ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大日本労働総同盟友愛会

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 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、友愛会が7周年大会で、大日本労働総同盟友愛会に改称し、理事の合議制、会長の公選などを決定した日です。
 友愛会(ゆうあいかい)は、鈴木文治等によって結成された労働者団体です。当初は労使協調主義の立場にたち、共済・修養を目的とした性格が強いものでした。その後、第一次世界大戦を通じて日本の資本主義が発展して労働者が増加する中で、組織は拡大し、1918年(大正7)には120支部、会員約3万人に発展することになります。
 また、1917年(大正6)のロシア革命、1918年(大正7)の米騒動などの民衆蜂起の高揚、1919年(大正8)のILO(国際労働機関)の創設と労働憲章の発表などに影響されて、労働者の階級的自覚も高まって、1919年(大正8)8月30日の7周年大会では、大日本労働総同盟友愛会と改称し、理事の合議制、会長の公選などを決定するに至ります。そして、労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導し、1921年(大正10)には、日本労働総同盟と再度改称しました。

〇友愛会綱領(1912年結成当初)

第一条:我等は互に親睦し、一致協力して、相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。
第二条:我等は公共の理想に従い、識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんことを期す。
第三条:我等は共同の力に依り、着実なる方法を以て、我等の地位の改善を図らんことを期す。

〇20ヶ条の主張(1919年第7周年大会)

(1)労働非商品の原則
(2)労働組合の自由
(3)十四歳未満の幼年労働の廃止
(4)最低賃金制度の確立
(5)同一労働に対する男女平等賃金制の確立
(6)一周一日、日曜日の休日
(7)八時間労働および一週四十八時間制
(8)夜業禁止
(9)婦人労働監督官の設置
(10)労働保険法の実施
(11)争議仲裁法の発布
(12)失業防止
(13)内外労働者の同一待遇
(14)労働者住宅を公営にて改良をはかること
(15)労働賠償制度の確立
(16)内職労働の改善
(17)契約労働の廃止
(18)普通選挙
(19)治安警察法の改正
(20)教育制度民主化

〇友愛会関係略年表(日本労働総同盟と改称まで)

・1912年(大正元)8月1日、東京帝国大学卒業の法学士鈴木文治(ぶんじ)を会長に15人の労働者によって結成される
・1912年(大正元)11月 機関紙『友愛新報』を創刊する
・1914年(大正3)11月 月刊誌『労働及産業』と改題する
・1916年(大正5)6月 日本の労働組合で初めて婦人部を設け、機関誌『友愛婦人』を発刊する
・1917年(大正6) 労働争議を直接組織したり指導するようになる
・1918年(大正7)4月 120支部、会員約3万人に発展する
・1918年(大正7) 米騒動が起きる
・1919年(大正8) 国際労働機関(ILO)が創設され労働憲章が発表される
・1919年(大正8)8月30日 大日本労働総同盟友愛会と改称し、会長独裁制を理事合議制に改め、主張として労働者の要求20項目(労働組合の自由など)を掲げる
・1920年(大正9)1月 月刊誌『労働及産業』を『労働』と改題する
・1920年(大正9)10月 「大」の字を去って、日本労働総同盟友愛会と改称する
・1921年(大正10)10月 「友愛会」の文字も捨て、名実ともに労働組合としての日本労働総同盟となる

☆日本労働総同盟(にほんろうどうそうどうめい)とは?

