ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:外交官

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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、政治家・外交官小村寿太郎の亡くなった日です。
 小村寿太郎(こむら じゅたろう)は、江戸時代後期の1855年(安政2年9月16日)に、日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市)の藩士だった父・小村寛(寛平)と母・梅(梅子)の長男として生まれ、1861年(文久元)には、平部嶠南などが師範を務めた飫肥藩の藩校振徳堂で学ぶようになりました。成績優秀だったため、1869年(明治2)には、長崎に赴いて学び、1870年(明治3年)に上京すると翌年には藩貢進生として大学南校に学びます。
 1875年(明治8)に文部省第1回留学生に選ばれてハーバード大学に入学、1880年(明治13)に同校法科を卒業、帰国後に司法省に入りました。1882年(明治15)に大審院判事となり、1884年(明治17)に外務省権少書記官に転じ、1888年(明治21)には、外務省翻訳局長になります。
 1893年(明治26)に清国公使館1等書記官となり、翌年日清間の緊張が高まると強硬論を唱え、1895年(明治28)には、駐朝鮮弁理公使となりました。1896年(明治29)に日露で朝鮮内政を共同監督する「小村・ウェーバー協定」を成立させ、外務次官となります。
 1898年(明治31)に駐米公使、1900年(明治33)に駐露公使、1901年(明治34)に駐清国公使となり、全権として「北清事変議定書」に調印しました。同年に第1次桂内閣の外務大臣に就任、翌年には日英同盟を締結、1905年(明治38)には、首席全権大使として米国ポーツマス市で「日露講和条約」を結びます。
 1906年(明治39)に枢密顧問官、駐英大使となり、1908年(明治41)に第2次桂内閣の外務大臣に再任され、1910年(明治43)には、韓国併合を実施しました。1911年(明治44)に米英独仏と、幕末以来の不平等条約を改正し関税自主権を回復、侯爵となりましたが、同年8月に内閣交替で外相を辞め、11月26日には、神奈川県葉山において、病気のため56歳で亡くなっています。

〇小村寿太郎関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1855年(安政2年9月16日) 日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市)の藩士だった父・小村寛(寛平)と母・梅(梅子)の長男として生まれる
・1861年(文久元年) 平部嶠南などが師範を務めた飫肥藩の藩校振徳堂で学ぶようになる
・1869年(明治2年) 長崎に赴いて学ぶ
・1870年(明治3年) 上京する
・1871年(明治4年) 藩貢進生として大学南校に学ぶ
・1875年(明治8年) 文部省第1回留学生に選ばれてハーバード大学に入学する
・1880年(明治13年) ハーバード大学法科を卒業、帰国後に司法省に入る
・1881年(明治14年)9月 旧幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)と結婚する
・1882年(明治15年)9月 大審院判事となる
・1884年(明治17年) 外務省権少書記官に転じる
・1885年(明治18年) 外務省翻訳局に勤務する
・1886年(明治19年)3月 外務省翻訳局次長に昇任する
・1888年(明治21年) 外務省翻訳局長に昇任する
・1893年(明治26年) 清国公使館1等書記官となる
・1894年(明治27年) 日清間の緊張が高まると強硬論を唱える
・1895年(明治28年) 駐朝鮮弁理公使となる
・1896年(明治29年)5月 朝鮮公使として日露で朝鮮内政を共同監督する「小村・ウェーバー協定」を成立させる
・1896年(明治29年)6月 外務次官となる
・1898年(明治31年) 駐米公使となる
・1900年(明治33年) 駐露公使となる
・1901年(明治34年) 全権として「北清事変議定書」に調印する
・1901年(明治34年) 第1次桂内閣の外務大臣に就任する
・1902年(明治35年)1月30日 日英同盟を締結する
・1902年(明治35年)2月27日 男爵となる
・1905年(明治38年) 首席全権大使として米国ポーツマス市で「日露講和条約」を結ぶ
・1906年(明治39年) 枢密顧問官、駐英大使となる
・1906年(明治39年)4月1日 旭日桐花大綬章を受章する
・1907年(明治40年)9月21日 伯爵となる
・1908年(明治41年) 第2次桂内閣の外務大臣に再任される
・1910年(明治43年) 韓国併合を実施する
・1911年(明治44年) 米英独仏と、幕末以来の不平等条約を改正し関税自主権を回復する
・1911年(明治44年)4月21日 侯爵となる
・1911年(明治44年)8月 内閣交替で外相を辞める
