ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大覚寺統

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 今日は、鎌倉時代の1308年(徳治3)に、第94代の天皇とされる後二條天皇が亡くなった日ですが、新暦では9月10日となります。
 後二条天皇(ごにじょうてんのう)は、鎌倉時代の1285年(弘安8年2月2日)に、京都において、第91代の天皇とされる後宇多天皇(大覚寺統)の第一皇子(母は堀河具守女基子)として生まれました。1286年(弘安9年10月)に親王宣下され、1298年(永仁6年)には、冷泉万里小路殿で元服、両統(持明院統・大覚寺統)迭立により、後伏見天皇の皇太子に立てられます。
 1300年(正安2年)に徳大寺忻子が女御として入内、五辻宗子を母として邦良親王(後に第一皇子)が生まれました。1301年(正安3年)に鎌倉幕府の介入により、後伏見天皇の譲位を受けて践祚、第94代とされる天皇として即位しましたが、父・後宇多院が院政を敷きます。
 1302年(正安4年)に五辻宗子を母として第二皇子の花町宮邦省親王が生まれ、二条為藤らを召して当座歌合を催しました。1303年(嘉元元年)に徳大寺忻子が中宮に冊立され、後二条院歌合を催し、内裏百首を召します。
 1305年(嘉元3年)に自撰の御集『後二条院御集』を撰集しましたが、1308年(徳治3年8月25日)に、京都の二条高倉皇居において、数え年24歳で急死し、墓所は北白河陵(現在の京都市左京区)とされました。尚、歌を能くし、宮中で歌合を何度か催し、新後撰集初出で、勅撰入集は、計百首に及んでいます。

<代表的な和歌>

・「人としていかでか世にもありふべき五(いつつ)の常のみちはなれては」(後二条院御百首)
・「ながき日をふりくらしたる春雨はさびしきことのかぎりなりけり」(後二条院御百首)
・「志賀の山風をさまれる春にあひて君が御幸を花も待ちけり」(新拾遺和歌集)
・「うづら鳴く野原の浅茅うちなびき夕露もろく秋風ぞふく」(新後撰和歌集)
・「白露のをかべの薄はつ尾花ほのかになびく時は来にけり」(続後拾遺和歌集)
・「もみぢ葉の深山にふかく散りしくは秋のかへりし道にやあるらん」(風雅和歌集)
・「恋しさの寝てや忘るると思へどもまた名残そふ夢の面影」(玉葉和歌集)

〇後二条天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1285年(弘安8年2月2日) 京都において、第91代の天皇とされる後宇多天皇の第一皇子(母は堀河具守女基子)として生まれる
・1286年(弘安9年10月) 親王宣下される
・1298年(永仁6年) 冷泉万里小路殿で元服、両統迭立により後伏見天皇の皇太子に立てられる
・1300年(正安2年) 徳大寺忻子が女御として入内、五辻宗子を母として邦良親王(後に第一皇子)が生まれる
・1301年(正安3年) 鎌倉幕府の介入により、後伏見天皇の譲位を受けて践祚、第94代とされる天皇として即位するが、父・後宇多院が院政を敷く
・1302年(正安4年) 第二皇子の花町宮邦省親王が生まれ、二条為藤らを召して当座歌合を催す
・1303年(嘉元元年) 徳大寺忻子が中宮に冊立され、後二条院歌合を催し、内裏百首を召す
・1305年(嘉元3年) 自撰の御集『後二条院御集』を撰集する
・1308年(徳治3年8月25日) 京都の二条高倉皇居において、数え年24歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1498年(明応7)東海道沖で明応地震が起きる(新暦9月20日)詳細
1543年(天文12)ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲伝来する(新暦9月23日)詳細
1648年(慶安元)儒者・日本陽明学の祖中江藤樹の命日(新暦10月11日)詳細
1757年(宝暦7)柄井川柳が最初の川柳評万句合を行った日(川柳発祥の日)です(新暦10月7日)詳細
1907年(明治40)明治40年函館大火で、死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸の被害を出す詳細
1922年(大正12)日本最大の分水工事である信濃川の大河津分水工事が完成し、通水する詳細
1931年(昭和6)東京飛行場(現在の東京国際空港)が開港する詳細
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 今日は、室町時代の1424年(応永31)に、第99代(南朝第4代)の天皇とされる後亀山天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月10日となります。
 後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の1350年(正平5/観応元)頃?に、第97代(南朝第2代)の天皇とされる後村上天皇の第2皇子(母は阿野実為の娘)として生まれましたが、名は熙成(ひろなり)と言いました。1368年(正平23/応安元)に立太子し、皇太弟として既に兄の長慶天皇の政務を補佐していたとされます。
 和歌を能くし、1375年(天授元/永和元)に『五百番歌合』に「源資氏」、1376年(天授2/永和2)に『千首和歌』に「光長朝臣」の隠名で詠進したのではと考えられてきました。1392年(元中9/明徳3)に、和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して南北朝合一の下交渉が始められ、翌年閏10月に、①譲位の儀をもって神器を北朝の後小松天皇へ授けること、②皇統は両統迭立たること、③国衙領は大覚寺統の領地とすること、④長講堂領は持明院統の領地とすることを条件として、南北両朝合一によって京都へ還幸し、退位します。1394年(応永元)に京都・天竜寺においてはじめて室町幕府第3代将軍足利義満と面会、太上天皇の尊号が贈進されることとなりました。しかし、1397年(応永4)に、尊号および兵仗を辞退し、出家して金剛心と号し、隠遁生活に入ります。
 1408年(応永15)の義満没後は、武家側の待遇も悪く、和平条件は履行されず、1410年(応永17)には、突如嵯峨を出奔、吉野山に入りました。続いて、伊勢国司北畠満雅の挙兵もあり、南朝再興の動きも盛んとなったものの、1415年(応永22)に、説成親王の調停によって幕府との和睦が成立し、1416年(応永23)には、広橋兼宣らの仲介で京都へ帰還します。
 その後、1424年(応永31年4月12日)に、京都の大覚寺でおよそ数え年75歳で亡くなり、御陵は同寺近くの嵯峨小倉陵(現在の京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町)とされました。

