ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大正デモクラシー

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 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、雑誌「反省雑誌」を「中央公論」と改題して発足した日です。
 「中央公論」(ちゅうおうこうろん)は、明治時代からの歴史を持つ、中央公論新社(旧中央公論社)発行の総合雑誌でした。明治時代前期の1886年(明治19)4月6日に、反省会が京都西本願寺普通教校内に結成されて創業し、1887年(明治20)8月に機関誌「反省会雑誌」(後に「反省雑誌」と改題)を創刊、1899年(明治32)1月15日に、「中央公論」と改題されて発足し、その後宗門から独立します。
 1904年(明治37)に、滝田樗陰(ちょいん)が編集者となり、自由主義的な代表的総合誌として発展、明治時代末には、雑誌「太陽」と並び称せられるようになりました。また、1905年(明治38)に、200号記念号を発刊し、夏目漱石の『薤露行』、幸田露伴の『付焼刃』、泉鏡花の『女客』等を掲載するなどして、文壇の登竜門ともされるようになります。
 1912年(大正元)に、滝田樗陰が中央公論主幹となり、1914年(大正3)には、社名を中央公論社と改め、1916年(大正5)には、「婦人公論」も創刊されました。時事評論では、吉野作造や大山郁夫らを重用して、大正デモクラシー運動の指導誌となります。
 昭和時代になると、1928年(昭和3)に嶋中雄作が社長に就任、「改造」と並ぶ総合雑誌の双璧として、自由主義的、反軍国主義的方針を貫こうとしたものの、昭和10年代にはしばしば言論弾圧を受けるようになりました。太平洋戦争下の1944年(昭和19)の横浜事件を契機に解散させられ、雑誌の発行も絶たれます。
 戦後ただちに会社として再建され、1946年(昭和21)に復刊、1949年(昭和24)に社長嶋中雄作が亡くなると次男鵬二(ほうじ)が社業を継ぎました。1955年(昭和30)に「改造」の廃刊後は、「世界」と共に総合雑誌界を2分するようになります。
 広津和郎「松川裁判」の長期連載など、数々の話題作を掲載しましたが、1960年(昭和35)12月号の深沢七郎「風流夢譚」がきっかけにして、右翼の攻撃を受け、社長宅が襲われ嶋中夫人が負傷、家政婦が死亡するテロ事件(風流夢譚事件)に発展、社会に大きな衝撃を与えました。その後、雑誌のほか各種の図書、全集類(『日本の文学』『日本の歴史』等)、「中公新書」「中公文庫」などを刊行し、業績を拡大したものの、1997年(平成9)に鵬二社長が死去、経営危機が表面化します。
 その後、1999年(平成11)に読売新聞社に譲渡され、読売の100%子会社である中央公論新社に出版活動が引き継がれました。

