医学者三浦謹之助の命日詳細
2000年(平成12)電子工学者猪瀬博の命日詳細
2001年(平成13)日本画家秋野不矩の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、明治政府が、大久保利通・大隈重信両参議によって提出された「台湾蕃地処分要略」により、台湾出兵を閣議決定した日です。
 台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、台湾原住民による日本人漂流民虐殺事件を根拠として、日本が行った清国領台湾への軍隊派遣公道で、「征台の役」、「台湾事件」とも呼ばれてきました。1871年(明治4)10月に、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難して台湾南部に漂着し、台湾先住民パイワン族に救助を求めたが、逆に集落へ拉致され、遭難者たちは集落から逃走したため、先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し、54名を斬首し、12名は漢人移民により救助されます(宮古島島民遭難事件)。
 1872年(明治5)に、琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し、責任追及の出兵を建議し、副島が特命全権大使として日清条約批准書交換のため清に赴いたとき、副使柳原前光をして台湾漂流民の問題を交渉させました。しかし、1873年(明治6)には、再度備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が発生します。
 そこで、1874年(明治7)2月6日に、明治政府が、大久保利通・大隈重信両参議によって提出された「台湾蕃地処分要略」により、台湾出兵を閣議決定しました。参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入りましたが、イギリス、アメリカが強く反対し、政府内でも木戸孝允ら長州派が外征反対を唱えたため、いったん征討中止を決定します。
 しかし、兵員3,600人を率いて長崎に到着していた西郷従道は、政府の中止命令に応ぜず独断で出兵を実行しました。5月6日に台湾出兵の兵員が台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じ、5月22日に台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷従道の命令によって本格的な制圧を開始し、政府が追認することとなります。
 6月3日に、牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けましたが、戦死者12名、病死者561名を出すこととなりました。清国は強く抗議し、北京での談判も難航したものの、駐清イギリス公使の斡旋で和議が成立、10月31日に「日清両国間互換条款及互換憑単」が調印され、11月17日に太政官布告されます。
 その内容は、①清朝は日本の出兵を「義挙」と認め、②被害民の撫恤(ぶじゆつ)銀と日本の施設費として、償金50万両(日本貨約67万1650円)を日本に支払い、③今後の原住民取締りにつき保障する。というもので、これによって、同年12月に日本軍は撤退しました。また、清朝に琉球が日本領であることを認めさせたことにより、明治政府が1879年(明治12)に、琉球藩を廃止して沖縄県を置くという琉球処分(琉球併合)を可能にしています。
 以下に、「日清両国間互換条款及互換憑単」の日本語版を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日清両国間互換条款及互換憑単」1874年(明治7)10月30日調印、11月17日太政官布告

 互換條款

条款ヲ会議シ、互ヒニ弁法ノ文拠ヲ立ル為メノ事、照シ得タリ各国人民、応サニ保護シテ害ヲ受ルヲ致サザルベキノ処有レハ、応サニ各国由リ自カラ法ヲ設ケ保全ヲ行フベシ、何国ニ在テ事有ルガ如キハ、応サニ何国由リ自カラ査弁ヲ行フベシ、茲ニ台湾生蕃曾テ日本国ノ属民等ヲ将{前1文字モツとルビ}テ、妄リニ害ヲ加フルコトヲ為スヲ以テ、日本国ノ本意ハ該{前1文字ソノとルビ}蕃ヲ是レ問フガ爲メ、遂ニ兵ヲ遣リ彼ニ往キ該{前1文字ソノとルビ}生蕃題等ニ向ヒ詰責ヲナセリ、今淸国ト、兵ヲ退キ並ヒニ後ヲ善クスル弁法ヲ議明シ三条ヲ後ニ開列ス、

