ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:堀河天皇

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 今日は、平安時代後期の応徳3年に、白河天皇が8歳の堀河天皇に譲位し、院政が開始された日ですが、新暦では1087年1月3日となります。
 院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)や法皇(太上法皇)が院庁で政務を行う政治形態のことです。広義には、白河上皇に始まり、江戸時代の光格上皇まで断続するとされますが、狭義には、平安時代後期~鎌倉時代初期に至る白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の四上皇による政治を指すとされてきました。
 特に、白河院の応徳3年から平家滅亡の寿永3年頃までの約100年間を院政時代といい、院宣が詔勅・宣旨よりも重んじられたとされます。応徳3年に、白河上皇が後三条天皇の遺志を受け継ぎ、摂関政治を抑制するために、荘園整理と公領の確保を要求する受領層を院近臣 として創始しましたが、保元の乱・平治の乱後は、武家政治と対抗することとなりました。しかし、1221年(承久3)の承久の乱で決定的な打撃を受けて、武家政治の優位が確立したとされます。
 以後の鎌倉時代にも、後高倉院、後嵯峨院や大覚寺、持明院両統迭立などにより院政が行われたものの、1322 年(元亨2)の後醍醐天皇の時に院政が廃止され、天皇親政となりました。南北朝時代にも院政が行われたものの、室町時代には行われず、江戸時代に入って後陽成天皇の譲位後再び院政が復活します。その後、後水尾、霊元、光格上皇が行ないましたが、1840年(天保11)に光格上皇が亡くなってからは、消滅しました。

〇白河天皇(しらかわてんのう)とは?

 平安時代後期に活躍した、第72代とされる天皇です。1053年(天喜元年6月19日)に、後三条天皇の第1皇子(母は藤原茂子)として、京都に生まれましたが、名は貞仁と言いました。
 1065年(治暦元)に数え年13歳で元服、1069年(延久元)に皇太子に立てられ、1072年(延久4)に、後三条天皇の譲位により、数え年20歳で即位することになります。1075年(承保2)に荘園整理令を発し、1076年(承保3)に法勝寺を建立、1081年(永保元)には、宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立しました。
 1086年(応徳3)には、第3皇子善仁親王 (堀河天皇) に譲位し、上皇となって、天皇を後見しながら政治の実権を握る、いわゆる院政(堀河・鳥羽・崇徳3天皇の43年間)を初めて行います。その後、1099年(康和1)、1107年(嘉承2)、1127年(大治2)などに何度も荘園整理令を発し、院の武力として北面の武士を創設、新興の源・平氏をこれにあてるなどして、摂関家の政治関与を抑えることに努めました。
 また、仏教への傾倒も著しく、1096年(永長元)出家して法皇となりましたが、1129年(大治4年7月7日)に、数え年77歳で亡くなくなっています。

〇堀河天皇(ほりかわてんのう)とは?

 第73代とされる天皇です。平安時代後期の1079年(承暦3年7月9日)に、京都において、白河天皇(母は右大臣源顕房の娘賢子)の第二皇子として生まれましたが、名は善仁(たるひと)と言いました。
 同年11月に親王宣下され、1084年(応徳元)に母を亡くしましたが、1085年(応徳2)に叔父の皇太子実仁親王が亡くなると、立太子し、即日父・白河天皇の譲位を受けて、第73代とされる天皇として即位したものの、父が院政を敷きます。1093年(寛治7)に篤子内親王を中宮とし、1096年(嘉保3)には、重病に臥しましたがまもなく快復しました。
 長ずるにおよび、藤原師通などの賢臣の補佐を得て政務に精励し、1099年(康和元)には、「荘園整理令」を発布、また僧徒の蜂起を制止するなどの政治力を示し、「末代の賢王」と称せられます。一方で、和歌や管絃(笙・笛)の道に長じ、1102年(康和4)に「堀河院艶書合」を主催、『金葉和歌集』を初出として、勅撰集への入集は9首に及びました。
 1103年(康和5)に、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、皇太子に立てましたが、1107年(嘉承2年7月19日)に、京都において、数え年29歳で亡くなり、墓所は後円教寺陵(現在の京都市右京区)とされています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)洋画家・小説家・随筆家有島生馬の誕生日詳細
1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1911年(明治44)政治家・外交官小村寿太郎の命日詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細
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1996年(平成8)大分県内の大分IC~大分米良IC間の開通により、大分自動車道が全線開通する詳細
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 今日は、平安時代後期の1107年(嘉承2)に、第73代の天皇とされる堀河天皇が亡くなった日ですが、新暦では8月9日となります。
 堀河天皇(ほりかわてんのう)は、平安時代後期の1079年(承暦3年7月9日)に、京都において、白河天皇(母は右大臣源顕房の娘賢子)の第二皇子として生まれましたが、名は善仁(たるひと)と言いました。同年11月に親王宣下され、1084年(応徳元)に母を亡くしましたが、1085年(応徳2)に叔父の皇太子実仁親王が亡くなると、立太子し、即日父・白河天皇の譲位を受けて、第73代とされる天皇として即位したものの、父が院政を敷きます。
 1093年(寛治7)に篤子内親王を中宮とし、1096年(嘉保3)には、重病に臥しましたがまもなく快復しました。長ずるにおよび、藤原師通などの賢臣の補佐を得て政務に精励し、1099年(康和元)には、「荘園整理令」を発布、また僧徒の蜂起を制止するなどの政治力を示し、「末代の賢王」と称せられます。
 一方で、和歌や管絃(笙・笛)の道に長じ、1102年(康和4)に「堀河院艶書合」を主催、『金葉和歌集』を初出として、勅撰集への入集は9首に及びました。1103年(康和5)に、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、皇太子に立てましたが、1107年(嘉承2年7月19日)に、京都において、数え年29歳で亡くなり、墓所は後円教寺陵(現在の京都市右京区)とされています。

<堀河天皇の代表的な和歌>

・「世世ふれど 面がはりせぬ 河竹は 流れてのよの ためしなりけり」(金葉和歌集)
・「千歳まで 折りて見るべき 桜花 梢はるかに 咲きそめにけり」(千載和歌集)
・「しきしまや 高円山の 雲間より 光さしそふ 弓はりの月」(新古今和歌集)

〇堀河天皇関係略年表

・1079年(承暦3年7月9日) 京都において、白河天皇(母は右大臣源顕房の娘賢子)の第二皇子として生まれる
・1079年(承暦3年11月) 親王宣下される 
・1084年(応徳元年) 母を亡くす
・1085年(応徳2年) 叔父の皇太子実仁親王が亡くなる
・1086年(応徳3年11月) 立太子し、即日父・白河天皇の譲位を受けて即位したものの、父が院政を敷く
・1086年(応徳3年12月19日) 大極殿で即位の礼が行われる
・1093年(寛治7年) 篤子内親王を中宮とする
・1096年(嘉保3年) 重病に臥したがまもなく快復する
・1099年(康和元年) 「荘園整理令」を発布する
・1102年(康和4年閏5月) 「堀河院艶書合」を主催する
・1103年(康和5年) 宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、皇太子に立てる
・1107年(嘉承2年7月19日) 京都において、数え年29歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

931年(承平元)第59代の天皇とされる宇多天皇の命日(新暦9月3日)詳細
1829年(文政12)国学者・旅行家菅江真澄の命日(新暦8月18日)詳細
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1888年(明治21)剣術家・政治家山岡鉄舟の命日詳細
1940年(昭和15)近衛文麿の東京の私邸(荻外荘)に於いて、荻窪会談が開催される詳細
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