ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大政奉還

taiseihoukankenpakushyo01

 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、土佐藩の後藤象二郎らが、前藩主・山内豊信(容堂)の「大政奉還建白書」を幕府に提出した日ですが、新暦では10月29日となります。
 土佐藩の大政奉還建白書(とさはんのたいせいほうかんけんぱくしょ)は、坂本龍馬の大政奉還を含めた構想「船中八策」に、後藤象二郎が共感し、前土佐藩主山内豊信(容堂)に大政奉還を進言、これをもとに公武合体派の容堂名により、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜に提出したものでした。内容は、諸外国の脅威が迫る中で国内が分裂状態に陥っている現状を憂い、「王政復古の業を建てざるべからざるの一大機会と存じたてまつり候」と説いたものです。また、広島藩からも10月6日に大政奉還建白書が出されました。
 これらの建白を受けて、慶喜は幕府有司に意見を聴き、10月13日に在京の40藩の重臣(諸侯)を二条城大広間に集めて意見を求め、翌14日に「大政奉還の上表文」を朝廷に出します。しかし、大政奉還後に想定された諸侯会議が開催されない内に、討幕派による王政復古のクーデターが起き、慶喜の辞官納地を決定し、戊辰戦争へと向かうことになりました。
 以下に、前土佐藩主・山内豊信(容堂)の「大政奉還建白書」と別紙を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇土佐藩「大政奉還建白書」 1867年(慶応3年10月3日)提出

山内豊信慶喜ニ致ス書

誠惶誠恐[1]謹テ建言[2]仕候、天下憂世[3]ノ士、口ヲ噤シテ敢テ不言ニ至リ候ハ、誠ニ可懼ノ時ニ候、朝廷、幕府、公卿[4]、諸侯[5]旨趣[6]相違フノ状アルニ似タリ、誠ニ可懼ノ事ニ候、此二懼ハ我ノ大患[7]ニシテ、彼ノ策於是乎成矣ト可謂候、如此事態ニ陷リ候ハ、其責任竟誰ニ可歸ヤ、併シ既往ノ是非曲直[8]ヲ喋々辧難[9]ストモ何ノ益カアラン、唯願クハ大活眼[10]大英斷ヲ以テ、天下萬民ト共ニ同心協力[12]公明正大ノ道理ニ歸シ、萬世[13]ニ亙テ不愧、萬國ニ臨ンテ恥[14]サルノ大根柢[15]ヲ建テサルヘカラス、此旨趣[6]、前月上京ノ砌ニモ追々建言[2]仕候心得ニ御坐候ヘトモ、何分阻隔[16]ノ筋ノミ有之、其内不圖[17]モ舊疾再發仕、不得止歸國仕候以來、起居[18]動作ト雖モ不隋意[19]ノ事ニ成リ至リ、再上ノ儀、暫時相調不申候ハ、誠ニ遺憾ノ次第ニテ、只管此事ノミ日夜焦心苦思[20]仕罷在候、因テ愚存[21]ノ趣、一二家來共ヲ以テ言上仕候、唯幾重ニモ公明正大ノ道理ニ歸シ、天下萬民ト共ニ、皇國數百年ノ國體[22]ヲ一變シ、至誠[23]ヲ以テ萬國ニ接シ、王政復古[24]ノ業ヲ建テサルヘカラサルノ一大機會ト奉存候、猶又別紙[25]得度御細覽被仰付度、懇々[26]ノ至情[27]難默止、泣血流涕[28]ノ至ニ不堪候。

 慶應三年丁卯九月             松平容堂

別紙

宇内[29]ノ形勢、古今ノ得失ヲ鑒シ[30]、誠惶誠恐[1]頓首再拜[31]、伏惟[32] 皇國[33]興復[34]ノ基業[35]ヲ建テント欲セハ、國體[22]ヲ一定シ、政度[36]ヲ一新シ、王政復古[24]、萬國萬世[13]ニ不恥者ヲ以テ本旨[37]トスヘシ、奸ヲ除キ良ヲ擧ケ、寬恕ノ政[38]ヲ施行シ、朝幕諸侯[39]齊ク[40]此大基本ニ注意スルヲ以テ、方今[41]急務ト奉存候、前月四藩上京仕、一二獻言[42]ノ次第モ有之、容堂儀ハ病症ニ因テ歸國仕候以來、猶又篤ト熟慮[43]仕候ニ、實ニ不容易[44]時態ニテ、安危[45]ノ決今日ニ有之哉ニ愚慮[46]仕候、因テ早速再上仕、右ノ次第一々乍不及[47]警言[48]仕候志願[49]ニ御坐候處、今ニ至テ病症難澀仕、不得已微賤[50]ノ私共ヲ以テ、愚存[21]ノ趣乍恐言上爲仕候、