一 日本国此次弁スル所ハ、原卜民ヲ保ツ義挙ノ為メニ見ヲ起ス、清国指テ以テ不是卜為サス、

二 前次有ル所ノ害ニ遭フ難民之家ハ、清国定テ恤銀両ヲ給スベシ、日本有ル所ノ該{前1文字ソノとルビ}処ニ在テ、道ヲ修メ房ヲ建ル等件ハ、清国留メテ自カラ用ユルヲ願ヒ、先ツ籌補{前2文字ハカリヲギナウとルビ}ヲ議定スルヲ行ヒ、銀兩ハ別ニ議辨{前2文字ハカリベンズルとルビ}スルノ拠{前1文字シヨフコとルビ}有リ、

三 有ル所ノ此ノ事ニツキ両国一切来往ノ公文ハ、彼此徹囘シテ註鎖シ、永ク為メニ論ヲ罷ム、該{前1文字ソノとルビ}處ノ生蕃ニ至ツテハ、清国自カラ宜ク法ヲ設ケ、妥ク約束ヲ為スヘシ、以テ永ク航客ヲ保シ、再ヒ兇害ヲ受ケシム能ハザルコトヲ期ス

  明治七年十月三十一日

大日本欽差全権大臣柳原 加押

  同治十三年九月二十二日

 互換憑單

憑單ヲ会議スル為メノ事、台蕃ノ一事、現在業{前1文字スデとルビ}ニ英国威大臣、両国ト同{前1文字トモとルビ}ニ議明シ、並ニ本日互ニ弁法文拠ヲ立ツルヲ経{前1文字ヘとルビ}タリ、
日本国従前害ヲ被ムル難民之家、清国先ツ撫䘏銀十万両{前1文字テールとルビ}ヲ給ス、又日本兵ヲ退クヤ、台地ニ在テ有ル拠ノ道ヲ修メ房ヲ建ツル等件、清国留メテ自カラ用ユルコトヲ願ヒ、費銀四十万両{前1文字テールとルビ}ヲ給ス、亦タ議定ヲ経テ、
日本国明治七年十二月二十日
清国同治十三年十一月十二日ニ於テ、
日本国全ク退兵ヲ行フヲ准ス、
清国全数不給スルコトヲ准ス、均ク期ヲ愆ツヲ得ス
日本国兵未タ全数退キ盡スヲ経ザルノ時ハ清国銀両モ亦タ全数付給セズ、此ヲ立テ拠ト為シ、彼此各〃一紙ヲ執テ存照ス、

  明治七年十月   花押 日

大日本欽差全権大臣柳原 加押 花押

  同治十三年九月

   外務省条約局編「舊條約彙纂 第一巻第一部」より

☆台湾出兵関係略年表

<1871年(明治4)>
・10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難して台湾南部に漂着し、台湾先住民パイワン族に救助を求めたが、逆に集落へ拉致される
・12月17日 遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し、54名を斬首(宮古島島民遭難事件)、12名は漢人移民により救助される

<1872年(明治5)>
・琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し、責任追及の出兵を建議する
・6月 副島が特命全権大使として日清条約批准書交換のため清に赴いたとき、副使柳原前光をして台湾漂流民の問題を交渉させる

<1873年(明治6)>
・備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が発生する

<1874年(明治7)>
・1月 岩倉具視暗殺未遂事件が起きる
・2月 江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こる
・2月6日 明治政府が、大久保利通・大隈重信両参議によって提出された「台湾蕃地処分要略」により、台湾出兵を閣議決定する
・4月 参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入る
・5月6日 台湾出兵の兵員が台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じる
・5月22日 台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷従道の命令によって本格的な制圧を開始する
・6月3日 牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続ける(戦死者12名、病死者561名)
・10月31日 「日清両国間互換条款及互換憑単」が調印される
・11月17日 「日清両国間互換条款及互換憑単」が太政官布告される
・12月 日本軍が台湾から撤退する

