ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:坂本龍馬

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 今日は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、薩摩藩と長州藩との間で、江戸幕府を倒すための同盟(薩長同盟)が結ばれた日ですが、新暦では3月7日となります。
 薩長同盟(さっちょうどうめい)は、京都薩摩藩邸にて、土佐藩の坂本龍馬の立会いのもと、薩摩藩代表の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩代表の木戸孝允(桂小五郎)との間で成立した、江戸幕府を倒すための政治的・軍事的密約で、薩長盟約または薩長連合とも呼ばれてきました。
 薩摩藩は、1863年(文久3年8月18日)に中川宮と会津藩に協力して、長州藩勢力を京都から追放(八月十八日の政変)や翌年7月19日に、上京出兵した長州藩兵と戦火を交え(禁門の変)敗走させ、長州藩は徳川幕府から第一次長州征討を受けるなど、薩長両藩はことごとく反目し合います。しかし、薩摩藩では大久保利通らの討幕派が藩論を動かし、薩長両藩の指導層は急速に接近することとなり、幕府の薩長討伐計画が漏れるに及んで、両藩は土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介のもとにこれまでの対立反目を解消するため、1866年(慶応2年1月21日)に、京都の薩摩藩邸において、会談しました。
 その結果、「薩長六ケ条盟約」が成り、これによって同年6月より戦いが始まった第2次長州征伐では、薩摩藩が幕府の征長を背後から妨げ、一方長州藩は高杉晋作や桂らの奮戦により、幕府軍は諸所で敗退、形勢悪化の内に第14代将軍徳川家茂が大坂城中で没したため、長州と和して、同年9月に撤兵します。その後、討幕運動は大きく前進し、翌年10月14日の大政奉還から12月9日の王政復古の大号令、そして明治維新へと至りました。
 以下に、「薩長六ケ条盟約」を現代語訳付で掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇「薩長六ケ条盟約」 1866年(慶応2年1月21日)

木戸孝允(桂小五郎)が会談内容を六ケ条にまとめ、内容確認のため坂本龍馬に送付した書簡(慶応2年1月23日付)による

(表書)

一、戦と相成候時は、直様二千余之兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華[1]へも千程は差置[2]、京・坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上、屹度[3]尽力之次第有之候との事

一、万一負色[4]に有之候とも、一年や半年に決て潰滅[5]致し候と申事は無之事に付、其間には必尽力之次第屹度[3]有之候との事

一、是なり[6]にて幕兵東帰[7]せしときは、屹度[3]朝廷へ申上、直様冤罪[8]は従朝廷御免[9]に相成候都合に、屹度[3]尽力との事

一、兵士をも上国[10]之上、橋・会・桑[11]等も如只今次第にて、勿体なくも[12]朝廷を擁し奉り、正義を抗み[13]、周旋尽力之道を相遮り候ときは、終に及決戦候外は、無之との事

一、冤罪[7]も御免[9]之上は、双方誠心[15]以相合し、皇国之御為に砕身[16]尽力仕候事は不及申、いづれ之道にしても、今日より双方皇国之御為皇威[17]相暉き、御回復に立至り候を目途[18]に誠心[15]を尽し、屹度[3]尽力可仕との事

(裏書)

表に御記被成候六条ハ、小・西両氏[19]及老兄・龍等も御同席ニて談論[20]セし所ニて毛も[21]相違無之候、後来[22]といへとも決して変わり候事無之ハ神明[23]の知る所ニ御座候、
丙寅 二月五日 坂本龍

