ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:大伴家持

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 昭和時代前期、太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、大政翼賛会が「海ゆかば」を国歌につぐ国民の歌として各種会合に斉唱するよう通達した日です。
 「海ゆかば」(うみゆかば)は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、信時潔(のぶとききよし)が日本放送協会(NHK)の嘱託を受けて作曲した日本歌曲で、合唱曲として、NHKラジオで放送されました。歌詞は、『万葉集』巻十八の長歌「賀陸奥国出金詔書歌」(大伴家持作)の一節から採ったものです。
 国民の戦闘意欲高揚を意図して依頼された曲で、1942年(昭和17)12月15日には、大政翼賛会がこの歌を国歌「君が代」に次ぐ国民の歌として各種会合に斉唱するよう通達しました。また、NHKラジオ放送の戦果発表(大本営発表)や、部隊の玉砕を伝える際に冒頭に流されたことから、国民に広く知られることになります。
 戦時歌謡として強く意識されため、戦後は事実上の封印状態が続くこととなりました。

<歌詞>

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草(くさ)生(む)す屍
大君(おほきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
長閑(のど)には死なじ

<原歌>

陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持作)
葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大王(おほきみ)の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地(あめつち)の 神相(かみあい)うづなひ 皇御祖(すめろぎ)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 御食国(みをすぐに)は 栄えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして 武士(もののふ)の 八十伴(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいびと)も 女めの童児(わらはこ)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官つかさ 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立ことだてて 丈夫の 清きその名を 古いにしえよ 今の現をつつに 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君(おほきみ)に まつろふものと 言ひ継げる 言ことの官つかさぞ 梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩はき 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)のさきの聞けば貴み

〇大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。
 その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。
 さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

827年(天長5)空海が京都九条の教王護国寺(東寺)の東隣に綜芸種智院を創設する(新暦828年1月23日)詳細
1914年(大正3)方城炭鉱(福岡県)で爆発事故があり、死者・行方不明者671人を出す詳細
1937年(昭和12)第一次人民戦線事件で政府が労農派などの関係者446人を一斉逮捕する詳細
1945年(昭和20)GHQが「宗教指令(神道指令)」(SCAPIN-448)を指令する詳細
1988年(昭和63)俳人・随筆家・鉱山学者山口青邨の命日詳細
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 今日は、奈良時代の785年(延暦4年)に、貴族・歌人大伴家持の亡くなった日ですが、新暦では10月5日となります。
 大伴家持は、奈良時代の貴族・歌人(三十六歌仙の一人)で、718年(養老2)頃に、父大伴旅人、母丹比郎女の長男として生まれたとされています。
 少年時代の727年(神亀4)頃、父に伴われ大宰府で生活し、730年(天平2)に帰京しました。738年(天平10)には内舎人となっていて、恭仁京を称える歌や故安積親王を傷む挽歌を詠み、745年(天平17)に従五位下に叙せられ、翌年7月越中守として赴任して、751年(天平勝宝3)少納言となって帰京しています。
 その後、754年(天平勝宝6)に兵部少輔となり、この頃防人たちの歌を書き留め、さらに757年(天平勝宝9)には兵部大輔と昇進しましたが、大伴一族の命運にかかわる事件が続いて、758年(天平宝字2)因幡守に左降されました。
 以後12年間に渡って、地方官を転々とした生活を送り、ようやく770年(宝亀1)6月に民部少輔となり、10月には21年ぶりで正五位下に昇叙したのです。
 それからは、諸官を歴任して780年(宝亀11)参議に任ぜられて公卿に列したものの、政争に巻き込まれ紆余曲折を経て、783年(延暦2)には、中納言となりました。
 翌年には持節征東将軍に任ぜられて、蝦夷征討の責任者となりましたが、785年(延暦4年8月28日)に、68歳?で亡くなったのです。しかし、没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、首謀者とされて除名(806年(大同元)に復権)の上、子永主も隠岐に流されました。
 『万葉集』の編者の一人とも言われ、収載された歌が最も多く、長歌46、短歌425、旋頭歌1首、合計472首に上ります。

〇大伴家持の代表的な歌

・「雨晴れて清く照りたる此の月夜又更にして雲なたなびき」
・「立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬あぶみ漬かすも」
・「ふり放けて三日月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも
・「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」(百人一首)
・「うらうらに照れる春日に雲雀あがりこころ悲しも独りし思へば」
・「燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く」
・「春の野にあさる雉の妻恋ひに己があたりを人に知れつつ」
・「卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴きわたる」
・「妹が袖われ枕かむ河の瀬に霧たちわたれ小夜ふけぬとに」
・「沫雪の庭に降りしき寒き夜を手枕まかず一人かも寝む」
・「あしひきの山の木末の寄生とりて挿頭しつらくは千年寿くとぞ」
・「石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて小鷹狩だにせずや別れむ」
・「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟榜ぎ隠る見ゆ」
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