
和達清夫(わだち きよお)は、明治時代後期の1902年(明治35)9月8日に、愛知県名古屋市において生まれましたが、出身地は東京でした。天王寺中学校を経て、東京開成中学校を1920年(大正9)に卒業します。
その後、旧制第一高校を経て、東京帝国大学理学部物理学科に進み、寺田寅彦らに学びました。1925年(大正14)に卒業後、中央気象台(現在の気象庁)に勤務して、初めはもっぱら地震を研究します。
1932年(昭和7)に、深所に発生する地震(深発地震)の研究で、東京帝國大学から理学博士の学位を取得し、日本学士院恩賜賞を受賞しました。1943年(昭和18)に満州国観象台長となり、太平洋戦争後の1947年(昭和22)には、中央気象台長となり、地震予知研究連絡委員会(地震予知連絡会の前身)発足と共に委員長ともなります。
1952年(昭和27)に「気象業務法」の施行を進め、1956年(昭和31)には、中央気象台が昇格して気象庁となると、初代長官に就任しました。1960年(昭和35)に第5期日本学術会議議長に就任、1963年(昭和38)には、気象庁を退官、国立防災科学技術センター(現、防災科学技術研究所)所長となります。
1966年(昭和41)に埼玉大学長、1968年(昭和43)に中央公害対策審議会会長、1969年(昭和44)には、日本気象学会の名誉会員となりまました。1971年(昭和46)に文化功労者となり、1972年(昭和47)に埼玉大学長を辞め、勲一等瑞宝章を受章、1974年(昭和49)には、日本学士院院長ともなります。
1976年(昭和51)に第27回NHK放送文化賞、1981年(昭和56)にアメリカ地震学会1980メダル、1982年(昭和57)に第29回交通文化賞、東京地学協会会長、1985年(昭和60)には文化勲章を受章、東京都名誉都民となるなど数々の栄誉に輝きました。1988年(昭和63)に中央公害対策審議会会長を辞めましたが、1995年(平成7)1月5日に、東京において、92歳で亡くなっています。尚、随筆をよくし、アララギ派の歌人(筆名:西須諸次)としても知られてきました。
その後、旧制第一高校を経て、東京帝国大学理学部物理学科に進み、寺田寅彦らに学びました。1925年(大正14)に卒業後、中央気象台(現在の気象庁)に勤務して、初めはもっぱら地震を研究します。
1932年(昭和7)に、深所に発生する地震(深発地震)の研究で、東京帝國大学から理学博士の学位を取得し、日本学士院恩賜賞を受賞しました。1943年(昭和18)に満州国観象台長となり、太平洋戦争後の1947年(昭和22)には、中央気象台長となり、地震予知研究連絡委員会(地震予知連絡会の前身)発足と共に委員長ともなります。
1952年(昭和27)に「気象業務法」の施行を進め、1956年(昭和31)には、中央気象台が昇格して気象庁となると、初代長官に就任しました。1960年(昭和35)に第5期日本学術会議議長に就任、1963年(昭和38)には、気象庁を退官、国立防災科学技術センター(現、防災科学技術研究所)所長となります。
1966年(昭和41)に埼玉大学長、1968年(昭和43)に中央公害対策審議会会長、1969年(昭和44)には、日本気象学会の名誉会員となりまました。1971年(昭和46)に文化功労者となり、1972年(昭和47)に埼玉大学長を辞め、勲一等瑞宝章を受章、1974年(昭和49)には、日本学士院院長ともなります。
1976年(昭和51)に第27回NHK放送文化賞、1981年(昭和56)にアメリカ地震学会1980メダル、1982年(昭和57)に第29回交通文化賞、東京地学協会会長、1985年(昭和60)には文化勲章を受章、東京都名誉都民となるなど数々の栄誉に輝きました。1988年(昭和63)に中央公害対策審議会会長を辞めましたが、1995年(平成7)1月5日に、東京において、92歳で亡くなっています。尚、随筆をよくし、アララギ派の歌人(筆名:西須諸次)としても知られてきました。
〇和達清夫の主要な著作
・『大地雲の話』(1927年)
・『地震』(1933年)
・『あく迄希望あれ 西須諸次肺病文叢第一集』(1941年)
・『あく迄希望あれ 西須諸次肺病文叢第一集』(1941年)
・『地球と人』(1949年)
・『沈まぬ都会』(1949年)
・『青い太陽』(1971年)
・随筆集『地震の顔』(1983年)
☆和達清夫関係略年表
・1902年(明治35)9月8日 愛知県名古屋市において、生まれる
・1920年(大正9) 東京開成中学校を卒業する
・1925年(大正14) 東京帝國大学理学部物理学科を卒業、中央気象台(現在の気象庁)に勤務する
・1932年(昭和7) 東京帝國大学から理学博士の学位を取得し、日本学士院恩賜賞を受賞する
・1943年(昭和18) 満州国観象台長となる
・1947年(昭和22) 中央気象台長となり、地震予知研究連絡委員会(地震予知連絡会の前身)発足とともに委員長となる
・1952年(昭和27) 「気象業務法」の施行を進める
・1956年(昭和31) 中央気象台は昇格して気象庁となり、初代長官に就任する
・1960年(昭和35) 第5期日本学術会議議長に就任する
・1963年(昭和38) 気象庁を退官、国立防災科学技術センター(現在の防災科学技術研究所)所長となる
・1966年(昭和41) 埼玉大学長となる
・1968年(昭和43) 中央公害対策審議会会長となる
・1969年(昭和44) 日本気象学会の名誉会員となる
・1971年(昭和46) 文化功労者となる
・1972年(昭和47) 埼玉大学長を辞め、勲一等瑞宝章を受章する
・1974年(昭和49) 日本学士院院長となる
・1976年(昭和51) 第27回NHK放送文化賞を受賞する
・1981年(昭和56) アメリカ地震学会1980メダルを受ける
・1982年(昭和57) 第29回交通文化賞を受賞、東京地学協会会長となる
・1985年(昭和60) 文化勲章を受章、東京都名誉都民となる
・1988年(昭和63) 中央公害対策審議会会長を辞める