今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府が国際連盟事務局に脱退の通告(1935年発効)を行った日です。
国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)は、国際連盟創立以来の原加盟で、常任理事国となっていた日本が、1933年(昭和8)の国際連盟総会でのリットン調査団の報告書により、満州国を不承認としたことに反発、2月24日の対日勧告を含む報告案の票決の結果、42票対1票、棄権1票(タイ)によって可決されたことを不服として退場し、3月27日に国際連盟脱退を通告(1935年発効)したことでした。
それ以前の1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件(関東軍の謀略による柳条湖付近の南満州鉄道線路爆破事件)の3日後、中国は国際連盟に日本を提訴し、日本は列国から問責非難される立場に立たされます。しかし、翌年3月に、関東軍は満州全土を占領し、清朝最後の皇帝溥儀を「執政」に迎えて、「満州国」の建国を宣言させました。
リットン調査団は1932年(昭和8)2月29日に来日、3月から6月まで現地および日本を調査を行ないます。日本は、「満州国」を既成事実化しようとし、同年9月には、「日満議定書」を交わし、満州の独立を承認しました。
同年10月には、リットン調査団はこの調査結果を「リットン報告書」として提出、その中で、日本の行為は侵略であると認定しましたが、満州に対する日本の権益は認め、日本軍に対しては満州からの撤退を勧告したものの、南満州鉄道沿線については除外されます。
同年12月に開催された国際連盟総会では、日中両国の意見が激しく対立し、両国を除く十九人委員会に問題が付託されました。翌年2月の国際連盟総会で、リットン調査団報告書を審議し、2月24日の票決の結果、42票対1票、棄権1票(タイ)によって可決され、日本の松岡洋右全権以下の代表団は抗議して、総会から退場します。次いで同年3月27日に、昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府は連盟事務局に脱退の通告(1935年発効)を行うとともに、同日脱退の声明を発表しました。
以後、日本は国際的孤立の道を歩むことになり、やがてドイツ・イタリアとの提携の道へと進むこととなります。
以下に、「国際連盟脱退ノ詔書」と「国連脱退通告文」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「国際連盟脱退ノ詔書」1933年(昭和8)3月27日
国際聯盟脱退ノ詔書
朕惟フニ曩ニ世界ノ平和克復シテ国際聯盟ノ成立スルヤ皇考之ヲ懌ヒテ帝国ノ参加ヲ命シタマヒ朕亦遺緒ヲ継承シテ苟モ懈ラス前後十有三年其ノ協力ニ終始セリ
今次満洲国ノ新興ニ当リ帝国ハ其ノ独立ヲ尊重シ健全ナル発達ヲ促スヲ以テ東亜ノ禍根ヲ除キ世界ノ平和ヲ保ツノ基ナリト為ス然ルニ不幸ニシテ聯盟ノ所見之ヲ背馳スルモノアリ朕乃チ政府ヲシテ慎重審議遂ニ聯盟ヲ離脱スルノ措置ヲ採ラシムルニ至レリ
然リト雖国際平和ノ確立ハ朕常ニ之ヲ冀求シテ止マス是ヲ以テ平和各般ノ企図ハ向後亦協力シテ渝ルナシ今ヤ聯盟ト手ヲ分チ帝国ノ所信ニ是レ従フト雖固ヨリ東亜ニ偏シテ友邦ノ誼ヲ疎カニスルモノニアラス愈信ヲ国際ニ厚クシ大義ヲ宇内ニ顕揚スルハ夙夜朕カ念トスル所ナリ
方今列国ハ稀有ノ政変ニ際会シ帝国亦非常ノ時艱ニ遭遇ス是レ正ニ挙国振張ノ秋ナリ爾臣民克ク朕カ意ヲ体シ文武互ニ其ノ職分ニ恪循シ衆庶各其ノ業務ニ淬励シ嚮フ所正ヲ履ミ行フ所中ヲ執リ協戮邁往以テ此ノ世局ニ処シ進ミテ皇祖考ノ聖猷ヲ翼成シ普ク人類ノ福祉ニ貢献セムコトヲ期セヨ
<読み下し文>