一天下ノ大政ヲ議定スル全權ハ朝廷ニアリ、乃我 皇國[33]ノ制度法則一切萬機[51]、必ス京師[52]ノ議政所[53]ヨリ出ツヘシ、
一議政所[53]上下ヲ分チ、議事官[54]ハ上公卿[4]ヨリ下陪臣[55]庶民ニ至ル迄、正明[56]純良[57]ノ士ラ選擧スヘシ、
一庠序[58]學校[59]ヲ郡會[60]ノ地ニ設ケ、長幼ノ序ヲ分チ、學術技藝[61]ヲ敎導[62]セサルヘカラス、
一一切外蕃[63]トノ規約ハ、兵庫港[64]ニ於テ、新ニ 朝廷ノ大臣ト諸藩ト相議シ、道理明確之新條約ラ結ヒ、誠實ノ商法ヲ行ヒ、信義ヲ外藩[65]ニ失セサルヲ以テ主要トスヘシ、
一海陸軍備ハ一大至要[66]トス、軍局ヲ京攝ノ間[67]ニ築造シ、朝廷守護ノ親兵[68]トシ、世界ニ比類ナキ兵隊ト爲ンコトヲ要ス、
一中古[69]以來、政刑[70]武門[71]ニ出ツ、洋艦來港[72]以後、天下紛紜[73]、國家多難、於是、政權梢動ク、是自然ノ勢ナリ、今日ニ至リ、古來ノ舊弊[74]ヲ改新シ、枝葉[75]ニ馳セス、小條理[76]ニ止マラス、大根基[77]ヲ建ルラ以テ主トス、
一朝廷ノ制度法則、從昔ノ律例[78]アリト雖、方今[41]ノ時勢ニ參合[79]シ、間或當然ナラサルモノアラン、宜ク其弊風[80]ヲ一新シ改革シテ、地球上ニ獨立スルノ國本[81]ヲ建ツヘシ、
一議事ノ士大夫[82]ハ私心ヲ去リ、公平ニ基キ、術策ヲ設ケス、正直ヲ旨トシ、既往ノ是非曲直[8]ヲ問ハス、一新更始[83]、今後ノ事ヲ見ルヲ要ス、言論多ク、實效[84]少キ通弊[85]ヲ踏ムヘカラス、

右ノ條目、恐ラクハ當今ノ急務、内外各般ノ至要、是ヲ捨テゝ他ニ求ムヘキモノハ有之間敷ト奉存候、然則、職ニ當ル者、成敗利鈍ヲ不顧、一心協力、萬世ニ亙テ貫徹致シ候樣有之度、若或ハ從來ノ事件ヲ執リ、辨難抗論、朝幕諸侯、互ニ相爭ノ意アルハ尤然ルへカラス、是則、容堂ノ志願ニ御坐候、因テ愚昧不才ヲ不顧、大意建言仕候、就テハ乍恐是等ノ次第、空シク御聽捨ニ相成候テハ、天下ノ爲遺憾不鮮候、猶又、此上寬仁ノ御趣意ヲ以テ、微賤ノ私共ト雖モ、御親問被 仰付度奉懇願候。
                  松平土佐守内
 慶應三年丁卯九月
                     寺村左膳
                     後藤象二郞
                     福岡藤次
                     神山佐多衞

