ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:堺利彦

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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、大杉栄らが日本社会主義同盟を結成した日です。
 日本社会主義同盟(にほんしゃかいしゅぎどうめい)は、大正時代の社会主義者が大同団結した組織です。1907年(明治40)の日本社会党の結党禁止以後、1910年(明治43)の大逆事件による大弾圧を経て、社会主義運動は「冬の時代」を迎えていました。
 その中で、第一次世界大戦、ロシア革命の勃発などの影響もあり、1918年(大正7)の米騒動後、急速に労働運動や普選運動の勢いが高まります。堺利彦の「進歩主義の思想的大同団結」の提唱を受けて、橋浦時雄、岩佐作太郎、山崎今朝弥らの社会主義者を中心に大同団結の機運が高まり、1920年(大正9)8月5日に、趣旨書と規約草案が発表され、日本社会主義同盟準備会が結成されました。
 9月には、「新社会評論」を改題してて、機関誌「社会主義」が発刊され、各地で宣伝活動が進められます。発起人には堺、山川均らのマルクス主義者、大杉栄、近藤憲二らのアナルコ・サンディカリストと共に、著作家組合の大庭柯公らの文学者、友愛会や時計工組合などの労働組合、新人会や建設者同盟などの学生団体からの若い世代も名を連ね、11月には30名となりました。
 12月の創立大会には申込者が1,000名を超える中、12月9日に創立準備会を開き、官憲をだしぬいて突如結成を宣言し、翌日に結成の報告集会がなされます。同盟加入者は、創立当時3,000名にも及び、支部は大阪、神戸など5ヶ所に置かれ、翌年1月には、大杉らと近藤栄蔵らのアナ・ボル両派の共同編集の「労働運動」(第2次)も創刊されました。
 しかし、綱領・規約がなく思想的にも雑多で、統一運動も展開できず、弾圧が厳しくなる中で、5月9日に第2回大会を開催したものの、取締り当局の圧迫で解散を命ぜられ、同盟自身も同月28日結社禁止処分を受け、機関誌も9月号で停刊します。その後、アナーキズムとボルシェビズム両派はそれぞれ実際的行動を展開し、それぞれの立場から運動の再結集を図っていきました。

〇日本社会主義同盟関係略年表

<1920年(大正9)>

・8月5日 趣旨書と規約草案が発表され、日本社会主義同盟準備会が結成される
・9月 「新社会評論」を改題してて「社会主義」が発刊される
・11月 発起人が30名となる
・12月9日 創立準備会を開き、官憲をだしぬいて突如結成を宣言をする
・12月10日 結成の報告集会がなされる

<1921年(大正10)>

・1月 大杉らと近藤栄蔵らのアナ・ボル両派の共同編集の「労働運動」(第2次)も創刊される
・5月9日 第2回大会を開催する
・5月28日 弾圧が厳しく解散を命ぜられ、機関誌も9月号で停刊する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)藤原緒嗣らが『日本後紀』を撰上する(新暦841年1月5日)詳細
1159年(平治元)院近臣らの対立により発生した平治の乱が起きる(新暦1160年1月19日)詳細
1867年(慶応3)倒幕派によって朝廷から「王政復古の大号令」が発せられ、新政府が発足する(新暦1868年1月3日)詳細
1916年(大正5)小説家夏目漱石の命日(漱石忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「農地改革に関する覚書」(SCAPIN-411)を指令する詳細
1975年(昭和50)第30回国際連合総会において、「障害者の権利に関する宣言」が採択される(障害者の日)詳細
1993年(平成5)屋久島・白神山地・法隆寺・姫路城の4ヶ所が日本初の世界遺産に決定する詳細
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 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に日本社会党[明治期]の第1回党大会が開催され、結成届けを提出して受理されて日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生した日です。
 日本社会党[明治期](にほんしゃかいとう)は、明治時代に結成された日本で最初の合法社会主義政党でした。2月24日の第1回党大会(於:東京京橋区・平民病院)で、党則第1条を「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」とし、評議員は、片山潜・幸徳秋水・堺利彦・西川光二郎・田添鉄二・大杉栄ら13人、党員は200人として発足し、結党以前から刊行されていた『光』が機関紙となります。
 その後、東京市電値上反対運動や普通選挙運動、足尾鉱毒事件などの闘いを展開しました。同年6月23日に、幸徳秋水がアメリカから急遽帰国すると議会政策派と直接行動派の対立を招き、翌年1月15日に創刊された日刊『平民新聞』紙上で、論争が展開されます。
 同年2月17日に開催された第2回党大会で、議会政策派(田添鉄二・片山潜ら)と無政府主義的直接行動派(幸徳秋水・山川均・大杉栄ら)と中間派(堺利彦ら)ら3派が論争、採決の結果、20票対2票で、党則第1条の文言を「本党は社会主義の実行を目的とす」と改めました。その結果、2月22日に内務大臣は「安寧秩序ニ妨害アリト認ムル」として、「治安警察法」の適用による結社禁止を命令し、これに伴い解散となります。

