ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大政翼賛会

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 今日は、昭和時代前期の1942年(昭和17)に、青壮年による大政翼賛会の外郭団体として、大日本翼賛壮年団が結成された日です。
 大日本翼賛壮年団(だいにほんよくさんそうねんだん)は、青壮年による大政翼賛会の外郭団体で、略称を翼賛壮年団(翼壮)とも言われました。昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために大政翼賛会が創立され、大政翼賛運動が展開されましたが、それまでの壮年団・産業報国会・婦人会など官製国民運動団体の再編をめざすことになります。
 また、1941年(昭和16)1月に、平沼騏一郎内務大臣は、大政翼賛会が「治安警察法」第3条にいう公事結社(非政治的団体)と認定されて、政治活動を禁じる動きが出てくる中で、3月には、大日本壮年団連盟が成立しました。4月には中央本部の第一次改組が行われ、内務省が体制翼賛会の主導権を握ることになり、精動組織となんらかわらないものになります。
 この大政翼賛会の精動化に失望した陸軍を中心に、壮年団を翼賛壮年団(翼壮)に統合・改組し、大政翼賛運動の実践部隊としようとする動きがおこり、9月24日に大政翼賛会は「翼賛壮年団結成基本要綱」を決定しました。これに呼応して、大日本壮年団連盟は9月25日に「発展的解消」をとげ、翼賛壮年団に参加合流します。
 ナチスの親衛隊にヒントをえた陸軍省軍務局長武藤章らが黒幕となり、大政翼賛運動の実践部隊として、1942年(昭和17)1月16日には、全国組織である大日本翼賛壮年団が結成(団長は安藤翼賛会副総裁)され、大政翼賛会総裁の統括の下におかれました。下部組織として、道府県団と郡市区町村団が組織され、21歳以上の青壮年有志による同志組織であることが強調されます。
 4月30日に投票された第21回衆議院総選挙 (翼賛選挙) において、40名以上の団出身議員を送り出し、これらの議員は翼賛政治会に参加し、さらに、5月以後の地方選挙にも介入して、一大政治勢力となります。機関紙『翼賛壮年運動』を発行し、130万人の団員を擁しましたが、太平洋戦争末期の1945年(昭和20)6月13日に大政翼賛会と共に解散し、国民義勇隊へ統合されました。

〇大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。
 その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。
 さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。
 しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。 

〇翼賛政治会(よくさんせいじかい)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)5月20日に、東条英機首相が議会に対する支配を確立するため、挙国一致の政治体制強化を目的として結成された政治結社です。1940年(昭和15)10月12日に大政翼賛会が結成され、日本型ファシズム体制が成立し、翌年12月8日の太平洋戦争開戦へと至りました。
 東条内閣は「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」(1941年12月19日公布)や「戦時刑事特別法」(1942年2月24日公布)などを制定して弾圧を強め、太平洋戦争緒戦の勝利を利用して、1942年(昭和17)4月30日に翼賛選挙を実施します。それに向けて結成されていた、翼賛政治体制協議会は推薦候補者の内381名の当選者を出し、全466議席の過半数をはるかに上回りました。
 しかし、東条内閣はこの政治団体以外のいかなる政党をも許容しないという方針を明らかにし、5月7日に政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用、同月14日には、現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送します。そして、同月20日に衆議院においては全466名中刑事訴追者2名と解散に抵抗した東方会の6名を除く458名、貴族院においても411名中326名、大政翼賛会関係者、言論界・財界・産業組合など各種団体などの代表者、元翼協支部長など、900余名を集めて創立総会を開き、総裁には阿部信行大将(元首相)が就任しました。
 綱領には、①国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す、②憲法の条章に恪遵し翼賛議会の確立を期す、③大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す、④大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す、を掲げます。3日後には、東方会も解散させられて全員が翼賛政治会に強制加入させられることになり、ここにおいて一応は「一国一党」体制が成立したことになりました。
 しかし、旧政党系列間、大日本翼賛壮年団と右翼出身議員間での抗争が絶えず、1944年(昭和19)7月に、東条内閣退陣に替わって小磯国昭内閣になり、二代目総裁として小林躋造元台湾総督が就任するとともに結束力が弱まり、翌年2月12日に小林総裁より新党結成方針が正式に出されたものの、大政翼賛会幹部と大日本翼賛壮年団出身議員が反発、翼政会内部は大混乱に陥ります。そして、3月10日に大日本翼賛壮年団出身議員は翼壮議員同志会を結成、翌日には岸信介ら旧翼賛政治会反主流派も護国同志会を結成して、翼政会及び新党との訣別を宣言するに至りました。その中で、3月30日に翼政会は解散して、替わりに南次郎を総裁とする大日本政治会に改組されています。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1103年(康和5)第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日)詳細
1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を出す詳細
1941年(昭和16)大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会を統合、大日本青少年団が結成される詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
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 昭和時代前期、太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、大政翼賛会が「海ゆかば」を国歌につぐ国民の歌として各種会合に斉唱するよう通達した日です。
 「海ゆかば」(うみゆかば)は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、信時潔(のぶとききよし)が日本放送協会(NHK)の嘱託を受けて作曲した日本歌曲で、合唱曲として、NHKラジオで放送されました。歌詞は、『万葉集』巻十八の長歌「賀陸奥国出金詔書歌」(大伴家持作)の一節から採ったものです。
 国民の戦闘意欲高揚を意図して依頼された曲で、1942年(昭和17)12月15日には、大政翼賛会がこの歌を国歌「君が代」に次ぐ国民の歌として各種会合に斉唱するよう通達しました。また、NHKラジオ放送の戦果発表(大本営発表)や、部隊の玉砕を伝える際に冒頭に流されたことから、国民に広く知られることになります。
 戦時歌謡として強く意識されため、戦後は事実上の封印状態が続くこととなりました。

