ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大江健三郎

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 今日は、昭和時代後期の1994年(平成6)に、大江健三郎のノーベル賞(文学賞)受賞が決定した日です。
 ノーベル賞(のーべるしょう)は、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベル(1833~96)の遺言と遺産によって、1901年(明治34)から始まった世界で最も権威のある賞とされてきました。毎年、物理学・化学・生理学および医学・文学・平和の5部門において、顕著な功績のあった人に授与されるようになりましたが、1969年(昭和44)からは、スウェーデン銀行創立300年を記念し、その寄付により経済学賞も同様に授与されるようになり、メダル・賞状・賞金がノーベルの命日に当たる12月10日に贈られています。
 賞の授与機関については、ノーベルの遺志により、物理学部門と化学部門はスウェーデン王立科学アカデミー、生理学・医学部門は王立カロリンスカ医学研究所、文学部門はスウェーデン・アカデミー、平和賞はノルウェー国会ノーベル委員会と定められ、経済学部門については、スウェーデン王立科学アカデミーが賞の授与にあたってきました。日本人の最初の受賞者は、1949年(昭和24)物理学賞の湯川秀樹「中間子の存在の予想」で、2022年(令和4)までに25名(日本出身の他国籍者を除く)が、物理学賞(9名)、化学賞(8名)、生理学・医学賞(5名)、文学賞(2名)、平和賞(1名)にわたって受賞していまのす。

〇大江 健三郎】(おおえ けんざぶろう)とは?

 昭和から令和時代の小説家・ノーベル文学賞作家です。昭和時代前期の1935年(昭和10)1月31日に、愛媛県喜多郡大瀬村(現在の内子町)において、父・大江好太郎、母・小石の三男として生まれましたが、1944年(昭和19)に父が亡くなりました。
 1950年(昭和25)に愛媛県立内子高校に入学、1951年(昭和26)の二年への進級時、愛媛県立松山東高校へ転校し、文芸部で雑誌「掌上」を編集、伊丹十三と知り合います。1953年(昭和28)に卒業後、1年浪人して、1954年(昭和29)に東京大学文科二類に入学、東大学生演劇の脚本「天(そら)の嘆き」を執筆し、1956年(昭和31)には、フランス文学科に進み、渡辺一夫博士に師事しました。
 1957年(昭和32)に東京大学新聞に掲載された「奇妙な仕事」が毎日新聞の文芸時評で評価され、学生作家としてデビュー、1958年(昭和33)には、『死者の奢り』を刊行、「飼育」により第39回芥川龍之介賞を受賞します。1959年(昭和34)に卒論「サルトルの小説におけるイメージについて」を書いて、東京大学を卒業、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行、1960年(昭和35)には、安保批判の会、若い日本の会に参加、『大江健三郎集』を刊行しました。
 1961年(昭和36)に東欧、西欧、ソビエト旅行、翌年に紀行集『ヨーロッパの声・僕自身の声』を刊行、1964年(昭和39)には、『個人的な体験』により、第11回新潮社文学賞を受賞します。1965年(昭和40)にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』を刊行、夏から初冬まで米国旅行をし、1966年(昭和41)には、『大江健三郎全集』全6巻を刊行しました。
 1967年(昭和42)に『万延元年のフットボール』で、第3回谷崎潤一郎賞を受賞、1968年(昭和43)には、オーストラリア旅行をし、エッセイ集『持続する志』を刊行します。1970年(昭和45)に『沖縄ノート』を刊行、1971年(昭和46)には、広島原爆病院長重藤博士との対話『原爆後の人間』を刊行、大田昌秀琉球大学教授(後に沖縄知事)との共同編集で季刊「沖縄経験」を創刊しました。
 1973年(昭和48)に書き下ろし長編『洪水はわが魂に及び』で、第26回野間文芸賞を受賞、1975年(昭和50)には、韓国の詩人金芝河(キムジハ)の釈放を訴えて、小田実、井出孫六らと数寄屋橋公園で48時間坐り込みをしています。1976年(昭和51)に芥川賞選考委員(~1984年)となり、1977年(昭和52)に、『大江健三郎全作品』第二期・全6巻を刊行、1978年(昭和53)には、朝日新聞の文芸時評担当(~1979年)しました。
 1982年(昭和57)に連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』で第34回読売文学賞、1983年(昭和58)には、カリフォルニア大学バークレー校に研究員として滞在、『新しい人よ眼ざめよ』で第10回大佛次郎賞を受賞しています。1989年(平成元)にEC文学賞、ユーロパリア文学賞(ベルギー)を受賞、1990年(平成2)には、芥川賞選考委員に復帰、『人生の親戚』で第1回伊藤整文学賞を受賞しました。1993年(平成5)に『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』でモンデッロ賞(イタリア)を受賞、1994年(平成6)には、ノーベル文学賞を受賞、文化勲章と愛媛県の賞を辞退しています。1996年(平成8)に米プリンストン大学の客員講師となり、翌年には、米国芸術アカデミーの外国人名誉会員となり、日本へ帰国しました。
 2002年(平成14)に仏レジオン・ド・ヌール勲章コマンドールを受賞、2003年(平成15)に仏リベラシオン紙にてイラクへの自衛隊派遣計画を批判、2004年(平成16)には、加藤周一氏の呼びかけにより結成された「九条の会」に参加します。2005年(平成17)に「大江健三郎賞」創設を発表、2007年(平成19)に『さようなら、私の本よ!』が中国で魯迅文学賞の全国優秀文学翻訳賞、2009年(平成21)には、『臈たしアナベル・リイ』が、中国の「21世紀年度最優秀外国小説・2008微山湖賞」 を受賞しましたが、2023年〈令和5〉3月3日に、老衰のため88歳で亡くなりました。

