
院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)や法皇(太上法皇)が院庁で政務を行う政治形態のことです。広義には、白河上皇に始まり、江戸時代の光格上皇まで断続するとされますが、狭義には、平安時代後期~鎌倉時代初期に至る白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の四上皇による政治を指すとされてきました。
特に、白河院の応徳3年から平家滅亡の寿永3年頃までの約100年間を院政時代といい、院宣が詔勅・宣旨よりも重んじられたとされます。応徳3年に、白河上皇が後三条天皇の遺志を受け継ぎ、摂関政治を抑制するために、荘園整理と公領の確保を要求する受領層を院近臣 として創始しましたが、保元の乱・平治の乱後は、武家政治と対抗することとなりました。しかし、1221年(承久3)の承久の乱で決定的な打撃を受けて、武家政治の優位が確立したとされます。
以後の鎌倉時代にも、後高倉院、後嵯峨院や大覚寺、持明院両統迭立などにより院政が行われたものの、1322 年(元亨2)の後醍醐天皇の時に院政が廃止され、天皇親政となりました。南北朝時代にも院政が行われたものの、室町時代には行われず、江戸時代に入って後陽成天皇の譲位後再び院政が復活します。その後、後水尾、霊元、光格上皇が行ないましたが、1840年(天保11)に光格上皇が亡くなってからは、消滅しました。
特に、白河院の応徳3年から平家滅亡の寿永3年頃までの約100年間を院政時代といい、院宣が詔勅・宣旨よりも重んじられたとされます。応徳3年に、白河上皇が後三条天皇の遺志を受け継ぎ、摂関政治を抑制するために、荘園整理と公領の確保を要求する受領層を院近臣 として創始しましたが、保元の乱・平治の乱後は、武家政治と対抗することとなりました。しかし、1221年(承久3)の承久の乱で決定的な打撃を受けて、武家政治の優位が確立したとされます。
以後の鎌倉時代にも、後高倉院、後嵯峨院や大覚寺、持明院両統迭立などにより院政が行われたものの、1322 年(元亨2)の後醍醐天皇の時に院政が廃止され、天皇親政となりました。南北朝時代にも院政が行われたものの、室町時代には行われず、江戸時代に入って後陽成天皇の譲位後再び院政が復活します。その後、後水尾、霊元、光格上皇が行ないましたが、1840年(天保11)に光格上皇が亡くなってからは、消滅しました。
〇白河天皇(しらかわてんのう)とは?
平安時代後期に活躍した、第72代とされる天皇です。1053年(天喜元年6月19日)に、後三条天皇の第1皇子(母は藤原茂子)として、京都に生まれましたが、名は貞仁と言いました。
1065年(治暦元)に数え年13歳で元服、1069年(延久元)に皇太子に立てられ、1072年(延久4)に、後三条天皇の譲位により、数え年20歳で即位することになります。1075年(承保2)に荘園整理令を発し、1076年(承保3)に法勝寺を建立、1081年(永保元)には、宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立しました。
1086年(応徳3)には、第3皇子善仁親王 (堀河天皇) に譲位し、上皇となって、天皇を後見しながら政治の実権を握る、いわゆる院政(堀河・鳥羽・崇徳3天皇の43年間)を初めて行います。その後、1099年(康和1)、1107年(嘉承2)、1127年(大治2)などに何度も荘園整理令を発し、院の武力として北面の武士を創設、新興の源・平氏をこれにあてるなどして、摂関家の政治関与を抑えることに努めました。
また、仏教への傾倒も著しく、1096年(永長元)出家して法皇となりましたが、1129年(大治4年7月7日)に、数え年77歳で亡くなくなっています。
1065年(治暦元)に数え年13歳で元服、1069年(延久元)に皇太子に立てられ、1072年(延久4)に、後三条天皇の譲位により、数え年20歳で即位することになります。1075年(承保2)に荘園整理令を発し、1076年(承保3)に法勝寺を建立、1081年(永保元)には、宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立しました。
1086年(応徳3)には、第3皇子善仁親王 (堀河天皇) に譲位し、上皇となって、天皇を後見しながら政治の実権を握る、いわゆる院政(堀河・鳥羽・崇徳3天皇の43年間)を初めて行います。その後、1099年(康和1)、1107年(嘉承2)、1127年(大治2)などに何度も荘園整理令を発し、院の武力として北面の武士を創設、新興の源・平氏をこれにあてるなどして、摂関家の政治関与を抑えることに努めました。
また、仏教への傾倒も著しく、1096年(永長元)出家して法皇となりましたが、1129年(大治4年7月7日)に、数え年77歳で亡くなくなっています。
〇堀河天皇(ほりかわてんのう)とは?