〇日本社会党[明治期]関係略年表

<1905年(明治38)>
・11月20日 西川光次郎、山口孤劔らか凡人社を設立して、半月刊誌『光』を発刊する

<1906年(明治39)>
・1月7日 西園寺公望内閣が誕生し、内務大臣は原敬となり、「社会主義もまた世界の一大風潮であり、みだりに弾圧すべきでなく、その穏健なものは善導して、国家の推運に貢献さすべきである」との社会主義取り締まりの新方針を発表する
・1月14日 『光』派の社会主義者は、「普通選挙の期成を図るを目的とする」を綱領に日本平民党の結社届を提出して、受理される
・1月28日 堺利彦らは、日本社会党の結社届を提出して、受理される
・2月24日 堺利彦・西川光二郎らは、第1回党大会を開催、日本平民党と日本社会党が合同して、日本社会党の結成届けを提出して受理され、日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生する
 ①党則第1条を「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」とする
 ②評議員は、片山潜・幸徳秋水・堺利彦・西川光二郎・田添鉄二・大杉栄ら13人、党員は200人となる
・3月1日 東京市内の東京市街鉄道、東京電車鉄道、東京電気鉄道の3会社が各3銭均一の電車賃を3社共通5銭均一に値上げする申請を府知事と警視総監に提出、値上げ反対の世論が高まる
・3月15日、日本社会党の直接行動派は、東京市電値上げ反対運動を組織して、1,600人が市庁・電鉄会社を襲撃し、軍隊が出動して鎮圧され、西川光二郎・大杉栄ら10人が逮捕・起訴されたものの、市電の値上げは撤回され、市街鉄道を市有化する決議案が東京市会で可決される
・6月23日 幸徳秋水は、アメリカから急遽帰国する
・6月28日 幸徳秋水は、日本社会党の帰国歓迎会で、議会主義か直接行動かの問題を提示し、党内対立のきっかけとなる

<1907年(明治40)>
・1月15日 日刊『平民新聞』が創刊される
・2月5日 幸徳秋水は、日刊『平民新聞』で、「真に社会革命を断行し労働者階級の地位、生活を向上し保存せんと欲せば、議会の勢力よりもむしろ全力を労働者の団結訓練に注がねばならぬ。労働者自身も議員、政治家などに頼らず、自身の直接行動でその目的を貫く覚悟がなければならぬ」と直接行動を主張する
・2月7日 足尾銅山で大暴動がおこり、事務所など65棟が破壊され、軍隊が出動し、600人を検挙する
・2月10日 堺利彦は、日刊『平民新聞』で「社会党運動の方針」を発表し、「議会をして真に平民労働者の噴火口たらしめるためには、我々は実力を持って政府と政党に肉薄して、普通選挙権を獲得しなければならぬ。そこに直接行動の必要がある」と直接行動を議会主義には必要な手段であるという併用論を主張する
・2月12日 福田英子・菅野スガらは、「治安警察法」第5条改正案(女子の政治結社・集会への参加を認める)を衆議院に提出、衆議院で可決され、貴族院で否決される
・2月14日 田添鉄二は、日刊『平民新聞』で「議会政策論」を発表し、直接行動を批判する
・2月17日 第2回党大会で、議会政策派(田添鉄二・片山潜ら)と無政府主義的直接行動派(幸徳秋水・山川均・大杉栄ら)と中間派(堺利彦ら)ら3派が論争、採決の結果、20票対2票で、綱領の「本党は国法の範囲内に於いて社会主義を主張し」という文言を「本党は社会主義の実行を目的とす」と改める
・2月20日 日刊『平民新聞』第28号が告発される
・2月22日 内務大臣は「安寧秩序ニ妨害アリト認ムル」として、「治安警察法」の適用による結社禁止を命令し、これに伴い解散となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1610年(慶長15)絵師長谷川等伯の命日(新暦3月19日)詳細
1704年(元禄17)俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の命日(新暦3月29日)詳細
1933年(昭和8)国際連盟総会のリットン調査団報告書採択に抗議し日本全権大使松岡洋右が退場、連盟脱退宣言をする詳細
1934年(昭和9)小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌)詳細
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 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、この日付の週刊「平民新聞」第53号(新聞創刊1周年記念号)に、日本で初めて堺利彦、幸徳秋水によって翻訳された『共産党宣言』(第三章を除く)が掲載されましたが、発禁処分となります。そして、秩序を壊乱したとして起訴され、裁判の結果、関係者はそれぞれ罰金刑に処せられました。
 その後、堺利彦が訳文に多少の修正を加へ、第三章を新たに訳し添え、学術研究の資料として、「社會主義研究」第1号(明治39年3月15日発効)に掲載したものの、1910年(明治43)の大逆事件当時に発売禁止となります。それでも、何人かの手により、祕密出版として数回発行されました。
 1929年(昭和4)になると、大田黒年男氏らの手によつて、『共産黨宣言』と題する400ページの大册(リヤザノフの『共産主義者同盟』の歴史と、同じくリヤザノフの、200ページ以上にわたる『評注』と、エンゲルスの『共産主義の原理』も収載)が発行され、禁止にはなりましたが、それ以前に、少からぬ部数が頒布されています。
 以下に、『共産党宣言』翻訳の経緯を記した「共産党宣言」日本訳の序(堺利彦)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「共産党宣言」日本訳の序

カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス著
堺利彦、幸徳秋水訳

日本譯の序

 この日本譯は、最初、第三章を除いて、週刊『平民新聞』第五十三號(明治三十七年十一月十三日發行)に載せられたところ、忽ち秩序壞亂として起訴され、裁判の結果、關係者はそれぞれ罰金に處せられた。しかしその裁判の判決文には、『古の文書はいかにその記載事項が不穩の文字なりとするも、……單に歴史上の事實とし、または學術研究の資料として新聞雜誌に掲載するは、……社會の秩序を壞亂するといふ能はざるのみならず、むしろ正當なる行爲といふべし』とあつた。そこで私は次にその譯文に多少の修正を加へ、および第三章を譯し添へて、今度は『單に歴史上の事實』として、また『學術研究の資料』として、『社會主義研究』第一號(明治三十九年三月十五日發行)に載せた。(その時には、前の共譯者幸徳はアメリカに行つてゐたので、第三章は私ひとりで譯した。)
 しかるに、その『社會主義研究』も程へて後(大逆事件當時)發賣を禁止され、その後今日に至るまで、『共産黨宣言』日本譯の公刊は不可能の状態になつてゐるが、いかに日本が野蠻國で、いかに保守的反動が強いにしても、もう遠からずして、言論自由の範圍が、せめて明治三十九年當時くらゐに復舊する時節は來るだらうと思はれる。その時には、私はぜひともこの『學術研究の資料』を出來るだけ早く世に出したいと思つてゐる。ところが、近ごろその古い譯文を讀み返してみると、第一、文體の古くさいことが厭で堪らない。それにあの時は、單にイギリス譯から重譯したのでもあり、また譯し方の拙いところや、不正確なところや、間違つたところも大ぶんある。そこで私は今度、その古い譯文をドイツ語の原文と引合せ、また部分的には河上肇氏および櫛田民藏氏の譯文をも參照し、出來るだけ精密に訂正を加へて、口語體に書き直すことにした。幸徳が生きてゐたら何といふか知らんが、私はやはりこの新譯に彼と二人の名を署しておく。
 ドイツ語の新版には、一八七二年のマルクス、エンゲルスの序文のほか、一八八三年のと一八九〇年のと、エンゲルスの序文が二つ載つてゐる。しかしその内容は次に記したイギリス譯の序に盡されてゐる。