〇「中央公論」関係略年表

・1886年(明治19)4月6日 「反省会」が京都西本願寺普通教校内に結成され、創業する
・1887年(明治20)8月 『中央公論』の前身『反省会雑誌』を創刊。
・1892年(明治25)5月 『反省会雑誌』を『反省雑誌』と改題する
・1896年(明治29)12月 社屋を京都から東京市本郷区駒込西片町へ移転する
・1899年(明治32)1月15日 『反省雑誌』を『中央公論』と改題する
・1904年(明治37)1月 麻田駒之助が『中央公論』の編集と反省社の経営にあたる。(初代社長就任)
・1905年(明治38)11月 『中央公論』200号記念号を発刊、夏目漱石の『薤露行』、幸田露伴の『付焼刃』、泉鏡花の『女客』などを掲載する
・1912年(大正元)9月 滝田樗陰が中央公論主幹となる
・1914年(大正3)1月 社名を「中央公論社」と改める
・1916年(大正5)1月 『婦人公論』を創刊、嶋中雄作が主幹となる
・1923年(大正12)4月 新築された丸ビルに事務所を移転する
・1928年(昭和3)8月1日 嶋中雄作が社長に就任する
・1929年(昭和4)10月 中央公論社出版部の第一作としてルマルク著、秦豊吉訳『西部戦線異状なし』を刊行する
・1935年(昭和10)10月 中央公論社創業50周年記念祝賀会が挙行される
・1944年(昭和19)7月 中央公論社と改造社が陸軍情報局に招致され自発的廃業を勧告され、『中央公論』が休刊、会社を7月31日限りで解散する
・1945年(昭和20)10月29日 社業再発足の集いが行われる
・1946年(昭和21)1月 『中央公論』戦後再建第1号が発行される
・1949年(昭和24)1月17日 嶋中雄作社長が急逝、22日に嶋中鵬二が社長に就任する
・1954年(昭和29)10月 『折口信夫全集』(全31巻別巻1巻)刊行を開始する
・1955年(昭和30)10月 創業70周年記念出版として限定愛蔵本『潤一郎新訳源氏物語』(全5巻)を刊行する
・1956年(昭和31)11月 京橋に社屋を建築し、丸ビルから移転する
・1960年(昭和35)11月 創業75周年記念出版として全集『世界の歴史』(全16巻別巻1巻)の刊行を開始する
・1961年(昭和36)2月 「風流夢譚」事件。掲載小説に憤慨した右翼少年が嶋中社長宅に押し入り、お手伝いの女性を殺害、雅子夫人も重傷を負う
・1962年(昭和37)11月 「中公新書」の刊行を開始する
・1963年(昭和38)2月 全集『世界の文学』(全54巻)の刊行を開始する
・1964年(昭和39)2月 創業80周年記念出版として全集『日本の文学』(全80巻)の刊行を開始する
・1965年(昭和40)2月 創業80周年記念出版として全集『日本の歴史』(全26巻別巻5巻)の刊行を開始する
・1966年(昭和41)2月 全集『世界の名著』(全66巻)の刊行を開始する
・1967年(昭和42)1月 「中公叢書」の刊行を開始する
・1969年(昭和44)6月 全集『日本の名著』(全50巻)の刊行を開始する
・1973年(昭和48)6月 「中公文庫」の刊行を開始する
・1982年(昭和57)11月 「C★NOVELS」の刊行を開始する
・1985年(昭和60)11月 創業100周年記念出版として全集『日本の古代』(全15巻別巻1巻)の刊行を開始する
・1989年(平成元)3月 『TUGUMI(つぐみ)』(吉本ばなな著)を刊行、172万部のミリオンセラーとなる
・1996年(平成8)11月 創業111周年記念出版全集『世界の歴史』(全30巻)の刊行を開始する
・1997年(平成9)4月3日 嶋中鵬二社長が亡くなる
・1999年(平成11)2月1日 読売新聞社に譲渡され、読売の100%子会社である中央公論新社として再スタートを切る
・2000年(平成12)2月 社屋改築のため「ぬ利彦ビル」に一時移転する