 大正時代の1912年(大正元)に鈴木文治等によって結成された労働者団体「友愛会」が前身となります。当初は労使協調主義の立場にたち、共済・修養を目的とした性格が強いものでした。その後、第一次世界大戦を通じて日本の資本主義が発展して労働者が増加する中で、組織は拡大し、1918年(大正7)には120支部、会員約3万人に発展することになります。
 また、1917年(大正6)のロシア革命、1918年(大正7)の米騒動などの民衆蜂起の高揚、1919年(大正8)のILO(国際労働機関)の創設と労働憲章の発表などに影響されて、労働者の階級的自覚も高まって、1919年(大正8)には、「大日本労働総同盟友愛会」と改称するに至りました。そして、労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導し、1921年(大正10)には、日本労働総同盟と再度改称します。
 1923年(大正12)の共産党弾圧事件の後、松岡駒吉・西尾末広らの右派が勢力を得て、改良主義的・議会主義的傾向が強まり、1925年(大正14)5月には、左派系組合を除名し、総同盟は二つに分裂、左派系は「日本労働組合評議会」を結成し、総同盟の勢力は半減(第1次分裂)します。その後、1926年(大正15)に中間派により「日本労働組合同盟」が分離結成され(第2次分裂)、1929年(昭和4)には、脱退派が「労働組合全国同盟」(全国同盟)を結成(第3次分裂)しました。
 1931年(昭和6)の満州事変後、反無政府主義、反共産主義、反ファシズムの三反主義を掲げるようになり、1932年(昭和7)には、改良主義組合を糾合して、「全国労働組合会議」・「日本海員組合」など11団体28万人からなる「日本労働組合会議」(日労会議)の結成により、当時の労働運動の最大勢力となります。さらに、1936年(昭和11)に中間派の統一した「全国労働組合同盟」(全労)と合同して「全日本労働総同盟」(全総)を結成しました。
 1937年(昭和12)から始まる日中戦争では「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示します。しかし、旧全労系は組合の産業報国会への解消を主張して、1939年(昭和14)に脱退、残留派は「日本労働総同盟」の名称に戻した組合を残しつつ、産業報国会への協力の方針を取りました。
 ところが、政府の労働組合否認や軍部の圧力に抗しきれず、1940年(昭和15)には、ついに自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めています。その後、同年11月23日に、労働者を戦争協力に動員することを目的として設立された官民共同の勤労者統制組織「大日本産業報国会」が結成されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)江戸幕府が古賀謹一郎を頭取として、九段下に洋学所(後の蕃書調所)を設立する(新暦10月10日)詳細
1863年(文久3)洋画家原田直次郎の誕生日(新暦10月12日)詳細
1872年(明治5)「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)が出される(新暦10月2日)詳細
1900年(明治33)幸徳秋水の『自由党を祭る文』が「万朝報」に掲載される詳細
1940年(昭和15)松岡洋右外相とアンリ仏大使が「北部仏印進駐に関する協定(松岡・アンリ協定)」を締結する詳細
1941年(昭和16)「金属類回収令」が公布される詳細
1984年(昭和59)小説家・劇作家・演出家有吉佐和子の命日詳細
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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、日本での第1回のメーデー(主催:大日本労働総同盟友愛会)が上野公園(現在の東京都台東区)で行われ、約1万人の労働者が集まった日です。
 メーデー(May Day)は、世界各地で毎年5月1日に行われてきた労働者の祭典で、労働者が団結して権利を要求する日とされてきました。その起源は、1884年(明治17)に、アメリカ全土の労働組合、各種団体が8時間労働制の要求を掲げ、毎年5月1日にゼネストを決行することを決定、その第1回行動を起したことに始るとされます。
 1889年(明治22)の第二インターナショナル創立大会で、これを記念して5月1日を労働運動の日に設定、翌年には第1回国際メーデーがヨーロッパ、アメリカの各工業都市で開催されました。日本では、1905年(明治38)に平民社主催で開催された茶話会がメーデーの先駆けとされますが、1920年(大正9)5月2日に、大日本労働総同盟友愛会主催で、東京の上野公園(現在の東京都台東区)で約1万人の労働者が集まって「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴えたのが、第1回メーデーとされています。
 翌年からは5月1日開催となり、開催地や参加人数も増えていったものの、1935年(昭和10)の第16回メーデーが、戦前最後のメーデーとなりました。その後、1936年(昭和11)の2.26事件の影響で、3月19日付「集会及多種運動の取締方に関する件」により、メーデー開催が禁止され、第17回メーデー以降は中止されます。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)5月1日に、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれ全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集りました。しかし、1951年(昭和26)の第22回大会では、政府とGHQは中央メーデーの皇居前広場の使用を禁止、総評は中央メーデーを中止し、一方で統一メーデー促進会が芝公園で実質的な中央メーデーを開催、翌年の第23回大会では、皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突し、流血の惨事となる「血のメーデー事件」も起きています。
 1989年(平成元)の第59回では、労働組合の全国中央組織の再編の影響もあって、統一メーデーの開催ができなくなり、日本労働組合総連合会(連合)と非連合系の全国労働組合総連合(全労連)や全国労働組合連絡協議会(全労協)による分裂開催となりました。

〇日本のメーデー関係略年表 

・1905年(明治38) 平民社の主催で開かれた茶話会がメーデーの先駆けと言われている
・1906年(明治39) 横浜曙会の吉田只次・村木源次郎・金子新太郎らがメーデーを記念し街頭演説する
・1917年(大正6)5月7日 在京社会主義者約30人がメーデー記念の集いを開催する
・1920年(大正9)5月2日 第1回のメーデー(主催:大日本労働総同盟友愛会 司会者:鈴木文治)が上野公園(現在の東京都台東区)で行われ、およそ1万人の労働者が「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴える
・1921年(大正10) 第2回のメーデーからは5月1日となり、開催地や参加人数も増えていく
・1935年(昭和10) 第16回メーデーが開催され、戦前最後のメーデーとなる
・1936年(昭和11) 3月19日付「集会及多種運動の取締方に関する件」により、メーデー開催が禁止され、第17回メーデーは中止される
・1946年(昭和21)5月1日 11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれ全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集まる
・1946年(昭和21)5月19日 「食糧メーデー」が25万人を集めて行われ、民主人民政府の樹立が決議される
・1951年(昭和26) 第22回大会では、政府とGHQは中央メーデーの皇居前広場の使用を禁止、総評は中央メーデーを中止し、一方で統一メーデー促進会が芝公園で実質的な中央メーデーを開催する
・1952年(昭和27) 第23回大会では、皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突し、流血の惨事となる(血のメーデー事件)
・1984年(昭和59) 第54回大会では特別決議としてメーデーの祝日化要求が採択され
・1985年(昭和60) 第55回大会ではサブスローガンで「週40時間制」、前年の祝日化要求決議を引き継ぐ「太陽と緑の週」の法制化など、労働時間短縮(時短)の実現が掲げられる
・1989年(平成元) 第59回では統一メーデーの開催ができなくなり、日本労働組合総連合会(連合)と非連合系の全国労働組合総連合(全労連)や全国労働組合連絡協議会(全労協)による分裂開催となる
・2001年(平成13) 連合系は4月の最終土曜日や昭和の日などに「4月(April)にメーデー(May Day)」を行うようになり、一方で全労連や全労協のメーデーは5月1日開催を続ける

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

713年(和銅6)元明天皇が諸国に『風土記』の編纂を命じる(新暦5月30日)詳細
756年(天平勝宝8)聖武天皇の命日(新暦6月4日)詳細
1927年(昭和2)社会運動家・女性解放運動の先駆者福田英子の命日詳細
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