ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大山郁夫

chyuuoukouron01
 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、雑誌「反省雑誌」を「中央公論」と改題して発足した日です。
 「中央公論」(ちゅうおうこうろん)は、明治時代からの歴史を持つ、中央公論新社(旧中央公論社)発行の総合雑誌でした。明治時代前期の1886年(明治19)4月6日に、反省会が京都西本願寺普通教校内に結成されて創業し、1887年(明治20)8月に機関誌「反省会雑誌」(後に「反省雑誌」と改題)を創刊、1899年(明治32)1月15日に、「中央公論」と改題されて発足し、その後宗門から独立します。
 1904年(明治37)に、滝田樗陰(ちょいん)が編集者となり、自由主義的な代表的総合誌として発展、明治時代末には、雑誌「太陽」と並び称せられるようになりました。また、1905年(明治38)に、200号記念号を発刊し、夏目漱石の『薤露行』、幸田露伴の『付焼刃』、泉鏡花の『女客』等を掲載するなどして、文壇の登竜門ともされるようになります。
 1912年(大正元)に、滝田樗陰が中央公論主幹となり、1914年(大正3)には、社名を中央公論社と改め、1916年(大正5)には、「婦人公論」も創刊されました。時事評論では、吉野作造や大山郁夫らを重用して、大正デモクラシー運動の指導誌となります。
 昭和時代になると、1928年(昭和3)に嶋中雄作が社長に就任、「改造」と並ぶ総合雑誌の双璧として、自由主義的、反軍国主義的方針を貫こうとしたものの、昭和10年代にはしばしば言論弾圧を受けるようになりました。太平洋戦争下の1944年(昭和19)の横浜事件を契機に解散させられ、雑誌の発行も絶たれます。
 戦後ただちに会社として再建され、1946年(昭和21)に復刊、1949年(昭和24)に社長嶋中雄作が亡くなると次男鵬二(ほうじ)が社業を継ぎました。1955年(昭和30)に「改造」の廃刊後は、「世界」と共に総合雑誌界を2分するようになります。
 広津和郎「松川裁判」の長期連載など、数々の話題作を掲載しましたが、1960年(昭和35)12月号の深沢七郎「風流夢譚」がきっかけにして、右翼の攻撃を受け、社長宅が襲われ嶋中夫人が負傷、家政婦が死亡するテロ事件(風流夢譚事件)に発展、社会に大きな衝撃を与えました。その後、雑誌のほか各種の図書、全集類(『日本の文学』『日本の歴史』等)、「中公新書」「中公文庫」などを刊行し、業績を拡大したものの、1997年(平成9)に鵬二社長が死去、経営危機が表面化します。
 その後、1999年(平成11)に読売新聞社に譲渡され、読売の100%子会社である中央公論新社に出版活動が引き継がれました。