・2001年(平成13)3月25日 「中公新書ラクレ」の刊行を開始する
・2002年(平成14)2月 全集『日本の中世』(全12巻)の刊行を開始する
・2002年(平成14)3月 京橋新社屋完成、4月から業務開始する
・2007年(平成19)4月 全集『哲学の歴史』(全12巻)の刊行を開始する
・2015年(平成27)7日 社屋を東京都千代田区大手町へ移転する
・2015年(平成27)5月 『谷崎潤一郎全集』(全26巻)の刊行を開始する
・2016年(平成2)10月 全集『西洋美術の歴史』(全8巻)の刊行を開始する
・2019年(令和元)4月1日 WEBメディア「婦人公論.jp」が配信開始される
・2020年(令和2)1月0日 中公叢書と統合し、中公選書が新装刊される
・2021年(令和3)4月14日 『52ヘルツのクジラたち』(町田そのこ著)が第18回本屋大賞を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)坂下門外の変が起きる(新暦2月13日)詳細
1872年(明治5)彫刻家平櫛田中の誕生日(新暦2月23日)詳細
1936年(昭和11)日本がロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する詳細
1940年(昭和15)静岡大火が起こり、5,275戸を焼失、死者1名、負傷者788名を出す詳細
1974年(昭和49)長崎県の端島炭鉱(軍艦島)が閉山する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、憲法・行政法学者・貴族院議員佐々木惣一が亡くなった日です。
 佐々木惣一(ささき そういち)は、明治時代前期の1878年(明治11)3月28日に、現在の鳥取県鳥取市西町で、佐々木惣三郎の長男として生まれました。鳥取第一中学校(現在の鳥取西高)、旧制第四高等学校を経て、1903年(明治36)に、京都帝国大学法科大学を卒業します。
 その後、同大学講師を経て、1906年(明治39)に助教授となり、1909年(明治42)からドイツ、フランス、イギリスへ行政法研究のため3年間留学しました。帰国後、1913年(大正2)に京都帝国大学法科大学教授となり、法学博士も取得します。憲法および行政法の権威として、天皇機関説、民本主義を主張、美濃部達吉と共に、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍、1916年(大正5)に「大阪朝日新聞」の朝刊1面で論文「立憲非立憲」を発表、1921年(大正10)には、京都帝国大学法学部長となりました。
 しかし、1933年(昭和8)に滝川幸辰教授の刑法思想をめぐる政府弾圧(滝川事件)に抗議して同僚とともに職を辞し、大学の自治を守り、転じて、1934年(昭和9)には、立命館大学学長となります。同年の東大森戸辰男筆禍事件では、特別弁護人として学問研究の自由を説き森戸を擁護しました。
 学界全体が大政翼賛運動に巻き込まれていくなかで、大政翼賛会違憲論を主張、1939年(昭和14)には、帝国学士院会員となります。太平洋戦争後、1945年(昭和20)に内大臣府御用掛として近衛文麿と共に、帝国憲法改正考査に携さわり、いわゆる「佐々木草案」を作成し、翌年には、貴族院議員に勅選され、新憲法審議にも参加しました。
 1947年(明治22)から、翌年にかけて、和辻哲郎と国体論争を展開しています。1952年(昭和27)に文化勲章を受章、併せて文化功労者となり、翌年には、京都市名誉市民ともなりました。しかし、1965年(昭和40)8月4日に、京都府京都市において87歳で亡くなり、叙正三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇佐々木惣一の主要な著作