・1911年(明治44年)11月26日 神奈川県葉山において、病気のため56歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細


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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、外交官杉原千畝の亡くなった日です。
 杉原千畝(すぎはら ちうね)は、明治時代後期の1900年〈明治33〉1月1日に、岐阜県加茂郡八百津町で、税務官吏だった父・杉原好水、母・やつの子として生まれました。父の仕事の関係で、岐阜県や三重県、愛知県の各地を転々とし、古渡尋常小学校を卒業後、1912年(明治45)に旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)に入学します。
 1918年(大正7)に早稲田大学高等師範部英語科(現在の早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学したものの、翌年に外務省留学生試験に合格、大学を中退して、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学びました。1920年(大正9)に朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に一年志願兵として入営後、1923年(大正12)には、満州里(領事館)へ転学命令を受けます。
 1924年(大正13)に外務省書記生として採用され、ハルビンで勤務、1926年(大正15)に報告書『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、外務省から高い評価を受けました。1932年(昭和7)に満洲国外交部事務官に転じ、1935年(昭和10)に退官後、1937年(昭和12)にフィンランドのヘルシンキ公使館に赴任します。
 1939年(昭和14)に、リトアニア・カウナス日本領事館領事代理となり、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人難民に対して、日本政府の命令に背いて、約6,500人分のビザを発給し続けました。1940年(昭和15)に在プラハ総領事館副領事に転任、1941年(昭和16)に在ルーマニア公使館一等通訳官、三等書記官を歴任します。
 戦争後の1945年(昭和20)に、ブカレストの捕虜収容所に収監され、1947年(昭和22)に日本への帰国が叶いました。しかし、1947年(昭和22)に訓令無視により外務省を辞めさせられ、職を転々とし、1960年(昭和35)には川上貿易のモスクワ駐在員となります。
 1978年(昭和53)に国際交易モスクワ支店を退職して日本に帰国、1980年(昭和55)に神奈川県鎌倉市・西鎌倉に転居しました。1985年(昭和60)にイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を贈られたものの、翌年7月31日に、神奈川県鎌倉市において、86歳で亡くなっています。
 その後、外交官時代のユダヤ人救済が高く評価され、1989年(平成元)にカレッジ・トゥ・ケア賞、1991年(平成3)に外務省により名誉回復、1991年(平成3)に長崎県被爆者手帳友の会平和賞、1996年(平成8)にポーランド政府功労勲章、1998年(平成10)にラウル・ワレンバーグ賞などの数々の栄誉に輝きました。また、故郷・八百津町に、1992年(平成4)、「人道の丘公園」がオープン、2000年(平成12)には、生誕100年を記念し、「杉原千畝記念館」が設立されています。

〇杉原千畝関係略年表

・1900年〈明治33〉1月1日に、岐阜県加茂郡八百津町で、税務官吏だった父・杉原好水、母・やつの子として生まれる
・1903年(明治36) 福井県丹生郡朝日村(現・福井県丹生郡越前町)へ転居する
・1904年(明治37) 三重県四日市市へ転居する
・1905年(明治38)10月25日 岐阜県恵那郡中津町(現・岐阜県中津川市)へ転居する
・1906年(明治39)4月2日 中津町立尋常小学校(現尋・岐阜県中津川市立南小学校)へ入学する
・1907年(明治40)3月31日 三重県桑名郡桑名町第一尋常小学校(現・桑名市立日進小学校)へ転校する
・1907年(明治40)12月 父が韓国統監府の聘用のため単身赴任する
・1909年(明治42)3月1日 愛知県から「操行善良学力優等」により表彰される
・1912年(明治45) 古渡尋常小学校を全甲の優秀な成績で卒業後、旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)に入学する
・1918年(大正7)4月 早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学する
・1919年(大正8)11月 早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ
