ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大阪毎日新聞

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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、富山県新川郡西水橋町で漁師の妻ら約200人が米屋などに押し掛け、これが新聞で報道され米騒動が全国に飛び火する契機となった日です。
 米騒動(こめそうどう)は、大正時代の1918年(大正7)に、米価急騰に怒った民衆が米屋等を襲った事件です。第1次世界大戦中のインフレ政策で実質賃金は低下し、さらにシベリア出兵の決定によりいっそう米買占めが行われたことと寺内内閣の米価調節失敗のために、7月以降米価は異常に暴騰しました。
 その中で、民衆の生活難と生活不安が深まり、この年の7月に富山県下新川郡魚津町(現在の富山県魚津市)の主婦達の行動に端を発し、県外への米の積み出しを阻止したり、米屋を襲ったりしたものです。それが全国に波及して、米屋への安売り要求や打ちこわし、示威行動などが展開されました。
 軍隊が出動して鎮圧されましたが、この事件で寺内内閣は総辞職に追い込まれ、原敬を首相とする政党内閣が出現することになります。これらのことは、護憲運動や普通選挙運動、労働運動、農民運動などの発展にも影響を与えた言われています。
 以下に、米騒動の全国は九の契機となった8月5日付「東京朝日新聞」、「大阪毎日新聞」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇米騒動関係略年表

<1918年(大正7)>
・7月 上旬から、富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市)で「二十五六人」の「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」行動が始まる
・7月22日 昼に、富山市西三番町の富豪浅田家の施米にもれた仲間町、中長柄町ほか市内各所の細民200名が市役所に押しかける
・7月23日 富山県魚津町の漁民妻女たちが米の県外移出を差し止めるべく海岸に集まる(米騒動の始まり)
・8月3日 富山県中新川郡西水橋町(現在の富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願する
・8月5日 3日の出来事が「東京朝日新聞」、「大阪毎日新聞」で報道され、米騒動が全国に飛び火する契機となる
・8月6日 さらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となる
・8月10日 京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生することとなる
・8月11日 大阪市、神戸市に波及する
・8月12日 鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)と報道され焼き打ちに遭う
・8月13日 東京市では、日比谷公園野外音楽堂演説会に約2,000人の参加者が集まり、200人の警官が包囲、衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行ない、閣議は米穀強制買収に1,000万円限度の支出を決定する
・8月14日 民衆が浅草・本所近辺の米商に押し寄せ、廉売交渉を行なう
・8月15日 軍が出動し、鎮圧活動を開始する
・8月16日 米騒動参加者は鎮圧され、総計299人が検挙され、農商務大臣が米穀類を強制買収し得る穀類収用令を公布(緊急勅令)するも発動されず
・8月17日 この頃から都市部から町や農村へ米騒動が拡散する
・8月20日 ほぼ全国へ米騒動が波及する
・8月27日 福岡県嘉穂郡鎮西村(現在の飯塚市)の八幡製鐵所二瀬中央坑の炭鉱夫たちが勤務時間中に集合し、会社に対し米価引き下げと賃金3割増を要求し、暴動に発展する
・8月28日 東京府は米価暴騰に対処し「外鮮米」を指定米商に委託して廉売する
・8月31日 米騒動の影響を受け、寺内支障は元老山縣有朋に辞意を告げる
・9月4日 福岡県大牟田市と熊本県玉名郡荒尾村(現在の荒尾市)にまたがる三池炭鉱万田坑で、賃上げなどを要求した炭鉱夫が暴動を起こす
・9月5日 三池炭鉱へ陸軍(第六師団や第十八師団)が出動して鎮圧行動を行う
・9月11日 三池炭鉱暴動の終結で一連の米騒動は終わりを告げる
・9月20日 寺内内閣が総辞職を決定する
・9月29日 日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生する