・『日本行政法原論』(1920年)
・『立憲非立憲』(1918年)
・『日本憲法要論』(1930年)
・『わが国憲法の独自性』(1943年)
・『日本国憲法論』(1949年)
・『天皇の国家的象徴性』(1949年)
・『憲法学論文選』(1956~57年)
・『法の根本的考察』(1965年)

☆佐々木惣一関係略年表

・1878年(明治11)3月28日 現在の鳥取県鳥取市西町で、佐々木惣三郎の長男として生まれる
・1903年(明治36)7月 京都帝国大学法科大学を卒業する
・1906年(明治39)10月 京都帝国大学法科大学助教授となる
・1909年(明治42)9月 ドイツ、フランス、イギリスへ行政法研究のため3年間留学する
・1913年(大正2)1月 京都帝国大学法科大学教授となる
・1913年(大正2)12月 法学博士となる
・1916年(大正5) 「大阪朝日新聞」の朝刊1面で論文「立憲非立憲」を発表する
・1921年(大正10)4月 京都帝国大学法学部長となる
・1927年(昭和2) 退官した市村光恵に代わって憲法も担当する
・1929年(昭和4)以来 公法研究会、行政法判例研究会などを主宰する
・1933年(昭和8) 滝川幸辰教授の刑法思想をめぐる政府弾圧(滝川事件)に抗議して同僚とともに職を辞し、大学の自治を守る
・1934年(昭和9)3月 立命館大学学長となる
・1934年(昭和9) 東大森戸辰男筆禍事件では、特別弁護人として学問研究の自由を説き森戸を擁護する 
・1939年(昭和14)12月 帝国学士院会員となる
・1945年(昭和20)10月 京都帝国大学名誉教授となる
・1945年(昭和20)11月 内大臣府御用掛として憲法改正調査を拝命しいわゆる「佐々木草案」を作成する
・1946年(昭和21)3月 貴族院勅選議員に勅任される(翌年5月2日まで在任)
・1947年(明治22) 和辻哲郎と国体論争を展開する
・1952年(昭和27)11月 文化勲章を受章、併せて文化功労者となる
・1953年(昭和28)11月 京都市名誉市民となる
・1965年(昭和40)8月4日 京都市において87歳で亡くなり、叙正三位、勲一等瑞宝章を追贈される
・1965年(昭和40)8月21日 京都市公葬が営まれる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