大正十年五月

堺利彦

(日本では、その後、この私の譯文が何人かの手により、祕密出版として數回發行された。また昨年、大田黒年男氏らの手によつて、『共産黨宣言』と題する四百ページの大册が發行され、禁止にはなつたが、それ以前、少からぬ部數が頒布された。この大册には『宣言』の本文のほか、リヤザノフの『共産主義者同盟』の歴史と、同じくリヤザノフの、二百ページ以上にわたる『評注』と、エンゲルスの『共産主義の原理』――實は『宣言』の草案――等が附録されてゐる。一九三〇年七月追記。堺)

    「青空文庫」より

〇「平民新聞」とは?

 明治時代後期の1903年(明治36)11月15日に幸徳秋水、堺利彦等による平民社の設立後に、創刊された週刊新聞です。日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えました。しかし、1904年11月6日付の第52号(教育特集号)が、社説「小学校教師に告ぐ」で発売禁止となり、 幸徳秋水が禁錮五ヶ月、西川光二郎が同七ヶ月、罰金それぞれ五十円の刑に処せられた上、 印刷機械も没収されます。次いで、11月13日付の第53号(新聞創刊1周年記念号)に「共産党宣言」を訳載したところ、これも発売禁止で没収されます。こうした発禁や罰金、あるいは没収機械の弁償などの経費が重くのしかかり、財政がひっ迫して、経営が困難となり、自発的廃刊が決定され、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。そこで、マルクス・エンゲルスの『新ライン新聞』の終刊にちなんで、全紙赤刷りとし、「終刊の辞」を掲載して終止符が打たれています。この間、1年2ヶ月にわたり、計64号で延べ20万部を発行し、社会主義への関心を広めるうえで大きな役割を果たしました。その2年後、日刊の「平民新聞」が創刊されたものの、再び政府による弾圧などにより、3ヶ月で廃刊せざるを得なくなっています。

〇堺利彦とは?

 日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家です。明治時代前期の1871年1月15日(明治3年11月25日)に、旧小笠原藩士だった貧乏士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村(現在の福岡県京都郡みやこ町)に生まれました。自由民権思想の感化を受けて育ち、福岡県立豊津中学校(現在の育徳館高等学校)を首席で卒業後、上京して第一高等中学校に入学しましたが、放蕩生活で学費を滞納し、除籍処分を受けます。1889年(明治22)に大阪に出て英語教員をしながら、枯川の名で小説を発表、実業新聞、福岡日日新聞などを経て、同郷の末松謙澄に招かれて上京し、毛利家編集所で『防長回天史』の編纂に従事しました。1899年(明治32)に「万朝報」に入社、1901年(明治34)には社主黒岩涙香、内村鑑三、幸徳秋水らと社会正義を求めて「理想団」を結成、非戦論を主張しましたが、1903年(明治36)に主戦論に転換した「万朝報」を幸徳秋水・内村鑑三と共に退社します。1903年(明治36)に幸徳秋水と二人で平民社を創立、週刊「平民新聞」を創刊して、社会主義の立場から日露非戦論を展開、翌年の週刊「平民新聞」第53号に幸徳との共訳で『共産党宣言』を翻訳して掲載しました。その後「直言」や「光」によって、旺盛な論陣を張り、1906年(明治39)に日本社会党を結成し評議員・幹事となります。1908年(明治41)の赤旗事件で入獄中に、大逆事件が起こりましたが、連座を免れ、1910年(明治43)に出獄しました。1910年(明治43)に日本初の翻訳会社である売文社を大杉栄らと始め、1914年(大正3)に戯文と随筆を主とした雑誌「へちまの花」を創刊、翌年には「新社会」と改題して再出発を宣言、社会主義思想の紹介や研究を行います。1920年(大正9)に日本社会主義同盟結成の発起人となりましたが、翌年禁止されると、1922年(大正11)には日本共産党(第一次共産党)の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加、初代委員長となりました。しかし、翌年の第一次共産党事件で検挙され、保釈出獄後に共産党から離れます。1927年(昭和2)に山川均らと政治雑誌「労農」を創刊、社会民主主義左派の立場をとり、翌年には鈴木茂三郎らと無産大衆党を結成、1929年(昭和4)に合同後の日本大衆党から出馬し、東京市会議員に当選しました。無産政党の結集に全力を注ぎ、1931年(昭和6)の満州事変勃発に対しては全国労農大衆党の対支出兵反対闘争委員会の委員長として反戦の姿勢を貫きます。ところが、同年に脳出血で倒れ、療養生活に入り、1933年(昭和8)1月23日に様態が悪化し、東京麹町の自宅において、64歳で亡くなりました。

〇幸徳秋水とは?