☆日本人のノーベル賞受賞者一覧(受賞時に外国籍の人は除く)

<物理学賞>9名

・1949年 湯川秀樹「中間子の存在の予想」
・1965年 朝永振一郎「量子電気力学分野での基礎的研究」
・1973年 江崎玲於奈「半導体におけるトンネル効果の実験的発見」
・2002年 小柴昌俊「天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献」
・2008年 小林誠「小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献」
・2008年 益川敏英「小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献」
・2014年 赤﨑勇「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」
・2014年 天野浩「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」
・2015年 梶田隆章「ニュートリノが質量を持つことを示すニュートリノ振動の発見」

<化学賞>8名

・1981年 福井謙一「化学反応過程の理論的研究」
・2000年 白川英樹「導電性高分子の発見と発展」
・2001年 野依良治「キラル触媒による不斉反応の研究」
・2002年 田中耕一「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」
・2008年 下村脩「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と生命科学への貢献」
・2010年 根岸英一「クロスカップリングの開発」
・2010年 鈴木章「クロスカップリングの開発」
・2019年 吉野彰「リチウムイオン二次電池の開発」

<生理学・医学賞>5名

・1987年 利根川進「多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明」
・2012年 山中伸弥「様々な細胞に成長できる能力を持つiPS細胞の作製」
・2015年 大村智「線虫の寄生によって引き起こされる感染症に対する新たな治療法に関する発見」
・2016年 大隅良典「オートファジーの仕組みの解明」
・2018年 本庶佑「免疫チェックポイント阻害因子の発見とがん治療への応用」

<文学賞>2名

・1968年 川端康成「『伊豆の踊子』『雪国』など、日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による叙述の卓越さに対して」
・1994年 大江健三郎「『個人的な体験』『万延元年のフットボール』など、詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにした功績に対して」