<1875年(明治8)>
・琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令する

<1879年(明治12)>
・明治政府の琉球処分が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1647年(正保4)武将・茶人・作庭家小堀政一(遠州)の命日詳細
1818年(文化15)北方探検家・著述家松浦武四郎の誕生日(新暦3月12日)詳細
1907年(明治40)文芸評論家亀井勝一郎の誕生日詳細
1922年(大正11)アメリカ合衆国のワシントンD.C.で、「ワシントン海軍軍縮条約」が締結される詳細
アメリカ合衆国のワシントンD.C.で、「九カ国条約」が締結される詳細
1930年(昭和5)藤森成吉の戯曲を鈴木重吉監督で映画化した「何が彼女をさうさせたか」が封切られる詳細
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 今日は、明治時代前期の1869年(明治2)に、明治新政府が貨幣を円形として、金銀銅の貨幣を鋳造する円貨の制度を定めた日(円の日)ですが、新暦では4月15日となります。
 円の日(えんのひ)は、それまでの江戸時代に流通していた「両」に代えて、貨幣を円形として定めた日とされてきました。この年の2月5日に、太政官に造幣局を設置することとし、3月4日日に、大隈重信は、久世喜弘と共に新貨幣制度を円形貨幣にすること及び、当初は「元・銭・厘」の単位を想定します。
 しかし、出来上がった試作貨では「一圓」になっていたため、大隈重信の建議から発行されるまでに、「元」ではなく「圓(円)」になったと言われています。1871年(明治4年5月10日)に、近代的貨幣制度の樹立を目ざし、「新貨条例」(太政官布告第267号)が公布され、両・分・朱を廃し、十進法による円・銭(円の100分の1)・厘(銭の10分の1)の呼称が定まりました。

〇「新貨条例」(しんかじょうれい)とは?

 明治時代前期の1871年(明治4年5月10日)に、近代的貨幣制度の樹立を目ざし、太政官布告第267号として公布された日本最初の貨幣に関する法令です。江戸時代の複雑な貨幣制度を整理して、両・分・朱を廃し、十進法による円・銭(円の100分の1)・厘(銭の10分の1)の呼称、各種貨幣の量目公差を定めたもので、従来の両と円を名目上等価としました。
 背景には、明治維新期の太政官札の乱発などによって混乱した貨幣制度を整えることがあり、金本位制に改め、本位貨幣20~1円の5種の金貨のうち1円(純金1.6g含有)を原貨とし、50~5銭の4種の銀貨、1銭から1厘の3種の銅貨を補助貨幣としています。しかし、幕末期以来大量の金が国外に流出していたため、金準備が不足しており、実際は金銀複本位制が続き、ようやく日清戦争の賠償金を正価準備として充足するなどして、1897年(明治30)に「貨幣法」が制定され、金本位制が導入されることとなりました。
 以下に、「新貨条例」(明治4年5月10日太政官布告第267号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「新貨条例」(明治4年5月10日太政官布告第267号)