    『史義史料』四より

【注釈】

[1]浪華:なにわ=大阪(大坂)のこと。
[2]差置:さしおく=人や物をある位置・場所にとどめる。
[3]屹度:きっと=確かに。必ず。
[4]負色:まけいろ=戦いに、負けそうな様子。敗色。
[5]潰滅:かいめつ=ひどくこわれてだめになること。
[6]是なり:これなり=物事が、そこに示されているままの状態、様子でこれきり変わらないさま。現在の状態。今のまま。このまま。
[7]東帰:とうき=東の地に戻ること。この場合は、江戸へ戻ること。
[8]冤罪:えんざい=罪がないのに疑われ、または罰せられること。無実の罪。ぬれぎぬ。
[9]御免:ごめん=容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。
[10]上国:じょうこく=都へ上ること。上京。
[11]橋・会・桑:きょう・かい・そう=一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)のこと。
[12]勿体なくも:もったいなくも=申すも畏れ多いことに。畏れ多くも。
[13]抗み:こばみ=張り合う。手向かう。さからう。
[14]周旋:しゅうせん=当事者間に立って世話をすること。とりもち。なかだち。斡旋。
[15]誠心:せいしん=心に偽りのないこと。真実の心。また、そのさま。まごころ。
[16]砕身:さいしん=身をくだくほど献身的につとめること。献身的に働くこと。
[17]皇威:こうい=天皇の威光。皇帝の威勢。
[18]目途:もくと=めあて。目的。
[19]小・西両氏:こ・さいりょうし=小松帯刀・西郷隆盛両氏のこと。
[20]談論:だんろん=談話と議論。また、談話し議論すること。論談。
[21]毛も:けも=非常にわずかなことのたとえ。ほんの少しも。
[22]後来:こうらい=この後。ゆくすえ。将来。
[23]神明:しんめい=神。神祇。

<現代語訳>

(表書)

一、(幕府と長州藩の間で)戦となった時は、すぐに2,000余の兵を急いで上京させ、現在在京の兵と合わせて、浪華(大坂)へも1,000程は駐留させて、京都・大坂の両所を守備させること。

一、戦局が自然に我らの勝利と成りそうなとき、その時は(薩摩藩は)朝廷へ上申して、きっと(長州藩のため)尽力するようにすること。

一、万が一敗戦濃厚になったときも、一年や半年では決して壊滅することはないので、その間には必ず尽力するべきようにしてほしいこと。

一、勝負がつかなくて、幕府兵が江戸へ帰還したときは、きっと朝廷へ上申し、すぐに冤罪は朝廷より許してもらえるように、必ず尽力してほしいこと。

一、兵士をも上京の上、一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)等も今のような状態では、畏れ多くも朝廷を擁し奉って、正義に抗い、周旋尽力の道を遮断されたときは、ついに(薩摩藩も)決戦におよぶ他ないこと。

一、(長州藩の)冤罪も晴れたならば、薩長双方が真心を以て一緒になり、皇国のために献身的に力を尽くすことは言うに及ばず、いづれの道にしても、今日より薩長双方が皇国のため、皇威を発揚し、その回復が出来ることを目標に真心を尽し、きっと尽力するべきこと。

(裏書)

表にお記しになった六ケ条は、小松帯刀・西郷隆盛両氏および老兄・龍馬なども同席した上で、談話・議論した結果であり、ほんの少しも相違のないものです。この後と言っても、決してこれが変わる事がない事は、神様の知る所であります。

慶応二年二月五日 坂本龍馬

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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、薩摩藩と土佐藩の間で、「薩土盟約」が結ばれた日ですが、新暦では7月23日となります。
 薩土盟約(さつどめいやく/さっとめいやく)は、薩摩藩と土佐藩の間で結ばれた、幕藩制に代わる国家を構想しようとしたもので、大政奉還による列侯公議政体を目ざした盟約書でした。1867年(慶応3)5月の四侯会議解体後の政局の中で、武力討幕を企てる薩摩藩と大政奉還・公議政体が藩論の土佐藩とが、同年6月22日に京都三本木料亭「吉田屋」において会合を持ちます。
 土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟・坂本龍馬と薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らが集まって議論の上、倒幕挙兵に替わり、大政奉還を骨子とする政治同盟を結んだものでした。しかし、同年10月13日に岩倉具視が大久保利通に薩摩藩主島津忠義父子に宛てた倒幕の密勅を渡し、薩摩藩が倒幕運動の名分を得たことで破棄されています。
 以下に、「薩土盟約」の原文と現代語訳を載せておきますので、ご参照下さい。