<平和賞>1名

・1974年 佐藤栄作「非核三原則の提唱」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

709年(和銅2)第49代の天皇とされる光仁天皇の誕生日(新暦11月18日)詳細
1282年(弘安5)鎌倉時代の僧侶・日蓮宗の開祖日蓮の命日(新暦11月14日)詳細
1707年(宝永4)俳人・蕉門十哲の一人服部嵐雪の命日(新暦11月6日)詳細
1804年(文化元)華岡青洲が世界初の麻酔薬を使った手術に成功(新暦11月14日)詳細
1905年(明治38)上田敏の訳詩集『海潮音』が本郷書院より刊行される詳細
1908年(明治41)明治天皇により「戊申詔書」が発布(翌日の官報掲載)される詳細
1955年(昭和30)歴史学者・仏教史家辻善之助の命日詳細
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ooekenzaburou01
 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、小説家・ノーベル文学賞作家大江健三郎が生まれた日です。
 大江健三郎(おおえ けんざぶろう)は、愛媛県喜多郡大瀬村(現在の内子町)において、父・大江好太郎、母・小石の三男として生まれましたが、1944年(昭和19)に父が亡くなりました。1950年(昭和25)に愛媛県立内子高校に入学、1951年(昭和26)の二年への進級時、愛媛県立松山東高校へ転校し、文芸部で雑誌「掌上」を編集、伊丹十三と知り合います。
 1953年(昭和28)に卒業後、1年浪人して、1954年(昭和29)に東京大学文科二類に入学、東大学生演劇の脚本「天(そら)の嘆き」を執筆し、1956年(昭和31)には、フランス文学科に進み、渡辺一夫博士に師事しました。1957年(昭和32)に東京大学新聞に掲載された「奇妙な仕事」が毎日新聞の文芸時評で評価され、学生作家としてデビュー、1958年(昭和33)には、『死者の奢り』を刊行、「飼育」により第39回芥川龍之介賞を受賞します。
 1959年(昭和34)に卒論「サルトルの小説におけるイメージについて」を書いて、東京大学を卒業、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行、1960年(昭和35)には、安保批判の会、若い日本の会に参加、『大江健三郎集』を刊行しました。1961年(昭和36)に東欧、西欧、ソビエトを旅行、翌年に紀行集『ヨーロッパの声・僕自身の声』を刊行、1964年(昭和39)には、『個人的な体験』により、第11回新潮社文学賞を受賞します。
 1965年(昭和40)にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』を刊行、夏から初冬まで米国旅行をし、1966年(昭和41)には、『大江健三郎全集』全6巻を刊行しました。1967年(昭和42)に『万延元年のフットボール』で、第3回谷崎潤一郎賞を受賞、1968年(昭和43)には、オーストラリア旅行をし、エッセイ集『持続する志』を刊行します。
 1970年(昭和45)に『沖縄ノート』を刊行、1971年(昭和46)には、広島原爆病院長重藤博士との対話『原爆後の人間』を刊行、大田昌秀琉球大学教授(後に沖縄知事)との共同編集で季刊「沖縄経験」を創刊しました。1973年(昭和48)に書き下ろし長編『洪水はわが魂に及び』で、第26回野間文芸賞を受賞、1975年(昭和50)には、韓国の詩人金芝河(キムジハ)の釈放を訴えて、小田実、井出孫六らと数寄屋橋公園で48時間坐り込みをしています。
 1976年(昭和51)に芥川賞選考委員(~1984年)となり、1977年(昭和52)に、『大江健三郎全作品』第二期・全6巻を刊行、1978年(昭和53)には、朝日新聞の文芸時評担当(~1979年)しました。1982年(昭和57)に連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』で第34回読売文学賞、1983年(昭和58)には、カリフォルニア大学バークレー校に研究員として滞在、『新しい人よ眼ざめよ』で第10回大佛次郎賞を受賞しています。
 1989年(平成元)にEC文学賞、ユーロパリア文学賞(ベルギー)を受賞、1990年(平成2)には、芥川賞選考委員に復帰、『人生の親戚』で第1回伊藤整文学賞を受賞しました。1993年(平成5)に『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』でモンデッロ賞(イタリア)を受賞、1994年(平成6)には、ノーベル文学賞を受賞、文化勲章と愛媛県の賞を辞退しています。
 1996年(平成8)に米プリンストン大学の客員講師となり、翌年には、米国芸術アカデミーの外国人名誉会員となり、日本へ帰国しました。2002年(平成14)に仏レジオン・ド・ヌール勲章コマンドールを受賞、2003年(平成15)に仏リベラシオン紙にてイラクへの自衛隊派遣計画を批判、2004年(平成16)には、加藤周一氏の呼びかけにより結成された「九条の会」に参加します。
 2005年(平成17)に「大江健三郎賞」創設を発表、2007年(平成19)に『さようなら、私の本よ!』が中国で魯迅文学賞の全国優秀文学翻訳賞、2009年(平成21)には、『臈たしアナベル・リイ』が、中国の「21世紀年度最優秀外国小説・2008微山湖賞」 を受賞しましたが、2023年〈令和5〉3月3日に、老衰のため88歳で亡くなりました。