第73代とされる天皇です。平安時代後期の1079年(承暦3年7月9日)に、京都において、白河天皇(母は右大臣源顕房の娘賢子)の第二皇子として生まれましたが、名は善仁(たるひと)と言いました。
同年11月に親王宣下され、1084年(応徳元)に母を亡くしましたが、1085年(応徳2)に叔父の皇太子実仁親王が亡くなると、立太子し、即日父・白河天皇の譲位を受けて、第73代とされる天皇として即位したものの、父が院政を敷きます。1093年(寛治7)に篤子内親王を中宮とし、1096年(嘉保3)には、重病に臥しましたがまもなく快復しました。
長ずるにおよび、藤原師通などの賢臣の補佐を得て政務に精励し、1099年(康和元)には、「荘園整理令」を発布、また僧徒の蜂起を制止するなどの政治力を示し、「末代の賢王」と称せられます。一方で、和歌や管絃(笙・笛)の道に長じ、1102年(康和4)に「堀河院艶書合」を主催、『金葉和歌集』を初出として、勅撰集への入集は9首に及びました。
1103年(康和5)に、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、皇太子に立てましたが、1107年(嘉承2年7月19日)に、京都において、数え年29歳で亡くなり、墓所は後円教寺陵(現在の京都市右京区)とされています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
同年11月に親王宣下され、1084年(応徳元)に母を亡くしましたが、1085年(応徳2)に叔父の皇太子実仁親王が亡くなると、立太子し、即日父・白河天皇の譲位を受けて、第73代とされる天皇として即位したものの、父が院政を敷きます。1093年(寛治7)に篤子内親王を中宮とし、1096年(嘉保3)には、重病に臥しましたがまもなく快復しました。
長ずるにおよび、藤原師通などの賢臣の補佐を得て政務に精励し、1099年(康和元)には、「荘園整理令」を発布、また僧徒の蜂起を制止するなどの政治力を示し、「末代の賢王」と称せられます。一方で、和歌や管絃(笙・笛)の道に長じ、1102年(康和4)に「堀河院艶書合」を主催、『金葉和歌集』を初出として、勅撰集への入集は9首に及びました。
1103年(康和5)に、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、皇太子に立てましたが、1107年(嘉承2年7月19日)に、京都において、数え年29歳で亡くなり、墓所は後円教寺陵(現在の京都市右京区)とされています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1882年(明治15) | 洋画家・小説家・随筆家有島生馬の誕生日 | 詳細 |
| 1906年(明治39) | 南満洲鉄道株式会社が設立される | 詳細 |
| 1911年(明治44) | 政治家・外交官小村寿太郎の命日 | 詳細 |
| 1935年(昭和10) | 日本ペンクラブが発足する(ペンの日) | 詳細 |
| 1941年(昭和16) | ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する | 詳細 |
| 1957年(昭和32) | 東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する | 詳細 |
| 1993年(平成5) | 児童文学者・帝塚山学院大学学長庄野英二の命日 | 詳細 |
| 1996年(平成8) | 大分県内の大分IC~大分米良IC間の開通により、大分自動車道が全線開通する | 詳細 |