770年(神護景雲4)第46代・48代の天皇とされる孝謙天皇(称徳天皇)の命日(新暦8月28日)詳細
1830年(文政13)幕末の思想家・教育者吉田松陰の誕生日(新暦9月20日)詳細
1897年(明治30)幕末の土佐藩士・政治家後藤象二郎の命日詳細
1944年(昭和19)初の集団学童疎開列車が東京の上野駅を出発する詳細
1992年(平成4)小説家松本清張の命日詳細
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 今日は、大正時代の1913年(大正2)に、第30帝国議会衆議院本会議において、尾崎行雄の桂首相弾劾演説が行われた日です。
 尾崎行雄の桂首相弾劾演説(おざきゆきおのかつらしゅしょうだんがいえんぜつ)は、第30帝国議会衆議院本会議へ緊急動議として提出された第三次桂内閣に対する内閣不信任上奏決議案及び提出に伴って行われた、立憲政友会の尾崎行雄による趣旨説明でした。
 第二次西園寺公望内閣の上原勇作陸相は、朝鮮軍創設にともなう二個師団増設を首相に拒否されると、元老山県有朋とはかり、帷幄上奏権を利用し大正天皇に直接陸相の辞任を申し出て、認められます。陸軍は後継陸相を出さず、このため、西園寺内閣は1912年(大正元)12月に瓦解しました。
 後継首班として、内大臣桂太郎が就任することに決まると、政党や世論の反発を買うこととなります。この中で、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅は憲政擁護会を結成して、第一次護憲運動を起こし、「閥族打破・憲政擁護」を唱えました。
 1912年(大正元)12月21日の第3次桂内閣の成立伴って、開催された第30帝国議会(1912年12月27日~1913年3月26日)では、2月5日の衆議院本会議へ緊急動議として第3次桂内閣に対する内閣不信任上奏決議案を立憲政友会と立憲国民党が提出し、尾崎行雄衆議院議員による趣旨説明が行なわれ、加藤高明外務大臣による答弁の後、尾崎行雄が発言します。この時、尾崎議員は、ひな壇の桂首相を指さし、「彼らは常に口を開けば直に忠愛を唱え、恰も忠君愛国の一手専売の如く唱えておりますが、そのなす所を見ますれば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執っているのである。彼らは玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒さんとするものではないか。」と非難したことが知られることになりました。
 この後、2月10日に議会を包囲した民衆と警官隊が衝突し、翌日に桂首相は、就任後わずか53日目にして退陣することとなります。この背景には、民衆の政治的成長があり、長州閥と政友会の提携である桂園時代を終了させると共に、陸軍の独走を抑制して、大正デモクラシーへと道を切り開く意義を持ち、「大正政変」とも呼ばれました。
 以下に、「尾崎行雄の桂首相弾劾演説」の一部を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇尾崎行雄(おざき ゆきお)とは?
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 「憲政の神様」と言われた政治家です。江戸時代後期の1858年(安政5年11月20日)に、相模国津久井郡又野村(現在の神奈川県相模原市緑区又野)で、漢方医の父・尾崎行正、母・貞子の子として生まれましたが、幼名は彦太郎と言いました。江戸の平田塾、高崎の英学校で学んだ後、1872年(明治5)に度会県山田(現在の三重県宇治山田)に居を移し、宮崎文庫英学校に入学します。1874年(明治7)に、弟と共に上京し、福沢諭吉の慶應義塾童児局に入学しましたが、翌々年に中退しました。
 1879年(明治12)に諭吉の推薦で「新潟新聞」の主筆となり、1881年(明治14)には、大隈重信の招きで統計院権少書記官に就任したものの2ヶ月あまりで、明治14年政変によって下野することになります。翌年に「報知新聞」の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加、1883年(明治16)には東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出されました。
 翌年に「報知新聞」特派員として中国に渡り、1887年(明治20)には、後藤象二郎のもとで大同団結運動を推進しましたが、「保安条例」により東京からの退去処分を受けます。1890年(明治23)に、第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬し当選(以後25回連続当選)、1896年(明治29)には第2次松方内閣で外務省勅任参事官となりました。
 1898年(明治31)に憲政党総務となり、第1次大隈内閣の文部大臣として入閣したものの、藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で、同年に辞職します。1900年(明治33)に伊藤博文の立憲政友会結成に創立委員として参加、最高幹部の一人となりましたが、1903年(明治36)に伊藤の桂太郎内閣との妥協に反対して立憲政友会を脱党、その年に、東京市長に就任し、1912年(明治45)まで務め、同年の憲政擁護運動では、国民党の犬養毅と運動を指導し、「憲政の神様」と言われました。
 1914年(大正3)に第二次大隈内閣の法相に就任、1916年(大正5)には憲政会の創立に参画、筆頭総務となったものの、1921年(大正10)の普選即行論で、憲政会を除名され、軍備縮小論を主張して遊説します。1928年(昭和3)に田中義一内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出、1931年(昭和6)には「治安維持法」の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にしました。
 1941年(昭和16)に大政翼賛運動を批判し、鳩山一郎らと同交会を結成、翌年の翼賛選挙では推薦制を批判した公開質問状を東条英機首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選したものの、志田川大吉郎の応援演説での発言を理由に不敬罪で起訴され一審で有罪判決(懲役8ヶ月執行猶予2年)を受けましたが、1944年(昭和19)の大審院では無罪となります。太平洋戦争後は、平和運動家として世界連邦制の確立のため努力したものの、1953年(昭和28)の第26回衆議院議員総選挙で落選して政界から引退、衆議院から名誉議員の称号を贈られました。その翌年10月6日に、東京の慶應病院において、95歳で亡くなっています。