<歌詞>

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草(くさ)生(む)す屍
大君(おほきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
長閑(のど)には死なじ

<原歌>

陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持作)
葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大王(おほきみ)の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地(あめつち)の 神相(かみあい)うづなひ 皇御祖(すめろぎ)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 御食国(みをすぐに)は 栄えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして 武士(もののふ)の 八十伴(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいびと)も 女めの童児(わらはこ)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官つかさ 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立ことだてて 丈夫の 清きその名を 古いにしえよ 今の現をつつに 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君(おほきみ)に まつろふものと 言ひ継げる 言ことの官つかさぞ 梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩はき 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)のさきの聞けば貴み

〇大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。
 その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。
 さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

827年(天長5)空海が京都九条の教王護国寺(東寺)の東隣に綜芸種智院を創設する(新暦828年1月23日)詳細
1914年(大正3)方城炭鉱(福岡県)で爆発事故があり、死者・行方不明者671人を出す詳細
1937年(昭和12)第一次人民戦線事件で政府が労農派などの関係者446人を一斉逮捕する詳細
1945年(昭和20)GHQが「宗教指令(神道指令)」(SCAPIN-448)を指令する詳細
1988年(昭和63)俳人・随筆家・鉱山学者山口青邨の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、新体制運動推進のために大政翼賛会が発足した日です。
 大政翼賛会(たいせいよくさんかい)は、近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織でした。総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たします。
 国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則としました。その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図ります。
 それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めました。さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定します。
 このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになりました。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しています。

 〇新体制運動(しんたいせいうんどう)とは?

 近衛文麿が中心となり、ドイツのナチ党やイタリアのファシスト党を模して、ファッショ的政治体制樹立のため、一国一党の国民組織を結成しようとした政治運動でした。
 日中戦争の泥沼化、1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻による第2次世界大戦の突発、それに伴うインフレ、物資不足、労農争議の増加など、政治・経済上の危機の増大、国民の不満の鬱積等の中で、現状を打開する方策がいろいろと検討されます。近衛文麿の側近の後藤隆之助、有馬頼寧、風見章らは,官僚や学者等を集めた「昭和研究会」をつくり、新しい国民組織をつくり上げて国民を統合し、新しい社会体制を建設する構想をまとめました。
 それに基づいて、1940年(昭和15)6月24日に、近衛文麿が枢密院議長を辞任し、記者会見において声明を出して、「新体制運動」が開始されます。軍部も「米内内閣打倒、近衛内閣樹立」運動を行い、その結果、7月22日に発足した第2次近衛内閣は、これをうけて基本国策要綱で「国内体制の刷新」と「強力な新政治体制の確立」をうたい、新体制準備会が結成されました。
 そして、各政党、労働組合も自発的に解散し、10月12日には、「大政翼賛会」が発足して、日本型のファシズム体制の確立へと向かいます。この過程で、国民は隣組、部落会、町内会などの地方自治組織と官製国民運動団体という2つのルートを通じ、ファシズム体制に組織されていくことになりました。