〇「薩土盟約」慶応三年六月付

約定の大綱

一国体を協正し万世万国に亘て不耻是第一義
一王政復古は論なし宜しく宇内の形勢を察し参酌協正すべし
一国に二王なし家に二主なし政刑唯一君に帰すべし
一将軍職に居て政柄を執る是天地間あるべからざるの理なり宜しく侯列に帰し翼戴を主とすべし
右方今の急務にして天地間常に有之大條理なり心力を協一にして斃て後已ん何ぞ成敗利鈍を顧るに暇あらむや
  皇慶応丁卯六月

約定書

一方今皇國の務國體制度を糺正し万國に臨て不耻是第一義とす其要王制復古宇内之形勢を參酌して下後世に至て猶其遺憾なきの大條理を以て處せむ國に二王なし家に二主なし政刑一君に歸す是れ大條理なり我皇家綿々一系万古不易然るに古郡縣の政變して今封建の體と成り大政遂に幕府に歸す上皇帝在を知らず是を地球上に考るに其國體制度如茲者あらんや然則制度一新政權朝に歸し諸侯會議人民共和然後庶幾ハ以て万國に臨て不耻是以初て我皇國の國體特立する者と云ふべし若二三の事件を執り喋々曲直を抗論し朝幕諸侯倶に相辯難し枝葉に馳せ小條理に止り却て皇國の大基本を失す豈に本志ならむや爾後執心公平所見万國に存すべし此大條理を以て此大基本を立つ今日堂々諸侯の責而已成否顧る所にあらず斃而後已ん今般更始一新皇國の興復を謀り奸邪を除き明良を擧げ治平を求天下萬民の爲に寬仁明恕の政を爲んと欲し其法則を定る事左の如し

一天下の大政を議定する全權は朝廷にあり我皇國の制度法則一切の万機議事室より出を要す
一議事院を建立するは宜しく諸侯より其の入費を貢獻すべし
一議事院上下を分ち議事官は上公卿より下陪臣庶民に至るまで正義純粹の者を撰擧し尚且諸侯も自分其職掌に因て上院の任に充つ
一將軍職を以て天下の萬機を掌握するの理なし自今宜しく其職を辭して諸侯の列に歸順し政權を朝廷へ歸すべきハ勿論なり
一各港外國の條約、兵庫港に於て新に朝廷之大臣諸大夫と衆合し道理明白に新約定を立て誠實の商法を行ふべし
一朝廷の制度法則は往昔より律例ありといへども當今の時勢に參し或は當らざる者あり宜しく弊風を一新改革して地球上に愧ざるの國本を建てむ
一此皇國興復の議事に關係する士大夫は私意を去り公平に基き術策を設けず正實を貴び既往の是非曲直を不問人心一和を主として此議論を定むべし
右約定せる盟約ハ方今の急務天下之大事之に如く者なし故に一旦盟約決議之上は何ぞ其事の成敗利鈍を顧んや唯一心協力永く貫徹せむ事を要す

 六月                  (慶明雜録)

   勝田孫彌著『西鄕隆盛傳』より

<現代語訳>

約定の大綱

一、国体を協力して正し、あらゆる世の中、あらゆる国に臨んで恥じないことを第一義とする。
一、王制復古については当然の事であり、天下の形勢をあれこれ照らし合わせて取捨し、協力して正すべきこと。
一、一つの国に二人の王はなく、一つの家に二人の主人はいない。政治と刑罰を行うのは、一人の君主に帰着すること。
一、将軍職において政務を執行すること、これは万物にあるべきではない道理であり、当然に諸侯(大名)の列に戻り、天皇を補佐することを主とすべきである。
右は以後の急務であり、万物に常にある大きな物事の道理である。精神力を協一にして倒れるまで努力を続けるべきで、どうして成否について振り返ってみる暇があるだろうか、いやない。
  皇慶応3年(1867年)6月22日

