ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:執権

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 今日は、鎌倉時代の1246年(寛元4)に、鎌倉幕府執権・北條經時が重病の為、弟の北条時頼が第5代執権に就任した日ですが、新暦では4月10日となります。
 執権(しっけん)は、元々は、権力を握ることで、政務を執行する者という意味でしたが、鎌倉時代には、鎌倉幕府で将軍を補佐し、幕政を統轄した職名となります。幕府成立期には政所の別当大江広元のことを執権といっていましたが、3代将軍源実朝の時代には、北条時政も政所別当の地位について2人となり、時政の権力が勝ると共に、執権と称して幕府の実権を掌握するようになります。
 時政の後、北条義時がその地位を継承しますが、1213年(建保元)に侍所別当であった和田義盛を滅亡させ、政所と侍所の両別当を兼ねて幕政を統轄するようになり、事実上幕政の最高権力者となりました。これによって、将軍はまったく名目的な存在となり、以後北条氏が独占的に執権の地位を世襲し、権力を掌握します。
 連署、評定衆、引付衆らを率いて幕政を統轄し、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡まで続きました。

〇鎌倉幕府の歴代執権(北条家)一覧

【初代】時政(ときまさ)1203年~1205年(建仁3~元久2)
・1203年(建仁32) 源実朝が第3代将軍となる
・1205年(元久2) 藤原定家らが「新古今和歌集」を編さんする

【2代】義時(よしとき)1205年~1224年(元久2~貞応3)
・1219年(承久元) 鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁に暗殺され、源氏が3代で絶える
・このころ、「保元物語」、「平治物語」ができる
・1221年(承久3) 承久の乱が起きる
・1221年(承久3) 京都に六波羅探題をおく
・1224年(貞応3) 親鸞が浄土真宗を広める

【3代】泰時(やすとき)1224年~1242年(貞応3~仁治3)
・1225年(嘉禄元) 評定衆が設置される
・1227年(安貞元) 道元が宋より帰り、曹洞宗を伝える
・1232年(貞永元) 御成敗式目(貞永式目)がつくられる
・このころ、「平家物語」「小倉百人一首」「源平盛衰記」などが著される

【4代】経時(つねとき)1242年~1246年(仁治3~寛元4)

【5代】時頼(ときより)1246年~1256年(寛元4~康元元)
・1247年(宝治元) 宝治合戦が起きる
・1249年(建長元) 引付衆が設置される
・1252年(建長4) 鎌倉に大仏ができる
・1253年(建長5) 南宋より蘭渓道隆を招いて鎌倉に建長寺を建てる
・このころ、日蓮が法華経(日蓮宗)を広める

【6代】長時(ながとき)1256年~1264年(康元元~文永元)
・1260年(文応元) 日蓮が「立正安国論」を著す
・1261年(弘長元) 日蓮が伊豆に流される

【7代】政村(まさむら)1264年~1268年(文永元~文永5)

【8代】時宗(ときむね)1268年~1284年(文永5~弘安7)
・1268年(文永5) 元の使者を追い返す
・1274年(文永11) 第1回元寇(文永の役)が起きる
・1275年(文永12)  異国警固番役が設置される
・1279年(弘安2) 一遍が踊念仏を始める
・1281年(弘安4) 第2回元寇(弘安の役)が起きる
・1282年(弘安5) このころ、阿仏尼が「十六夜日記」を著す

【9代】貞時(さだとき)1284年~1301年(弘安7~正安3)
・1285年(弘安8) 霜月騒動が起きる
・1293年(永仁元) 鎮西探題が設置される
・1297年(永仁5) 幕府が徳政令を出し、御家人の困苦を救う(永仁の徳政令)

【10代】師時(もろとき)1301年~1311年(正安3~応長元)

【11代】宗宣(むねのぶ)1311年~1312年(応長元~応長2)

【12代】煕時(ひろとき)1312年~1315年(応長2~正和4)

【13代】基時(もととき)1315年~1316年(正和4~正和5)

【14代】高時(たかとき)1316年~1326年(正和5~正中3)
・1317年(文保元) 文保の和談が行われる
・1318年(文保2) 後醍醐天皇が即位する
・1324年(正中元) 正中の変が起きる

【15代】貞顕(さだあき)1326年(正中3)

【16代】守時(もりとき)1326年~1333年(正中3~元弘3)
・1331年(元弘元) 元弘の変が起きる
・1332年(元弘2) 後醍醐天皇が隠岐に流される
・1333年(元弘3) 鎌倉幕府が滅びる

☆北条時頼(ほうじょう ときより)とは?