<後亀山天皇の代表的な和歌>

・「いかがせむ しぐれて渡る 冬の日の みじかき心 くもりやすきを」(後亀山院千首和歌)

〇後亀山天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1350年(正平5年/観応元年)? 後村上天皇の第2皇子(母は阿野実為の娘)として生まれる
・1365年(正平20年/貞治4年) 『内裏三百六十首歌』に「無品親王」として詠進する
・1368年(正平23年/応安元年) 立太子する
・1375年(天授元年/永和元年) 『五百番歌合』に「源資氏」の隠名で詠進する
・1376年(天授2年/永和2年) 『千首和歌』に「光長朝臣」の隠名で詠進する
・1383年(弘和3年/永徳3年)冬 長慶天皇の譲位を受けて践祚する
・1392年(元中9年/明徳3年) 和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して南北朝合一の下交渉を始める
・1393年(元中9年/明徳3年閏10月) 南北両朝合一によって退位する
・1394年(応永元年2月6日) 天竜寺においてはじめて義満と面会する
・1394年(応永元年2月23日) 天皇に太上天皇の尊号が贈進される
・1397年(応永4年11月27日) 尊号および兵仗を辞退する
・1410年(応永17年11月27日) 突如嵯峨を出奔、吉野山に入る
・1412年(応永19年) 称光天皇が践祚する
・1415年(応永22年) 称光天皇践祚に反発した伊勢国司北畠満雅が蜂起するが、説成親王の調停によって幕府との和睦が成立する
・1416年(応永23年9月) 広橋兼宣らの仲介で京都へ帰還する
・1424年(応永31年4月12日) 京都の大覚寺で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1573年(元亀4)戦国大名武田信玄の命日(新暦5月13日)詳細
1905年(明治38)日本初の都市間電気鉄道である阪神電気鉄道が大阪(出入橋駅)~神戸(三宮駅)間で開業する詳細
1957年(昭和32)瀬戸内海の定期客船「第五北川丸」が座礁・沈没し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)詳細
1967年(昭和42)歌人・国文学者窪田空穂の命日詳細
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 今日は、鎌倉時代の1267年(文永4)に、第91代の天皇とされる後宇多天皇(大覚寺統)の生まれた日ですが、新暦では12月17日となります。
 後宇多天皇(ごうだてんのう)は、京都において、大覚寺統の亀山天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれましたが、名は世仁(よひと)と言いました。1268年(文永5)に生後8ヶ月で立太子し、1274年(文永11)の8歳の時、父・亀山天皇の譲位を受けてで践祚、第91代とされる天皇として即位しましたが、父による院政が敷かれます。
 この年11月に、第一次元寇(文永の役)、1281年(弘安4年)には、第二次元寇(弘安の役)が起き、困難な政治状況が続きました。1286年(弘安9)に第一皇子の邦治が親王宣下を受けましたが、1287年(弘安10)の21歳の時、持明院統の皇太子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位します。
 1298年(永仁6)に伏見天皇は胤仁親王(後伏見天皇)に譲位、上皇として院政をとり、持明院統の治世が続いたものの、1301年(正安3年)には、第一皇子の邦治親王(後二条天皇)の即位により、第一次院政を開始しました。1303年(嘉元元)に二条為世に命じて『新後撰和歌集』を撰進させ、1307年(徳治2)には、寵妃の遊義門院が亡くなったことを契機に、仁和寺で落飾(得度)し、金剛性と称します。
 翌年に後二条天皇が亡くなり、持明院統の花園天皇(伏見天皇の皇子)が践祚すると、伏見上皇が院政を行ない、政務から離れ、第一次院政は終了しました。1313年(正和2)に高野山参詣を行ない、1318年(文保2)に第二皇子尊治親王(後醍醐天皇)が践祚すると、第二次院政を開始します。
 1320年(元応2)頃に二条為世に命じて『続千載和歌集』を撰進させ、1321年(元享元)には、院政の停止を幕府に申し出て、後醍醐天皇の親政に委ね、第二次院政は終了しました。好学の天皇で内外の典籍を修め、仏道に帰依して仏典の講究に熱心で、また、和歌も能くして嘉元百首・文保百首・探題歌会「亀山殿七百首」などを催し、日記『後宇多天皇宸記』も残しましたが、1324年(元亨4年6月25日)に京都大覚寺において、数え年58歳で亡くなり、陵墓は蓮華峰寺陵(現在の京都市右京区北嵯峨朝原山町)とされます。
 尚、『新後撰和歌集』初出後、『続千載和歌集』では最多入集し、勅撰和歌集の入集は146首に及びました。

