ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大坂

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 今日は、江戸時代中期の1730年(享保15)に、大坂の堂島米会所の設置が江戸幕府より公式に認可された日ですが、新暦では9月24日となります。
 堂島米会所(どうじまこめかいしょ)は、江戸時代中期の1730年(享保15)に設置された、大坂の堂島米市場の監督事務機関です。1697年(元禄10)に、大坂にある堂島の中之島の新地が新しく開発され、それまで淀屋が淀屋橋南詰に作った米市場がその堂島に移転して、堂島の米市場が誕生しました。
 1721~22年(享保6~7)頃に、幕府は不正取引のかどで延売買を禁止しましたが、1722年(享保7)には、守られなかったので、1000石以内の延売買を許可、1724年(享保9)には、空米相場を認めたものの、3月の大火・妙知焼のために大阪の米取引はしばらくの間、休場となります。1730年(享保15年8月13日)に、江戸幕府公認の堂島米会所が誕生し、1731年(享保16)に初めて米仲買株441株を許可し、米方年行司を定め、1735年(享保20)には、351株を許可し、合計1313株となり、別に米方両替株50をも許しました。
 1842年(天保13)の天保の改革の一環として株仲間を解除することとなり、堂島市場組織も変わりましたが、1851年(嘉永4)には、株仲間が再興され、堂島は仲間人員の検査取締のため、再び鑑札を下付されます。1869年(明治2)に、明治新政府は堂島米会所を廃止し、堂島周辺の諸藩の大名蔵屋敷も没収したものの、1871年(明治4)には、再び復活しました。
 1873年(明治6)に、堂島米会所は油取引を加えて「堂島米油会所」となりましたが、1876年(明治9)には、油取引を分離して「堂島米商会所」となっています。1893年(明治26年)9月9日に、「取引所法」による株式会社組織の米穀取引所「大阪堂島米穀取引所」へと組織変更しました。
 1918年(大正7)に、米価の高騰とその過剰投機により米騒動が引き起こされましたが、1939年(昭和14)には、「米穀配給統制法」による日本米穀株式会社に吸収されて幕を閉じています。

〇堂島米会所関係略年表(日付は旧暦です)

・1697年(元禄10年) 大坂にある堂島の中之島の新地が新しく開発され、それまで淀屋が淀屋橋南詰に作った米市場がその堂島に移転して、堂島の米市場が誕生する
・1721~22年(享保6~7年)頃 幕府は不正取引のかどで延売買を禁止する
・1722年(享保7年12月) 守られなかったので、1000石以内の延売買を許可する
・1724年(享保9年2月) 空米相場を認める
・1724年(享保9年3月) 大阪を襲った大火・妙知焼のために大阪の米取引はしばらくの間、休場となる
・1730年(享保15年8月13日) 江戸幕府公認の堂島米会所が誕生する
・1731年(享保16年2月) 初めて米仲買株441株を許可し、米方年行司を定める
・1732年(享保17年4月) 米仲買株が521株となる
・1735年(享保20年7月) 351株を許可し、合計1313株となり、別に米方両替株50をも許す
・1842年(天保13年8月) 幕府は天保の改革の一環として株仲間を解除することとなり、堂島市場組織も変わる
・1851年(嘉永4年) 株仲間再興の結果、堂島は仲間人員の検査取締のため、再び鑑札を下付される
・1869年(明治2年) 江戸幕府が崩壊して、新たに誕生した明治政府は堂島米会所を廃止し、堂島周辺の諸藩の大名蔵屋敷も明治政府が没収する
・1871年(明治4年) 再び「堂島米会所」が新たに復活する
・1873年(明治6年) 堂島米会所は油取引を加えて「堂島米油会所」となる
・1876年(明治9年) 油取引を分離して「堂島米商会所」となる
・1893年(明治26年)9月9日 堂島米会所は取引所法による株式会社組織の米穀取引所「大阪堂島米穀取引所」へと組織変更する
・1918年(大正7年) 米価の高騰とその過剰投機により米騒動が引き起こされる
・1939年(昭和14年) 「米穀配給統制法」による日本米穀株式会社に吸収されて幕を閉じる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