約定書

一、以後天皇の国の務として国体制度の正・不正をただし、あらゆる国に臨んで恥じないこと、これを第一義とする。その要は、王制復古について天下の形勢をあれこれ照らし合わせて取捨し、下に向かって世に至てなおその心残りがなきの大きな物事の道理をもって処置する。一つの国に二人の王はなく、一つの家に二人の主人はいない。政治と刑罰を行うのは、一人の君主に帰着する。これは、大きな物事の道理である。私たちの天皇家は絶えることなく綿々と続いていつまでもかわっていない、それにもかかわらず古に郡県の政変によって、今の封建制度と成り、天下の政治はついに幕府に帰着してしまった。上に天皇があるのを知らず、これを地球上で考えるにその国体制度にとってどのようなものであろう、このようなものであってはならないはずだ。そうだとすれば、制度を一新し、政権を朝廷に帰着させ、諸侯(大名)会議と人民が和合して事に当たり、その後はあらゆる国に臨んで恥じないことを切望する。これをもってはじめて、私たち天皇の国の国体を自立することが出来る。もし、二三の事件を取り上げ、しきりにしゃべって正邪を抗論し、朝廷、幕府、諸侯(大名)ともに相手の不正や誤りを論じ立てて非難し、主要でない部分に走って、小さな物事の道理にとどまっては、かえって天皇の国の大きな基本を失ってしまう。これでどうして本当の志となろうか、いやなりはしない。この後は、こだわって公平な見方ですべて国のこととすべきである。この大きな物事の道理に従って、この大基本を立てる。今日厳然と諸侯(大名)の責任があるばかりだ、成否について振り返ってみるものではなく、倒れるまで努力を続けるべきである。今度さらに、一新をはじめて天皇の国の再興をはかり、よこしまな人を除き、賢明な君主と忠良な臣下が事を起こし、泰平を求めて国中のすべての人民のために心が広くて情け深く、明るく思いやりのある政治をしようと考え、その約定を定める事、左のようである。

一、「天下の大政」を評議決定する全権は朝廷にあり、私たち天皇の国の制度や法令の一切は京都の議事堂から発令されるべきである。
一、議事院設置にかかる経費は諸藩の費用負担で行うこと。
一、議事院は上院と下院の二院制とし、議事官(議員)は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで、「正義純粋」の者を選挙し、なおかつ諸侯(大名)も職掌によって上院議員に充てる。
一、将軍職は国のすべてを掌握する道理はない。以後は当然にその職を辞して諸侯(大名)の列に戻り、政権を朝廷へ返すのはもちろんのことである。
一、各港の外国との条約については、兵庫港(神戸港)において新に朝廷の大臣が諸侯(大名)と寄り集まり、道理がはっきりとした新条約を結び、誠実な商いを行うこと。
一、朝廷の制度法則は昔からの律令があるといっても、この頃の時勢に際してあるいは妥当ではないものもあり、当然に弊害のあるものを一新改革して、地球上に恥じない国の基礎を建てる。
一、この天皇の国の復興の議事に当たる者は、私意を捨て公平に基づいてはかりごとをせず、誠実であることを貴んで、今までの物事のよしあしや正邪を問わず、人間としての心を一つにすることを主としてこの議論を行うべきである。
右のとおり約定した盟約は、以後の急務であり、国家の大事はこれに及ぶものはない。従っていったん盟約決議した上は、どうしてその事の成功を顧わずにいられようか、ただ一心に協力して久しく貫徹する事が必要である。