    『復古記』巻一より

【注釈】

[1]誠惶誠恐:せいこうせいきょう=心からおそれかしこまることの意味。
[2]建言:けんげん=政府・上役などに対して意見を申し立てること。また、その意見。
[3]憂世:ゆうせい=世の中や国家の安危を憂えること。憂国。
[4]公卿:くぎょう=公と卿の総称。公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいうが、参議は四位も含める。
[5]諸侯:しょこう=諸大名のこと。
[6]旨趣:ししゅ=事のわけ。おもむき。内容。趣意。
[7]大患:たいかん=大きな心配事。
[8]是非曲直:ぜひきょくちょく=よいことと悪いことと曲がっていることとまっすぐなこと。物事のよしあしや正邪。
[9]辧難:べんなん=ことばで非難すること。論難。
[10]活眼:かつがん=生きた眼。物の道理を見抜く見識。物事を見抜く能力。
[11]英斷:えいだん=きっぱりと事を決めること。また、すぐれた決断。
[12]同心協力:どうしんきょうりょく=心を一つにし、協力し合い、皆で団結して事にあたること。
[13]萬世:ばんせい=限りなく何代も続く永い世。万代。永遠。
[14]不愧:ふかい=恥じない。
[15]根柢:こんてい=物事の根本(こんぽん)。基礎。よりどころ。
[16]阻隔:そかく=じゃまをして、へだたりをつくること。また、へだたりができること。
[17]不圖:はからず=思いもよらず。不意に。ふと。
[18]起居:ききょ=立ったり、すわったりすること。立ち居ふるまい。転じて、日常の生活。
[19]不隋意:ふずいい=思いのままにならないこと。意志のとおりにならないこと。また、そのさま。
[20]焦心苦思:しょうしんくし=心を痛めて、あれこれ思いをめぐらし悩むこと。
[21]愚存:ぐぞん=自分の考えをへりくだっていう語。愚見。愚意。愚案。
[22]國體:こくたい=国のあり方。国家の根本体制。
[23]至誠:しせい=きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。
[24]王政復古:おうせいふっこ=政治体制が、君主制から武家政治、共和制などに変わったのち、再びもとの君主制に戻ること。
[25]別紙:べっし=大政奉還後の新政体綱領八ヶ条のこと。
[26]懇々:こんこん=心をこめたさま。また、親切に繰り返し言うさま。
[27]至情:しじょう=誠心誠意の感情。まごころ。赤心。
[28]泣血流涕:きゅうけつりゅうてい=血の涙を流すこと。
[29]宇内:うだい=天下。世界。
[30]鑒シ:かんし=かんがみて。手本と照らし合わせてよく考えて。見分けて。
[31]頓首再拜:とんしゅさいはい=手紙や書簡で敬意を表して用いる言葉で、頭を地面に打ちつけて、二度続けてお辞儀する意味。
[32]伏惟:ふくい=謹んで私が考えてみると。
[33]皇國:こうこく=天皇が統治する国。
[34]興復:こうふく=おとろえたものを、もとの状態にたてなおすこと。再興すること。復興。
[35]基業:きぎょう=基礎となる事業や業績。
[36]政度:せいど=国家・政治を動かす一定のきまり。憲法・法律・政令・条例など。
[37]本旨:ほんし=本来の趣旨。もとの主旨。
[38]寬恕ノ政:かんじょのせい=心が広く思いやりがある政治。
[39]朝幕諸侯:ちょうばくしょこう=朝廷・幕府・諸大名。
[40]齊ク:ひとしく=そろって。平らに。揃えて。
[41]方今:ほうこん=ただいま。現在。現今。
[42]獻言:けんげん=主君や目上の人に意見を申し上げること。また、その意見。
[43]熟慮:じゅくりょ=よくよく考えること。十分に考えをめぐらすこと。熟考。
[44]不容易:ふようい=容易ではないこと。たいへんなこと。難しいこと。
[45]安危:あんき=安全か危険かの瀬戸際の状態。
[46]愚慮:ぐりょ=おろかな考え。また、自分の考えをへりくだっていう語。愚考。
[47]乍不及:およばずながら=不十分ではあるが。完全にはできないが。行き届かないが。およばぬながら。
[48]警言:けいげん=いましめることば。さとす言葉。
[49]志願:しがん=ある事をこころざし願うこと。望み願うこと。また、こころざして願い出ること。
[50]微賤:びせん=身分・地位が低いこと。
[51]一切萬機:いっさいばんき=すべての諸々の重要な政務。特に、天皇の政務。天下の政治。
[52]京師:けいし=みやこ。帝都。
[53]議政所:ぎせいしょ=討議によって政治を行うところ。
[54]議事官:ぎじかん=議政所において公議に参与する議員。
[55]陪臣:ばいしん=臣下の、また臣。家来の家来。
[56]正明:せいめい=正しく明らかなこと。正しくて公明なこと。また、そのさま。
[57]純良:じゅんりょう=純粋で善良であること。まじりけがなく質がよいこと。また、そのさま。
[58]庠序:しょうじょ=郷校を中国周代では「庠」、殷(いん)代では「序」といったところからそれを意味する。
[59]學校:がっこう=昌平黌や藩校などの教育機関。
[60]郡會:ぐんかい=行政単位として国の下にあり、郷、里、村などを含むまとまり。
[61]學術技藝:がくじゅつぎげい=学問・技術。
[62]敎導:きょうどう=教え導くこと。
[63]外蕃:がいばん=外国や外国人をさげすんでいった語。
[64]兵庫港:ひょうごこう=現在の兵庫県神戸港の母胎となった港湾。
[65]外藩:がいはん=外蕃。外国や外国人をさげすんでいった語。
[66]至要:しよう=最もだいじなこと。また、そのさま。
[67]京攝ノ間:きょうせつのあいだ=京都と摂津国の間。
[68]親兵:しんぺい=君主などの側近くに仕える兵。また、天皇の身辺を護衛する兵。
[69]中古:ちゅうこ=その時点からある程度年代のへだたった昔。なかむかし。中世。
[70]政刑:せいけい=政治と刑罰。
[71]武門:ぶもん=武士の家筋。武家。
[72]洋艦來港:ようかんらいこう=1854年(安政元)にアメリカ使節ペリー艦隊が下田に来航したことを指す。
[73]紛紜:ふんうん=物事の入り乱れていること。事がもつれること。また、その乱れ。
[74]舊弊:きゅうへい=古い習慣・制度などの弊害。
[75]枝葉:しよう=枝(えだ)と葉(は)。転じて、主要でないものや事柄。
[76]條理:じょうり=物事のすじみち。もののことわり。物事の道理。
[77]根基:こんき=おおもと。ねもと。根本。根源。
[78]律例:りつれい=律(永久不変の根本法)と例(時代によって作られる条例)。刑法。また、広く法規をいう。
[79]參合:さんごう=いろいろのものを照らし合わせて考えること。
[80]弊風:へいふう=悪い風俗や習慣。悪習。
[81]國本:こくほん=国家の基本。国の基礎。国基(こっき)。
[82]士大夫:したいふ=中国で、士と大夫。のち、知識階級や科挙に合格して官職にある者をさした。
[83]一新更始:いっしんこうし=新たに物事を始めるにあたって、古いものを全て新しくすること。
[84]實效:じっこう=実際に現れる効力や効果。実効。
[85]通弊:つうへい=全般に共通して見られる弊害。

