今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、詩人・童謡作家中村雨紅の生まれた日(戸籍上は2月6日)です。
中村雨紅(なかむら うこう)は、明治時代後期の1897年(明治30)1月7日<戸籍上は2月6日>に、東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の宮尾神社宮司だった父・髙井丹吾と母・シキの三男として生まれましたが、本名は高井宮吉(たかい みやきち)と言いました。1909年(明治42)に上恩方尋常小学校(現在の八王子市立恩方第二小学校)を卒業し、報恩高等小学校へ進み、1911年(明治44)に卒業後、東京府立青山師範学校(現在の東京学芸大学)へ入学します。
1916年(大正5)に東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤め、翌年には、南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となりました。1918年(大正7)に日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始めます。
1919年(大正8)に童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載され、1923年(大正12)には、文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたものの、関東大震災のため、多くの楽譜が失われました。1924年(大正13)に日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、1926年(大正15)には、日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任しています。
1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職し、1956年(昭和31)には、還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立されました。1965年(昭和40)に望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞、1970年(昭和45)には、雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立しています。
1971年(昭和46)に神奈川県厚木市の県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院し、翌年5月8日に、神奈同病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなりました。1993年(平成5)に雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立され、2005年(平成17)から、JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用されています。
1916年(大正5)に東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤め、翌年には、南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となりました。1918年(大正7)に日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始めます。
1919年(大正8)に童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載され、1923年(大正12)には、文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたものの、関東大震災のため、多くの楽譜が失われました。1924年(大正13)に日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、1926年(大正15)には、日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任しています。
1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職し、1956年(昭和31)には、還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立されました。1965年(昭和40)に望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞、1970年(昭和45)には、雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立しています。
1971年(昭和46)に神奈川県厚木市の県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院し、翌年5月8日に、神奈同病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなりました。1993年(平成5)に雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立され、2005年(平成17)から、JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用されています。
〇中村雨紅の主要な作品
<作詞>
・『夕焼小焼』作曲:草川信
・『ふる里と母と』作曲:山本正夫
・『お舟の三日月』作曲:山本正夫
・『こんこん小兎』作曲:山本正夫
・『早春』作曲:山本正夫
・『花吹雪』作曲:山本正夫
・『花の夕ぐれ』作曲:山本正夫
・『坊やのお家』作曲:山本正夫
・『赤いものなあに』作曲:山本正夫
・『かくれんぼ』作曲:林松木
・『父さん恋しろ』作曲:林松木
・『ギッコンバッタン』作曲:井上武士
・『紅緒のぽっくり』作曲:井上武士
・『秋空』作曲:石島正博
・『海が逃げたか』作曲:星出敏一
・『荻野音頭』作曲:細川潤一
・『カタツムリの遠足』作曲:吉田政治
・『こほろぎ』作曲:黒沢隆朝
・『子猫の小鈴』作曲:守安省
・『ねんねのお里』作曲:杉山長谷夫
・『ばあやのお里』作曲:寺内昭
・『星の子』作曲:黒沢孝三郎
・『みかんとお星さま』作曲:斎藤六三郎
<著書>
・『夕やけ小やけ 中村雨紅詩謡集』(1971年)
・『中村雨紅詩謡集』(1971年)
・『抒情短篇集 若かりし日』(1975年)
・『中村雨紅 お伽童話 第1集 - 第3集』(1985年)
・『中村雨紅 青春譜』(1994年)
☆中村雨紅関係略年表
・1897年(明治30)1月7日<戸籍上は2月6日> 東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の宮尾神社宮司だった父・髙井丹吾と母・シキの三男として生まれる
・1909年(明治42) 上恩方尋常小学校(現在の八王子市立恩方第二小学校)を卒業し、報恩高等小学校へ進む
・1911年(明治44) 恩方村報恩高等小学校を卒業し、東京府立青山師範学校(現在の東京学芸大学)へ入学する
・1916年(大正5) 東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤める
・1917年(大正6) 南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となる
・1918年(大正7) 日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始める
・1919年(大正8) 童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載される
・1923年(大正12) 文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたが、関東大震災のため、多くの楽譜が失われ、おば中村家との養子縁組が解消し、漢学者本城間停の次女千代子と結婚する
・1924年(大正13) 日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、長男・喬(たかし)が誕生する
・1926年(大正15) 日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任する
・1927年(昭和2) 長女・緑(みどり)が誕生する
・1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職する
・1956年(昭和31) 雨紅の還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立される
・1965年(昭和40) 望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞する
・1970年(昭和45) 雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立する
・1971年(昭和46) 神奈川県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院する
・1972年(昭和47)5月8日 神奈川県厚木市の県立厚木病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなる
・1993年(平成5) 雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立される
・2005年(平成17) JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1490年(延徳2) | 室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日) | 詳細 | |||||
1835年(天保6) | 官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日) | 詳細 | |||||
1868年(慶応4) | 新政府が「徳川慶喜追討令」を出す(新暦1月31日) | 詳細 | |||||
1902年(明治35) | 小説家・児童文学者住井すゑの誕生日 | 詳細 | |||||
1926年(大正15) | 劇作家協会と小説家協会が合併して、文藝家協会(日本文藝家協会の前身)が設立される | 詳細 | |||||
1939年(昭和14) | 戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される | 詳細 | |||||
1996年(平成8) | 芸術家岡本太郎の命日 | 詳細 |