皇國往古ヨリ他邦貿易ノ事少ナク貨幣之制度イマタ精密ナラス其品類各種ニシテ其價位モ亦一定セス今其概略ヲ舉ムニハ慶長金アリ享保金アリ文字金アリ大小判金アリ一分金アリ貳分金アリ貳朱金アリ一分銀アリ一朱銀アリ當百錢アリ大小數種ノ銅錢アリ其他一時通用ノ貨幣ハ枚舉ニ遑アラス甚シキハ一國一郡限ノ貨幣アリテ今ニ至ルマテ僅ニ其一部ニ通用シ他方ニ流通セサルモノアリカク其品類區々ニシテ方圓大小其價ヲ異ニシ混合雑駁其質ヲ同ウセス抑貨幣ノ眼目タル量目ト性合トニ至リテハ殆ント辨知スヘカラス新舊互ニ雑用シ品位自ヲ低下シ其間或ハ贋造ノ弊アリテ竟ニ今日ノ甚シキニ馴致セリ偶々良性ノ貨幣ハ徒ラニ富家庫中ノ寶物トナリ或ハ外國ヘ輸出セシモ亦少ナカラス遂ニ諸品換用ノ能力ヲ失ヒ日用便利ノ道ヲ塞キ流通ノ公益殆ント絶ヘントスルニ至ル實ニコレ天下一般ノ窮厄ニシテ萬民ノ痛心更ニ之ヨリ大ナルモノナシ今其縁由ヲ尋繹スルニ全ク一定ノ價位ナクシテ善惡良否ヲ雑用スルノ舊弊ヨリ生スル事ナリ方今貿易ノ道彌盛ムナル時ニ當リテ舊弊ヲ改メ精良ノ新製ヲ設ケスンハ何ヲモツテ流通ノ道ヲ開キ富國ノ基ヲ立ンヤ是政府ノ責任ニシテ然モ燃眉ノ急務タリ故ニ去ル明治元戊辰ノ年ヨリ早クソノ功ヲ起シ莫大ノ經費ヲ厭ハス大阪ニオイテ新ニ造幣寮ヲ建置シ壯大ナル器械ヲ備ヘ廣ク宇内各國貨幣ノ眞理ヲ察知シ金銀ノ性質量目ヨリ割合ノ差等鑄造ノ方法ニ至ルマテ詳カニ普通ノ制ヲ比較商量シ以テ精密ノ通用貨幣ヲ鑄造シ在來ノ貨幣ニ加ヘテ一般ノ流通ヲ資ケントスルノ都合ヲ謀リ既ニ開寮ノ儀典ヲ完了セリサレトモ前ニ言ヘルコトク區々各種ノ貨幣多ケレハ現場諸品ノ價直ヲ錯亂シ萬民ノ迷惑ナルコトナレハ漸々新舊ヲ交換シテ在來ノ通寶ハ悉ク改鑄シ都テ品類ヲ一定セシメントノ御趣意ナリ且貨幣ハ天下萬民ノ通寶タル主旨ニ基キ地金ヲ持參シテ引換ヲ望ムモノヘハ速カニ改鑄シテ通用貨幣ヲ渡スヘシサレハ今人々古來ノ舊習ヲ襲ヒ重代ノ寶物トセル古金銀ノ類モ數年ナラスシテ全ク地金一様ノモノトナルヘケレハ早々交換流通シテ貨幣ノ眞理ヲ失ハサル様注意スヘキ事肝要ナリ斯ク新タニ造幣寮ヲ設ケシモ偏ニ萬民ノ保護ヲ任スルノ職分ヲ盡スノ外他アルニアラサレハ萬民亦能ク此理ヲ會得シ各ソノ務ヲ勉勵シテ天賦ノ職ヲツクスヘシ仍テ今爰ニ其次第ヲ掲示シ并セテ新貨幣ノ眞形ヲ摸シ其量目品位表ヲ添ヘ且地金引換ヘノ規則等詳細ニ附録シ普ク國内ニ頒布諭告スルモノ也