<現代語訳>

山内豊信が徳川慶喜にお届けする書

恐れかしこみ謹んで意見を申し上げます、天下の安危を憂う者として、口をとざして敢えて何も言わなかったならば、誠におそろしき時であります。朝廷、幕府、公卿、諸大名、趣旨は相異なる状況にあるに似て、誠におそろしき事であります。ここに恐れるは私の大きな心配事であって、薩長の討幕運動がここにおいて成就するかということであります。このような事態に陥ったことは、その責任は結局誰にあるのでしょうか、しかれどもそれまでの物事のよしあしや正邪をしきりに非難することは何の利益があるというのでしょうか、ただ願うのは大いなる見識と大いなる決断をもって、天下の人々と共に心を一つにして協力し合い、公明正大の道理に基づいて、永きにわたって恥じず、諸外国に臨んでも恥じない大いなる基礎を建てないわけにはいかないことです。この趣旨は、前月上京した折にも追々意見を申し上げたように心得てはいますが、なにぶん隔たりが出来ることが有り、そのうち思いもよらず古い病が再発し、やむを得ず帰国して以来、日常の生活の動作といっても思いのままにならない事になり至って、再び上京することは、しばらくは出来かねる状態で、誠に遺憾の次第であって、ひたすらこの事のみ日夜心を痛めて、あれこれ思いをめぐらし悩んでいます、よって愚見の趣旨は、一つ二つ家来共によって言上させます。ただ幾重にも公明正大の道理に基づき、天下の人々と共に、天皇の国としての数百年の国のあり方を一変し、真心をもって諸外国に接し、王政復古の事業を建てねばならない一大機会と考えます。なおまた、別紙をとくとお命じいただきたく、切々たる真心を止めることが出来ず、血の涙を流すことに至るのを耐えることが出来ないのです。

 慶応3年(1867年)丁卯9月             松平容堂

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1884年(明治19)小説家・社会教育家下村湖人の誕生日詳細
1899年(明治32)日本画家山口華楊の誕生日詳細
1932年(昭和7)拓務省第一次農業移民416人が、満蒙開拓団第一陣として満洲へ出発する詳細
1983年(昭和58)三宅島の雄山が21年ぶりに大噴火し、熔岩流によって約400戸が埋没・焼失する(三宅島1983年噴火詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