842年(承和9)貴族・官僚・書家橘逸勢の命日(新暦9月24日)詳細
1716年(享保元)紀州藩主・徳川吉宗が江戸幕府8代将軍に就任し、享保の改革が始められることになる(新暦9月28日)詳細
1809年(文化6)幕末明治維新期の熊本藩士・思想家・政治家横井小楠の誕生日(新暦9月22日)詳細
1870年(明治3)日本5番目の洋式灯台である城ヶ島灯台が初点灯する(新暦9月8日)詳細
1928年(昭和3)箱根登山鉄道株式会社が設立される詳細
1952年(昭和27)日本が国際通貨基金(IMF)に加盟する詳細
日本が国際復興開発銀行(世界銀行)に加盟する詳細
1981年(昭和56)植物細胞学者桑田義備の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の享保5年に、紙屋治兵衛と紀伊国屋小春との心中をモデルに、近松門左衞門が『心中天網島』を脚色し、大坂・竹本座で、人形浄瑠璃として初演された日ですが、新暦では1721年1月3日となります。
 心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の世話物浄瑠璃で3巻から成っています。1720年(享保5年10月14日)に、大坂天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女小春が、恋と義理のために網島大長寺で、夜明けの鐘とともに心中をとげた当時の事件を脚色した世話物でした。
 同年12月6日に、大坂竹本座で人形浄瑠璃として初演となり、大きく成功し、近松世話物の最高傑作とされています。翌年からは、歌舞伎でも上演され、以後浄瑠璃・歌舞伎ともに影響しあって、近松半二ら合作「心中紙屋治兵衛」やその増補「天網島時雨炬燵(しぐれのこたつ)」などの改作物が生まれ、上演されました。
 その中で、治兵衛の女房おさんの頼みで、小春が泣く泣く縁を切ろうとする「河庄」の場が有名となっています。

〇近松門左衛門】(ちかまつ もんざえもん)とは?

 江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者です。江戸時代前期の1653年(承応2)に、越前国において、吉江藩士の父・杉森信義(のぶよし)の二男として生まれましたが、名は信盛(通称は平馬)と言いました。
 父が浪人となったため、15、16歳の頃に家族と共に京都に移り、堂上貴族の一条恵観、正親町公通らに仕えます。後に近江の近松寺に遊学し、近松の姓の由来になったともされてきました。
 京都の宇治加賀掾のもとで修業、1685年(貞享2)に竹本義太夫(筑後掾)のために『出世景清』を書いて名声を博し、以後二人の協力関係が始まったとされます。1693年(元禄6)から歌舞伎の坂田藤十郎に作品を提供、『傾城仏の原』(1699年)、『傾城壬生大念仏』(1702年)などの傑作を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きましたが、1709年(宝永6)の藤十郎没後は歌舞伎を離れました。
 一方、1703年(元禄16)に義太夫のために執筆した『曾根崎心中』で世話浄瑠璃を確立し、宝永2年(1705年)には竹本座座付作者となり、『冥途の飛脚』(1711年)を書きました。1714年(正徳4)に義太夫が没した後も、『国性爺合戦』(1715年)、『心中天の網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)などの代表作を書きます。時代物、世話物ともに優れ、従来の古浄瑠璃と一線を画した功績は大きかったのですが、1725年1月6日(享保9年11月22日)に、大坂において、数え年72歳で亡くなりました。
 後世には、井原西鶴、松尾芭蕉と並ぶ江戸文学界の巨頭とされるようになります。