 明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業・酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。1900年(明治33)に、旧自由党系政党の憲政党が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成することを批判した「自由党を祭る文」を掲載しますが、名文として知られています。1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されました。また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草します。日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社しました。その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開します。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られてきました。しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めます。1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされ、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1752年(宝暦2)浮世絵師・宮川派の祖宮川長春の命日(新暦12月18日)詳細
1940年(昭和15)第4回御前会議において「支那事変処理要綱」が決定される詳細
1973年(昭和48)詩人・作詞家・作家サトーハチローの命日詳細
1997年(平成9)北陸自動車道の新潟亀田~新潟空港が開通し、米原~新潟空港間が全通する詳細


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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、平民社から週刊「平民新聞」が発刊された日です。
 「平民新聞(へいみんしんぶん)」は、幸徳秋水、堺利彦等による平民社の設立後に、創刊された週刊新聞です。日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えました。
 また、同紙第53号で『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られています。しかし、度々の政府による弾圧のため、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。
 その2年後、日刊の「平民新聞」が創刊されたものの、再び政府による弾圧などにより、3ヶ月で廃刊せざるを得なくなります。
 以下に、創刊号に掲載された「発刊の序」と「平民社設立宣言」を全文掲載しておきますのでご参照下さい。

〇平民社とは?

 明治時代後期の日露戦争開始の危機にあたり、非戦論を核心として結成された社会主義結社でした。
 日露戦争を前にして日刊新聞『万朝報』は非戦論を主張していましたが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して、非戦を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が退社します。そして、1903年(明治36)10月27日に、幸徳秋水と堺利彦が東京有楽町の社屋を構えて、平民社を結成しました。
 社会主義・平民主義・平和主義の三主義を標榜し、安部磯雄、片山潜らの支持を得て、社会主義、反戦運動の拠点となります。11月15日には週刊『平民新聞』を発刊し、日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えました。
 また、同紙第53号で『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られています。しかし、度々の政府による弾圧のため、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。
 尚、社会主義協会とも提携し、社会主義演説会、講演会の開催や地方遊説のほか、平民社同人編『社会主義入門』、山口孤剣著『社会主義と婦人』、木下尚江著小説『火の柱』、幸徳秋水著『ラサール』など15冊の平民文庫も出版されました。
 ところが、政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため1905年(明治38)10月9日解散することになります。その後、1907年(明治40)1月15日に再興され、日刊『平民新聞』も発刊されましたが、社内不和と政府の弾圧強化により、同年4月14日に廃刊となり、平民社も解散されました。

〇「平民新聞発刊の序」 1903年(明治36)11月15日付

発刊の序

平民新聞は、人類同胞をして、他年一日平民主義[1]、社会主義、平和主義の理想郷に到達せしむるの一機関に供せんが為めに創刊す、編輯[2]は予等二人専ら之に任じ庶務は挙げて社会主義協会の一員山根吾一君に托せり
夫れ階級的思想の牢固[3]として抜く可らざること今の如く、黄金の勢力流天[4]に滔する[5]こと今の如く、好戦の情熱朝野[6]を顛狂[7]せしむること今の如きの時に在て、正義、人道、平和を主張し絶[口斗](注:偏が口で旁が斗の漢字)[8]するは、極めて不利にして俣甚だ危険の事ならずんばあらず、而して是れ実に智者の難しとする所、況や貧寒[9]にして才なく学なき予等の如きをや、果然、曩き[10]には之が為めに朝報社[11]と合わずして其職を失ひ、忽ち米薪の計[12]に窮せり、迂拙[13]世と与に推移する能はずして、徒らに当世才子[14]の嗤笑[15]を買へるは予等固より之を知る
而も飜つて思ふ、夫の正義、人道、平和を主張し絶[口斗][8]するの甚だ不利にして且つ危険なる所以の者は、却つて是れ之を主張し絶[口斗][8]するの益々急要なることを証する者に非ずや、既に急要なることを知る、是れ豈に志士[16]の益を奮つて其不利危険を冒して顧みざるべきの秋[17]に非ずや、然り予等一片の耿々[18]は遂に予等の袖手[19]沈黙を許さゞる也、於是乎予等は自ら為す可く且つ為し得可き最良の方法として、平民新聞の発行てふ一事を選択するに至れり但其企画の初めに方りてや、予等の迂拙[13]なる、果して何の処より手を着くべきかに就て頗る望洋の歎[20]なき能はざりき
幸ひにして予等の心事を諒とせり、予等は義侠[21]なる親友を有せり、彼等は予等の微力を憐れめり、彼等は其金錢を以て、或は其文筆を以て、或は其他の技能を以て、交々予等の事業を援助し、更に多大の有益なる教導[22]と懇切なる奨励を与へられたり、如此にして予等の朝報社[11]を去りてより、奔走[23]僅に三十余日にして、茲に[24]平民新聞第一号を発行することを得たり、是れ予等自身に在ては寧ろ意料[25]の外にして我同志及親友諸君に向つて深く感謝する所也
故に平民新聞の物たる、其編輯[2]は予等之に任ずと雖も、予等は決して之を以て予等の私有と為さずして、満天下[26]の同主義者が公有の機関と為さんことを望む、其社務は予等之を処理すと雖も、予等は満天下[26]の同主義者を遇するに皆我社員を以てせんことを欲す、而して其紙面は常に満天下[26]の同主義者の為めに、忠実なる代弁者たり、通信者たり、更に能ふ可くんば其助言者たり、指導者たるに至らんことを期す、而して予等は更に正直に忠告するを要する一事あり、何ぞや、他なし、予等が平民新聞に依て衣食せんことを欲する是也、予等今や別に衣食を得んが為めに其精力の一半を費さゞる可らざるの境遇に在り若し予等にして将来幸ひに平民新聞の収益に衣食しつゝ全力を此事業に尽すを得ば予等の満足之に過ぐる者あらざるなり、予等は我同志が之を以て甚だ予等を罪せざる可きを信ず、而して天若し我同志の主義に祐ひせば、予等は平民新聞の収益が独り予等を養ふに足るのみならず、更に多数の同志を養ふに足るに至らんことを信ず、之を序と為す