〇大江健三郎の主要な著作

・『奇妙な仕事』(1957年)五月祭の懸賞小説入賞
・『死者の奢り』(1957年)
・『他人の足』(1957年)
・『飼育』(1958年)第39回芥川龍之介賞受賞
・『性的人間』(1963年)
・『個人的な体験』(1964年)第11回新潮社文学賞受賞
・ルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』(1964~65年)
・随筆集『厳粛な綱渡り』(1965年)
・『万延元年のフットボール』(1967年)第3回谷崎潤一郎賞受賞
・『沖縄ノート』(1970年)
・『洪水はわが魂に及び』(1973年)第26回野間文芸賞受賞
・『ピンチランナー調書』(1976年)
・『同時代ゲーム』(1978年)
・短編連作『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』(1982年)第34回読売文学賞受賞
・『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)第10回大佛次郎賞受賞
・『懐かしい年への手紙』(1987年)
・『人生の親戚』(1990年)第1回伊藤整文学賞受賞
・三部作『燃えあがる緑の樹』(1993~95年)

☆大江健三郎関係略年表

・1935年(昭和10)1月31日 愛媛県喜多郡大瀬村(現在の内子町)において、父・大江好太郎、母・小石の三男として生まれる
・1944年(昭和19) 父・好太郎が亡くなる
・1947年(昭和22) 大瀬中学に入学する
・1950年(昭和25) 愛媛県立内子高校に入学する
・1951年(昭和26) 二年への進級時、愛媛県立松山東高校へ転校し、文芸部で雑誌「掌上」を編集、伊丹十三と知り合う。
・1953年(昭和28) 松山東高校を卒業、東京大学を受験するが、試験を途中で放棄し帰郷、神奈川県の藤沢に下宿し、浪人生活を送る
・1954年(昭和29) 東京大学文科二類に入学、東大学生演劇の脚本「天(そら)の嘆き」を執筆する
・1955年(昭和30) 「火山」を<学園>九月号に発表、脚本「夏の休暇」執筆する
・1956年(昭和31) フランス文学科に進み、渡辺一夫博士に師事、脚本「死人に口なし」、「獣たちの声」執筆する
・1957年(昭和32) 東京大学新聞に掲載された「奇妙な仕事」(「獣たちの声」を小説化したもの)が毎日新聞の文芸時評で評価され、学生作家としてデビュー、「死者の奢り」、「他人の足」、「石膏のマスク」、「偽証の時」、戯曲「動物倉庫」を発表する
・1958年(昭和33) 「飼育」、「人間の羊」、「運搬」を発表。『死者の奢り』を刊行、「飼育」により第39回芥川龍之介賞を受賞する
・1959年(昭和34) 卒論「サルトルの小説におけるイメージについて」を書いて、東京大学を卒業、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行する
・1960年(昭和35) 安保批判の会、若い日本の会に参加、短編集『孤独な青年の休暇』、長編『青年の汚名』、『大江健三郎集』を刊行する
・1961年(昭和36) 東欧、西欧、ソビエト旅行をする
・1962年(昭和37) 長編『遅れてきた青年』、紀行集『ヨーロッパの声・僕自身の声』を刊行する
・1963年(昭和38) 長編『叫び声』を刊行する
・1964年(昭和39) 長編『日常生活の冒険』、書き下ろし長編『個人的な体験』を刊行、『個人的な体験』により第11回新潮社文学賞を受賞する
・1965年(昭和40) エッセイ集『厳粛な綱渡り』、『ヒロシマ・ノート』を刊行、夏から初冬まで米国旅行をする
・1966年(昭和41) 『大江健三郎全集』全6巻を刊行する
・1967年(昭和42) 『万延元年のフットボール』を刊行、第3回谷崎潤一郎賞を受賞する
・1968年(昭和43) オーストラリア旅行をし、エッセイ集『持続する志』を刊行する
・1969年(昭和44) 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を刊行する
・1970年(昭和45) 評論『壊れものとしての人間-活字のむこうの暗闇』、講演集『核時代の想像力』、『沖縄ノート』を刊行する
・1971年(昭和46) 広島原爆病院長重藤博士との対話『原爆後の人間』を刊行、大田昌秀琉球大学教授(後に沖縄知事)との共同編集で季刊「沖縄経験」を創刊する
・1972年(昭和47) 全エッセイ集『鯨の死滅する日』を刊行する