<近松門左衛門の主要な作品>

・『出世景清』(1685年・大坂竹本座初演)
・『傾城阿波の鳴門』(1695年・京の早雲座初演)
・『傾城仏の原』(1699年・京の都万太夫座上演)
・『傾城壬生大念仏』(1702年・京の都万太夫座上演)
・『曾根崎心中』(1703年初演)
・『薩摩歌』(1704年・大坂竹本座初演?)
・『用明天王職人鑑』(1705年・大坂竹本座初演)
・『心中重井筒』(1707年・大坂竹本座初演)
・『丹波与作待夜の小室節』(1707年・大坂竹本座初演)
・『けいせい反魂香 (はんごんこう) 』(1708年・大坂竹本座初演)
・『心中刃は氷の朔日』(1709年・大坂竹本座初演)
・『心中万年草』(1710年・大坂竹本座初演)
・『堀川波鼓』(1711年以前・大坂竹本座初演)
・『冥途の飛脚』(1711年初演?)
・『長町女腹切』(1712年秋・大坂竹本座初演)
・『嫗山姥』(1712年・大坂竹本座初演)
・『阿波鳴門物』(1712年・大坂竹本座初演)
・『国性爺合戦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『大経師昔暦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『生玉心中』(1715年・大坂竹本座初演)
・『鑓の権三重帷子』(1717年・大坂竹本座初演)
・『山崎与次兵衛寿の門松』(1718年・大坂竹本座初演)
・『日本振袖始』(1718年・大坂竹本座初演)
・『博多小女郎波枕』(1718年・大坂竹本座初演)
・『平家女護島』(1719年・大坂竹本座初演)
・『双生隅田川』(1720年・大坂竹本座初演)
・『心中天の網島』(1720年・大坂竹本座初演)
・『女殺油地獄』(1721年・大坂竹本座初演)
・『信州川中島合戦』(1721年・大坂竹本座初演)
・『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』(1722年・大坂竹本座初演)
・『関八州繫馬』(1724年・大坂竹本座初演)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1887年(明治20) 幕末明治維新期の政治家・薩摩藩主忠義の父島津久光の命日 詳細
1890年(明治23) 第1回帝国議会で山形有朋の施政方針演説が行われる 詳細
1912年(大正元) 「朝日新聞」において、夏目漱石著の『行人』が連載開始される 詳細
1918年(大正7) 「大学令」が公布される 詳細
「(第2次)高等学校令」が公布される 詳細
1927年(昭和2) 政治雑誌「労農」が創刊される 詳細
1957年(昭和32) 「日ソ通商条約」が調印される 詳細
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 今日は、江戸時代後期の1849年(嘉永2)に、大坂に緒方洪庵が種痘を行う為の除痘館(種痘所)を開設した日ですが、新暦では12月21日となります。
 種痘所(しゅとうしょ)は、江戸時代後期において、天然痘の予防及び治療を目的に設立された医療機関でした。1849年(嘉永2年7月20日)に、長崎出島のオランダ商館医師オットー・モーニッケによって長崎に種痘所が開設されたのに始まります。
 同年8月に、長崎から佐賀藩領へ痘苗がもたらされ、佐賀藩では種痘事業を担当する引痘方が設けられ、同年9月に長崎の唐通詞頴川四郎八により痘苗が京都へ送られ、同年10月には、佐賀藩から江戸の佐賀藩邸にも送られ、痘苗が関西や関東へももたらされました。これにより、1849年(嘉永2年10月16日)に日野鼎哉により、京都に「除痘館」が開設され、同年11月7日に、緒方洪庵が京都へ赴き交渉の末に痘苗を入手し、日野、笠原良策、緒方らにより、大阪にも「除痘館」が作られます。さらに、1851年(嘉永4年10月)には、福井藩において、70名を超える藩医・町医・スタッフを組織した「除痘館」が開設されました。
 一方江戸では、1849年(嘉永2年3月15日)に、既得権益を守りたい漢方医らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れます。1857年(安政4年8月)に、大槻俊斎の家に伊東玄朴や戸塚静海ら蘭方医10人および斎藤源蔵が集まり、江戸幕府内の開明派であった川路聖謨を通して幕閣に働きかけ、ようやく、翌年1月に老中堀田正睦から種痘所の許可が下りました。そして、同年5月7日に、江戸市中の蘭医82名の醸金により、神田御玉ケ池に種痘所(お玉ヶ池種痘所)が設立されています。

〇緒方洪庵(おがた こうあん)とは?

 江戸時代後期に活躍した武士・医師・蘭学者です。1810年(文化7年7月14日)に、備中国足守(現在の岡山県岡山市)において、足守藩士佐伯瀬左衛門の三男として生まれましたが、幼名は田上之助といいました。1825年(文政8)に元服して田上惟章と名乗るようになり、父が大坂蔵屋敷留守居役になったため同行して大坂に出ます。翌年に中天游の私塾「思々斎塾」に入門、4年間蘭学を学び、1831年(天保2)には、江戸へ出て坪井信道に入門(3年間在塾)、さらに宇田川玄真にも学びました。1836年(天保7)に長崎へ遊学し、オランダ商館長ニーマンのもとで医学を学び、この頃から洪庵と号すようになります。1838年(天保9)に、大坂に帰って瓦町で医業を開業するとともに、蘭学塾「適塾(適々斎塾)」を始めました。名が知られるようになり、門弟も増えたので、1845年(弘化2)に、過書町の商家跡へ適塾を移転します。多くの人材が集い、門人は600名以上に及び、大鳥圭介、佐野常民、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内らを輩出しました。また、1849年(嘉永2)に、牛痘種痘法による切痘を始め、『虎狼痢治準』、『扶氏経験遺訓』、『病学通論』などの著訳書を出して、蘭学・医学の発展に貢献します。1862年(文久2)には、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕し、「法眼」にも叙せられました。しかし、1863年(文久3年6月11日)、江戸の役宅において突然喀血し、52歳で急逝します。

〇お玉ヶ池種痘所(おたまがいけしゅとうじょ)とは?