☆尾崎行雄関係略年表(明治5年以前の日付はは旧暦です)

・1858年(安政5年11月20日) 相模国津久井郡又野村で、漢方医の父・尾崎行正、母・貞子の子として生まれる
・1868年(明治元) 番町の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学ぶ
・1871年(明治4) 高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ
・1872年(明治5) 度会県山田(現在の三重県宇治山田)に居を移し、宮崎文庫英学校に入学す
・1874年(明治7) 弟と共に上京し、慶應義塾童児局に入学する
・1875年(明治8) クリスマスに聖公会のカナダ人宣教師で英語教師のA・C・ショーよりキリスト教の洗礼を受ける
・1876年(明治9) 工学寮(のちの工部大学校、現在の東京大学工学部)に再入学する一年足らずで退学する
・1879年(明治12) 福澤諭吉の推薦で「新潟新聞」の主筆となる
・1881年(明治14) 大隈重信の招きで統計院権少書記官に就任するも2ヶ月あまりで、明治14年政変によって下野する
・1882年(明治15) 「報知新聞」の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加する
・1883年(明治16) 東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出される
・1884年(明治17) 「報知新聞」特派員として中国に渡る
・1887年(明治20) 後藤象二郎のもとで大同団結運動を推進する
・1887年(明治20) 「保安条例」により東京からの退去処分を受ける
・1890年(明治23) 第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬し当選する
・1896年(明治29) 第2次松方内閣で外務省勅任参事官となる
・1898年(明治31) 憲政党総務となり、第1次大隈内閣の文部大臣として入閣する
・1898年(明治31) 藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で文部大臣を辞職する
・1900年(明治33) 伊藤博文の立憲政友会結成には創立委員として参加、最高幹部の一人となる
・1903年(明治36) 伊藤の桂太郎内閣との妥協に反対して立憲政友会を脱党する
・1903年(明治36) 東京市長に就任する
・1908年(明治41) 猶興会を改組して紅葉館で河野広中らと又新会を成立させる
・1909年(明治42) 立憲政友会に復党する
・1911年(明治44) 外債により私営電車を買収し、東京市電の経営を始める
・1912年(明治45) サクラの苗木3,000本をワシントン D.C.に贈呈する
・1912年(明治45) 東京市長を辞める
・1912年(大正元) 憲政擁護運動では、国民党の犬養毅と運動を指導し、立憲政友会を代表して質問を行う
・1913年(大正2)2月5日 第30帝国議会衆議院本会議において桂首相弾劾演説を行う
・1914年(大正3) 第二次大隈内閣の法相に就任する
・1916年(大正5) 憲政会の創立に参画、筆頭総務となる
・1921年(大正10) 普選即行論で、憲政会を除名され、軍備縮小論を主張して遊説する
・1928年(昭和3) 田中義一内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出する
・1931年(昭和6) 「治安維持法」の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にする
・1941年(昭和16) 大政翼賛運動を批判し、鳩山一郎らと同交会を結成する
・1942年(昭和17) 翼賛選挙では推薦制を批判した公開質問状を東条英機首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選する
・1942年(昭和17) 志田川大吉郎の応援演説での発言を理由に不敬罪で起訴され一審で有罪判決(懲役8ヶ月執行猶予2年)を受ける
・1944年(昭和19) 大審院では無罪となる
・1946年(昭和21) 勲一等旭日大綬章を返上する
・1946年(昭和21) 第22回総選挙では三重全県一区でトップ当選する
・1947年(昭和22) 中選挙区制となった第23回総選挙でも三重2区からトップ当選する
・1953年(昭和28) 第26回衆議院議員総選挙で落選し、政界から引退、衆議院から名誉議員の称号を贈られる
・1954年(昭和29)10月6日 直腸がんによる栄養障害と老衰のため東京の慶應病院において95歳で亡くなる

〇「尾崎行雄の桂首相弾劾演説」1913年(大正2)2月5日 於:第30帝国議会衆議院本会議

・尾崎行雄君 議長ノ御手許ニ差シ出シテアリマス、決議案ニ付キマシテ、一応此際日程ヲ変更ノ上、議ニ付セラレンコトヲ望ミマス(拍手起ル)

・議長〔大岡育造君〕 唯今、尾崎君ノ日程変更ノ議ヲ御諮リ申シマス前ニ、更ニ御尋ヲシテ置キマス、質問ハ大分御連名ガアリマスケレドモ、今キタモノト見テ宜シウゴザイマスカ

   (「宜シイ」「異議ナシ」ト呼フ者アリ)

・議長〔大岡育造君〕 御異議ナイト認メマス、尾崎君ヨリ日程ヲ変更シテ決議案ヲ説明スルト云フ、緊急動議ガ出マシタ、御異議ハアリマセンカ

   (「異議ナシ異議ナシ」ト呼フ者アリ)

・議長〔大岡育造君〕 御異議ガナケレバ日程ハ直ニ変更セラレテ決議案ノ討議ニ移リマス、尚一応朗読サセマス

   ―――――――――――――

決議案

  〔書記朗読〕

   決議案
内閣総理大臣公爵桂太郎ハ大命ヲ拝スルニ当リ屡ゝ聖勅ヲ煩シ宮中府中ノ別ヲ紊リ官権ヲ私シテ党興ヲ募リ又帝国議会ノ開会ニ際シ濫ニ停会ヲ行ヒ又大正二年一月二十一日本院ニ提出シタル質問ニ対シ至誠其責ヲ重スルノ意ヲ昭ニセス是レ皆立憲ノ本義ニ背キ累ヲ大政ノ進路ニ及ホスモノニシテ上皇室ノ尊厳ヲ保チ下国民ノ福祉ヲ進ムル所以ニ非ス本院ハ此如キ内閣ヲ信認スルヲ得ス仍テ慈ニ之ヲ決議ス
  (拍手起ル)