soejimataneomi01

 今日は、江戸時代後期の1828年(文政11)に、政治家・伯爵副島種臣が生まれた日ですが、新暦では10月17日となります。
 副島種臣(そえじま たねおみ)は、佐賀藩士で藩校弘道館教授だった枝吉南濠の二男(母は喜勢子)として生まれましたが、名は二郎と言いました。1848年(嘉永元)に弘道館内寮生の首班となり、1850年(嘉永3)には、楠木正成戦没日をトして、梅林庵で兄・神陽の主唱する「義祭同盟」に大木喬任、江藤新平らと共に参加、尊王論に傾倒します。
 1852年(嘉永5)に京都に留学して、国学者矢野玄道らと交流して皇学を研究、「日本一君論」を説き、1855年(安政2)には、藩命により再び京都に留学しました。1859年(安政6)に父が死去し、佐賀藩士副島和忠の養子となり、副島二郎種臣と名乗ります。
 1864年(元治元)に長崎に行き致遠館学監となり、米国人宣教師フルベッキに師事、英学・米国憲法を学びました。1867年(慶応3)に大隈重信とともに脱藩して上京、「大政奉還」を説きましたが、藩より謹慎処分を受けます。
 1868年(明治元)に新政府にて参与となり、制度取調局判事に任ぜられて政体書の起草に従事、翌年には参議に任ぜられ、西郷隆盛とともに東北諸藩の処置をしました。1871年(明治4)に樺太の国境問題について露国領事と談判、外務卿となり、翌年にマリア・ルス号事件を担当、1873年(明治6)には清国におもむき「日清修好条約」の批准を交換、清国皇帝に謁見したものの、征韓論に敗れて辞職します。
 1874年(明治7)に板垣退助、江藤新平らと愛国公党を設立、「民撰議院設立建白書」を提出しましたが、自由民権運動には参加しませんでした。1876年(明治9)に霞ヶ関の自宅を売り、清国歴遊の旅に出て、2年後に帰国し、1879年(明治12)には、宮内庁御用掛一等侍講に任ぜられます。
 1884年(明治17)に伯爵に叙せられ、1886年(明治19)に宮中顧問官、1891年(明治24)には、枢密院副議長に任ぜられました。1892年(明治25)3月に、松方正義内閣の内務大臣に任ぜられたものの6月に辞任、再び枢密顧問官となります。
 蒼海と号し、書を能くしましたが、1905年(明治38)1月31日に、東京において、数え年78歳で亡くなりました。

〇副島種臣関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1828年(文政11年9月9日) 佐賀藩士枝吉南濠の二男として生まれる
・1848年(嘉永元年) 21歳、弘道館内寮生の首班となる
・1850年(嘉永3年) 23歳、楠木正成戦没日をトして、梅林庵で兄・神陽の主唱する「義祭同盟」に参加する
・1852年(嘉永5年) 25歳、京都に留学して、皇学を研究、「日本一君論」を説く
・1855年(安政2年) 28歳、藩命により再び京都に留学する
・1859年(安政6年) 32歳、父が死去し、佐賀藩士副島和忠の養子となり、副島二郎種臣と名乗る
・1864年(元治元年) 37歳、長崎に行き致遠館学監となり、米国人宣教師フルベッキに師事、英学・米国憲法を学ぶ
・1867年(慶応3年) 40歳、大隈重信とともに脱藩して上京、「大政奉還」を説きましたが、藩より謹慎処分を受ける
・1868年(明治元年) 41歳、新政府にて参与となり、制度取調局判事に任ぜられ、政体書の起草に従事する
・1869年(明治2年) 42歳、参議に任ぜられ、西郷隆盛とともに東北諸藩の処置をする
・1871年(明治4年) 44歳、樺太の国境問題について露国領事と談判、外務卿となる
・1872年(明治5年) 45歳、マリア・ルス号事件が起きる
・1873年(明治6年) 46歳、清国におもむき「日清修好条約」の批准を交換、清国皇帝に謁見、征韓論に敗れて辞職する
・1874年(明治7年) 47歳、板垣退助、江藤新平らと愛国公党を設立、「民撰議院設立建白書」を提出する
・1876年(明治9年) 49歳、霞ヶ関の自宅を売り、清国歴遊の旅に出る
・1878年(明治11年) 51歳、清国歴遊の旅から帰国する
・1879年(明治12年) 52歳、宮内庁御用掛一等侍講に任ぜられる
・1884年(明治17年) 57歳、伯爵に叙せられる
・1886年(明治19年) 59歳、宮中顧問官となる
・1891年(明治24年) 64歳、枢密院副議長に任ぜられる
・1892年(明治25年) 65歳、3月、内務大臣に任ぜられるも6月辞任、再び枢密顧問官となる
・1905年(明治38年)1月31日 東京において、数え年78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年中行事重陽(菊の節句)です詳細
686年(朱鳥元)天武天皇(第40代天皇)の命日(新暦10月1日)詳細
1946年(昭和21)旧「生活保護法」が公布(施行は10月1日)される詳細
1987年(昭和62)川口JCT~浦和IC間の開通により、東北自動車道が全通する詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