<代表的な歌>

・「樛(つが)の木のいやつぎつぎに伝ふべき天(あめ)の位は神のまにまに」(嘉元仙洞御百首)
・「春来れば雪とも見えず大空の霞を分けて花ぞちりける」(新後撰和歌集)
・「二月(きさらぎ)やなほ風さむき袖のうへに雪まぜにちる梅の初花」(風雅和歌集)
・「過ぎにけり軒のしづくは残れども雲におくれぬ夕立の雨」(新続古今和歌集)
・「長月や雲ゐの秋のこととはん昔にめぐれ菊のさかづき」(新千載和歌集)
・「しろたへの色よりほかの色もなし遠き野山の雪の朝明け」(玉葉和歌集)

〇後宇多天皇の主要な著作

・日記『後宇多天皇宸記』
・『伝法灌頂注』

☆後宇多天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1267年(文永4年12月1日) 京都において、大覚寺統の亀山天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれる
・1268年(文永5年6月) 生後6ヶ月で親王宣下される
・1268年(文永5年8月25日) 生後8ヶ月で立太子する
・1274年(文永11年1月26日) 8歳の時、父・亀山天皇の譲位を受けてで践祚する
・1274年(文永11年3月) 第91代とされる天皇として即位するが、父による院政が敷かれる
・1274年(文永11年11月) 第一次元寇(文永の役)が起きる
・1275年(建治元年) 後深草上皇(持明院統)の鎌倉幕府への働きかけにより、後深草上皇の皇子で2歳年上の熈仁親王(のちの伏見天皇)を皇太子とする
・1281年(弘安4年) 第二次元寇(弘安の役)が起きる
・1286年(弘安9年) 第一皇子の邦治(のちの後二条天皇)が親王宣下を受ける
・1287年(弘安10年10月21日) 21歳の時、皇太子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位する
・1298年(永仁6年) 伏見天皇は胤仁親王(後伏見天皇)に譲位、上皇として院政をとり、持明院統の治世が続く
・1301年(正安3年) 第一皇子の邦治親王(後二条天皇)の即位により、第一次院政を開始する
・1303年(嘉元元年) 二条為世に命じて『新後撰集』を撰進させる
・1307年(徳治2年) 寵妃の遊義門院が亡くなったことを契機に、仁和寺で落飾(得度)し、金剛性と称する
・1308年(徳治3年) 後二条天皇が亡くなり、持明院統の花園天皇(伏見天皇の皇子)が践祚すると、伏見上皇が院政を行ない、政務から離れる(第一次院政終了)
・1313年(正和2年) 高野山参詣を行なう
・1318年(文保2年) 第二皇子尊治親王(後醍醐天皇)が践祚し、第二次院政を開始する
・1320年(元応2年)頃  二条為世に命じて『続千載集』を撰進させる
・1321年(元享元年) 院政の停止を幕府に申し出、後醍醐天皇の親政に委ねる(第二次院政終了)
・1324年(元亨4年6月25日) 京都大覚寺において、数え年58歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1903年(明治36)小説家小林多喜二の誕生日詳細
1934年(昭和9)東海道本線丹那トンネル(熱海~函南)が開通する詳細
1977年(昭和52)小説家海音寺潮五郎の命日詳細