明治四年辛未五月 太政官

新貨幣例目

一   新貨幣ノ稱呼ハ圓ヲ以テ起票トシ其多寡ヲ論セス都テ圓ノ原稱ニ數字ヲ加ヘテ之ヲ計算スヘシ但シ一圓以下ハ錢一圓ノ百分一ト釐一錢ノ十分一トヲ以テ少數ノ計算ニ用フヘシ
一   算則ハ都テ十進一位ノ法ヲ用ヒ一釐十ヲ合シテ一錢トシ一錢十ヲ併セテ十錢トイヒ十錢十即チ百錢ヲ以テ一圓トス一圓ヨリ上十百千萬ニ至ルトイフトモ皆ナ十數ヲ合シテ一位ヲ進ム其他半錢五錢五十錢五圓ノ如キハ十數ヲ半割シ二十錢二圓二十圓ノ如キモ亦一十ノ數ヲ倍スルマテニシテ固ヨリ軌範ノ外ニ出ス
一   釐ヨリ以下ハ別ニ鑄造ノ貨幣ナシト雖モ若シ計算ヲ要スレハ毛絲忽微纎ヲ以テ微少ノ數ヲ算スヘシ又萬ヨリ以上ハ十萬百萬千萬ニ至リ千萬十即チ萬々ヲ以テ一億トシ大數ノ計算ヲ爲スヘシ
一   新貨幣ト在來通用貨幣トノ價格ハ一圓ヲ以テ一兩即チ永一貫文ニ充ツヘシ故ニ五十錢ハ二分即チ永五百文十錢ハ一兩ノ十分一即チ永百文一錢ハ一兩ノ百分一即チ永十文一釐ハ一兩ノ千分一即チ永一文ト相當ルヘシ但シ二十圓十圓二十錢五錢半錢モ皆同様ノ割合タルヘシ
一   製貨中金銀純分ノ割合及其量目ハ都テ眞形摸寫ノ下ニ表出スルトイヘトモ溶和鑄造ノ際僅少ノ差アルヲ免カレス故ニ今各種ノ貨幣ニ就テ其不得己シテ生スル量目ノ公差ヲ表出シテ以テ毛絲ノ微ヲ辨析ス
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一  ガラム」ミリガラム」オンス」ゲレイン」ト日本量目ノ比較ハ在來ノ秤量ニトリテ聊ノ差アリトイヘトモ爰ニ其平均ヲ取テ之ヲ算シ左ノ略表ヲ以テ當分比較ノ定規トス
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一   本位新貨幣ト外國貨幣トノ價格ハ其國ノ制定ニヨリテ各小差違アリトイエトモ暫ラク英佛米三國ノ貨幣實價ノ品量ヲ較計スレハ左ノ略表ノ通ナルヘシ
shinkajyourei04
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新貨幣通用制限

本位金貨幣即二十圓十圓五圓二圓一圓ノ中一圓金ヲ以テ原貨ト定メ各種トモ何レノ拂方ニモ之ヲ用ヒ其高ニ制限アルコトナシ

本位トハ貨幣ノ主本ニシテ他ノ準據トナルモノナリ故ニ通用ノ際ニ制限ヲ立ルヲ要セス尤モ一圓金ヲ以テ本位中ノ原貨ト定ムルトハ就中一圓金ヲ以テ本位ノ基本ヲ定メ他ノ四種ノ金貨モ都テ標準ヲ一圓金ニ取レハナリ
定位ノ銀貨幣即五十錢二十錢十錢五錢ハ都テ補助ノ貨品ニシテ其一種又ハ數種ヲ併セ用フルトモ一口ノ拂方ニ十圓ノ高ヲ限ル可シ

定位ノ銅貨即一錢半錢一釐ハ都テ一口ノ拂方ニ一圓ノ高ヲ限リ用ユヘシ

定位トハ本位貨幣ノ補助ニシテ制度ニヨリテ其價位ヲ定メテ融通ヲ資クルモノナリ故ニ通用ノ際コレカ制限ヲ設ケテ交通ノ定規トス
各開港場貿易便利ノ爲メ當分ノ内中外人民ノ望ニ應シ一圓ノ銀貨ヲ鑄造シ之ヲ貿易銀ト爲シテ通商ノ流融ヲ資ク可シ

此一圓銀ハ全ク各開港場輸出入物品其他外國人ヨリ納ムル諸税及日本人外國人ト通商ノ取引ニ用フルノミニシテ内地ノ諸税納方等公ナル拂方ニ用フルヘカラサルハ勿論其他一般ノ通用ヲ得サルヘシサレトモ私ノ取引ニ付相對ノ示談ヲ以テ受取渡シイタス分ハ何レノ地ニテモ勝手次第タルヘシ

