ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:執権

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 今日は、鎌倉時代の1264年(文永元)に、武将・鎌倉幕府第6代執権北条長時の亡くなった日ですが、新暦では9月12日となります。
 北条長時(ほうじょう ながとき)は、1230年(寛喜2年)に、六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任した父・北条重時の次男(母は平時親の娘)として生まれましたが、1235年(嘉禎元)に、異母兄の為時が疱瘡にかかって重篤となって廃嫡され、嫡男とされました。1245年(寛元3)に従五位下に叙し、左近衛将監に任官、1247年(宝治元)には、北条時盛の娘と結婚します。
 1247年(宝治元)に宝治合戦が起きると、父・重時は第5代執権で娘婿の北条時頼を補佐するため鎌倉に下向、そのあと幕府の六波羅探題北方となり、宗尊親王の将軍就任にも活躍しました。1256年(建長8)に六波羅探題を退き、鎌倉へ下向して、引退した父のあとを受けて、幕府評定衆となり、武蔵守に転任します。
 同年に執権北条時頼が出家、あとをつぐ時宗が幼少だったため第6代執権に就任しました。1258年(正嘉2)に従五位上に昇叙し、1260年(正嘉4年)には、赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列します。
 1261年(弘長元)に父・北条重時が亡くなり、病魔にも侵されるようになって、翌年に奈良西大寺の叡尊が鎌倉下向したとき、母・妻と共に受戒しました。1264年(文永元)に病により執権職を辞任して出家しましたが、同年8月21日に、相模国鎌倉泉ヶ谷浄光明寺において数え年35歳で亡くなっています。
 尚、歌人としても知られ、勅撰集に12首の歌が採録されました。

〇北条長時関係略年表(日付は旧暦です)

・1230年(寛喜2年) 父・北条重時の次男(母は平時親の娘)として生まれる
・1235年(嘉禎元年10月) 異母兄の為時が疱瘡にかかって重篤となって廃嫡され、嫡男とされる
・1245年(寛元3年3月29日) 従五位下に叙し、左近衛将監に任官する
・1247年(宝治元年春) 北条時盛の娘と結婚する
・1247年(宝治元年6月) 宝治合戦が起きる 
・1247年(宝治元年7月18日) 父・重時のあと幕府の六波羅探題北方となる
・1256年(建長8年3月29日、3月20日) 六波羅探題を退任する
・1256年(建長8年6月) 引退した父のあとを受けて、幕府評定衆となる
・1256年(建長8年7月20日) 武蔵守に転任する
・1256年(建長8年11月22日) 鎌倉幕府の第6代執権執権と就る
・1258年(正嘉2年12月14日) 従五位上に昇叙、武蔵守如元
・1260年(正嘉4年) 赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列する
・1261年(弘長元年11月3日) 父・北条重時が亡くなる
・1262年(弘長2年) 奈良西大寺の叡尊が鎌倉下向のとき、母・妻と受戒する
・1264年(文永元年7月3日) 病により執権職を辞任して出家する
・1264年(文永元年8月21日) 相模国鎌倉泉ヶ谷浄光明寺において数え年35歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)生麦事件が起きる(新暦9月14日)詳細
1877年(明治10)東京の上野公園で第1回内国勧業博覧会が開会される詳細
1909年(明治42)数学者・教育家遠山啓の誕生日詳細


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 今日は、鎌倉時代の1311年(応長元)に、武将・鎌倉幕府第10代執権北条師時の亡くなった日ですが、新暦では11月3日となります。
 北条師時(ほうじょう もろとき)は、1275年(建治元年)に、北条宗政の子(母は北条政村の娘)として生まれましたが、通称は武蔵四郎と言いました。1281年(弘安4)に父・北条宗政が亡くなると伯父・北条時宗の猶子となり、1284年(弘安7)に10歳で小侍所別当となります。
 翌年、11歳で左近将監・従五位下に叙爵し、1293年(永仁元)には19歳で評定衆となり、続いて、三番引付頭人、執奏となり、従五位上に昇叙しました。1299年(正安元)に正五位下に昇叙し、1301年(正安3年8月22日)には、出家した貞時のあとをうけて、鎌倉幕府第10代執権となりますが、実権は貞時に握られています。
 同年9月に相模守となり、1304年(嘉元2)には従四位下に昇叙しました。1311年(応長元年9月21日)に出家し道覚と号しましたが、翌9月22日に鎌倉において、評定中にその座でそのまま死去(享年37歳)したと伝えられています。

〇北条師時関係略年表(日付は旧暦です)

・1275年(建治元年) 北条宗政の子(母は北条政村の娘)として生まれる
・1281年(弘安4年7月) 第2回元寇(弘安の役)が起きる
・1281年(弘安4年8月9日) 父・北条宗政が亡くなる
・1284年(弘安7年7月) 10歳で小侍所別当となる
・1285年(弘安8年) 11歳で左近将監・従五位下に叙爵する
・1285年(弘安8年11月) 霜月騒動が起きる
・1293年(永仁元年4月) 平頼綱の乱が起きる 
・1293年(永仁元年5月30日) 評定衆となる
・1293年(永仁元年6月5日) 三番引付頭人となる
・1293年(永仁元年10月20日) 執奏となる
・1293年(永仁元年12月20日) 従五位上(19歳)となる
・1294年(永仁2年1月30日) 右馬権頭となる
・1297年(永仁5年7月) 二番引付頭人(23歳)となる
・1299年(正安元年2月27日) 正五位下(25歳)となる
・1301年(正安3年8月22日) 鎌倉幕府第10代執権となる
・1301年(正安3年9月27日) 相模守に遷任(27歳)される
・1304年(嘉元2年10月) 従四位下となる
・1311年(応長元年9月21日) 出家し道覚と号する
・1311年(応長元年9月22日) 鎌倉において、数え年37歳で亡くなる

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