     堺  枯川
     幸徳 秋水

   「平民新聞」1903年11月15日付創刊号より

 ※縦書きの原文を横書きに改め、旧字を新字に変換してあります。

【注釈】

[1]平民主義:へいみんしゅぎ=地位や身分の差別がなく、平等の個人によって成立する社会の実現をめざす主義。
[2]編輯:へんしゅう=編集。書籍、雑誌、新聞などを刊行するさい、企画からその原稿の依頼、入手、整理、割付け、校正、装丁などを含む一連の作業。
[3]牢固:ろうこ=かたくて頑丈なこと。かたくてしっかりしているさま。また、しっかりとかためること。
[4]流天:るてん=移り変わってやむことがないこと。
[5]滔する:とうする=みなぎりあふれる。勢いよく広がる。
[6]朝野:ちょうや=世間。天下。全国。
[7]顛狂:てんきょう=気がくるうこと。ものぐるい。狂気。
[8]絶[口斗]:ぜっと=口から吐き出す。
[9]貧寒:ひんかん=貧しく、さむざむとしていること。また、中身が乏しいこと。
[10]曩き:さき=以前。
[11]朝報社:ちょうほうしゃ=「万朝報」を発行していた新聞社で、かつて堺利彦や幸徳秋水が勤めていた。
[12]米薪の計:まいしんのけい=米と薪の計画、つまり、生計のこと。
[13]迂拙:うせつ=うかつで世渡りのへたなこと。愚かでまずいこと。また、そのさま。
[14]才子:さいし=才知にすぐれ、頭の働きのすばやい人。多く男についていう。才人。才物。
[15]嗤笑:ししょう=あざけり笑うこと。嘲笑。
[16]志士:しし=高い志を持った人。国家・社会のために献身しようとする人。
[17]秋:とき=特に重要なことのある時期。
[18]耿々:こうこう=気にかかることがあって、心が安らかでないさま。
[19]袖手:しゅうしゅ=手を袖に入れていること。ふところで。転じて、自分から手をくだして事を行なわないこと。
[20]望洋の歎:ぼうようのたん=偉大な人物や深遠な学問に対し、自分の力のなさを嘆くこと。
[21]義侠:ぎきょう=正義を重んじて、強い者をくじき、弱い者を助けること。おとこだて。
[22]教導:きょうどう=教え導くこと。教えを説いて導くこと。教道。
[23]奔走:ほんそ=忙しく走り回ること。物事が順調に運ぶようにあちこちかけまわって努力すること。
[24]茲に:ここに=このときに。この場合に。目の前に。
[25]意料:いりょう=思いはかること。想像すること。また、その内容。
[26]満天下:まんてんか=この世に満ちていること。また、この世の中全体。天下全体。全世界。

<現代語訳>

 平民新聞は、人類同胞をして、将来のある日、平民主義、社会主義、平和主義の理想郷に到達させるため、一つの目的を達成する手段として設けた組織に供するがために創刊する、編集はわたしたち二人(幸徳秋水・堺利彦)が専門にこれを担当し、庶務は残らず社会主義協会の一員である山根吾一君に託する
 そもそも階級的思想はしっかりと固められていて除き去ることが出来ないこと現在の通りで、金持ち勢力は移り変わりながらも、勢いよく広がること現在の通りで、戦争へと向かう情熱は世間を狂気させていること現在の通りの時節にあって、正義、人道、平和を主張し絶叫するのは、極めて不利であって、またとても危険な事でないことはない、そうしてこれは実に知恵のある者でも難しいとする所、まして中身が乏しくて才能も学識もない私たちの如きにはなおさらである、果たして、以前には、このために朝報社と意見が合わずしてその職を失い、たちまち生計に窮してしまい、うかつで世渡りの下手なため世間とともに移り変わることができないで、いたずらに当世の才能のある人の嘲笑をかっていることは、私たちはもとよりこれを知っている。
 それでもなお、これとは反対に思う、その正義、人道、平和を主張し絶叫するのはなはだ不利にして、さらに危険である理由は、かえってこれは、これを主張し絶叫することのますます急要であることを証明するものではないのか、すでに急要であることを知る、これどうして高い志を持った人の益を奮ってその不利危険を冒して顧みざるべきの特に重要な時期ではないのか、然り私たちの一片の気にかかることは遂に予等の袖手[19]沈黙を許さゞる也、於是乎予等は自ら為す可く且つ為し得可き最良の方法として、平民新聞の発行という一事を選択するに至った、ただその企画の初めにあたって、私たちのうかつで世渡り下手であって、果してどこから着手するべきかについて、いささか自分の力のなさを嘆かないわけではない。
 幸いなことに私たちの心事をもっともであるとする、義侠心のある親友を持っている、彼等は私たちの微力を憐れんで、彼らはその金錢をもって、あるいはその文筆をもって、あるいはその他の技能をもって、かわるがわる私たちの事業を援助し、さらに多大の有益なる教え導きと懇切なる奨励を与えられている、そのとおりここにして私たちは朝報社を去ってから、あちこちかけまわって努力することわずかに30余日で、ここに平民新聞第一号を発行することが出来た、これ私たち自身にあってはむしろ思いの外のことであって、我同志および親友諸君に向って深く感謝する所である。
 従って、平民新聞の物たる、その編集は私たちがこれを担当するといっても、私たちは決してこれをもって私たちの私有とするものではなくて、全世界の同主義者が公有の機関とすることを望む、その社務は私たちがこれを処理すといっても、私たちは全世界の同主義者を待遇するのにみな我社員とすることを願う、そうして、その紙面は常に全世界の同主義者のための、忠実なる代弁者であり、通信者であり、さらに出来るならばその助言者であり、指導者であることに到達すべきことを期待する、そうして、私たちはさらに正直に忠告するを要する一事あり、何ぞや、他なし、私たちが平民新聞によって生計を立てることを希望することである、私たちは今や別に生計を得るためにその精力の半分を費すことができない境遇にあり、もし私たちにして将来幸ひに平民新聞の収益に衣食しつゝ全力をこの事業に尽力することができれば、私たちの満足はこれに過ぎるものはない、私たちは我同志がこれをもって特に私たちを罪せざることを信じる、そうして天もし我同志の主義に祐ひせば、私たちは平民新聞の収益が独り私たちを養うに足るだけでなく、さらに多数の同志を養うに足るに到達することを信じ、これを序とする。