各開港場諸税受取方ニ付一圓銀ト本位金貨トノ價格比較ハ當分銀貨百圓ニ付本位金貨百〇一圓ノ割合タルヘシ

右通用制限ハ元來貨幣ニ原本ト補助トノ別アル所以ノ理ニ基キテ制定セシモノナレハ人々取引ノ節右ノ制限ニ照準シモシコレニ超レハ誰ニテモ請取渡ヲ拒ムノ道理アルヘシサレトモ私ノ取引ニ付便宜ノタメ對談ヲ以テ請取渡イタシ候儀ハ全ク相互ノ都合ニ從フ筈ナレハ右制限ニ不拘勝手次第ニ交通イタシ不苦候事

   明治四年辛未五月 大藏省

新貨條例量目表中更正

先般御布告相成候新貨條例量目表中違算ノ廉及ヒ衍文モ有之ニ付更正相加ヘ別紙相達候間此旨其管内ヘ布告可致候事

(別紙)

先般刊行相成候新貨條例量目表中違算ノ廉及ヒ衍文モ有之ニ付左ノ通更正相加ヘ候事

量目公差表金貨ノ内

量目一枚ノ差ミリガラム」ノ行 一圓ノ級   六
                    一二、二〇 

量目大數ノ差メトリックガラム」ノ行   二十圓ノ級      六
                         四、六六五

同    銀貨ノ内

純銀重量ノ内メトリックガラム」ノ行 一圓ノ級   一
                                                         二四、二六七二六

貨幣全量トロイゲレイン」ノ行 五錢ノ級             三
                                                                         一九、八

同   メトリックガラム」ノ行 一圓ノ級             七
                                                               二六、九五六三

量目大數ノ差メトリックガラム」ノ行   五十錢ノ級        六 
                                                                            四、六六五

ガラム」ゲレイン」日本量目比較表ノ内

ゲレイン」          〇
             一五四三二七

日本量目               〇四
               二六六二一四〇七五

日本量目ガラム」ゲレイン」比較表ノ内

 ガラム」        二一
                  三七五六五七四

日本英佛米貨幣實價ノ品量比較表ノ内

 米貨ノ行差ノ級     〇ゲレイン」〇
           混合物 〇〇ゲレイン」八
                       〇圓
                    日本十圓〇〇三釐一一〇四

金貨眞圖ノ下日本量目ノ内

 二十圓           五七
  八匁八分七釐三毛六
 十圓         七
    四匁四分三釐六毛八
 五圓        三五
    二匁二分一釐八毛四
 二圓        四
    八分八釐七毛三六
 一圓        七
    四分四釐三毛六八

