
木下順二(きのした じゅんじ)は、大正時代の1914年(大正3)8月2日に、東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれましたが、第二女子師範附属小学校を経て郷里熊本市に戻りました。旧制熊本中学(現在の県立熊本高等学校)、旧制第五高等学校を経て、1936年(昭和11)に東京帝国大学文学部英文科に入学します。
中野好夫のもとでシェイクスピアを専攻し、1939年(昭和14)に卒業後、大学院へ進み、法政大学講師となり、1941年(昭和16)には、修士課程を修了しました。1943年(昭和18)には、民話を素材に、『鶴女房』『二十二夜待ち』『彦市(ひこいち)ばなし』などを書きます。
太平洋戦争後、1946年(昭和21)に明治大学講師(演劇)となり、1947年(昭和22)には、山本安英らと劇団「ぶどうの会」を結成しました。1949年(昭和24)に『夕鶴』で毎日演劇賞、1954年(昭和29)に『風浪』で第1回岸田演劇賞を受賞、1955年(昭和30)には、アジア諸国会議や世界平和大会に参加するなど良心的、進歩的な活動にも参加します。
1959年(昭和34)に『日本民話選』で第6回産経児童出版文化賞、『ドラマの世界』で第13回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)、1966年(昭和41)には、『無限軌道』で、第20回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞するなど、リアリズム演劇でも、戦後の演劇界を代表する存在となりました。1967年(昭和42)に山本安英らと「ことばの勉強会」を開始し、1979年(昭和54)には、『子午線の祀り』で第30回読売文学賞、翌年には、この上演により第21回毎日芸術賞を受賞しています。
1984年(昭和59)に日本芸術院会員に選ばれたが辞退、1985年(昭和60)に『ぜんぶ馬の話』で第36回読売文学賞(随筆部門)、1986年(昭和61)に「夕鶴」「子午線の祀り」など、長年にわたる劇作活動で朝日賞、1990年(平成2)には、『木下順二集』ほかで第31回毎日芸術賞を受賞しました。1992年(平成4)に『絵巻平家物語』を刊行し、第39回産経児童出版文化賞大賞、1995年(平成7)に『馬の文化叢書』でJRA賞馬事文化賞を受賞しましたが、1998年(平成10)には、東京都名誉都民に選ばれたものの辞退するなど、国家的名誉は一切受けず、元号法制化、小選挙区制度等の反対運動に参加するなどしています。
2000年(平成12)に趣味で収集した国内有数の“馬の本”コレクション約3000冊を馬事文化財団に寄贈しましたが、2006年(平成18)10月30日に、東京都文京区において、肺炎により、92歳で亡くなりました。
中野好夫のもとでシェイクスピアを専攻し、1939年(昭和14)に卒業後、大学院へ進み、法政大学講師となり、1941年(昭和16)には、修士課程を修了しました。1943年(昭和18)には、民話を素材に、『鶴女房』『二十二夜待ち』『彦市(ひこいち)ばなし』などを書きます。
太平洋戦争後、1946年(昭和21)に明治大学講師(演劇)となり、1947年(昭和22)には、山本安英らと劇団「ぶどうの会」を結成しました。1949年(昭和24)に『夕鶴』で毎日演劇賞、1954年(昭和29)に『風浪』で第1回岸田演劇賞を受賞、1955年(昭和30)には、アジア諸国会議や世界平和大会に参加するなど良心的、進歩的な活動にも参加します。
1959年(昭和34)に『日本民話選』で第6回産経児童出版文化賞、『ドラマの世界』で第13回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)、1966年(昭和41)には、『無限軌道』で、第20回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞するなど、リアリズム演劇でも、戦後の演劇界を代表する存在となりました。1967年(昭和42)に山本安英らと「ことばの勉強会」を開始し、1979年(昭和54)には、『子午線の祀り』で第30回読売文学賞、翌年には、この上演により第21回毎日芸術賞を受賞しています。
1984年(昭和59)に日本芸術院会員に選ばれたが辞退、1985年(昭和60)に『ぜんぶ馬の話』で第36回読売文学賞(随筆部門)、1986年(昭和61)に「夕鶴」「子午線の祀り」など、長年にわたる劇作活動で朝日賞、1990年(平成2)には、『木下順二集』ほかで第31回毎日芸術賞を受賞しました。1992年(平成4)に『絵巻平家物語』を刊行し、第39回産経児童出版文化賞大賞、1995年(平成7)に『馬の文化叢書』でJRA賞馬事文化賞を受賞しましたが、1998年(平成10)には、東京都名誉都民に選ばれたものの辞退するなど、国家的名誉は一切受けず、元号法制化、小選挙区制度等の反対運動に参加するなどしています。
