
1860年(万延元)に藩主毛利敬親の小姓役となり、藩主から聞多の名を賜りましたが、尊王攘夷運動に参加し、1862年(文久2)には、高杉晋作、伊藤博文らと品川のイギリス公使館を襲撃しました。1863年(文久3)に伊藤博文らとイギリスに渡航、開国の必要を悟り、1864年(元治元)には、下関砲撃事件を聞いて急遽帰国し、通訳として講和に参加します。
1866年(慶応2)に高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加、薩長連合による討幕策のため長崎に滞在し武器、外国船の購入などに携わりました。1868年(明治元)に新政府の成立に伴い、長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事するなどし、翌年には、大蔵省に移り造幣頭、民部大丞兼大蔵大丞、大阪府大参事心得を兼ね、造幣事業の進展に努力します。
1871年(明治4)に大蔵大輔に就任したものの、1873年(明治6)に、予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて、辞職しました。1875年(明治8)の大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰、江華島事件の特命副全権弁理大臣を務め、1876年(明治9)に「日朝修好条規」の調印に立ち合ったのち、欧州へ出張します。
1878年(明治11)に帰国して、参議兼工部卿となり、翌年には外務卿に転じました。1882年(明治15)に壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、1883年(明治16)には、鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張ります。
1884年(明治17)の「華族令」で伯爵となり、翌年には、内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣となりました。1887年(明治20)に本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため、交渉を中止し外務大臣を辞任、翌年の黒田内閣で農商務大臣となりましたが、山県有朋内閣成立とともに辞職しています。
1892年(明治25)の第2次伊藤内閣で内務大臣となったものの、1894年(明治27)には辞任し、朝鮮駐在特命全権大使を自ら望んで引き受け「朝鮮内政改革」に乗り出しました。1898年(明治31)の第3次伊藤内閣で大蔵大臣となり、地租増徴をねらったものの、失敗します。
財界、特に三井との関係が深く、1900年(明治33)制定の「三井家憲」において三井家終身顧問としての地位を明記されるなど、「三井の番頭」とも言われました。1907年(明治40)には侯爵ともなりましたが、1915年(大正4)9月1日に、静岡県興津町(現在の静岡市清水区)の別荘・長者荘において、数え年81歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1185年(文治元) | 源義經追討のため、「文治の勅許」により、諸国に守護・地頭を置くことを許可する(新暦12月21日) | 詳細 |
1872年(明治5) | 「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日) | 詳細 |
1878年(明治11) | 物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日 | 詳細 |
1883年(明治16) | 鹿鳴館が開館する | 詳細 |
1897年(明治30) | 小説家・随筆家宇野千代の誕生日 | 詳細 |