薩摩藩は、1863年(文久3年8月18日)に中川宮と会津藩に協力して、長州藩勢力を京都から追放(八月十八日の政変)や翌年7月19日に、上京出兵した長州藩兵と戦火を交え(禁門の変)敗走させ、長州藩は徳川幕府から第一次長州征討を受けるなど、薩長両藩はことごとく反目し合います。しかし、薩摩藩では大久保利通らの討幕派が藩論を動かし、薩長両藩の指導層は急速に接近することとなり、幕府の薩長討伐計画が漏れるに及んで、両藩は土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介のもとにこれまでの対立反目を解消するため、1866年(慶応2年1月21日)に、京都の薩摩藩邸において、会談しました。
その結果、「薩長六ケ条盟約」が成り、これによって同年6月より戦いが始まった第2次長州征伐では、薩摩藩が幕府の征長を背後から妨げ、一方長州藩は高杉晋作や桂らの奮戦により、幕府軍は諸所で敗退、形勢悪化の内に第14代将軍徳川家茂が大坂城中で没したため、長州と和して、同年9月に撤兵します。その後、討幕運動は大きく前進し、翌年10月14日の大政奉還から12月9日の王政復古の大号令、そして明治維新へと至りました。
以下に、「薩長六ケ条盟約」を現代語訳付で掲載しておきましたので、ご参照下さい。