☆「新体制運動」関係略年表(新体制運動開始~太平洋戦争開戦まで)

<1940年(昭和15)>
・6月24日 近衛文麿による新体制運動が開始される
・7月6日 「奢侈品等製造販売制限規則」(七・七禁令)が交布され、翌日施行される
・7月22日 第2次近衛内閣が発足する
・7月 日本労働総同盟が解散される
・8月1日 東京府が食堂・料理屋などでの米食使用を禁止し、販売時間制を実施する
・8月1日 東京に「ぜいたくは敵だ!」の立看板1,500本が立てられる
・8月15日 立憲民政党が解党、大日本農民組合が解散される
・8月19日 新協・新築地両劇団員100余人が検挙される
・8月30日 文部省が学生生徒の映画・演劇鑑賞を土曜・休日に限ると通達する
・9月 鉄道省によって駅構内の英語表記が全面撤廃される
・9月11日 内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される
・9月27日 日独伊三国同盟が調印される
・10月6日 大阪で、女子モンペ部隊が、贅沢全廃強調大行進を行う
・10月10日 「牛乳および乳製品配給統制規則」が交布される
・10月12日 「大政翼賛会」が発足する
・10月24日 農林省令「米穀管理規則」が交布される
・10月31日 東京でダンスホールが完全閉鎖される
・10月31日 タバコの改名が発表される(ゴールデンバット→金鵄、チェリー→桜、カメリア→椿など)
・11月1日 砂糖・マッチ切符制の全国実施がされる
・11月2日 「国民服令」が公布施行され、男子の服装として国民服が定められる
・11月10日 紀元2600年祝賀行事が行われる(昼酒が許可されもち米が特配される)
・11月23日 大日本産業報国会が結成される