・1920年(大正9)12月 朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年志願兵)する
・1922年(大正11)3月 朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊(一年志願兵)を去る
・1923年(大正12)3月 満州里(領事館)へ転学命令を受ける
・1924年(大正13) 外務省書記生として採用され、ハルビンで勤務する
・1926年(大正15) 報告書『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、外務省から高い評価を受ける
・1932年(昭和7) 満洲国外交部事務官に転じる
・1935年(昭和10) 満洲国外交部を退官する
・1937年(昭和12) フィンランドのヘルシンキ公使館に赴任する
・1939年(昭和14) カウナス日本領事館領事代理となり、本省命令を無視して、約6,500人のユダヤ人難民にビザを発給し続ける
・1940年(昭和15) 在プラハ総領事館副領事となる
・1941年(昭和16) 在ルーマニア公使館一等通訳官となる
・1943年(昭和18) 在ルーマニア公使館三等書記官となる
・1944年(昭和19) 勲五等瑞宝章を受章する
・1945年(昭和20) ブカレストの捕虜収容所に収監される
・1947年(昭和22)4月5日 日本へ帰国する
・1947年(昭和22)6月 訓令無視により外務省を辞めさせられる
・1960年(昭和35) 川上貿易のモスクワ駐在員となる
・1969年(昭和44) 蝶理へ勤務する
・1969年(昭和44) イスラエルに招待され、多くのユダヤ人の生命の恩人として勲章を授与される
・1971年(昭和46) 国際交易モスクワ事務所長となる
・1978年(昭和53) 国際交易モスクワ支店を退職して日本に帰国する
・1980年(昭和55) 神奈川県鎌倉市・西鎌倉に転居する
・1985年(昭和60) イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を贈られる
・1986年(昭和61)7月31日 神奈川県鎌倉市において、86歳で亡くなる
・1989年(平成元) カレッジ・トゥ・ケア賞が贈られる
・1991年(平成3) リトアニアの首都ビリニュスに「スギハラ通り」が誕生する
・1991年(平成3) 外務省により名誉回復される
・1991年(平成3) 長崎県被爆者手帳友の会平和賞が贈られる
・1992年(平成4) 故郷・八百津町に、「人道の丘公園」がオープンする
・1996年(平成8) ポーランド政府功労勲章が贈られる
・1998年(平成10) ラウル・ワレンバーグ賞が贈られる
・1998年(平成10) 肖像画がユダヤ人救済に功績のあった各国の外交官ら4人と共にイスラエルの切手の図柄となって発行される
・2000年(平成12) 生誕100年を記念し、故郷・八百津町に「杉原千畝記念館」が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)民俗学者柳田國男の誕生日詳細
1948年(昭和23)政令201号」により公務員の団体交渉権が厳しく制限され、争議権が否認される詳細
1952年(昭和27)警察予備隊を保安隊に改組するための「保安庁法」が制定公布される詳細


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 今日は、江戸時代後期の1844年(天保15)に、和歌山藩士・外交官・政治家・伯爵陸奥宗光の生まれた日ですが、新暦では8月20日となります。
 陸奥宗光(むつ むねみつ)は、紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市)で、和歌山藩士の父・伊達宗広の六男(母は政子)として生まれましたが、幼名は牛麿(うしまろ)と言いました。1852年(嘉永5)の8歳の時、父が藩内の政争に敗れて失脚し、一家が困窮、1858年(安政5)の15歳の時、江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されます。
 その後、水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などと交友を持ちました。1863年(文久3)に泊園書院(現在の関西大学)で学んだのちに勝海舟の神戸海軍操練所に坂本龍馬と共に入り、その閉鎖後は亀山社中、海援隊に加わります。
 1868年(慶応4)に岩倉具視の推挙により、外国事務局御用係となり、次いで会計官権判事に任ぜられて外国使臣との応接、外国軍艦の購入に活躍、翌年に大阪府知事後藤象二郎の下で働いて、摂津県知事、兵庫県知事となりました。1870年(明治3年)に渡欧後、神奈川県知事、外務大丞を経て、1872年(明治5)に租税権頭に任じられて地租改正を建議します。