2000年(平成12)に趣味で収集した国内有数の“馬の本”コレクション約3000冊を馬事文化財団に寄贈しましたが、2006年(平成18)10月30日に、東京都文京区において、肺炎により、92歳で亡くなりました。
〇木下順二の主要な著作
・脚本『赤い陣羽織』(1947年)
・脚本『夕鶴(ゆうづる)』(1949年)毎日演劇賞受賞
・脚本『山脈(やまなみ)』(1949年)
・脚本『暗い火花』(1950年)
・脚本『蛙(かえる)昇天』(1951年)
・脚本『風浪(ふうろう)』(1954年)岸田演劇賞受賞
・脚本『沖縄』(1961年)
・脚本『オットーと呼ばれる日本人』(1962年)
・小説『無限軌道』(1965年)
・脚本『神と人とのあいだ』2部(1972年)
・脚本『子午線の祀り』(1978年)読売文学賞受賞
・評論的な作品『戯曲の日本語』(1982年)
・小説『本郷』(1983年)
・脚本『巨匠』(1991年)
・『絵巻平家物語』(1992年)産経児童出版文化賞大賞受賞
・評論『“劇的”とは』(1995年)
☆木下順二関係略年表
・1914年(大正3)8月2日 東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれる
・1925年(大正14) 小学4年時、郷里熊本の小学校に転校する
・1933年(昭和8) 第五高等学校へ入学する
・1936年(昭和11) 第五高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部英文科に入学する
・1939年(昭和14) 東京帝国大学英文科を卒業し、大学院へ進み、法政大学講師となる
・1941年(昭和16) 東京大学大学院文学部英文科修士課程を修了する
・1943年(昭和18) 民話を素材に、『鶴女房』『二十二夜待ち』『彦市(ひこいち)ばなし』などを書く
・1946年(昭和21) 明治大学講師(演劇)となる
・1947年(昭和22) 山本安英らと劇団「ぶどうの会」を結成する
・1949年(昭和24) 『夕鶴』で毎日演劇賞を受賞する
・1954年(昭和29) 『風浪』で第1回岸田演劇賞を受賞する
・1955年(昭和30) アジア諸国会議に参加する
・1959年(昭和34) 『日本民話選』で第6回産経児童出版文化賞、『ドラマの世界』で第13回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞する
・1966年(昭和41) 『無限軌道』で、第20回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞する
・1967年(昭和42) 山本安英らと「ことばの勉強会」を開始する
・1979年(昭和54) 『子午線の祀り』で第30回読売文学賞を受賞する
・1980年(昭和55) 『子午線の祀り』上演により第21回毎日芸術賞を受賞する
・1984年(昭和59) 日本芸術院会員に選ばれたが辞退する
・1985年(昭和60) 『ぜんぶ馬の話』で、第36回読売文学賞(随筆部門)を受賞する
・1986年(昭和61) 「夕鶴」「子午線の祀り」など、長年にわたる劇作活動で、朝日賞を受賞する
・1990年(平成2) 『木下順二集』ほかで第31回毎日芸術賞を受賞する
・1992年(平成4) 『絵巻平家物語』を刊行し、第39回産経児童出版文化賞大賞を受賞する
・1995年(平成7) 『馬の文化叢書』でJRA賞馬事文化賞を受賞する
・1998年(平成10) 東京都名誉都民に選ばれるが辞退する
・2000年(平成12) 趣味で収集した国内有数の“馬の本”コレクション約3000冊を馬事文化財団に寄贈する
・2006年(平成18)10月30日 東京都文京区において、肺炎により、92歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1850年(嘉永5) | 医師・蘭学者高野長英の命日 | 詳細 |
1874年(明治7) | 評論家・イギリス文学者・翻訳家・詩人上田敏の誕生日 | 詳細 |
1890年(明治23) | 「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が発布される | 詳細 |
1903年(明治36) | 小説家尾崎紅葉の命日(紅葉忌) | 詳細 |
1945年(昭和20) | GHQが「教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」を出す | 詳細 |
1999年(平成11) | 上信越自動車道の中郷IC~上越JCT間が開通、藤岡JCTから長野県長野市を経て上越JCT間が全通する | 詳細 |