<1941年(昭和16)>
・1月1日 全国の映画館で、ニュース映画の強制上映が実施される
・1月11日 「新聞紙等掲載制限令」が公布される
・1月16日 大日本青少年団が結成される
・1月23日 「人口政策要綱」が閣議決定される(「生めよ殖やせよ」の推進)
・1月25日 東京などの商店で午後9時閉店を実施する
・3月1日 「国民学校令」が交布され、尋常小学校(6年)・高等小学校(2年)が、国民学校(初等科6年・高等科2年)に変更される
・3月7日 「国防保安法」が交布される
・3月10日 「治安維持法」改正(予防拘禁制を追加)が交布される
・3月19日 時間外電報が廃止され、慶弔電報の取扱い中止される
・3月19日 厚生省が婦人標準服研究会を組織する
・3月31日 朝鮮総督府、朝鮮語を学習科目から外す
・4月1日 「生活必需物資統制令」が交布される
・4月1日 六大都市で米穀配給通帳制(1日1人2合3勺=約330g)実施、米の配給受け取りに必要となる
・4月上旬 中学校新入生の制服が男子は国民服に戦闘帽、女子は襟を右前にしたへちま型となる
・5月8日 初の「肉なしデー」が実施され、以後月2回とされる(肉屋・食堂で肉の不売実施)
・5月19日 東京市が夏季ビールの配給は1世帯8本と決定する
・6月7日 家庭用食用油の切符制が実施される
・7月1日 全国の隣組、いっせいに常会を開く(以後毎月1日実施)
・7月21日 文部省教学局から『臣民の道』が刊行される
・8月10日 鉄道省がガソリン節約のためガソリンカーの運転を削減する
・8月30日 「金属類回収令」が交布される
・8月30日 大学に教練担当現役将校が配属される
・9月1日 東京市で砂糖・マッチ・小麦粉・食用油の集成配給切符制が実施される
・9月1日 ガソリンを使用するタクシーが禁止される
・10月1日 一般家庭用ガスの使用制限が実施される
・10月4日 「臨時郵便取締令」が公布され、外国郵便を開封検閲するようになる
・10月10日 農林省が芋類の増産と桑園の整理を通牒する
・10月19日 婦人国民服が公募され、入選発表される
・11月 たばこが値上げされる(敷島35銭、朝日25銭、光18銭)
・11月22日 「国民勤労報国協力令」が交布され、14~40歳の男子と14~25歳の未婚女子の年30日以内の勤労奉仕が義務化される
・12月8日 米英両国に宣戦布告、太平洋戦争始まる
・12月8日 日米開戦により、新聞・ラジオの天気予報、気象報道が中止される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1694年(元禄7)俳聖松尾芭蕉の命日で、「芭蕉忌」とされる(新暦11月28日)詳細
1881年(明治14)「国会開設の勅諭」が出される詳細
1937年(昭和12)国民精神総動員中央連盟が発足し、国民精神総動員運動が始まる詳細
1943年(昭和18)東條内閣が「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を閣議決定する詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本史授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1266)を出す詳細
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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会の4つを統合して、大日本青少年団が結成された日です。
 大日本青少年団(だいにほんせいしょうねんだん)は、大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会の4つを統合して結成された青少年団体でした。その組織・機能については、同年3月14日の「大日本青少年団ニ関スル件」(昭和16年3月14日文部省訓令第2号)によって示され、文部大臣の統轄下におかれています。
 小学校3年以上の少年少女と中学校以上の学校に通学しない25歳までの男女勤労青少年を団員とし、行政機構に対応して道府県-都市区-町村という系統的組織網を編成し、団長には文部大臣が,地方団の団長には地方長官が、単位団長も原則として青年学校長、小学校長がそれぞれ就任しました。本部は東京の明治神宮外苑の日本青年館に置かれ、男女青少年に対して皇国の道にのっとって団体的実践鍛練を施し、確固不抜の国民的性格を錬成し、戦争遂行の国策に協力することを目的とし、神祇奉仕・貯蓄奨励運動・軍人援護活動・教養的諸活動・健民運動・国防訓練・勤労奉仕・興亜運動などの活動を展開します。
 1942年(昭和17)6月に、閣議決定に基づく大政翼賛会の強化に際し、大日本青少年団もその傘下に置かれ、いっそう時局的活動の推進を要求されることとなりました。この中で、都市女子青年の農村勤労奉仕、北海道食糧増産のための勤労奉仕隊派遣、満洲建設女子勤労奉仕隊など、多面的な活動が行われます。
 しかし、1945年(昭和20)5月22日の「戦時教育令」(昭和20年勅令第320号)による学徒隊編成方策に応じて、同年6月に解散、国民義勇隊として再編され、団員は大日本学徒隊に吸収されました。
 以下に、「大日本青少年団ニ関スル件」(昭和16年3月14日文部省訓令第2号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「大日本青少年団ニ関スル件」(昭和16年3月14日文部省訓令第2号)

 輓近青少年団体ノ実績極メテ顕著ナルモノアルハ邦家ノ為洵ニ喜ブベキ所ナリ然レドモ国家内外ノ情勢ニ鑑ミ青少年ノ教養訓練ノ徹底ヲ図り国家興隆ノ根基ニ培フノ要今日ヨリ急ナルハナク特ニ現下喫緊ノ要務タル高度国防国家体制建設ノ要請ニ即応セシムル為ニハ青少年団体ヲ統合シテ学校教育ト不離一体ノ下ニ強力ナル訓練体制ヲ確立スルノ要緊切ナルモノアリ本省ニ於テハ予テ関係団体ト之ガ具体案ニ関シ協議ヲ進メ来リタル処今般大日本青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟及帝国少年団協会ノ四団体ヲ統合シテ新ニ文部大臣統轄ノ下ニ大日本青少年団ノ結成ヲ見ルニ至レリ茲ニ新団体ノ発足ニ当リ之ガ運営ノ大綱ヲ示サントス

一 大日本青少年団ノ本旨ニ関スル事項
 大日本青少年団ノ本旨トスル所ハ皇国ノ道ニ則リ男女青少年ニ対シ団体的実践鍛錬ヲ施シ共励切磋不抜ノ国民的性格ヲ錬成シ以テ負荷ノ大任ヲ全ウセシムルニアリ即チ我ガ国男女青少年ノ学校外ニ於ケル全生活ヲ教養訓練トシテ具現セシメントスル見地ヨリ全青少年ヲ一元的組織ノ下ニ結合シテ皇国ノ道ニ則リ国家有為ノ青少年ヲ錬成スルヲ目的トス