 明治6年政変で、1874年(明治7年)に薩長藩閥に抗して辞任、翌年に元老院議官として復帰したものの、1877年(明治10)の西南戦争に呼応した土佐立志社の挙兵計画に加担、翌年には、林有造らと反政府挙兵を企図したとして拘引され、免官、禁獄5年とされました。1884年(明治17)に赦免され翌年に渡欧、イギリスやオーストリアなどで学び、1886年(明治19)には帰国して外務省に入ります。
 1888年(明治21)に駐米公使となり、メキシコとの間の最初の対等条約締結に成功、1890年(明治23)には、第1次山県内閣の農商務大臣となりました。1891年(明治24)に和歌山県から衆院議員に当選、1892年(明治25)には枢密顧問官となり、第2次伊藤内閣の外務大臣に就任します。
 1894年(明治27)に「日英通商航海条約」に調印して、治外法権の撤廃に成功、1894年(明治27)には子爵となりました。1895年(明治28)に伊藤首相とともに全権として、日清戦争の講和条約に調印、1895年(明治28)には、伯爵となり、旭日大綬章を受章します。
 その他、各国から勲章を授与されたり、当時の外交を語る『蹇蹇録』を著述したりしましたが、1896年(明治29)に持病の肺結核が進行し、外務大臣を辞任、翌年8月24日に東京において、数え年54歳で亡くなりました。

〇陸奥宗光関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1844年(天保15年7月7日) 紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市)で、和歌山藩士の父・伊達宗広の六男(母は政子)として生まれる
・1852年(嘉永5年) 8歳の時、父が藩内の政争に敗れて失脚する
・1858年(安政5年) 15歳の時、江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門される
・1863年(文久3年) 泊園書院(現在の関西大学)で学んだのちに勝海舟の神戸海軍操練所に坂本龍馬と共に入る
・1867年(慶応3年) 坂本龍馬の海援隊(前身は亀山社中)に加わる
・1868年(慶応4年) 岩倉具視の推挙により、外国事務局御用係となる
・1869年(明治2年) 大阪府知事後藤象二郎の下で働く
・1870年(明治3年) 渡欧する
・1872年(明治5年) 租税権頭に任じられて地租改正を建議する
・1872年(明治5年3月5日) 従五位となる
・1872年(明治5年10月5日) 正五位となる
・1874年(明治7年) 薩長藩閥に抗して辞任する
・1875年(明治8年) 元老院議官に復帰する
・1875年(明治8年)11月28日 従四位となる
・1877年(明治10年) 西南戦争に呼応した土佐立志社の挙兵計画に加担する
・1878年(明治11年) 林有造らと反政府挙兵を企図したとして拘引され、免官、禁獄5年となる
・1878年(明治11年)8月19日 - 位記被褫
・1884年(明治17年) 赦免される
・1885年(明治18年) 渡欧する
・1886年(明治19年) 帰国して外務省に入る
・1887年(明治20年)3月25日 従四位となる
・1888年(明治21年) 駐米公使となり、メキシコとの間の最初の対等条約締結に成功する
・1888年(明治21年)5月8日 勲三等を受章する
・1889年(明治22年)9月11日 勲二等瑞宝章を受章する
・1890年(明治23年) 第1次山県内閣の農商務相となる
・1890年(明治23年)3月27日 従三位となる
・1890年(明治23年)6月12日 従二位となる
・1891年(明治24年) 和歌山県から衆院議員に当選する
・1897年(明治30年)8月21日 正二位となる
・1890年(明治23年)10月21日 銀牌一個・七宝白鷺図花瓶一封を受ける
・1892年(明治25年) 枢密顧問官となり、第2次伊藤内閣の外相に就任する
・1893年(明治26年)10月30日 勲一等瑞宝章を受章する
・1894年(明治27年)3月7日 オスマン帝国:美治慈恵第一等勲章を受章する
・1894年(明治27年)7月 「日英通商航海条約」に調印して、治外法権の撤廃に成功する
・1894年(明治27年)8月8日 シャム王国:白象第一等勲章受章する
・1894年(明治27年)3月30日 フランス共和国:レジオンドンノール勲章グラントフィシエを受章する
・1894年(明治27年)8月29日 子爵となる
・1895年(明治28年) 伊藤首相とともに全権として日清戦争の講和条約に調印する
・1895年(明治28年)2月20日 バイエルン王国:グロースクロイツデスケーニヒリヘンフェルヂーンストヲルデンスフオムハイリゲンミハエル勲章を受章する
・1895年(明治28年)8月20日 伯爵・旭日大綬章を受章する
・1895年(明治28年)10月3日 セルビア王国:タコヴァ十字第一等勲章を受章する
・1896年(明治29年)3月17日 ロシア帝国:白鷲大綬章を受章する
・1896年(明治29年)5月 持病の肺結核が進行し、外務大臣を辞任する
・1896年(明治29年)10月26日 スペイン王国:シャルルトロワー第一等勲章を受章する