 6月                (慶明雜録)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1853年(嘉永6)江戸幕府第12代将軍徳川家慶の命日(新暦7月27日)詳細
1945年(昭和20)戦時緊急措置法」が公布される(本土決戦に備えて政府に委任立法権を規定)詳細
1965年(昭和40)日本と大韓民国との間で、「日韓基本条約」が調印される詳細
1972年(昭和47)自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)が制定・公布される詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、坂本龍馬が長崎から兵庫へ向かう藩船の中で、「船中八策」を著したとされる日ですが、新暦では7月13日となります。
 船中八策(せんちゅうはっさく)は、1867年(慶応3)6月9日に土佐藩船夕顔丸で、長崎を出発して上京する途中の船中で、同乗の土佐藩士後藤象二郎に示した新国家構想(朝廷中心の政体実現の為の8ヶ条)でした。筆記者は海援隊書記の長岡謙吉で、大政奉還、公議政体、無窮の大典(憲法)制定、海軍拡張、親兵設置、幣制改革など、集権的な統一国家を構想するものです。
 大政奉還は、土佐藩の建白によって実現し、その他は、「五箇条の誓文」および新政府の課題として受け継がれました。以下に、「船中八策」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇坂本竜馬とは?

 江戸時代後期に活躍した幕末の志士です。1836年1月3日(天保6年11月15日)に、土佐の高知城下(現在の高知県高知市)で、町人郷士の父坂本直足と母幸の次男としてに生まれましたが、本名は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)でした。
 1848年(嘉永元)に日根野弁治の道場に入門して小栗流を学び、1853年(嘉永6)には、1年間江戸に遊学し、北辰一刀流千葉道場の門人となります。帰国してから、1861年(文久元)に、武市瑞山らの土佐勤王党結成に参画しますが、あきたらず翌年に脱藩し、諸国を放浪したのち江戸に出て勝海舟の門に入りました。
 その中で、神戸海軍操練所開設に尽力し、塾頭をつとめたものの挫折します。その後、紆余曲折を経て、1865年(慶応元)年に土佐脱藩の仲間を中軸に長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成しました。船を運用しての商業活動を進める一方、討幕のために対立する薩摩と長州を結びつける政治活動を行い、翌年1月には京都で薩長同盟を結ばせることに成功します。
 後藤象二郎と共に練った「船中八策」により、前藩主山内容堂を説いて大政奉還建白を引き出し、1867年(慶応3)10月の徳川慶喜の大政奉還に結実しました。そして、「船中八策」を元に「新政府綱領八策」を起草し、新政府の構築を構想したものの、同年11月15日に京都近江屋で中岡慎太郎(2日後に死亡)と共に襲われ、33歳の若さで亡くなっています。

〇「船中八策」

一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。

一、上下議政局[1]を設け、議員を置きて万機[2]を参賛せしめ、万機[2]宜しく公議[3]に決すべき事。

一、有材の公卿・諸侯及天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。

一、外国の交際広く公議[3]を採り、新に至当の規約を立つべき事。

一、古来の律令を折衷し、新に無窮[4]の大典[5]を撰定すべき事。

一、海軍宜しく拡張すべき事。

一、御親兵[6]を置き、帝都を守衛せしむべき事。

一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。

 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。

  「坂本竜馬関係文書」より

【注釈】
 [1]上下議政局:じょうげぎせいきょく=上院・下院、つまり二院制議会のこと。
 [2]万機:ばんき=すべての政治。国家のまつりごと。
 [3]公議:こうぎ=公平な議論。
 [4]無窮:むきゅう=きわまりのないこと。永遠。無限。
 [5]大典:たいてん=国の根本的法律。憲法。
 [6]親兵:しんぺい=君主などの護衛として、その身近に置く兵。
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 今日は、1867年(慶応3)に、幕末の志士坂本龍馬が京都で暗殺(近江屋事件)された日ですが、新暦では12月10日となります。
 坂本龍馬は、江戸時代後期の1836年1月3日(天保6年11月15日)に、土佐の高知城下(現在の高知県高知市)で、町人郷士の父坂本直足と母幸の次男としてに生まれましたが、本名は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)でした。
 1848年(嘉永元)に日根野弁治の道場に入門して小栗流を学び、1853年(嘉永6)には、1年間江戸に遊学し、北辰一刀流千葉道場の門人となります。
 帰国してから、1861年(文久元)に、武市瑞山らの土佐勤王党結成に参画しますが、あきたらず翌年に脱藩し、諸国を放浪したのち江戸に出て勝海舟の門に入りました。その中で、神戸海軍操練所開設に尽力し、塾頭をつとめたものの挫折します。
 その後、紆余曲折を経て、1865年(慶応元)年に土佐脱藩の仲間を中軸に長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成しました。船を運用しての商業活動を進める一方、討幕のために対立する薩摩と長州を結びつける政治活動を行い、翌年1月には京都で薩長同盟を結ばせることに成功します。
 後藤象二郎と共に練った「船中八策」により、前藩主山内容堂を説いて大政奉還建白を引き出し、1867年(慶応3)10月の徳川慶喜の大政奉還に結実しました。
 そして、「船中八策」を元に「新政府綱領八策」を起草し、新政府の構築を構想したものの、同年11月15日に京都近江屋で中岡慎太郎(2日後に死亡)と共に襲われ、33歳の若さで亡くなったのです。