 伊東玄朴ら蘭方医83名の資金拠出により、神田お玉ヶ池松枝町の勘定奉行川路聖謨が拝領地において、江戸幕府の使用許可を得て設立された、「種痘」を組織的に実施するための施設です。1857年(安政4年8月)に、大槻俊斎の家に伊東玄朴や戸塚静海ら蘭方医10人および斎藤源蔵が集まり、江戸幕府内の開明派であった川路聖謨を通して幕閣に働きかけ、また種痘所の計画用地として川路の神田於玉ヶ池の屋敷の一角を借りることとしました。
 翌年1月に老中堀田正睦から許可が下り、伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・石井宗謙・大槻俊斎・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名の資金拠出により、同年5月7日に私的に開設されます。しかし、同年11月15日に、神田相生町からの出火により類焼してしまい、 伊東玄朴の家などで業務を継続することとなりました。
 1859年(安政6年9月)に種痘所を下谷和泉橋通りに新築移転、1860年(万延元年10月)には、幕府直轄の種痘所となり、翌年には、西洋医学所と改称し、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となります。その後、1869年(明治2)に大学東校、1872年(明治5年8月)に学制が布がれると第一大学区医学校、1874年(明治7年)には、東京医学校と改称され、発展していきました。
 1876年(明治9)に本郷に移転、1877年(明治10)には、東京開成学校と合併し東京大学となり、その医学部となって、現在に至っています。尚、お玉ヶ池種痘所跡地には、1961年(昭和36)に「お玉ヶ池種痘所記念碑」が建てられました。

☆種痘所関係略年表

・1849年(嘉永2年7月20日) 長崎出島のオランダ商館医師オットー・モーニッケによって長崎に種痘所が開設される
・1849年(嘉永2年8月) 長崎から佐賀藩領へ痘苗がもたらされ、佐賀藩では種痘事業を担当する引痘方が設けられる
・1849年(嘉永2年9月) 長崎の唐通詞頴川四郎八により痘苗が京都へ送られる
・1849年(嘉永2年10月) 佐賀藩から江戸の佐賀藩邸に痘苗が送られる
・1849年(嘉永2年10月16日) 日野鼎哉により、京都に「除痘館」が開設され、種痘が開始される
・1849年(嘉永2年11月7日) 緒方洪庵が京都へ赴き交渉の末に痘苗を入手し、日野、笠原良策、緒方らにより、大阪にも「除痘館」が作られる
・1851年(嘉永4年10月) 福井藩は70名を超える藩医・町医・スタッフを組織した「除痘館」を開設する
・1857年(安政4年8月) 大槻俊斎の家に伊東玄朴や戸塚静海ら蘭方医10人および斎藤源蔵が集まり、江戸幕府内の開明派であった川路聖謨を通して幕閣に働きかける
・1858年(安政5年1月) 老中堀田正睦から種痘所の許可が下りる
・1858年(安政5年5月7日) 江戸市中の蘭医82名の醸金により神田御玉ケ池に種痘所が設立される
・1858年(安政5年7月3日) 「蘭方医解禁令」が出される
・1858年(安政5年11月15日) お玉ケ池種痘所は、神田相生町からの出火により類焼したが、 伊東玄朴の家などで業務を継続する
・1859年(安政6年9月) お玉ケ池種痘所を下谷和泉橋通りに新築し移転する
・1860年(万延元年10月) 幕府直轄の種痘所となる
・1861年(文久元年10月) 種痘所を西洋医学所と改称し、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1336年(建武3)足利尊氏が室町幕府の基本的な政治方針「建武式目」を制定(新暦12月10日)詳細
1889年(明治22)劇作家・演出家・小説家・俳人久保田万太郎の誕生日詳細
1909年(明治42)映画監督・脚本家山中貞雄の誕生日詳細
1922年(大正11)学生連合会(社会科学研究会の連合組織)が結成される詳細
1944年(昭和19)小磯国昭内閣により、「老幼者妊婦等ノ疎開実施要綱」が閣議決定される詳細
1983年(昭和58)奈良県高市郡明日香村のキトラ古墳で玄武の壁画が発見される詳細
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