・議長〔大岡育造君〕 尾崎行雄君

  〔尾崎行雄君登壇〕

・尾崎行雄君 本員等ノ提出致シマシタル決議案ハ、唯今桂総理大臣ノ答弁ニ照シ、尚其前後ノ舉動ニ鑑ミテ、此決議案ヲ出スルノ已ムベカラザルコトヲ認メテ提出シマシタ繹デアリマス、其論点タルヤ、第一ハ身内府ニ在リ、内大臣兼侍従長ノ職ヲ辱ウシテ居リナガラ総理大臣トナルニ当ッテモ、優詔ヲ拝シ、又其後モ海軍大臣ノ留任等ニ付テモ、頻ニ優詔ヲ煩シ奉リタルト云フコトハ宮中府中ノ区別ヲ紊ルト云フノガ、非難ノ第一点デアリマスル、唯今枝公爵ノ答弁ニ依リマスレバ、自分ノ拝シ奉ッタノハ勅語ニシテ、詔勅デハナイガ如キ意味ヲ述ベラレマシタガ、勅語モ亦詔勅ノ一デアル(「ヒヤゝ」)、而シテ我帝国憲法ハ総テノ詔勅 ― 国務ニ関スルトコロノ 詔勅ハ必ズヤ国務大臣ノ副署ヲ要セザルベカラザルコトヲ特筆大書シテアッテ、勅語ト云ハウトモ、勅諭ト云ハウトモ、何ト云ハウトモ、其間ニ於テ区別ハナイノデアリマス、(「ノウゝ」「誤解々々」ト呼フ者アリ)若シ然ラズト云フナラバ、国務ニ関スルトコロノ勅語ニ若シ過チアッタナラバ、其責任ハ何人ガ之ヲ負ウノデアルカ(「ヒヤゝ」拍手起ル)、畏多クモ天皇陛下直接ノ御責任ニ当タラセラレナケレバナラヌコトニナルデハナイカ、故ニ之ヲ立憲ノ大義ニ照シ(「勅語ニ過チガアルトハ何ダ」ト呼フ者アリ)、立憲ノ大義ヲ弁ヘザル者ハ黙シテ居ルベシ、勅語デアラウトモ、何デアラウトモ、凡ソ人間ノ為ストコロノモノニ過チノナイト云フコトハ言ヘナイノデアル(拍手起ル)、是ニ於テ憲法ハ託送チノナキコトヲ保証スルガタメニ(「勅語ニ過チトハ何ノコトダ、取消セゝ」ト呼フ者アリ、議場騒然)憲法ヲ調ベテ見ヨ(「不敬ダゝ」ト呼フ者アリ)

・議長〔大岡育造君〕 討論中デアリマス、御意見ガアレバ逐次登壇シテ御述ベナサイ、斯ル大切ナル問題ヲ議スルニ逸ラニ騒擾スルガ如キハ甚ダ取ラザルトコロデアリマス

   (「ヒヤゝ」「議長注意ヲ与ヘヨ、不敬デアル」ト云フ者アリ)

・尾崎行雄君 我憲法ノ精神ナルモノハ・・・

   (「議長注意シナサイ」ト呼フ者アリ)

・尾崎行雄君 我憲法ノ精神ハ 天皇ヲ神聖侵スベカラザルノ地位ニ置カンガタメニ総テノ詔勅ニ対シテハ、国務大臣ヲシテ其責任ヲ負ハセルノデアル、然ラズンバ・・・

   (「天皇ハ神聖ナリ」「退場ヲ命ズベシ」ト呼フ者アリ)

・議長〔大岡育造君〕 静ニナサイ

   (「取消ヲ命ゼヨ」「何ダ、不敬ナ言葉ヲ使ッテ」ト呼フ者アリ)