・1897年(明治30年)8月24日 東京において、数え年54歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年中行事七夕です詳細
1129年(大治4)白河天皇(第72代)の命日(新暦7月24日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府が大名統制の為「武家諸法度」(元和令)を発布する(新暦8月30日)詳細


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 今日は、江戸時代後期の1832年(天保3)に、蘭学者・政治家・外交官寺島宗則の生まれた日ですが、新暦では6月21日となります。
 寺島宗則(てらしま むねのり)は、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現在の阿久根市脇本字槝之浦)の郷士だった父・長野成宗の次男(母は秋野)として生まれましたが、幼名は徳太郎と言いました。1836年(天保7)の5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、1841年(天保12)の10歳より蘭語学習を始めます。
 1845年(弘化2)に松木家を継いで弘安と名乗り、翌年の15歳の時、藩命を受けて、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学びました。1855年(安政2)に中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講、翌年には、蕃書調所教授手伝となり、翌々年頃から英語を独学しはじめます。
 1858年(安政5)に横浜で貿易実務に関わり、翌年から本格的に英語を学びはじめ、1860年(万延元)には、幕府の蕃書調所教授となりました。1861年(文久元)に英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員に抜擢され、翌年には、幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わり、福沢論吉、箕作秋坪らと渡欧します。
 西洋諸国を視察、1863年(文久3)に帰国して鹿児島に戻り、御船奉行となったものの、同年の薩英戦争において、五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となりました。1865年(慶応元)に薩摩藩遣英使節団に参加し、再び欧州を訪れ、翌年に寺島姓に改名、1867年(慶応3)には、全国の土地と人民を朝廷に返還するよう求める版籍奉還の建白書を藩主の島津忠義に提出します。
 1868年(明治元)に明治新政府の参与外国事務掛を命ぜられ、スペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わり、翌年には神奈川県知事として、京浜間に最初の電信事業を開業させ、外務大輔となりました。1872年(明治5)に初代の在イギリス日本公使、翌年には、参議兼外務卿となって、1875年(明治8)の「樺太・千島交換条約」の締結に携わります。
 1878年(明治11)に関税自主権の回復に関する日米約書の調印に成功したものの、英独の反対で条約は無効となり、翌年には外務卿を辞職しました。その後文部卿、法制局長、元老院議長、駐米公使などを歴任し、晩年は宮中顧問官、枢密顧問官、枢密院副議長などを勤めます。
 その中で、1884年(明治17)に伯爵、1887年(明治20)には、正三位ともなりましたが、1893年(明治26年)6月6日 東京において、62歳で亡くなりました。

〇寺島宗則関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1832年(天保3年5月23日) 薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現在の阿久根市脇本字槝之浦)の郷士・長野成宗の次男として生まれる
・1836年(天保7年) 5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となる
・1841年(天保12年) 10歳より蘭語学習を始める
・1845年(弘化2年) 松木家を継いで弘安と名乗る
・1846年(弘化3年) 15歳の時、藩命を受けて、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学ぶ
・1855年(安政2年) 中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する
・1856年(安政3年) 蕃書調所教授手伝となる
・1857年(安政4年) 薩摩藩主島津斉彬の要請で帰藩、製鉄、造船、ガス、写真、電信などの藩近代化事業に携わる
・1857年(安政4年) 英語を独学しはじめる
・1858年(安政5年) 横浜で貿易実務に関わる
・1859年(安政6年) 本格的に英語を学びはじめる
・1860年(万延元年) 幕府の蕃書調所教授となる