satsudomeiyaku01

 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、薩摩藩と土佐藩の間で、「薩土盟約」が結ばれた日ですが、新暦では7月23日となります。
 薩土盟約(さつどめいやく/さっとめいやく)は、薩摩藩と土佐藩の間で結ばれた、幕藩制に代わる国家を構想しようとしたもので、大政奉還による列侯公議政体を目ざした盟約書でした。1867年(慶応3)5月の四侯会議解体後の政局の中で、武力討幕を企てる薩摩藩と大政奉還・公議政体が藩論の土佐藩とが、同年6月22日に京都三本木料亭「吉田屋」において会合を持ちます。
 土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟・坂本龍馬と薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らが集まって議論の上、倒幕挙兵に替わり、大政奉還を骨子とする政治同盟を結んだものでした。しかし、同年10月13日に岩倉具視が大久保利通に薩摩藩主島津忠義父子に宛てた倒幕の密勅を渡し、薩摩藩が倒幕運動の名分を得たことで破棄されています。
 以下に、「薩土盟約」の原文と現代語訳を載せておきますので、ご参照下さい。

〇「薩土盟約」慶応三年六月付

約定の大綱

一国体を協正し万世万国に亘て不耻是第一義
一王政復古は論なし宜しく宇内の形勢を察し参酌協正すべし
一国に二王なし家に二主なし政刑唯一君に帰すべし
一将軍職に居て政柄を執る是天地間あるべからざるの理なり宜しく侯列に帰し翼戴を主とすべし
右方今の急務にして天地間常に有之大條理なり心力を協一にして斃て後已ん何ぞ成敗利鈍を顧るに暇あらむや
  皇慶応丁卯六月

約定書

一方今皇國の務國體制度を糺正し万國に臨て不耻是第一義とす其要王制復古宇内之形勢を參酌して下後世に至て猶其遺憾なきの大條理を以て處せむ國に二王なし家に二主なし政刑一君に歸す是れ大條理なり我皇家綿々一系万古不易然るに古郡縣の政變して今封建の體と成り大政遂に幕府に歸す上皇帝在を知らず是を地球上に考るに其國體制度如茲者あらんや然則制度一新政權朝に歸し諸侯會議人民共和然後庶幾ハ以て万國に臨て不耻是以初て我皇國の國體特立する者と云ふべし若二三の事件を執り喋々曲直を抗論し朝幕諸侯倶に相辯難し枝葉に馳せ小條理に止り却て皇國の大基本を失す豈に本志ならむや爾後執心公平所見万國に存すべし此大條理を以て此大基本を立つ今日堂々諸侯の責而已成否顧る所にあらず斃而後已ん今般更始一新皇國の興復を謀り奸邪を除き明良を擧げ治平を求天下萬民の爲に寬仁明恕の政を爲んと欲し其法則を定る事左の如し

一天下の大政を議定する全權は朝廷にあり我皇國の制度法則一切の万機議事室より出を要す
一議事院を建立するは宜しく諸侯より其の入費を貢獻すべし
一議事院上下を分ち議事官は上公卿より下陪臣庶民に至るまで正義純粹の者を撰擧し尚且諸侯も自分其職掌に因て上院の任に充つ
一將軍職を以て天下の萬機を掌握するの理なし自今宜しく其職を辭して諸侯の列に歸順し政權を朝廷へ歸すべきハ勿論なり
一各港外國の條約、兵庫港に於て新に朝廷之大臣諸大夫と衆合し道理明白に新約定を立て誠實の商法を行ふべし
一朝廷の制度法則は往昔より律例ありといへども當今の時勢に參し或は當らざる者あり宜しく弊風を一新改革して地球上に愧ざるの國本を建てむ
一此皇國興復の議事に關係する士大夫は私意を去り公平に基き術策を設けず正實を貴び既往の是非曲直を不問人心一和を主として此議論を定むべし
右約定せる盟約ハ方今の急務天下之大事之に如く者なし故に一旦盟約決議之上は何ぞ其事の成敗利鈍を顧んや唯一心協力永く貫徹せむ事を要す