〇「平民社設立宣言」 1903年(明治37)11月15日付

宣言

一、自由、平等、博愛は人生世に在る所以の三大要義[1]也。

一、吾人[2]は人類の自由を完からしめんがために平民主義を奉持[3]す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の別より生ずる階級を打破し一切の圧制束縛を除去 せんことを欲す。

一、吾人[2]は人類をして博愛の道を尽さしめんが為に社会主義を主張す。故に社会をして生産、分配、交通の機関を共有せしめ、其の経営処理に社会全体の 為にせんことを要す。

一、吾人[2]は人類をして博愛の道を尽さしめんが為に平和主義を唱導[4]す。故に人種を区別、政体の異同を問はず、世界を挙げて軍備を 撤去し、戦争を禁絶せんことを期す[5]。

一、吾人[2]既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす。故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の輿論を喚起し、多数人類の一致協同を得るに在らざる可からず、夫の暴動に訴えて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を否認す。

  平民社同人

   「平民新聞」1903年11月15日付創刊号より

【注釈】
 [1]要義:ようぎ=重要な意義。物事の根本となることわり。大切な趣旨。また、それを記したもの。
 [2]吾人:ごじん=わたくし。われわれ。
 [3]奉持:ほうじ=両方の手でさしあげて持つ。また、うやうやしい態度で持つ。捧げ持つこと。
 [4]唱導:しょうどう=ある思想・主張を唱えて人を導くこと。
 [5]期す:きす=期待する。予期する

<現代語訳>

宣言

一、自由、平等、博愛は人生が世に存在する理由の三つの重要な意義である。

一、我々は人類の自由を確かなものとするために平民主義を奉持する、したがって門閥の高下、財産の多寡、男女の別によって生ずる階級を打ち破って、一切の圧制と束縛を取り除くことを要望する。

一、我々は人類において博愛の道に尽力するために社会主義を主張する。したがって社会において生産、分配、交通の機関を共有させて、その経営処理には社会全体の為に行われることが必要である。

一、我々は人類において博愛の道に尽力するために平和主義を唱える。したがって人種の区別、政治体制の違いを問はず、世界を挙げて軍備を取り除いて、戦争をなくすことを期待する。

一、我々はすでに多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とする。したがってこれを実現するための手段も、また国の法律の許す範囲において多数人類の世論を喚起し、多数人類の一致協同を獲得しなければならないもので、その暴動に訴えて快を一時に取るようなことは、我々は絶対にこれを認めない。

  平民社同人

☆平民社関係略年表

<1903年(明治36)>
・10月27日 幸徳秋水と堺利彦が東京有楽町の社屋を構えて、平民社を結成する
・11月15日 週刊『平民新聞』第1号を発刊、「平民社設立宣言」と堺利彦と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載される
・11月22日 週刊『平民新聞』第2号に、片山潜の「労働問題の将来」が掲載される
・11月29日 週刊『平民新聞』第3号から、「余は如何にして社会主義者となりにし乎」の連載が始まる

<1904年(明治37年)>
・1月17日 週刊『平民新聞』第10号に、「吾人は飽くまで戦争を非認す」という日露戦争への反戦論を掲載する
・2月14日 週刊『平民新聞』第14号に、日露戦争開戦を受けて、幸徳秋水の3つの論説、「戦争来」、「兵士を送る」、「戦争の結果」が掲載される
・3月5日 平民社同人編『社会主義入門』が平民文庫第1巻として刊行される
・3月9日 エドワード・ベラミー原著堺枯川抄訳の社会主義理想小説『百年後の世界』が平民文庫として刊行される
・3月13日 週刊『平民新聞』第18号に、社説「与露国社会党書」を掲載、手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する
・3月24日 週刊『平民新聞』第20号に、日露戦争に反対する「嗚呼増税!」を載せ、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する
・3月27日 「嗚呼増税」の掲載により、発禁処分を受ける
・4月20日 「嗚呼増税」の掲載により、堺利彦が2ヶ月の禁固刑となる
・5月10日 木下尚江著小説『火の柱』が平民文庫として刊行される
・5月20日 石川旭山著『消費組合(一名購買組合)之話』が平民文庫として刊行される
・5月28日 安倍磯雄著『地上の理想国 瑞西』が平民文庫として刊行される
・6月12日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・9月1日 幸徳秋水著『社会民主党建設者ラサール』が平民文庫として刊行される
・9月10日 西川光二郎著『土地国有論』が平民文庫として刊行される
・9月11日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・10月1日 田添鉄二著『経済進化論』が平民文庫として刊行される
・11月6日 週刊『平民新聞』第52号(教育特集号)に、石川三四郎執筆の「小学教師に告ぐ」が載り、国家主義教育を批判する
・11月9日 教育特集号が「新聞紙条例」に抵触したとされ内務大臣の命令で発禁処分となり、編集発行人の西川光次郎と印刷人の幸徳秋水は「新聞紙条例」の朝憲紊乱罪で起訴される
・11月13日 週刊『平民新聞』第53号に、新聞創刊1周年の記念として、堺と幸徳の共訳で『共産党宣言』が訳載され、発送禁止となる。創刊1周年記念の絵葉書が出される。
・11月19日 第1審で西川・幸徳の両名とも禁錮5ヶ月、罰金50円の刑に処される
・12月20日 木下尚江著『良人の自白』上編が平民社より刊行される
・12月25日 平民社忘年会が催される
・12月28日 西川光二郎と松崎源吉が足尾銅山遊説を行う