二 組織ニ関スル事項
 大日本青少年団ハ皇国青少年ヲ錬所スルヲ目的トスルヲ以テ之ガ達成ノ為ニハ其ノ組織機構ヲシテ我ガ国青少年教育ノ根幹タル青年学校及小学校ト不離一体ノモノタラシメ男女青少年ヲ通ジテ一貫シタル訓練体制ヲ樹立セザルベカラズ是ニ於テ本団ハ文部大臣統轄ノ下ニ地方長官ヲ道府県青少年団ノ団長トシ青年学校長及小学校長ヲシテ夫々単位団ノ団長タラシメ以テ国ノ青少年教育方針ノ一元的貫徹ヲ期セントス故ニ地方団ノ整備ニ当リテハ故ラニ異ヲ樹ツルコトナク右ノ組織方針ニ恪遵シ国家青少年教育組織ノ充実完備ニ遺憾ナキヲ期スベシ

三 訓練ニ関スル事項
 大日本青少年団ノ訓練ハ国体ノ本義ニ基キ団体的実践修練ヲ施シ共励切磋ノ功ヲ積マシムルト共ニ克ク東亜及世界ニ於ケル皇国ノ使命並ニ皇国ノ当面スル内外ノ情勢ヲ明確ニ認識セシメ青少年ノ行動ヲシテ国家目的ノ遂行達所ニ帰一セシムルヲ要ス而シテ訓練ノ実施ニ当リテハ団員ガ概ネ青年学校生徒及小学校児童タルニ鑑ミ学校教育ト緊密ナル連繋ヲ保チ相俟ツテ之ガ徹底ヲ期スルト共ニ他面青少年生活ノ実情特ニ生業トノ関係ヲ考慮シテ訓練ノ時期方法等宜シキヲ制シ以テ団員ノ自ラ進ンデ訓練ヲ受クルヤウ力ムベシ

四 指導者ニ関スル事項
 大日本青少年団ノ使命ヲ達成スルハ一ニ懸ツテ指導者ニ其ノ人ヲ得ルニ在リ仍テ指導者ノ選任並ニ優秀ナル指導者ノ養成ニ最モ意ヲ用ヒ学校職員其ノ他ノ教育関係者ヲシテ之ニ当ラシムルノ外広ク各方面ノ適材ニ協力ヲ求メ特ニ第一線指導者ヲシテ常ニ閣達進取ノ気風ヲ発揮セシメ以テ団ノ溌剌清新ナル活動ヲ促進セシムルヤウ力ムベシ

五 青年団員ノ年齢ニ関スル事項
 単位青年団員ヲ普通団員及幹部団員ニ分チタルハ青年団ヲシテ高度国防国家体制建設ノ要請ニ副フベキ訓練団体タラシムルノ趣旨ニ出ヅ即チ普通団員ヲ二十歳以下ノ者ト為シタルハ青年学校教育並ニ現下徴兵ノ実情ニ鑑ミ直接訓練ノ対象ヲ此ノ年齢層ニ置キタルモノニシテ二十一歳乃至二十五歳ノ適当ノ者ヲ幹部団員ト為シタルハ此等ノ者ヲシテ団ノ年少指導者トシテ率先垂範後進ノ誘導ニ当ラシメ以テ団ノ規律統制ノ強化ヲ図ルト共ニ其ノ活動ヲ豊富活溌ナラシメントスルニ在リ故ニ団員ノ年齢ニ関シテハ厳ニ右ニ拠ルヲ要ス

六 女子青年団ニ関スル事項
 現下ノ我が国ノ情勢ニ伴ヒ女子青年ニ負荷セラレタル任務愈々重キヲ加ヘタルニ鑑ミ女子青年団ノ振興ヲ図ルハ最モ緊要ナリ仍テ之が拡充強化ニ一段ノ努力ヲ効シ真ニ皇国女子青年タルニ適切ナル団体的実践修練ヲ施スコトニ方ムベシ尚優秀ナル婦人指導者ノ活動ヲ求メ以テ其ノ実績ノ向上ヲ図ルベシ