 六月                  (慶明雜録)

   勝田孫彌著『西鄕隆盛傳』より

<現代語訳>

約定の大綱

一、国体を協力して正し、あらゆる世の中、あらゆる国に臨んで恥じないことを第一義とする。
一、王制復古については当然の事であり、天下の形勢をあれこれ照らし合わせて取捨し、協力して正すべきこと。
一、一つの国に二人の王はなく、一つの家に二人の主人はいない。政治と刑罰を行うのは、一人の君主に帰着すること。
一、将軍職において政務を執行すること、これは万物にあるべきではない道理であり、当然に諸侯(大名)の列に戻り、天皇を補佐することを主とすべきである。
右は以後の急務であり、万物に常にある大きな物事の道理である。精神力を協一にして倒れるまで努力を続けるべきで、どうして成否について振り返ってみる暇があるだろうか、いやない。
  皇慶応3年(1867年)6月22日

約定書

一、以後天皇の国の務として国体制度の正・不正をただし、あらゆる国に臨んで恥じないこと、これを第一義とする。その要は、王制復古について天下の形勢をあれこれ照らし合わせて取捨し、下に向かって世に至てなおその心残りがなきの大きな物事の道理をもって処置する。一つの国に二人の王はなく、一つの家に二人の主人はいない。政治と刑罰を行うのは、一人の君主に帰着する。これは、大きな物事の道理である。私たちの天皇家は絶えることなく綿々と続いていつまでもかわっていない、それにもかかわらず古に郡県の政変によって、今の封建制度と成り、天下の政治はついに幕府に帰着してしまった。上に天皇があるのを知らず、これを地球上で考えるにその国体制度にとってどのようなものであろう、このようなものであってはならないはずだ。そうだとすれば、制度を一新し、政権を朝廷に帰着させ、諸侯(大名)会議と人民が和合して事に当たり、その後はあらゆる国に臨んで恥じないことを切望する。これをもってはじめて、私たち天皇の国の国体を自立することが出来る。もし、二三の事件を取り上げ、しきりにしゃべって正邪を抗論し、朝廷、幕府、諸侯(大名)ともに相手の不正や誤りを論じ立てて非難し、主要でない部分に走って、小さな物事の道理にとどまっては、かえって天皇の国の大きな基本を失ってしまう。これでどうして本当の志となろうか、いやなりはしない。この後は、こだわって公平な見方ですべて国のこととすべきである。この大きな物事の道理に従って、この大基本を立てる。今日厳然と諸侯(大名)の責任があるばかりだ、成否について振り返ってみるものではなく、倒れるまで努力を続けるべきである。今度さらに、一新をはじめて天皇の国の再興をはかり、よこしまな人を除き、賢明な君主と忠良な臣下が事を起こし、泰平を求めて国中のすべての人民のために心が広くて情け深く、明るく思いやりのある政治をしようと考え、その約定を定める事、左のようである。

一、「天下の大政」を評議決定する全権は朝廷にあり、私たち天皇の国の制度や法令の一切は京都の議事堂から発令されるべきである。
一、議事院設置にかかる経費は諸藩の費用負担で行うこと。
一、議事院は上院と下院の二院制とし、議事官(議員)は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで、「正義純粋」の者を選挙し、なおかつ諸侯(大名)も職掌によって上院議員に充てる。
一、将軍職は国のすべてを掌握する道理はない。以後は当然にその職を辞して諸侯(大名)の列に戻り、政権を朝廷へ返すのはもちろんのことである。
一、各港の外国との条約については、兵庫港(神戸港)において新に朝廷の大臣が諸侯(大名)と寄り集まり、道理がはっきりとした新条約を結び、誠実な商いを行うこと。
一、朝廷の制度法則は昔からの律令があるといっても、この頃の時勢に際してあるいは妥当ではないものもあり、当然に弊害のあるものを一新改革して、地球上に恥じない国の基礎を建てる。
一、この天皇の国の復興の議事に当たる者は、私意を捨て公平に基づいてはかりごとをせず、誠実であることを貴んで、今までの物事のよしあしや正邪を問わず、人間としての心を一つにすることを主としてこの議論を行うべきである。
右のとおり約定した盟約は、以後の急務であり、国家の大事はこれに及ぶものはない。従っていったん盟約決議した上は、どうしてその事の成功を顧わずにいられようか、ただ一心に協力して久しく貫徹する事が必要である。

