ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大名

furutaoribe01

 今日は、江戸時代前期の1615年(慶長20)に、武将・大名・茶人・織部流茶道の祖古田重然(織部)が豊臣方内通の罪に問われ自刃した日ですが、新暦では7月6日となります。
 古田重然(ふるた しげなり)は、1544年(天文13年)に、美濃国(現在の岐阜県)において、古田勘阿弥(重定)の子として生まれたとされますが、通称は左介と言いました。後に伯父・重安の養子となったといわれ、守護大名土岐氏に属していたものの、1567年(永禄9)の織田信長の美濃進駐時までに織田氏の家臣として仕えたとされます。
 1568年(永禄10)の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加、翌年には摂津茨木城主・中川清秀の妹・仙と結婚しました。1576年(天正4)に山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となり、1578年(天正6)には、織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立てます。
 1578年(天正6)に荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の中川清秀を織田方に引き戻すのに成功、1582年(天正10)頃から千利休と親交を始めて茶を学び、利休七哲の一人とされました。本能寺の変で信長死後は秀吉に仕え、山崎の戦いの前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたと言われ、翌年の伊勢亀山城の滝川一益攻め、続く賤ヶ岳の戦いで軍功をあげ、中川清秀戦死に際し、子の秀政の後見を委ねられます。
 1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いに出陣、翌年の紀州征伐、四国平定にも中川秀政と共に出陣しました。1585年(天正13)に、秀吉が関白になると、従五位下織部正に叙任され、京都西岡に3万5千石をを与えられ、中川秀政の後見を免ぜられます。
 1587年(天正15)の九州征伐に参加、1590年(天正18)の小田原征伐にも従い、1591年(天正19)に千利休が堺に蟄居を命ぜられたとき、これを細川三斎(忠興)と淀の舟本で見送りました。1592年(文禄元)の文禄の役には肥前(現在の佐賀県)名護屋に下りましたが、1598年(慶長3)の秀吉没後は徳川家康に仕えます。
 1600年(慶長5)の関ヶ原の合戦には徳川方(東軍)に属して活躍し、その恩賞として1万石の大名となりました。1603年(慶長8)から8年間、小堀遠州に茶の湯を伝授(慶長伝授)、1610年(慶長15)には、江戸城で将軍秀忠に茶の湯指南にあたります。
 大名茶を確立し織部流茶道の祖とされ、陶芸の面では織部陶の名を後世に伝えましたが、1615年(慶長20)の大坂夏の陣で、大坂方に通じたとされて罪に問われ、同年6月11日に、伏見木幡の屋敷において、数え年73歳で自刃しました。

〇古田重然(織部)関係略年表(日付は旧暦です)