銀貨眞圖ノ内

 一圓銀ノ上    貿易銀 
          銀貨

新貨幣通用制限ノ條中

十三行目   定位ノ銅貨    三字削去
三十三行目 右 通用制限ハ 一字削去

    「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1697年(元禄10)国学者・歌人賀茂真淵の誕生日(新暦4月24日)詳細
1774年(安永3)前野良沢・杉田玄白らによって、『解体新書』が刊行される(新暦4月18日)詳細
1806年(文化3)江戸三大大火の一つ、文化の大火が起きる(新暦4月22日)詳細
1952年(昭和27)1952年十勝沖地震(M8.2)が起こり、津波によって死者行方不明者33名を出す詳細
1972年(昭和47)「日米渡り鳥条約」が締結(1979年9月19日発効)される詳細
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shimamuratsubouchi01
 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に、大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となり文芸協会が結成された日です。
 文芸協会(ぶんげいきょうかい)は、大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となって結成された文化団体でした。演劇、美術、音楽、宗教、哲学から講談、落語までの改良を意図した総合的な文化機関として発足しましたが、第2次「早稲田文学」の復刊、1906年(明治39)11月と翌年11月に2回にわたる演劇公演を行なっただけで停滞します。
 1909年(明治42)に逍遥が実質的な指導者となり、演劇研究所を設立して素人からの男女俳優の養成に当たり、翌年には、逍遥を会長とする演劇団体に改組されました。1911年(明治44)5月に、第1回公演(於:帝国劇場)で、シェイクスピア作「ハムレット」(指導:坪内逍遥)を上演、演劇研究所の1期卒業生の内、オフィーリア役を演じた松井須磨子が評判となります。
 同年11月の第2回公演(於:帝国劇場)で、イプセン作「人形の家」(寒山拾得)、坪内逍遥作「お七吉三」、シェイクスピア作「ベニスの商人」(舞台監督:島村抱月・中村吉蔵、指導:坪内)を上演し、松井須磨子は「人形の家」(抱月訳)のノラ役などで大当たりを取りました。1912年(明治45)5月の第3回公演(於:有楽座)で、ズーダーマン作「故郷」(指導:島村)を上演、同年11月の第4回公演(於:有楽座)で、ショー作「二十世紀」(監督:松居松葉)を上演します。
 1913年(大正2)2月の第5回公演(於:有楽座)で、アルト・ハイデルベルヒ、フェルスタ作「思い出」(監督:松居)を上演したものの、この頃、妻子ある抱月と松井須磨子の恋愛スキャンダルが発覚し、内部対立もあって協会分裂の危機を迎え、抱月は辞任し、松井は退所処分となりました。その後、1913年(大正2)6月の第6回公演(於:帝国劇場)で、シェイクスピア作「ジュリアス・シーザー」(舞台監督:松居)上演を最後に解散し、芸術座(島村抱月・松井須磨子)、無名会(東儀鉄笛・土肥春曙)、舞台協会(上山草人)の3劇団に分かれます。

〇文芸協会関係略年表

・1906年(明治39)2月17日 大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となって結成される
・1906年(明治39)11月 第1回大会(於:歌舞伎座)で、坪内逍遥作「桐一葉」、シェイクスピア作「ベニスの商人」、坪内逍遥作「常闇」を上演する
・1907年(明治40)11月 第2回大会(於:本郷座)で、杉谷代水作「大極殿」、シェイクスピア作「ハムレット」、坪内逍遥作「浦島」を上演する
・1908年(明治41) 小山内薫・市川左団次による自由劇場が始まる
・1909年(明治42) 坪内逍遥が実質的な指導者となり演劇研究所を設立、素人からの男女俳優の養成に当たる
・1910年(明治43) 坪内逍遥を会長とする演劇団体に改組される
・1911年(明治44)5月 第1回公演(於:帝国劇場)で、シェイクスピア作「ハムレット」(指導:坪内逍遥)を上演、演劇研究所の1期卒業生の内、オフィーリア役を演じた松井須磨子が評判となる
・1911年(明治44)11月 第2回公演(於:帝国劇場)で、イプセン作「人形の家」(寒山拾得)、坪内逍遥作「お七吉三」、シェイクスピア作「ベニスの商人」(舞台監督:島村抱月・中村吉蔵、指導:坪内)を上演し、松井須磨子は「人形の家」(抱月訳)のノラ役などで大当たりを取る
・1912年(明治45)5月 第3回公演(於:有楽座)で、ズーダーマン作「故郷」(指導:島村)を上演する
・1912年(明治45)11月 第4回公演(於:有楽座)で、ショー作「二十世紀」(監督:松居松葉)を上演する
・1913年(大正2)2月 第5回公演(於:有楽座)で、アルト・ハイデルベルヒ、フェルスタ作「思い出」(監督:松居)を上演する
・1913年(大正2)2月頃 妻子ある抱月と松井須磨子の恋愛スキャンダルが発覚し、協会内が分裂の危機を迎え、抱月は辞任し、松井は退所処分となる
・1913年(大正2)6月 第6回公演(於:帝国劇場)で、シェイクスピア作「ジュリアス・シーザー」(舞台監督:松居)上演を最後に文芸協会は解散する