<1905年(明治38)>
・1月8日 開化亭で「平民社新年会」が開かれ100余人が集まる
・1月23日 西川光二郎著『富の圧制』が平民文庫として刊行される
・1月29日 週刊『平民新聞』第64号で、廃刊のやむなきに至り、全紙面を赤字で印刷し、「終刊の辞」を掲載する
・2月 西川光二郎著『人道の戦士社会主義の父カール・マルクス』が平民文庫として刊行される
・4月9日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・5月13日 平民社同人編『革命婦人』が平民文庫として刊行される
・6月4日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・7月7日 木下尚江著『良人の自白』中編が平民社より刊行される
・10月9日 政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため解散することになる

<1907年(明治40)>
・1月15日 石川三四郎、西川光二郎、幸徳秋水、堺利彦、竹内兼七が提携しふたたび平民社がおこされ、日刊『平民新聞』が発刊される
・4月14日 社内で議会政策派と直接行動派の分裂がみられたうえ、政府の弾圧はいっそう厳しくなり、日刊『平民新聞』は廃刊、平民社も再び解散する

☆週刊「平民新聞」主要記事

・第1号(1903年11月15日) 「平民社設立宣言」と幸徳秋水と堺利彦の署名のある「発刊の序」
・第2号(1903年11月22日) 片山潜「労働問題の将来」
・第3号(1903年11月29日) 木下尚江「君主観」
・第3号(1903年11月29日)から 「余は如何にして社会主義者となりにし乎」の連載が始まる
・第8号(1904年1月3日) 幸徳秋水「歌碑の娯楽」
・第10号(1904年1月17日) 「吾人は飽くまで戦争を非認す」という日露戦争への反戦論
・第11号(1904年1月24日) 幸徳秋水「戦争と道徳」、「道徳の理想」
・第13号(1904年2月7日) 社説「和戦を決する者」(幸徳秋水)
・第14号(1904年2月14日) 日露戦争開戦を受けて、幸徳秋水の3つの論説、「戦争来」、「兵士を送る」、「戦争の結果」
・第18号(1904年3月13日) 社説「与露国社会党書」(幸徳秋水)を掲載、手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する
・第19号(1904年3月20日) 幸徳秋水「戦争と小学児童」
・第20号(1904年3月24日) 日露戦争に反対する「嗚呼増税!」(幸徳秋水)を載せ、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する
・第24号(1904年4月24日) 幸徳秋水「バベフ氏(社會黨の偉人)」、木下尚江「恋愛と教育」
・第26号(1904年5月8日) 幸徳秋水「フーリエー氏(社會黨の偉人)」
・第28号(1904年5月22日) 幸徳秋水「プルードン氏(社會黨の偉人)」
・第31号(1904年6月11日) 幸徳秋水「ラサーレ氏(社會黨の偉人)」
・第33号(1904年6月25日) 「女学生に贈る」
・第36号(1904年7月17日) 幸徳秋水「朝鮮併呑論を評す」
・第40号(1904年8月7日) 幸徳秋水「トルストイ翁の非戦論を評す」
・第52号(1904年11月6日) 教育特集号として、石川三四郎「小学教師に告ぐ」、無価珍子「戦争に対する教育者の態度」、堺利彦「小学修身書漫評」、西川光次郎「社会主義者の教育観」が載り、国家主義教育を批判する
・第53号(1904年11月13日) 新聞創刊1周年の記念として、堺と幸徳の共訳での『共産党宣言』
・第64号(1905年1月29日) 廃刊のやむなきに至り、全紙面を赤字で印刷し、「終刊の辞」を掲載する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1653年(承応2)歌人・歌学者・俳人・貞門俳諧の祖松永貞徳の命日(新暦1654年1月3日)詳細
1867年(慶応3)京都で坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺される(新暦12月10日)詳細
1872年(明治5)国立銀行条例」が制定される(新暦12月15日)詳細

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 今日は、明治時代後期の1892年(明治25)に、黒岩涙香により、日刊新聞「萬朝報」が創刊された日です。
 「萬朝報(よろずちょうほう)」は、黒岩涙香が主筆を務めていた「都新聞」の社長と対立して退社後、東京で朝報社を設立して創刊した日刊新聞でした。「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」の編集方針のもとに小型4ページの紙面に盛りこまれた多様な上流社会のスキャンダル記事や娯楽記事、涙香の翻訳小説で都市中・下流層の人気を博します。
 1893年(明治26)に山田藤吉郎の経営していた「絵入自由新聞」(1882年9月創刊)と合併、以後は黒岩が編集、山田が経営実務を担当しました。第三面に社会記事をはでに取り扱い「三面記事」の語を生み、1900年(明治33)頃から内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らの論客を迎え、進歩的色彩の強い言論新聞となります。
 日露戦争(1904~05年)開戦前には、非戦論を唱えましたが、黒岩が開戦論に転じたため、内村、幸徳、堺らは退社しました。その後、報道体制の確立にも後れをとったため、新聞界の主流から次第に離れ、大正政変では憲政擁護を主張して一時的に人気を回復したものの、第2次大隈重信内閣を支持してから勢力を失い、1920年(大正9)10月6日の黒岩涙香の死後は衰退します。
 1923年(大正12)9月1日の関東大震災で大打撃をうけ、1940年(昭和15)に「東京毎夕新聞」に吸収され、廃刊となりました。以下に、「萬朝報」発刊の辞を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇黒岩涙香とは?