・1544年(天文13年) 美濃国(現在の岐阜県)において、古田勘阿弥(重定)の子として生まれる
・1567年(永禄9年) 織田信長の美濃進駐時に織田氏の家臣として仕えたとされる
・1568年(永禄10年) 信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加する
・1569年(永禄11年) 摂津茨木城主・中川清秀の妹・仙と結婚する
・1576年(天正4年) 山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となる
・1578年(天正6年7月) 織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立てる
・1578年(天正6年11月) 荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の中川清秀を織田方に引き戻すのに成功する
・1582年(天正10年) 千利休と親交を始める
・1583年(天正11年1月) 伊勢亀山城の滝川一益を攻める
・1583年(天正11年4月) 賤ヶ岳の戦いで軍功をあげる
・1584年(天正12年) 小牧・長久手の戦いに出陣する
・1585年(天正13年) 紀州征伐、四国平定にも中川秀政と共に出陣する
・1585年(天正13年7月) 従五位下織部正に叙任され、京都西岡に3万5千石をを与えられる
・1585年(天正13年9月) 中川秀政の後見を免ぜられる
・1587年(天正15年) 九州征伐に参加する
・1590年(天正18年) 小田原征伐に従う
・1591年(天正19年2月) 千利休が堺に蟄居を命ぜられたとき、これを細川三斎(忠興)と淀の舟本で見送る
・1592年(文禄元年) 文禄の役には肥前(佐賀県)名護屋に下る
・1598年(慶長3年) 秀吉没後は徳川家康に仕える
・1600年(慶長5年9月) 関ヶ原の合戦には徳川方に属して活躍し、その恩賞として1万石の大名となる
・1603年(慶長8年) 以後8年間、小堀遠州に茶の湯を伝授する(慶長伝授)
・1610年(慶長15年) 江戸城で将軍秀忠に茶の湯指南にあたる
・1615年(慶長20年6月11日) 大坂夏の陣に大坂方に通じたとされて罪に問われ、伏見木幡の屋敷において、数え年73歳で自刃する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1951年(昭和26)産業教育振興法」が公布される詳細
1969年(昭和44)東京国立近代美術館」(現在の本館)が開館する詳細
1975年(昭和50)考古学者宮坂英弌の命日詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、安土桃山時代の1598年(慶長3)に、武将・大名・天下人豊臣秀吉が亡くなった日ですが、新暦では9月18日となります。
 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、1537年(天文6)に、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓で織田信秀の足軽だった父・木下弥右衛門、母・なか(天瑞院)の子として生まれましたが、幼名は日吉丸と言いました。7歳のときに父を亡くし、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚します。
 1551年(天文20)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出、行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲城主であった織田信長に小者として仕えました。1561年(永禄4)に浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗るようになります。
 清洲城普請、墨俣築城、京都警備などで活躍し、1570年(元亀元)の姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功を上げました。1573年(天正元)には、羽柴藤吉郎秀吉と名のり、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となって、近江長浜に築城します。
 1577年(天正5)に中国征伐の将として毛利氏と対戦しますが、1582年(天正10)に信長が明智光秀のために本能寺の変で横死すると、山崎の戦いで明智光秀を破り、次いで柴田勝家を倒して、信長の後継者としての地位を獲得しました。1583年(天正11)に大坂城を築城、四国・九州を征し、徳川家康を臣従させ、1590年(天正18)には小田原北条氏を滅ぼして天下統一を完成します。
 この間、1585年(天正13)に関白、翌年に太政大臣となり、豊臣の姓を賜りました。1591年(天正19)には関白を養子秀次に譲り太閤と称し、1592年(文禄元)と1597年(慶長2)の2度朝鮮に出兵しますが失敗します。
 貨幣統一、兵農分離、太閤検地、石高制等の施行によって幕藩体制の基礎をつくったとされますが、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城において、数え年63歳で亡くなりました。