 鎌倉幕府第5代執権です。鎌倉時代の1227年(安貞元年5月14日)に、鎌倉において、六波羅探題北方に任じられた父・北条時氏(鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男)の次男(母は安達景盛の娘)として生まれましたが、幼名は戒寿と言いました。
 1230年(寛喜2)に3歳で父が亡くなったため、祖父・北条泰時に養育されることになります。1237年(嘉禎3)に11歳で元服して、五郎時頼を名乗り、左兵衛少尉に任官しました。
 1243年(寛元元)に左近将監従五位下となり、1246年(寛元4)には兄経時の病気隠退のあとを受け、第5代執権に就任しました。その直後、同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放、翌年には、安達氏と協力して、光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼします(宝治合戦)。
 さらに、1252年(建長4)に第5代将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎える(親王将軍の始まり)など、北条氏の権力確立に努めました。1249年(建長元)に相模守となり、引付衆を置き裁判の迅速公平を図るなど、幕政の刷新を図ります。
 一方、1253年(建長5)には、13ヶ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努めるなど善政を敷いたとされてきました。また、禅宗にも深い関心を抱き、同年に宋僧蘭渓道隆を招いて、鎌倉に建長寺を建てています。
 1256年(康元元)に病により、家督を6歳の時宗に譲り、最明寺で出家、法名を覚了房道崇としたものの、出家後も幕政に参与しました。その後、諸国を回り民政を視察したという伝説が生じましたが、1263年(弘長3年11月22日)に、鎌倉の最明寺北亭において、数え年37歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1238年(暦仁元)僧・浄光が鎌倉大仏(木造仏)の建立を開始する(新暦5月8日)詳細
1883年(明治16)陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の誕生日詳細
1898年(明治31)東京市本郷区で本郷大火があり、1,478戸を焼失する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する詳細
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1979年(昭和54)漫画家近藤日出造の命日詳細
1981年(昭和56)国語審議会が当用漢字表に代わる「常用漢字表」を答申する詳細
2013年(平成25)全国10種類の交通系ICカードで、交通系ICカード全国相互利用サービスが開始される詳細
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 今日は、鎌倉時代の1264年(文永元)に、武将・鎌倉幕府第6代執権北条長時の亡くなった日ですが、新暦では9月12日となります。
 北条長時(ほうじょう ながとき)は、1230年(寛喜2年)に、六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任した父・北条重時の次男(母は平時親の娘)として生まれましたが、1235年(嘉禎元)に、異母兄の為時が疱瘡にかかって重篤となって廃嫡され、嫡男とされました。1245年(寛元3)に従五位下に叙し、左近衛将監に任官、1247年(宝治元)には、北条時盛の娘と結婚します。
 1247年(宝治元)に宝治合戦が起きると、父・重時は第5代執権で娘婿の北条時頼を補佐するため鎌倉に下向、そのあと幕府の六波羅探題北方となり、宗尊親王の将軍就任にも活躍しました。1256年(建長8)に六波羅探題を退き、鎌倉へ下向して、引退した父のあとを受けて、幕府評定衆となり、武蔵守に転任します。
 同年に執権北条時頼が出家、あとをつぐ時宗が幼少だったため第6代執権に就任しました。1258年(正嘉2)に従五位上に昇叙し、1260年(正嘉4年)には、赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列します。
 1261年(弘長元)に父・北条重時が亡くなり、病魔にも侵されるようになって、翌年に奈良西大寺の叡尊が鎌倉下向したとき、母・妻と共に受戒しました。1264年(文永元)に病により執権職を辞任して出家しましたが、同年8月21日に、相模国鎌倉泉ヶ谷浄光明寺において数え年35歳で亡くなっています。
 尚、歌人としても知られ、勅撰集に12首の歌が採録されました。