 明治時代から大正時代に活躍した、小説家・評論家・翻訳家・ジャーナリストです。江戸時代後期の1862年(文久2年9月29日)に、土佐国安芸郡川北村(現在の高知県安芸市川北)において、土佐藩郷士の父・黒岩市郎と母・信子の次男として生まれましたが、本名は周六と言いました。
 幼少時には、藩校文武館で漢籍を学び、16歳で大阪に出て中之島専門学校(後の大阪英語学校)で英語力を身につけます。その後17歳で上京し、成立学舎や慶應義塾に入学しましたが、卒業には至りませんでした。
 折からの自由民権運動に参加し、1882年(明治15)に、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」に関する論文を書いて、官吏侮辱罪に問われ有罪となり、投獄されて労役に服します。同年に創刊された『絵入自由新聞』に入社し、2年後には主筆となって、論文や探偵小説を掲載して活躍しました。
 1889年(明治22)に、『都新聞』に移り、多くの小説を書いて、評判となります。しかし、社長と対立して退社後、1892年(明治25)に朝報社を設立し、『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊しました。
 同誌は、黒岩の『鉄仮面』ボアゴベイ原作(1892~93年)、『白髪鬼』マレー・コレリ原作(1893年)、『幽霊塔』ベンジスン夫人原作(1899~1900年)などの翻案小説連載と上流階級の腐敗を暴露したセンセーショナルなスキャンダル記事によって人気を博し、大衆新聞として一躍東京一の発行部数となります。さらに、日清戦争後は、幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦、石川三四郎などの論客を迎えて、進歩的な論陣を張り、1901年(明治34)には、社会救済を目指す理想団と称する団体を組織し、社会改良運動を起こそうとしました。
 一方で、五目並べを組織化して「連珠(聯珠)(れんじゅ)」と命名、1904年(明治37)に東京連珠社を設立し段位制を制定、自ら初代名人となって高山互楽を名乗り、『聯珠真理』(1906年)を刊行したりしています。ところが、日露戦争(1904~05年)に際しては、それまで非戦論を唱えていた黒岩が、時局の進展にともない開戦論に転じたため、社員内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らが連袂退社することになりました。
 それからも、大正初期の憲政擁護運動や1914年(大正3)のシーメンス事件では政府攻撃のキャンペーンを張りましたが、続く大隈内閣を擁護したことから、不評を招きます。晩年は、長男のために米問屋兼小売商の増屋商店を開業したりしましたが、1920年(大正9)10月6日、肺癌のため東京において、59歳で亡くなりました。

☆「萬朝報」発刊の辞 黒岩涙香(周六)

 <目的> 萬朝報(よろづてうほう)は何が為めに発刊するや、他なし普通一般の多数民人に一目能く時勢を知るの便利を得せしめん為のみ、此 の目的あるが為めに我社は勉めて其価を廉にし其紙を狭くし其文を平易にし且つ我社の組織を独立にせり
 <代価> 近年新聞紙の相場次第に騰貴し今や低きも一銭五厘以上なるに及べり、然れども今日我国今日の社会に於て一銭五厘は大金なり、人々 日々に欠く可からざる入湯の料より高く、重宝無類なる郵便はがきの価より高し、新聞紙一枚買ふには一度の入湯を廃せざる可からず、一度の音信消息(いんし んせうそく)を見合せざる可からず、否(いな)廃しても猶足らず見合せても猶届かざるなり、実際に於て真逆(まさか)に入浴を廃せずば以て新聞紙を買ふ能 はずと云ふ程の人も有るまじけれど算盤珠(そろばんだま)の上に於ては入浴を廃するに同じ音信消息を見合すに同じ、富者とて算盤玉の上に違ひは有る筈なし 此故に新聞紙の価高きは普通一般の便に非ず、多数民人の利に非ず、広く社会を益するの主意に非ず
 <紙幅> 新聞紙の記事は成る可く簡単なるを宜(よ)しとす、長きは暇潰しなり、読て心力を疲れしむるなり、昼間は用事を妨ぐること多くし て夜は則ち油を費すこと多し、故に我社は勉めて記事を簡単にす、記事短かければ紙面も従て広きに及ばず、要するに新聞紙は長尻の客の如きか、長尻の客に迷 惑せし実験ある人は必ずキリヽと締りたる新聞紙の便利なるを会得せん
 <文章> 陽春白雪を唱へば和する者少く下俚巴人(かりはじん)に至りて一座皆和して楽しむが如く新聞紙の文章高尚に失するときは家内中に て一番学問のある其家の旦那唯一人楽しむ可きも之を平易にし通俗にし何人にも分り易からしめば旦那の後は細君(さいくん)読み番頭読み小僧読み下女下男読 み詰(つま)る所一銭の価にて家内中皆益するが故に此上なき安きものなり一人頭(ひとりあたま)には一厘に足らぬ事ともならん一家経済の秘伝は此辺に在り と知る可し
 <独立> 此頃の新聞紙は「間夫(まぶ)が無くては勤まらぬ」と唱ふ売色遊女の如く皆内々に間夫を有し其機関と為(な)れり、独り公やけに 我は自由党機関なりと大声狂呼する自由新聞が猶(まだ)しも男らしき程の次第ぞかし、或は政府或は政党或は野心ある民間の政治家、或は金力ある商界の大頭 皆な新聞紙の間夫なり、斯(かか)る新聞紙に頼(よ)りて普通一般の民人が真成の事実を知り公平の議論を聞かんこと覚束(おぼつか)なし、我社幸か不幸か 独立孤行なり、政府を知らず政党を知らず何ぞ況(いは)んや野心ある政治家をや、又況んや大頭なる者をや、嗚呼(ああ)我社は唯だ正直一方道理一徹あるを 知るのみ、若(も)し夫れ偏頗(へんぱ)の論を聞き陰険邪曲の記事を見んと欲する者は去て他の新聞を読め

   「萬朝報」創刊号(明治25年11月1日発行)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1847年(弘化4)自由民権思想家中江兆民の誕生日(新暦12月8日)詳細
1868年(明治元)灯台記念日(日本最初の洋式灯台である観音埼灯台起工日の新暦換算日)詳細
1961年(昭和36)国会議事堂わきの現在地に、国立国会図書館本館が開館する詳細
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