〇「中央公論」関係略年表

・1886年(明治19)4月6日 「反省会」が京都西本願寺普通教校内に結成され、創業する
・1887年(明治20)8月 『中央公論』の前身『反省会雑誌』を創刊。
・1892年(明治25)5月 『反省会雑誌』を『反省雑誌』と改題する
・1896年(明治29)12月 社屋を京都から東京市本郷区駒込西片町へ移転する
・1899年(明治32)1月15日 『反省雑誌』を『中央公論』と改題する
・1904年(明治37)1月 麻田駒之助が『中央公論』の編集と反省社の経営にあたる。(初代社長就任)
・1905年(明治38)11月 『中央公論』200号記念号を発刊、夏目漱石の『薤露行』、幸田露伴の『付焼刃』、泉鏡花の『女客』などを掲載する
・1912年(大正元)9月 滝田樗陰が中央公論主幹となる
・1914年(大正3)1月 社名を「中央公論社」と改める
・1916年(大正5)1月 『婦人公論』を創刊、嶋中雄作が主幹となる
・1923年(大正12)4月 新築された丸ビルに事務所を移転する
・1928年(昭和3)8月1日 嶋中雄作が社長に就任する
・1929年(昭和4)10月 中央公論社出版部の第一作としてルマルク著、秦豊吉訳『西部戦線異状なし』を刊行する
・1935年(昭和10)10月 中央公論社創業50周年記念祝賀会が挙行される
・1944年(昭和19)7月 中央公論社と改造社が陸軍情報局に招致され自発的廃業を勧告され、『中央公論』が休刊、会社を7月31日限りで解散する
・1945年(昭和20)10月29日 社業再発足の集いが行われる
・1946年(昭和21)1月 『中央公論』戦後再建第1号が発行される
・1949年(昭和24)1月17日 嶋中雄作社長が急逝、22日に嶋中鵬二が社長に就任する
・1954年(昭和29)10月 『折口信夫全集』(全31巻別巻1巻)刊行を開始する
・1955年(昭和30)10月 創業70周年記念出版として限定愛蔵本『潤一郎新訳源氏物語』(全5巻)を刊行する
・1956年(昭和31)11月 京橋に社屋を建築し、丸ビルから移転する
・1960年(昭和35)11月 創業75周年記念出版として全集『世界の歴史』(全16巻別巻1巻)の刊行を開始する
・1961年(昭和36)2月 「風流夢譚」事件。掲載小説に憤慨した右翼少年が嶋中社長宅に押し入り、お手伝いの女性を殺害、雅子夫人も重傷を負う
・1962年(昭和37)11月 「中公新書」の刊行を開始する
・1963年(昭和38)2月 全集『世界の文学』(全54巻)の刊行を開始する
・1964年(昭和39)2月 創業80周年記念出版として全集『日本の文学』(全80巻)の刊行を開始する
・1965年(昭和40)2月 創業80周年記念出版として全集『日本の歴史』(全26巻別巻5巻)の刊行を開始する
・1966年(昭和41)2月 全集『世界の名著』(全66巻)の刊行を開始する
・1967年(昭和42)1月 「中公叢書」の刊行を開始する
・1969年(昭和44)6月 全集『日本の名著』(全50巻)の刊行を開始する
・1973年(昭和48)6月 「中公文庫」の刊行を開始する
・1982年(昭和57)11月 「C★NOVELS」の刊行を開始する
・1985年(昭和60)11月 創業100周年記念出版として全集『日本の古代』(全15巻別巻1巻)の刊行を開始する
・1989年(平成元)3月 『TUGUMI(つぐみ)』(吉本ばなな著)を刊行、172万部のミリオンセラーとなる
・1996年(平成8)11月 創業111周年記念出版全集『世界の歴史』(全30巻)の刊行を開始する
・1997年(平成9)4月3日 嶋中鵬二社長が亡くなる
・1999年(平成11)2月1日 読売新聞社に譲渡され、読売の100%子会社である中央公論新社として再スタートを切る
・2000年(平成12)2月 社屋改築のため「ぬ利彦ビル」に一時移転する
・2001年(平成13)3月25日 「中公新書ラクレ」の刊行を開始する
・2002年(平成14)2月 全集『日本の中世』(全12巻)の刊行を開始する
・2002年(平成14)3月 京橋新社屋完成、4月から業務開始する
・2007年(平成19)4月 全集『哲学の歴史』(全12巻)の刊行を開始する
・2015年(平成27)7日 社屋を東京都千代田区大手町へ移転する
・2015年(平成27)5月 『谷崎潤一郎全集』(全26巻)の刊行を開始する
・2016年(平成2)10月 全集『西洋美術の歴史』(全8巻)の刊行を開始する
・2019年(令和元)4月1日 WEBメディア「婦人公論.jp」が配信開始される
・2020年(令和2)1月0日 中公叢書と統合し、中公選書が新装刊される
・2021年(令和3)4月14日 『52ヘルツのクジラたち』(町田そのこ著)が第18回本屋大賞を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)坂下門外の変が起きる(新暦2月13日)詳細
1872年(明治5)彫刻家平櫛田中の誕生日(新暦2月23日)詳細
1936年(昭和11)日本がロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する詳細
1940年(昭和15)静岡大火が起こり、5,275戸を焼失、死者1名、負傷者788名を出す詳細
1974年(昭和49)長崎県の端島炭鉱(軍艦島)が閉山する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ooyamaikuo01