 6月                (慶明雜録)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1853年(嘉永6)江戸幕府第12代将軍徳川家慶の命日(新暦7月27日)詳細
1945年(昭和20)戦時緊急措置法」が公布される(本土決戦に備えて政府に委任立法権を規定)詳細
1965年(昭和40)日本と大韓民国との間で、「日韓基本条約」が調印される詳細
1972年(昭和47)自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)が制定・公布される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権返上し、大政奉還された日ですが、新暦では11月9日となります。
 大政奉還は、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出て、翌日朝廷がそれを許可した政治的事件です。
 公武合体派の前土佐藩主山内豊信の建白により、慶喜は、幕府有司に意見を聴き、13日に在京の40藩の重臣(諸侯)を二条城大広間に集めて意見を求め、翌14日に「大政奉還の上表文」を朝廷に出しました。
 しかし、大政奉還後に想定された諸侯会議が開催されない内に、討幕派による王政復古のクーデターが起き、慶喜の辞官納地を決定し、戊辰戦争へと向かうことになります。

〇大政奉還の上表文 (全文) 1867年11月9日(慶応3年10月14日)

大政奉還の上表文  

臣慶喜、謹而皇國時運之沿革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解キ相家權ヲ執リ、保平之亂政權武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百餘年子孫相承。臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑當ヲ失フコト不少。今日之形勢ニ至候モ、畢竟薄德之所致、不堪慚懼候、況ヤ當今、外國之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝權一途ニ出不申候而ハ、綱紀難立候間、從來之舊習ヲ改メ、政權ヲ朝廷ニ奉歸、廣ク天下之公議ヲ盡シ、聖斷ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ、必ス海外萬國ト可並立候。臣慶喜國家ニ所盡是ニ不過ト奉存候。乍去猶見込之儀モ有之候得ハ、可申聞旨、諸侯ヘ相達置候、依之此段謹而奏聞仕候。以上。

                      「維新史」より

<現代語訳>

大政奉還の上表

天皇の臣下である慶喜が、謹んで皇国の時運の変遷を考えてみますと、昔天皇の政治が乱れ藤原氏が権力を握り、保元・平治の乱を機に政権が武家に移ってから、私の祖先(徳川家康)に至りさらに朝廷の寵愛を受け、二百余年も子孫が将軍職を受け継いできました。そして私がその職を継いだのですが、行政や司法において当を得ないことが少なくないのです。今日の形勢になりましたのも、結局は私の不徳の致すところで、恥じ入り恐れるばかりです。まして最近は、外国との交際が日々盛んになり、いよいよ朝廷に権力が統一されなければ、国家を治めて保持することが難しくなりましたから、従来の旧習を改め、政権を朝廷にお返しし、広く天下の議論をつくし、天皇のご英断を仰ぎ、心を一つにして協力し、皇国を守っていったならば、必ず海外諸国と肩を並べることができるでしょう。天皇の臣下である慶喜が国家につくすことはこれ以上のものはないと考えます。しかしながらなお今後どうすべきかの意見があったならば、聞くので申し述べよと、諸大名に伝えてあります。これを以て本件につき謹んで申し上げます。以上

【注釈】
[1]臣慶喜:しんよしのぶ=江戸幕府第15代将軍徳川慶喜の自称。
[2]皇國:こうこく=天皇の国、つまり日本を表す。
[3]王綱:おうこう=天皇の政治。
[4]紐ヲ解キ:ちゅうをとき=乱れること。
[5]相家:しょうか= 大臣家(藤原氏)。
[6]權ヲ執リ:けんをとり=権力を握ること。
[7]保平之亂:ほへいのらん=保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)。
[8]武門:ぶもん=武士の家筋。武家。
[9]祖宗:そそう=徳川氏の祖先(初代将軍徳川家康のこと)。
[10]寵眷:ちょうけん=寵愛して特別に目をかけること。寵愛を受けること。
[11]政刑:せいけい=政治と刑罰、つまり行政と司法のこと。
[12]畢竟:ひっきょう=結局。要するに。
[13]薄德:はくとく=徳の少ないこと。徳のうすいこと。
[14]慚懼:ざんく=恥じ、おそれること。
[15]朝權:ちょうけん=朝廷の権力。
[16]綱紀:こうき=国家を治める大法と細則。国家を治めること。
[17]聖斷:せいだん=天皇の裁断。
[18]同心協力:どうしんきょうりょく=心を一つにして協力すること。
[19]萬國:ばんこく=世界の国々。あらゆる国。
[20]見込之儀:みこみのぎ=どのようにすべきかの意見。
[21]可申聞旨:もうしきくべきむね=申し述べるように。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