〇「新政府綱領八策」(全文)1867年(慶応3年11月)

新政府綱領八策  

第一義
天下有名ノ人材ヲ招致シ 顧問ニ供フ
第二義
有材ノ諸侯ヲ撰用シ 朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ 現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義
外国ノ交際ヲ議定ス
第四義
律令ヲ撰シ 新ニ無窮ノ大典ヲ定ム 律令既ニ定レバ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ス
第五義
上下議政所
第六義
海陸軍局
第七義
親兵
第八義
皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス

右預メ二三ノ明眼士ト議定シ 諸侯会盟ノ日ヲ待ッテ云々○○○自ラ盟主ト為リ 此ヲ以テ朝廷ニ奉リ 始テ天下万民ニ公布云々 強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス 権門貴族モ貸借スル事ナシ
 慶応丁卯十一月
     坂本直柔

                      国立国会図書館デジタルコレクション「石田英吉関係文書」より

<現代語訳>

新政府綱領八策

第一義
 世の中のすぐれた人材を招いて、顧問にする
第二義
 すぐれた人材の大名を撰んで用い、朝廷の官爵を授け、今となっては有名無実となっている官を除く
第三義
 外国との外交・貿易を取り決める
第四義
 今までの律令を検討し、新しく国家の基本となる法律(憲法)を定める。律令が定まったならば、諸大名は皆これに従って家来を引率する
第五義
 二院制の議会          
第六義
 海陸軍局
第七義
 護衛兵
第八義
 日本の現在の金銀の交換比率や物価を外国と同じようにする

右あらかじめ二三の有識者と会議を開いて決定し、諸侯が集まって盟約を結ぶ日を待つてという話である。○○○自ら同盟の主催者といつわって、これを以て朝廷に献上し、はじめて天下萬民に公布したという話である。強く抗い非礼な者、公平な議論に違う者は、きっぱりと征伐する。権力・勢力のある家や身分や家柄の尊い人も容赦する事はない。

慶応丁卯十一月 坂本直柔

【注釈】
 [1]議定:ぎてい=会議を開いて事を決定すること。
 [2]無窮:むきゅう=きわまりのないこと。永遠。無限。
 [3]大典:たいてん=国の根本的法律。憲法。
 [4]上下議政局:じょうげぎせいきょく=上院・下院、つまり二院制議会のこと。
 [5]親兵:しんぺい=君主などの護衛として、その身近に置く兵。
 [6]皇国:こうこく=天皇の治める国、つまり日本のこと。
 [7]明眼士:みょうがんし=物事の真実を明らかに見通せる人。有識者。
 [8]諸侯会盟:しょこうかいめい=諸侯または各国の使臣などが集まって盟約を結ぶこと。
 [9]盟主:めいしゅ=同盟の主宰者。同盟の中で中心となる人。
 [10]強抗非礼:きょうこうひれい=強く抗い、非礼なこと。
 [11]公議:こうぎ=公平な議論。
 [12]権門貴族:けんもんきぞく= 官位が高く権力・勢力のある家や身分や家柄の尊い人。
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