七 少年団ニ関スル事項
 少年団ハ小学校ト相俟ツテ児童ニ団体的実践修練ヲ施スモノニシテ其ノ活動ニ期待スルトコロ多シ而シテ団員が年少者ナルニ鑑ミ之ガ指導運営ノ万全ヲ期セザルベカラズ仍テ其ノ組織ニ当リテハ特ニ此ノ点ニ留意シテ之が普及ヲ図リ健全ナル発達ヲ期スベシ

八 経費ニ関スル事項
 本団ノ経費ハ国庫及道府県市町村等ノ補助金、寄附金、基金利子等ヲ以テ支弁スベキ方針ナルニ付団員ヨリ団費ヲ徴収スルコトハ特ニ其ノ必要アル場合ノ外之ヲ避クベシ

 以上ハ大日本青少年団ノ運営ニ関シ大綱ヲ挙示セルモノナリ地方長官ハ宜シク此ノ趣旨ヲ体シ地方団ノ整備拡充ヲ図リ以テ本団ヲシテ其ノ使命ヲ達成セシムルニ遺憾ナキヲ期スベシ

     「文部科学省ホームページ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1103年(康和5)第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日)詳細
1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を出す詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
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yokusanseijikai01

 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、東条英機首相の提唱により、翼賛政治会が結成され、初代総裁に阿部信行(元首相)が就任した日です。
 翼賛政治会(よくさんせいじかい)は、太平洋戦争下において、東条英機首相が議会に対する支配を確立するため、挙国一致の政治体制強化を目的として結成された政治結社でした。1940年(昭和15)10月12日に大政翼賛会が結成され、日本型ファシズム体制が成立し、翌年12月8日の太平洋戦争開戦へと至ります。
 東条内閣は「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」(1941年12月19日公布)や「戦時刑事特別法」(1942年2月24日公布)などを制定して弾圧を強め、太平洋戦争緒戦の勝利を利用して、1942年(昭和17)4月30日に翼賛選挙を実施しました。それに向けて結成されていた、翼賛政治体制協議会は推薦候補者の内381名の当選者を出し、全466議席の過半数をはるかに上回ります。
 しかし、東条内閣はこの政治団体以外のいかなる政党をも許容しないという方針を明らかにし、5月7日に政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用、同月14日には、現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送しました。そして、同月20日に衆議院においては全466名中刑事訴追者2名と解散に抵抗した東方会の6名を除く458名、貴族院においても411名中326名、大政翼賛会関係者、言論界・財界・産業組合など各種団体などの代表者、元翼協支部長など、900余名を集めて創立総会を開き、総裁には阿部信行大将(元首相)が就任します。
 綱領には、①国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す、②憲法の条章に恪遵し翼賛議会の確立を期す、③大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す、④大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す、を掲げました。3日後には、東方会も解散させられて全員が翼賛政治会に強制加入させられることになり、ここにおいて一応は「一国一党」体制が成立したことになります。
 しかし、旧政党系列間、大日本翼賛壮年団と右翼出身議員間での抗争が絶えず、1944年(昭和19)7月に、東条内閣退陣に替わって小磯国昭内閣になり、二代目総裁として小林躋造元台湾総督が就任するとともに結束力が弱まり、翌年2月12日に小林総裁より新党結成方針が正式に出されたものの、大政翼賛会幹部と大日本翼賛壮年団出身議員が反発、翼政会内部は大混乱に陥りました。そして、3月10日に大日本翼賛壮年団出身議員は翼壮議員同志会を結成、翌日には岸信介ら旧翼賛政治会反主流派も護国同志会を結成して、翼政会及び新党との訣別を宣言するに至ります。その中で、3月30日に翼政会は解散して、替わりに南次郎を総裁とする大日本政治会に改組されました。
 以下に、翼賛政治会宣言(一部)と綱領を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇翼賛政治会宣言と綱領 1942年(昭和17)5月20日 