・1861年(文久元年) 英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員に抜擢される
・1862年(文久2年) 幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わる
・1863年(文久3年) 帰国して鹿児島に戻り、御船奉行となる
・1863年(文久3年) 薩英戦争において、五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となる
・1865年(慶応元年) 薩摩藩遣英使節団に参加し、再び欧州を訪れる
・1866年(慶応2年) 寺島姓に改名し、当初陶蔵と称する
・1867年(慶応3年11月) 全国の土地と人民を朝廷に返還するよう求める版籍奉還の建白書を藩主の島津忠義に提出する
・1868年(明治元年) 新政府の参与外国事務掛を命ぜられる
・1868年(明治元年) スペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わる
・1869年(明治2年) 神奈川県知事として、京浜間に最初の電信事業を開業させる
・1869年(明治2年) 外務大輔となる
・1871年(明治4年) ハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権を任される
・1872年(明治5年) 初代の在イギリス日本公使となる
・1873年(明治6年) 参議兼外務卿となる
・1875年(明治8年)5月7日 「樺太・千島交換条約」の締結に至る
・1878年(明治11年) 関税自主権の回復に関する日米約書の調印に成功したが、英独の反対で条約は無効となる
・1879年(明治12年) 外務卿を辞職する
・1882年(明治15年) アメリカ駐在公使となる
・1884年(明治17年) 宮内省出仕に補せられる
・1884年(明治17年)7月7日 伯爵となる
・1885年(明治18年) 宮中顧問官となる
・1885年(明治18年) 東京学士会院会員となる
・1886年(明治19年) 枢密顧問官となる
・1886年(明治19年)10月20日 従三位となる
・1887年(明治20年)4月12日 正三位となる
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1891年(明治24年) 枢密院副議長となる
・1893年(明治26年)6月6日 東京において、62歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

811年(弘仁2)武将・征夷大将軍坂上田村麻呂の命日(新暦6月17日)詳細
1948年(昭和23)憲法学者美濃部達吉の命日詳細
1981年(昭和56)編集者・児童文学者・評論家・翻訳家吉野源三郎の命日詳細


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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、幕臣・外交官・政治家榎本武揚の亡くなった日です。
 榎本武揚(えのもと たけあき)は、1836年〈天保7年8月25日〉に、江戸下谷(現在の東京都台東区)において、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれましたが、通称は釜次郎と言いました。12歳で昌平坂学問所に入り、のち中浜万次郎塾に学び、1854年(安政元)には箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従っています。
 1856年(安政3)に長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学びました。1858年(安政5)に江戸の築地軍艦操練所教授となり、1862年(文久2)からオランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学び、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を習得します。
 1866年(慶応2)に、幕府注文の開陽丸を回送して帰国し、同艦船将、軍艦頭並などを歴任、1868年(慶応4)には海軍副総裁となりました。同年の戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否して、幕府艦隊を率いて北海道に上陸します。
 箱館五稜郭にたてこもり官軍に抵抗(箱館戦争)し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しますが、翌年5月に降伏し、投獄されました。1872年(明治5)特赦を受けて出獄し、まもなく黒田清隆の下で、開拓使において北海道の資源調査に従事します。