☆米騒動の新聞記事 (抜粋) 「東京朝日新聞」、「大阪毎日新聞」

・『東京朝日新聞』 1918年(大正7)8月5日付

 富山県中新川郡西水橋町[18]町民の大部分は出稼業者なるが、本年度は出稼先なる樺太は不漁にて、帰路の路銀[19]にも差支ふる有様にて、生活頻る窮迫[20]し、加ふるに昨今の米価暴騰にて、困窮[21]愈其極に達し居れるが、三日午後七時漁夫町一帯の女房二百名は海岸に集合して三隊に分れ、一は浜方有志[22]、一は町有志、一は浜地の米屋及び米所有者を襲い、所有米は他に売らざること及び此際義挾的[23]に廉売[24]を嘆願し、之を聞かざれば家を焼払ひ、一家を鏖殺[25]すべしと脅迫し、事態頻る穏かならず。斯くと聞き東水橋警察署より巡査数名を出動させ、必死となりて解散を命じたるに、漸く午後十一時頃より解散せるも、一部の女達は米屋の附近を徘徊[26]し米を他に売るを警戒し居れり。

  『東京朝日新聞』1918年(大正7)8月5日付より

(現代語訳)  

 富山県中新川郡西水橋町の町民の大部分は出稼をしているが、本年度は出稼先の樺太が不漁で、帰路の旅費にも困る様子で、生活がとても行きづまってどうにもならなくなり、さらに、昨年の米価の暴騰によって、困窮がますますその頂点に達していたが、三日の午後七時、漁師が住む町一帯の女房たち200名が海岸に集合して三隊に分れ、一隊は海岸の有力者、一隊は町の有力者、一は海岸の米屋及び米所有者を襲い、所有米を他に売らないこと及びこの際困窮者を助けようとする気持ちで、米の安売りをすることを嘆願し、これを聞き入れなかったならば家を焼払ひ、一家を皆殺しにすると脅迫し、事態とても平穏ではなかった。このことを聞き東水橋警察署より巡査数名が出動してきて、必死となって解散を命じたので、ようやく午後十一時頃より解散したのだが、一部の女達は米屋の付近をうろついて米を他に売らないかを警戒していた。

【注釈】
 [18]西水橋町:にしみずばしちょう=現在の富山県富山市水橋辻ヶ堂・水橋新保・水橋畑等
 [19]路銀:ろぎん=旅費。
 [20]窮迫:きゅうはく=行きづまってどうにもならなくなること。
 [21]困窮:こんきゅう=困り果てること。困り苦しむこと。貧乏で生活にこまること。
 [22]浜方有志:はまかたゆうし=海岸地方の有力者(網元、地主、高利貸等)のこと。
 [23]義侠的:ぎきょうてき=おとこぎで。
 [24]廉売:れんばい=安売り。
 [25]鏖殺:おうさつ=皆殺しにすること。
 [26]徘徊:はいかい=うろうろと歩き回ること。

・『大阪毎日新聞』 1918年(大正7)8月5日付

 高岡市内の十石以上米所有者の二日正午迄に届出たるもの六百七十八石にして三日締切り間際には三千石に達する見込みなるが案外[27]在石の少きに当局も驚き居れり一方市内の米小売業者の少数の除き其大多数は持米の欠乏甚だしく売渡しを差し留め居るものあり四日以後は全く底ざらい[28]となるべし、一日来市内袋町平野五兵衛(多額納税者)が千三百石を所有せるより当業者一同平野方に詰め掛け売渡しを迫りつつあるも応ぜず憤慨[29]の余り高岡警察に出頭平野に説諭[7]を懇請[30]し居れるが此の儘応ぜざれば由々敷[31]大事発生せんとするやも知れず。(高岡来電)

  『大阪毎日新聞』1918年(大正7)8月5日付より

(現代語訳) 

 高岡市内の10石以上の米所有者の二日正午までに届出たものが、678石にして三日締切り間際には3,000石に達する見込みではあるが案外所有している石数の少ないのに当局も驚いていた、一方市内の米小売業者の少数を除きその大多数は持米の欠乏甚だしく、売渡しを差し留めているものあり、四日以後は全くなくなってしまいそうだ、一日来市内袋町平野五兵衛(多額納税者)が1,300石を所有しているとのことで、当業者一同平野方に詰め掛け売渡しを迫りつつあるも応ぜずひどく腹を立てての余り、高岡警察に出頭し、平野によく言い聞かせてほしいとひたすらに頼んだものの、このまま応じない状態で放置しておけば、問題が大きくなって、大事が発生するかも知れない。(高岡来電)