<翼賛政治会宣言>

 東亜の安定を確保し以て世界の平和に寄与するのは、畏くも大詔に明示し給うところなり、帝国は今や古今未曾有の世界動乱に際し、大東亜戦争完遂に邁進す。洵に曠古の大業なり。皇師一たび出でて、赫々の戦果は世界を震撼せりと雖も、大業の前途は尚遼遠なり。すなわち国民の政治意識を昂揚し、挙国的政治力を結束し、次て国家の総力を発揮し、戦争目的を貫徹せざるべからず。惟ふに此の戦時下敢て総選挙を施行せられたるは、清新強力なる議会の確立を庶幾せられたるものにほかならず。而して総選挙の結果は滂湃(ほうはい)たる国民熱意の嚮(むか)ふところ明かにせり。これ正に一挙翼賛政治体制を確立して、必勝の挙国態勢を完成すべきの秋なり。
 翼賛議会の要は清新なる政治力を以て派閥抗争を一掃し、一地一職域の利害に拘らず、真に国家的見地に立ち公議公論の府として政府に協力するにあり。議会翼賛の大道また実にここに存す。
 本会は国民各界に亘り政治翼賛の総力を凝集し、以て国政運行に協力せんとす。而して翼賛政治体制の確立は、挙国的国民運動の基礎の上に立たざるべからず。因て本会は大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相倶に大政翼賛運動の徹底を期せんとす。
(以下省略)
 
<翼賛政治会綱領>

一、国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す。
一、憲法の条章に恪遵(かくじゅん)し翼賛議会の確立を期す。
一、大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す。
一、大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す。
 
☆翼賛政治会関係略年表

<1940年(昭和15)>

・10月12日 大政翼賛会が結成される

<1942年(昭和17)>

・4月30日 第21回総選挙(翼賛選挙)においては、大政翼賛会及びその傘下の大日本翼賛壮年団推薦を受けた候補者が過半数を遥かに上回る議席数を獲得する
・5月7日 内閣総理大臣東條英機は、政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用する
・5月14日 現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送する
・5月20日 翼賛政治会が結成され、初代総裁には翼賛政治体制協議会会長の阿部信行元内閣総理大臣がそのまま横滑りし、衆議院においては全466名中刑事訴追者2名と解散に抵抗した東方会の6名を除く458名が参加する
・5月23日 東方会も解散させられて全員が翼賛政治会に強制加入させられることになる貴族院の院内会派は成立時以来の建前上、会派がまとまって政治活動はしないこととなっていたため、ここにおいて一応は「一国一党」体制が成立したことになる
・6月23日 政府は大日本産業報国会(産業報国運動)、大日本婦人会、大日本青少年団などの官製国民運動6団体を大政翼賛会の傘下に統合する
・8月14日 部落会長と町内会長を大政翼賛会の世話役に、隣組長を世話人にすることを決定する

<1944年(昭和19)>

・7月 東條英機に替わって小磯国昭朝鮮総督が後任の内閣総理大臣となり、替わりの朝鮮総督に阿部総裁が任命される
・8月 二代目総裁として小林躋造元台湾総督が就任する
・12月 小磯内閣の国務大臣に任命された小林は小磯首相から本土決戦に備えて大政翼賛会や翼政会の改組を指示される

<1945年(昭和20)>

・1月20日 大政翼賛会・大日本翼賛壮年団・翼政会を解散させる替わりに大政翼賛会の地方部門と翼政会を統合して、全国民を統合する新党を結成する方針が翼政会代議士会で了承される
・2月12日 小林総裁より新党結成方針が正式に出されたものの、大政翼賛会幹部と大日本翼賛壮年団出身議員が反発、翼政会内部は大混乱に陥る
・3月1日 小林は国務大臣を辞任して新党結成と反対派説得に尽力する
・3月8日 新党の設立準備委員会結成の時点で、小林の新党構想は破綻状態になる
・3月10日 大日本翼賛壮年団出身議員は翼壮議員同志会を結成する
・3月11日 岸信介ら旧翼賛政治会反主流派も護国同志会を結成して、翼政会及び新党との訣別を宣言する
・3月30日 翼政会は解散して替わりに南次郎を総裁とする大日本政治会となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1886年(明治19)洋画家・紙絵作家高村(旧姓長沼)智恵子の誕生日詳細
1933年(昭和8)大阪市営地下鉄1号線(現在の大阪メトロ御堂筋線)の梅田~心斎橋間が開業する詳細
1978年(昭和53)千葉県成田市に新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港する詳細
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