〇島村 抱月(しまむら ほうげつ)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した文芸評論家・演出家・劇作家・小説家・詩人です。明治時代前期の1871年(明治4)1月10日に、島根県那賀郡小国村(現在の浜田市)で、佐々山一平の長男として生まれましたが、幼名は佐々山瀧太郎と言いました。
 小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となり、上京遊学後、1891年(明治24)に島村文耕の養子となります。東京専門学校(現在の早稲田大学)文学科へ入学し、在学中は坪内逍遙、大西祝の指導を受けました。1894年(明治27)に卒業後、卒業論文『審美的意識の性質を論ず』や『西鶴の理想』を『早稲田文学』(第1次)誌上に発表、同誌の記者ともなります。
 1898年(明治31)に読売新聞社会部主任となり、その後母校の文学部講師に迎えられました。1902年(明治35)から、早稲田の海外留学生として、イギリス、ドイツで学び、1905年(明治38)に帰国しました。早稲田大学文学部教授となり、『早稲田文学』を復刊(第2次)して、同誌上に『囚はれたる文芸』(1906年)、『文芸上の自然主義』、『自然主義の価値』(共に1908年)を掲載して自然主義を論じます。一方で、坪内逍遙と文化革新運動をもくろんで、1906年(明治39)に文芸協会を設立し、本格的に新劇運動をはじめました。しかし、坪内逍遙との間で意見が対立、女優松井須磨子との恋愛問題も表面化し、協会幹事を辞任、1913年(大正2)には早稲田大学を去ることにもなります。
 そして、松井須磨子と共に芸術座を旗揚げし、イプセン作『人形の家』、トルストイ作『復活』などを翻訳・脚色して上演し、評判となりました。新劇の大衆化に貢献しましたが、1918年(大正7)11月5日、全世界で大流行していたスペイン風邪が原因で、東京において、48歳で亡くなります。尚、須磨子もあとを追って、2ヶ月後に自殺しました。

〇坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)とは?

 明治時代から昭和時代前期に活躍した小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者です。美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)に、尾張藩代官所役人の父・坪内平右衛門と母・ミチの十人兄妹の末子として、役宅で生まれましたが、本名は勇蔵と言いました。
 明治維新に伴って、実家のある尾張国愛知郡笹島村へ一家で移ります。1876年(明治9)に上京し、東京開成学校へ入学、東京大学予備門を経て、東京大学文学部政治科へと進み、西洋文学に親しみました。
 1883年(明治16)に卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師(後に教授)となり、翌年にシェイクスピア著『ジュリアス・シーザー』の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談自由太刀余波鋭鋒」を出版します。1885年(明治18)には評論『小説神髄』を発表、小説『当世書生気質』(1885‐86年)を書いて、写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となりました。
 1890年(明治23)に東京専門学校に文学科を設け、翌年『早稲田文学』を創刊して、後進の育成にも努めます。また、演劇の改良を志して、戯曲『桐一葉』(1894‐95年)、『牧の方』(1896年)、『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)などを発表し、俳優の育成にも尽力しました。
 一方で、『国語読本』の編集にも携わり、日露戦争後の1906年(明治39)には文芸協会を組織しています。その中で、シェークスピアの研究・翻訳を続け、全作品を完訳した『沙翁全集』全40冊(1928年)も刊行しました。
 このように、日本近代文学、演劇の発展史上に大きな功績を残しましたが、1935年(昭和10)2月28日に、静岡県熱海市において、75歳で亡くなります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1272年(文永9)第88代の天皇とされる後嵯峨天皇の命日(新暦3月17日)詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」(勅令第83号)が発布・施行される詳細
1955年(昭和30)小説家・評論家・随筆家坂口安吾の命日(安吾忌)詳細
2005年(平成17)愛知県常滑市に中部国際空港(愛称:セントレア)が開港する詳細
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