【注釈】
 [27]案外:あんがい=予想が外れること。思いがけないこと。 また、そのさま。思いのほか。
 [28]底ざらい:そこざらい=存在しない。なくなる。
 [29]憤慨:ふんがい=ひどく腹を立てること。慷慨。
 [30]懇請:こんせい=心を込めてひたすら頼むこと。 真心をこめて頼むこと。
 [31]由々敷:ゆゆしき=そのまま放置しておくと後で問題が 大きくなりそうで見過ごすことができない。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

701年(大宝元)藤原不比等らによる「大宝律令」の編纂が完了する(新暦9月9日)詳細
759年(天平宝字3)鑑真が唐律招提(後の唐招提寺)を建立する(新暦8月29日)詳細
1872年(明治5)「学制」が公布される(新暦9月5日)詳細
1935年(昭和10)岡田啓介内閣によって「国体明徴に関する政府声明」(第1次国体明徴声明)が出される詳細
1937年(昭和12)豊田正子が小学生の時に書いた作文をまとめた『綴方教室』が刊行される詳細
1967年(昭和42)「公害対策基本法」が公布・施行される詳細
1987年(昭和62)建設省が「日本の道100選」を選定し、前年分と合わせて104本となる詳細
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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」で、大佛次郎著の小説『赤穂浪士』の連載が開始された日です。
 小説『赤穂浪士』(あこうろうし)は、大佛次郎著の長篇小説です。1927年(昭和2)5月14日~1928年11月まで、「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に連載され、1928~29年に改造社より3巻本として刊行されました。
 江戸時代に実際にあった赤穂事件を題材としていて、赤穂義士とされてきた47人を、幕藩体制や時代風潮に抗う「浪士」として描いているのが特徴です。架空の浪人・堀田隼人の視点を通して描いていて、その軌跡には昭和初期の鬱屈した青春が影を落としており、そこに知識人文学としての共感が得られて、ベストセラー作品となりました。
 様々な版本・文庫判で刊行され、これまでに、映画化4回、テレビドラマ化4回(内1回は1964年1月5日~12月27日までNHKで放送された2作目の大河ドラマ)がなされています。

〇大佛次郎(おさらぎ じろう)とは?

 昭和時代に活躍した小説家で、本名は野尻清彦といいます。明治時代後期の1897年(明治30)10月9日に、野尻政助の子として、神奈川県横浜市に生まれました。
 東京府立第一中学校を経て、旧制第一高等学校へ入学しましたが、1916年(大正5)に寮生活をルポルタージュ風にまとめた小説「一高ロマンス」を雑誌『中学世界』連載して、翌年に出版されます。また、校友会雑誌に小説の習作を発表したりしていましたが、父の希望で東京帝国大学法学部政治学科に進みました。
 在学中は、海外文学の翻訳や小説を書いて投稿したり、演劇に関わったりします。1921年(大正10)に卒業後は、鎌倉女学校で1年間教員をしてから、外務省条約局に勤めましたが、1923年(大正12)の関東大震災を機に文筆に専念するようになりました。
 1924年(大正13)から大衆文芸誌『ポケット』に連載した「鞍馬天狗」で認められ、1927年(昭和2)から翌年にかけて『東京日日新聞』に掲載した「赤穂浪士」で大衆文壇の花形となります。その後、時代小説、現代小説、ノンフィクション、児童文学、戯曲、随想なども手掛け、幅広く活躍しました。
 太平洋戦争後は、東久邇宮内閣の内閣参与として一時期政治参加もします。そして、「帰郷」で1949年(昭和24)第6回日本芸術院賞(文芸部門)、1964年(昭和39)に文化勲章、「パリ燃ゆ」で1965年(昭和40)に朝日文化賞、「三姉妹」で1969年(昭和44)に第17回菊池寛賞と数々の栄誉に輝きましたが、1973年(昭和48)4月30日に75歳で亡くなりました。
 代表的作品には、「ごろつき船」「ゆうれい船」「乞食大将」「桜子」などの時代小説、「霧笛」「氷の階段」「宗方姉妹」「旅路」「風船」などの現代小説、「ドレフュース事件」「地霊」などの実録小説、「楊貴妃」「若き日の信長」などの戯曲、「日本人オイン」「花丸小鳥丸」などの少年文学等があります。

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