〇北条長時関係略年表(日付は旧暦です)

・1230年(寛喜2年) 父・北条重時の次男(母は平時親の娘)として生まれる
・1235年(嘉禎元年10月) 異母兄の為時が疱瘡にかかって重篤となって廃嫡され、嫡男とされる
・1245年(寛元3年3月29日) 従五位下に叙し、左近衛将監に任官する
・1247年(宝治元年春) 北条時盛の娘と結婚する
・1247年(宝治元年6月) 宝治合戦が起きる 
・1247年(宝治元年7月18日) 父・重時のあと幕府の六波羅探題北方となる
・1256年(建長8年3月29日、3月20日) 六波羅探題を退任する
・1256年(建長8年6月) 引退した父のあとを受けて、幕府評定衆となる
・1256年(建長8年7月20日) 武蔵守に転任する
・1256年(建長8年11月22日) 鎌倉幕府の第6代執権執権と就る
・1258年(正嘉2年12月14日) 従五位上に昇叙、武蔵守如元
・1260年(正嘉4年) 赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列する
・1261年(弘長元年11月3日) 父・北条重時が亡くなる
・1262年(弘長2年) 奈良西大寺の叡尊が鎌倉下向のとき、母・妻と受戒する
・1264年(文永元年7月3日) 病により執権職を辞任して出家する
・1264年(文永元年8月21日) 相模国鎌倉泉ヶ谷浄光明寺において数え年35歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)生麦事件が起きる(新暦9月14日)詳細
1877年(明治10)東京の上野公園で第1回内国勧業博覧会が開会される詳細
1909年(明治42)数学者・教育家遠山啓の誕生日詳細


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 今日は、鎌倉時代の1311年(応長元)に、武将・鎌倉幕府第10代執権北条師時の亡くなった日ですが、新暦では11月3日となります。
 北条師時(ほうじょう もろとき)は、1275年(建治元年)に、北条宗政の子(母は北条政村の娘)として生まれましたが、通称は武蔵四郎と言いました。1281年(弘安4)に父・北条宗政が亡くなると伯父・北条時宗の猶子となり、1284年(弘安7)に10歳で小侍所別当となります。
 翌年、11歳で左近将監・従五位下に叙爵し、1293年(永仁元)には19歳で評定衆となり、続いて、三番引付頭人、執奏となり、従五位上に昇叙しました。1299年(正安元)に正五位下に昇叙し、1301年(正安3年8月22日)には、出家した貞時のあとをうけて、鎌倉幕府第10代執権となりますが、実権は貞時に握られています。
 同年9月に相模守となり、1304年(嘉元2)には従四位下に昇叙しました。1311年(応長元年9月21日)に出家し道覚と号しましたが、翌9月22日に鎌倉において、評定中にその座でそのまま死去(享年37歳)したと伝えられています。

〇北条師時関係略年表(日付は旧暦です)

・1275年(建治元年) 北条宗政の子(母は北条政村の娘)として生まれる
・1281年(弘安4年7月) 第2回元寇(弘安の役)が起きる
・1281年(弘安4年8月9日) 父・北条宗政が亡くなる
・1284年(弘安7年7月) 10歳で小侍所別当となる
・1285年(弘安8年) 11歳で左近将監・従五位下に叙爵する
・1285年(弘安8年11月) 霜月騒動が起きる
・1293年(永仁元年4月) 平頼綱の乱が起きる 
・1293年(永仁元年5月30日) 評定衆となる
・1293年(永仁元年6月5日) 三番引付頭人となる
・1293年(永仁元年10月20日) 執奏となる
・1293年(永仁元年12月20日) 従五位上(19歳)となる
・1294年(永仁2年1月30日) 右馬権頭となる
・1297年(永仁5年7月) 二番引付頭人(23歳)となる
・1299年(正安元年2月27日) 正五位下(25歳)となる
・1301年(正安3年8月22日) 鎌倉幕府第10代執権となる
・1301年(正安3年9月27日) 相模守に遷任(27歳)される
・1304年(嘉元2年10月) 従四位下となる
・1311年(応長元年9月21日) 出家し道覚と号する
・1311年(応長元年9月22日) 鎌倉において、数え年37歳で亡くなる

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