 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、社会運動家・政治学者大山郁夫の亡くなった日です。
 大山郁夫(おおやま いくお)は、1880年(明治13)9月20日に兵庫県赤穂郡若狭野村(現在の相生市)の医者・福本剛策の次男として生まれました。1897年(明治30)、17歳の時に神戸の大山晨一郎の養子となり大山姓となります。
 1905年(明治38)に早稲田大学政治経済学科を首席で卒業し、翌年に早稲田大学講師となり、1910年(明治43)よりアメリカとドイツに4年ほど留学しました。帰国後、1915年(大正4)に早稲田大学教授(政治学)となりましたが、1917年(大正6)の早稲田騒動で大学を去り、朝日新聞大阪本社論説委員となります。
 しかし、翌年の米騒動をめぐる朝日の筆禍事件(白虹事件)を機に辞職し、吉野作造、福田徳三らの黎明会に参加、1919年(大正8)には長谷川如是閑、井口孝親らと我等社をつくって、雑誌『我等』を創刊しました。1921年(大正10)に早稲田大学教授に復帰、民人同盟会、文化会など学生団体を指導、1923年(大正12)には階級闘争説による『政治の社会的基礎』を出版、政治学に新しい分野を開いて注目されます。
 翌年に青野季吉、鈴木茂三郎、黒田寿男らと政治研究会を創立、1926年(大正15)に結成された無産政党・労働農民党に入党し、翌年には委員長に就任しました。「大山事件」で早稲田大学を辞任後、1928年(昭和3)の第16回衆議院議員総選挙に労働農民党から立候補しましたが、官憲の激しい選挙干渉で落選 その後結社禁止処分となります。
 1929年(昭和4)には新労農党を結成し委員長に就任、翌年の総選挙で同党より立候補し東京第5区から当選しました。1932年(昭和7)に夫人を伴い横浜港からひっそりアメリカへ渡り、翌年にノースウェスタン大学政治学部研究嘱託となります。
 太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本へ帰国、翌年に早稲田大学教授に復帰、1950年(昭和25)の参院選に日本社会党・日本共産党等構成の全京都民主戦線統一会議の支援を得て当選、平和を守る会会長ともなりました。1951年(昭和26)に早稲田大学教授を定年退職しましたが、世界平和評議会理事となり、平和運動に艇身し、スターリン国際平和賞を受賞したものの、1955年(昭和30)11月30日に、東京において、76歳で亡くなっています。

〇大山郁夫の主要な著作

・『政治の社会的基礎』(1923年)
・『現代日本の政治過程』(1925年)

☆大山郁夫関係略年表

・1880年(明治13)9月20日 兵庫県赤穂郡若狭野村(現在の相生市)の医者・福本剛策の次男として生まれる
・1897年(明治30) 17歳の時に神戸の大山晨一郎の養子となり大山姓となる
・1901年(明治34) 東京専門学校に入学する(在学中に早稲田大学政治経済学部に改組される)
・1905年(明治38) 早稲田大学政治経済学科を首席で卒業する
・1906年(明治39) 早稲田大学講師となる
・1910年(明治43) アメリカのシカゴ大学へ留学する
・1912年(明治45) ドイツのミュンヘン大学へ留学する
・1914年(大正3) 帰国する
・1915年(大正4) 早稲田大学教授(政治学)となる
・1917年(大正6) 早稲田騒動で大学を去り、朝日新聞大阪本社論説委員となる
・1918年(大正7) 米騒動をめぐる朝日の筆禍事件(白虹事件)を機に辞職する
・1918年(大正7)12月23日 吉野作造、福田徳三らの黎明会に参加する
・1919年(大正8)2月 長谷川如是閑、井口孝親らと我等社をつくって、雑誌『我等』を創刊する
・1921年(大正10) 早稲田大学教授に復帰する
・1923年(大正12) 軍事研究団反対運動への参加を契機に、早大内で大学の自由と自治擁護運動の中心となる
・1923年(大正12) 階級闘争説による『政治の社会的基礎』を出版、政治学に新しい分野を開いて注目される
・1924年(大正13)6月28日 嶋中雄三、青野季吉、鈴木茂三郎、黒田寿男、高橋亀吉らと政治研究会を創立する
・1924年(大正13) 学生研究会である社会科学研究会の会長に就任し、学生たちの指導にあたる
・1926年(大正15)3月 結成された無産政党・労働農民党に入党する
・1926年(大正15)12月 労働農民党の委員長に就任する
・1927年(昭和2) 「大山事件」で早稲田大学を辞任する
・1928年(昭和3)2月 第16回衆議院議員総選挙に労働農民党から立候補するが、官憲の激しい選挙干渉で落選する
・1928年(昭和3)4月 労働農民党が結社禁止処分となり解散させられる
・1929年(昭和4)11月 新労農党を結成し委員長に就任する
・1930年(昭和4) 総選挙で新労農党より立候補し東京第5区から当選する
・1932年(昭和7)3月 夫人を伴い横浜港からひっそりアメリカへ渡り、
・1933年(昭和8) ノースウェスタン大学政治学部研究嘱託となる、
・1947年(昭和22)10月 日本へ帰国する
・1948年(昭和23)4月 早稲田大学教授に復帰する
・1950年(昭和25)6月 参院選に日本社会党・日本共産党等構成の全京都民主戦線統一会議の支援を得て当選する
・1950年(昭和25) 平和を守る会会長となる
・1951年(昭和26)4月 早稲田大学教授を定年退職する
・1951年(昭和26) 世界平和評議会理事となる
・1951年(昭和26)12月 スターリン国際平和賞を受賞する
・1955年(昭和30)11月30日 硬膜下血腫のため76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)公家・歌人藤原俊成の命日(新暦12月22日)詳細
1945年(昭和20)ララ物資」第一便としてミルク・衣類など450トンが横浜港に到着する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