・議長〔大岡育造君〕 討論ガ憲法論デアル間ハ本院ニ於ケル討論ハ議員ノ自由デアリマス

・尾崎行雄君 御聴キナサイ、御聴キナサイ、総テ天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズト云フ大義ハ国務大臣ガ其責ニ任ズルカラ出デ来ルデアリス(拍手起ル)然ルニ桂侯爵ハ内府ニ入ルニ当ッテモ、聖意巳ムヲ得ヌト弁明スル、如何ニモ斯クノ如クナレバ桂総理大臣ハ責任ガ無キガ如ク思ヘルケレドモ、却テ天皇陛下ニ責任ノ帰スルヲ奈何セン(拍手起ル)凡ソ臣子ノ分トシテ己レノ責任ヲ免ガレンガタメニ、責ヲ外ニ帰スルト云フガ如キハ、本員等ハ断ジテ臣子ノ分ニアラズト信ズル(拍手起ル)(「西園寺侯爵ハドウダ」「間違ッテ居ル」ト呼フ者アリ)殊ニ唯今ノ弁明ニ依レバ勅語ハ総テ責任ナシト云フ、勅語ト詔勅トハ違フト云イフガ如キハ、彼等一輩ノ曲学阿世ノ徒ノ、憲法論ニ於テ、此ノ如キコトガアルカモ知レナイガ、天下通有ノ大義ニ於テ其ヤウナコトハ許サヌノデアル(拍手起ル)彼等ガ動モスレバ、引イテ以テ己ノ曲説ヲ弁護セントスルトコロノ独逸ノ実例ヲ見ヨ、独逸皇帝ガ屡ゝ四方ニ幸シテ演説ヲ遊バサレル、其中ニハ顱ル物議ヲ惹起スルトコロノモノガアル、天下騒然タルニ至ッテ総理大臣ノ主トシテ仰グトコロノ「ピユーロー」公爵ハ、総テノ陛下ノ演説ニ対シテ拙者其責ニ任ズルト云フコトヲ天下ニ公言シテ居ルデハナイカ、(拍手起ル)演説ニ対シテスラ総理大臣タルモノハ、総テ責任ヲ負フ、況ンヤ勅語ニ対シテ責任ヲ負ハヌト云フガ如キハ、立憲ノ大義ヲ弁識セザル甚シキモノ云ハナケレバナラヌ、(拍手起ル)殊ニ桂公爵ガ未ダ内閣ヲ組織セザル以前、身内府ニ入ッタトキニ、天下ノ物情如何ニアッタカト云フコトハ、公爵自ラ之ヲ知ラナケレバナラヌ、惟フニ、公爵ノ邸ニハ唯纔ニ其道ヲ踏マズシテ内府ニ入リ恰モ新帝ヲ擁シテ、天下ニ号令セントスルガ如キ位地ヲ取ッタガタメニ幾通ノ脅迫状、幾通ノ地ヲ以テ認メタルトコロノ書面ガ参ッタデアラウ、此一事ヲ以テ見テモ、天下ノ形勢何処ニアルカト云フコトハ略ゝ承知致サナクテハナラヌ、彼等ハ常ニ口ヲ開ケバ直ニ忠愛ヲ唱ヘ、恰モ忠君愛国ハ自分ノ一手専売ノ如ク唱ヘテアリマスルガ、其為ストコロヲ見レバ、常ニ玉座ノ陰ニ隠レテ、政敵ヲ狙撃スルガ如キ舉動ヲ執ッテ居ルノデアル、(拍手起ル)彼等ハ玉座ヲ以テ胸壁トナシ、詔勅ヲ以テ弾丸ニ代ヘテ政敵ヲ倒サントスルモノデハナイカ、此ノ如キコトヲスレバコソ、身既ニ内府ニ入ッテ、未ダ何ヲモ為サザルニ当リテ、既ニ天下ノ物情騒然トシテナカゝ静マラナイ、況ンヤ其人常侍輔弼ノ性格-其人ノ性格トシテ一黙ダモ、常侍輔弼ト云フ

(以下略)

    「帝國議会議事録」(ウィキソース)より

  ※縦書きを横書きに改め、旧字を常用漢字に直したものです。

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