〇豊臣秀吉関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年正月元日?) 尾張国愛知郡中村で織田信長の足軽木下弥右衛門の子として生まれる
・1543年(天文12年) 秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死する
・1551年(天文20年) 元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出する
・1554年(天文23年) 18歳のとき、尾張清洲の城主であった織田信長に小者として仕えた
・1561年(永禄4年) 弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗る
・1566年(永禄9年) 濃尾国境に位置する墨俣(岐阜県大垣市)に築城し、美濃攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられる
・1568年(永禄11年9月) 信長が足利義昭を擁して上洛すると、京都の奉行の一人として活動する
・1570年(元亀元年) 姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功をたてる
・1573年(天正元年7月) 木下を改め羽柴 藤吉郎秀吉と名のる
・1573年(天正元年8月) 浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆攻めで活躍する
・1575年(天正3年12月) 筑前守に任じられる
・1577年(天正5年) 播磨に出陣して姫路城に本拠を置く
・1582年(天正10年) 備中に出兵し、清水宗治の拠る高松城に迫って水攻めにする
・1582年(天正10年6月2日) 信長が明智光秀のために本能寺の変で横死する
・1582年(天正10年6月13日) 光秀を山崎の戦いで破る
・1582年(天正10年6月27日) 清須会議が行われる
・1583年(天正11年) 秀吉打倒を策する信長の三男信孝、滝川一益に対し、美濃・伊勢に出兵して攻める
・1583年(天正11年) 柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、越前に攻め入って北庄城の柴田氏を滅ぼす
・1583年(天正11年) 滝川一益を降して尾張・伊勢を支配下に入れる
・1584年(天正12年) 信雄・徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いをする
・1584年(天正12年11月) 従三位・権大納言となる
・1585年(天正13年) 信雄・家康に呼応して蜂起した紀伊根来・雑賀の一揆を討伐する
・1585年(天正13年) 四国征伐を行って長宗我部氏を降す
・1585年(天正13年3月) 正二位・内大臣となる
・1585年(天正13年) 徳川家康に対しては、実妹(旭姫)を嫁がせる
・1585年(天正13年7月) 近衛龍山の猶子として関白・従一位となる
・1586年(天正14年) 徳川家康を臣従させる
・1586年(天正14年12月) 太政大臣となり、豊臣の姓を賜る
・1587年(天正15年) 九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多・長崎を直轄化する
・1587年(天正15年) キリシタン禁令を発する
・1587年(天正15年9月13日) 聚楽第が完成する
・1587年(天正15年10月1日) 茶頭千利休の演出のもとで、庶民を集めて北野大茶湯を催す
・1588年(天正16年) 聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぐ
・1590年(天正18年) 小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、天下統一を成し遂げる
・1591年(天正19年) 側室淀殿との間にもうけた愛児鶴丸を喪う
・1591年(天正19年8月) 関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤と称する
・1591年(天正19年) 全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握する
・1592年(文禄元年) 関白秀次により人掃令が出され、全国の家数・人数の調査が行われる
・1592年(文禄元年) 諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋の本陣に赴き、総指揮にあたる(文禄の役)
・1593年(文禄2年) 側室淀殿に実子秀頼が生まれる
・1594年(文禄3年8月) 伏見城が完成し、秀吉が入城する 
・1595年(文禄4年7月) 秀次を謀反人として切腹せしめ、妻妾子女悉くを処刑する
・1597年(慶長2年) ふたたび朝鮮出兵となる(慶長の役)
・1598年(慶長3年) 醍醐の花見を行なう
・1598年(慶長3年8月5日) 五大老に幼い秀頼の将来のことを訴えた遺言状を認める
・1598年(慶長3年8月18日) 伏見城において、数え年63歳で亡くなる
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、江戸時代前期の1647年(正保4)に、武将、茶人、作庭家小堀政一(遠州)の亡くなった日ですが、新暦では3月12日となります。
 小堀政一は、一般には小堀遠州と呼ばれ、1579年(天正7)、近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)の武将小堀正次の長男として生まれ、幼名は作助でした。
 豊臣秀長の小姓を勤めた後、1595年(文禄4)に豊臣秀吉直参となって伏見に移り、そこで、古田織部に茶道を学ぶことになります。
 秀吉死後は、徳川家康に仕え、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは、父政次と共に軍功をあげ、備中松山藩1万2000石余に封ぜられました。1604年(慶長9)の父の死後、藩主となりましたが、1619年(元和5)に近江小室藩に移封されたのです。
 その前後に、作事奉行として手腕を発揮し、駿府城、名古屋城、仙洞御所、伏見城本丸、二条城などの建築、造園の造作にあたりました。1624年(寛永元)伏見奉行に任じられ、1647年(正保4)に、69歳で没するまで在職したのです。
 茶道は、小堀遠州流の祖として知られ、和歌・書・茶器鑑定にもすぐれ、作庭では、以下のものが有名です。

〇小堀遠州の作庭による主要な庭園

・二条城二之丸庭園(京都府京都市中京区)
・南禅寺方丈庭園(京都府京都市左京区)
・金地院庭園(京都府京都市左京区)
・大徳寺孤蓬庵庭園(京都府京都市北区)
・頼久寺庭園(岡山県高梁市)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