・1973年(昭和48) 書き下ろし長編『洪水はわが魂に及び』を刊行、第26回野間文芸賞を受賞する
・1974年(昭和49) 評論集『状況へ』、『文学ノート 付=15篇』を刊行する
・1975年(昭和50) 韓国の詩人金芝河(キムジハ)の釈放を訴えて、小田実、井出孫六らと数寄屋橋公園で48時間坐り込みをする
・1976年(昭和51) 評論集『言葉によって 状況・文学*』、長編『ピンチランナー調書』を刊行、芥川賞選考委員となる
・1977年(昭和52) 『大江健三郎全作品』第二期・全6巻を刊行する
・1978年(昭和53) 朝日新聞の文芸時評担当(~1979年)、評論『小説の方法』、評論集『表現する者 状況・文学**』を刊行する
・1979年(昭和54) 書き下ろし『同時代ゲーム』を刊行する
・1980年(昭和55) 評論集『方法を読む=大江健三郎文芸時評』、中短編集『現代伝奇集』、『大江健三郎同時代論集』全十巻を刊行する
・1982年(昭和57) 講演集『核の大火と「人間」の声』、連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』を刊行、第34回読売文学賞を受賞する
・1983年(昭和58) カリフォルニア大学バークレー校に研究員として滞在、『新しい人よ眼ざめよ』で第10回大佛次郎賞を受賞する
・1984年(昭和59) 芥川賞選考委員を辞任する
・1985年(昭和60) 『河馬に噛まれる』を刊行する
・1987年(昭和62) 書き下ろし長編『懐かしい年への手紙』を刊行する
・1988年(昭和63) 新潮5月号にて江藤淳、開高健、石原慎太郎の四人で座談会を開く
・1989年(平成元) EC文学賞、ユーロパリア文学賞(ベルギー)を受賞する
・1990年(平成2) 芥川賞選考委員に復帰、『人生の親戚』にて第1回伊藤整文学賞を受賞する
・1991年(平成3) 政府の湾岸戦争貢献策批判の声明を出す
・1992年(平成4) 『僕が本当に若かった頃』、『人生の習慣』を刊行する
・1993年(平成5) 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』でモンデッロ賞(イタリア)を受賞する
・1994年(平成6) 長男光の作曲家としての成功を期に小説執筆の終止を宣言、ノーベル文学賞を受賞、文化勲章と愛媛県の賞を辞退する
・1995年(平成7) 朝日賞を受賞、ノーベル賞記念講演『あいまいな日本の私』を刊行する
・1996年(平成8) 作曲家武満徹の告別式で作家復帰を宣言、エッセイ集『ゆるやかな絆』を刊行、米プリンストン大学の客員講師となる
・1997年(平成9) 米国芸術アカデミーの外国人名誉会員となり、日本へ帰国する
・1998年(平成10) 『私という小説家の作り方』を刊行する
・1999年(平成11) ベルリン自由大学で客員教授として「日本作家の現実」というテーマで講義する
・2000年(平成12) 有楽町朝日ホールにて朝日賞記念講演「『知』をめぐる私の意見」を行う
・2001年(平成13) 「新しい歴史教科書をつくる会」の検定不合格を求める声明を三木睦子氏らと発表する
・2002年(平成14) 仏レジオン・ド・ヌール勲章コマンドールを受賞する
・2003年(平成15) 仏リベラシオン紙にてイラクへの自衛隊派遣計画を批判する
・2004年(平成16) 加藤周一氏の呼びかけにより結成された「九条の会」に参加する
・2005年(平成17) 「大江健三郎賞」創設を発表する
・2007年(平成19) 『さようなら、私の本よ!』が中国で魯迅文学賞の全国優秀文学翻訳賞受賞する
・2009年(平成21) 『臈たしアナベル・リイ』が、中国の「21世紀年度最優秀外国小説・2008微山湖賞」 を受賞する
・2023年〈令和5〉3月3日 老衰のため88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1883年(明治16)病理学者緒方知三郎の誕生日詳細
1892年(明治25)詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の誕生日詳細
1893年(明治26)北村透谷・島崎藤村らが文藝雑誌「文学界」を創刊する詳細
1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細
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