 1874年(明治7)に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在、翌年には「樺太・千島交換条約」を締結しました。1880年(明治13)に海軍卿、1882年(明治15)には駐清特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力します。
 1885年(明治18)の帰国以後、同年に逓信大臣に就任、子爵ともなりました。その後、1888年(明治21)に農商務大臣、1889年(明治22)に文部大臣、1891年(明治24)に外務大臣、1894年(明治27)に農商務大臣を歴任します。
 一方、東京地学協会や電気学会を設立、殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったり、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)などを創設しました。旧幕臣の中では、明治政府で異例の高い地位を占め、多方面で活躍しましたが、1908年(明治41)10月26日に、東京において、数え年73歳で亡くなっています。

〇榎本武揚関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1836年〈天保7年8月25日〉 江戸下谷(現在の東京都台東区)で、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれる
・1847年(弘化4年) 12歳で昌平坂学問所に入る
・1854年(安政元年) 箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従う
・1856年(安政3年) 長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学ぶ
・1858年(安政5年) 江戸の築地軍艦操練所教授となる
・1862年(文久2年) オランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学ぶ
・1866年(慶応2年) 幕府注文の開陽丸を回送して帰国、同艦の船将となる
・1868年(慶応4年1月) 海軍副総裁となる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否する
・1868年(慶応4年10月20日) 幕府艦隊を率いて北海道に上陸する
・1868年(慶応4年11月1日) 箱館五稜郭へ入城する
・1868年(慶応4年12月10日) 蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙によって総裁に選ばれる
・1869年(明治2年5月18日) 官軍に降伏する
・1869年(明治2年6月30日) 東京の監獄に投獄される
・1872年(明治5年1月6日) 特赦を受けて出獄する、
・1872年(明治5年6月) 黒田清隆の下で、開拓使に登用されて北海道の資源調査に従事する
・1874年(明治7年) 海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在する
・1875年(明治8年)5月7日 ロシアのペテルブルグで「樺太・千島交換条約」を締結する
・1879年(明治12年) 地学協会の創立を唱えて副会長となる
・1880年(明治13年)2月28日 海軍卿となる
・1882年(明治15年)8月12日 駐清特命全権公使となる
・1884年(明治17年) 李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力する
・1885年(明治18年) 伊庭想太郎らと旧幕臣の子弟に対する奨学金支給のため徳川育英会を設立する
・1885年(明治18年)10月 清国から帰国する、
・1885年(明治18年)12月22日 逓信大臣に就任する
・1887年(明治20年)5月24日 子爵となる
・1888年(明治21年)4月30日 農商務大臣となる
・1888年(明治21年) 電気学会を設立、初代会長となる
・1889年(明治22年)2月11日 大日本帝国憲法発布式で儀典掛長を務める
・1889年(明治22年)3月22日 文部大臣となる
・1890年(明治23年)5月22日 枢密顧問官となる
・1891年(明治24年)3月6日 東京・飯田橋に「育英黌」を設立し管理長に就任する
・1891年(明治24年)5月29日 外務大臣となる
・1893年(明治26年) 殖民協会を設立し会長となる
・1893年(明治26年) 育英黌分黌農業科を私立東京農学校と改称し、校主となる
・1894年(明治27年)1月22日 農商務大臣となる
・1897年(明治30年)3月29日 足尾鉱毒事件で農商務大臣を引責辞任する
・1898年(明治31年) 工業化学会の初代会長となる
・1905年(明治38年)10月19日 海軍中将を退役となる
・1908年(明治41年)10月26日 東京において、数え年73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
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