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 今日は、鎌倉時代の1305年(嘉元3)に、第90代の天皇とされる亀山天皇の亡くなった日ですが、新暦では10月4日となります。
 亀山天皇(かめやまてんのう)は、1249年(建長元年5月27日)に、京都において、後嵯峨天皇の第三皇子(母は大宮院結子)として生まれましたが、名は恒仁(つねひと)と言いました。1258年(正嘉2)に10歳で立太子し、翌年には、兄の後深草天皇の譲位により、践祚、即位します。
 1265年(文永2)に元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、神社に異国降伏の祈願を行なしました。1272年(文永9)に父・後嵯峨法皇が亡くなり、治天の君の継承と皇室領荘園の問題が起こります。
 1274年(文永11)には、皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位して、上皇として院政を開始しますが、同年に第1回元寇(文永の役)が起こりました。これにより炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり、敵国降伏の宸筆を納めたりしましたが、1281年(弘安4)に再度の元寇(弘安の役)に見舞われます。
 その後は、1285年(弘安8)に、公家の礼儀作法をまとめた『弘安礼節』を制定、鎌倉幕府の弘安の改革に呼応して「徳政」を進め、1286年(弘安9)には、評定制を大改革するなど意欲的に政治を行ないました。しかし、1287年(弘安10)に後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇の院政が開始されて総領権を奪われます。
 1289年(正応2)に出家(法名は金剛源)して、法皇となり、1291年(正応4年)には、離宮を喜捨して禅寺としますが、これが南禅寺の起源となりました。笛・琵琶・催楽馬・神楽・朗詠など様々な芸能に通じ、『続拾遺和歌集』の選進を命じるなど和歌・漢詩文を能くし、勅撰集には計106首入集しています。
 この間、天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争う渦中にもありましたが、1305年(嘉元3年9月15日)に、京都の亀山殿で数え年57歳で亡くなりました。

<代表的な歌>

・「世のために 身をばをしまぬ 心とも あらぶる神は てらしみるらむ」(亀山院御集)
・「あまつかぜ 空にたちつつ あらかねの 土の色にぞ 秋もみえける」(嘉元百首)
・「とほざかる 声ばかりして 夕ぐれの 雲のいづくに 雁のなくらん」(続拾遺和歌集)
・「おしなべて 月やひとへに やどるらん 花の千種の 秋の白露」(続後拾遺和歌集)
・「しづかなる ねざめ夜ぶかき 暁の 鐘よりつづく 鳥のこゑごゑ」(新後撰和歌集)

〇亀山天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1249年(建長元年5月27日) 京都において、御嵯峨天皇の第三皇子(母は大宮院結子)として生まれる
・1258年(正嘉2年8月) 10歳で立太子する 
・1259年(正元元年) 兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚、即位する
・1265年(文永2年) 元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、神社に異国降伏の祈願を行う
・1267年(文永4年) 皇后洞院佶子が皇子・世仁(後宇多天皇)を生む
・1268年(文永5年) 後嵯峨上皇の意向をもとに世仁親王を皇太子に立てる
・1272年(文永9年2月) 後嵯峨法皇が崩御し、治天の君の継承と、皇室領荘園の問題が起こる
・1274年(文永11年1月) 皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位して院政を開始する
・1274年(文永11年) 元寇(文永の役)により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり、敵国降伏の宸筆を納める
・1275年(建治元年) 熙仁は亀山上皇の猶子となり親王宣下、ついで皇太子となる
・1276年(建治2年7月) 藤原為氏に勅撰集の編纂を命ずる
・1278年(弘安元年12月27日) 『続拾遺和歌集』として完成し、撰進される
・1281年(弘安4年) 再度の元寇(弘安の役)がある
・1285年(弘安8年) 公家の礼儀作法をまとめた『弘安礼節(こうあんれいせつ)』編纂させる
・1286年(弘安9年) 亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多皇子の邦治(後二条天皇)が親王宣下される
・1286年(弘安9年) 評定制の改革を断行する
・1287年(弘安10年10月) 後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇院政が開始されて総領権を奪われる
・1289年(正応2年9月) 出家(法名は金剛源)して、法皇となる
・1291年(正応4年) 離宮を喜捨して禅寺とする(南禅寺の起り)
・1302年(乾元元年) 後伏見上皇の願いで蹴鞠を伝授する
・1303年(乾元2年) 後伏見上皇の願いで朗詠を伝授する
・1290年(正応3年) 宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きる
・1305年(嘉元3年9月15日) 京都の亀山殿で数え年57歳で亡くなる

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