朕[1]、惟う[2]に、曩に[3]世界の平和、克復[4]して、国際聯盟の成立するや、皇考[5]、これを懌び[6]て帝国の参加を命じたまい、朕[1]、また遺緒[7]を継承して、いやしくも懈らず[8]、前後十有三年、その協力に終始[9]せり。
今次[10]、満洲国の新興に当り、帝国はその独立を尊重し、健全なる発達を促すをもって、東亜[11]の禍根[12]を除き、世界の平和を保つの基なりと為す。しかるに不幸にして、聯盟の所見[13]、これを背馳[14]するものあり。朕[1]、すなわち政府をして慎重審議、遂に聯盟を離脱するの措置を採らしむるに至れり。
然り[15]といえども、国際平和の確立は、朕[1]、常にこれを冀求[16]してやまず、これをもって平和各般[17]の企図は、向後[18]また協力して渝る[19]なし。今や聯盟と手を分ち[20]、帝国の所信[21]にこれ従うといえども、もとより東亜[11]に偏して友邦[22]の誼[23]を疎か[24]にするものにあらず。いよいよ信を国際に厚くし、大義[25]を宇内[26]に顕揚[27]するは、夙夜[28]朕[1]が念とする所なり。
今まさに、列国は、稀有[29]の政変に際会[30]し、帝国また非常の時艱[31]に遭遇す。これ正に挙国振張[32]の秋[33]なり。爾[34]臣民[35]、よく朕[1]が意を体し[36]、文武、互いに、その職分に恪循[37]し、衆庶[38]、おのおのその業務に淬励[39]し、嚮う[40]所、正を履み[41]、行ふ所、中を執り、協戮[42]、邁往[43]もってこの世局[44]に処し、進みて皇祖考[45]の聖猷[46]を翼成[47]し、普く[48]人類の福祉に貢献せむことを期せよ。
【注釈】
[1]朕:ちん=天皇の自称。私。
[2]惟う:おもう=よく考えてみる。思い巡らす。
[3]曩に:さきに=以前に。前に。かつて。さきごろ。
[4]克復:こくふく=困難な事態を乗り越えて、もとの状態にもどすこと。
[5]皇考:こうこう=在位中の天皇が、なくなったよく考えてみる君をいう語。ここでは大正天皇を指す。
[6]懌び:えらび=よろこぶ。
[7]遺緒:いしょ=先人の遺した事業。先祖の遺業。
[8]懈らず:おこたらず=しなくてはならない事をする。なまけない。精を出す。
[9]終始:しゅうし=始めから終わりまで同じであること。態度・行動・状態などを変えないで通すこと。
[10]今次:こんじ=このたび。今度。今回。
[11]東亜:とうあ=アジア州の東部。東アジア。日本・中国・朝鮮などの地域の総称。
[12]禍根:かこん=わざわいの生ずる原因や源。禍源。
[13]所見:しょけん=考え。意見。所懐。
[14]背馳:はいち=行き違うこと。反対になること。そむき離れること。
[15]然り:しかり=そうである。そのとおりである。そのようである。
[16]冀求:ききゅう=強く願い求めること。希望。
[17]各般:かくはん=いろいろ。それぞれ。各方面。諸般。
[18]向後:きょうこう=今からのち。こののち。以後。今後。
[19]渝る:かわる=物事の状態や質が、前と別の物になること。変化、変遷すること。
[20]手を分ち:てをわかち=別れる。また、関係を断つ。
[21]所信:しょしん=信じている事柄。信ずるところ。
[22]友邦:ゆうほう=互いに親しい関係にある国。
[23]誼:よしみ=親しい関係。親しい交際。
[24]疎か:おろそか=いいかげんに扱うさま。思いやりが薄いさま。
[25]大義:たいぎ=重要な意義。大切な意味。要義。
[26]宇内:うだい=天下。世界。
[27]顕揚:けんよう=世間に威光や評判などを広め高めること。
[28]夙夜:しゅくや=朝早くから夜遅くまで。あけくれ。一日中。昼夜。
[29]稀有:けう=存在がまれであること。めったに出現しないこと。
[30]際会:さいかい=事件、時機などにたまたま出会うこと。偶然の出会い。
[31]時艱:じかん=その時代の世の中の難儀。その時代の当面している難問題。時難。
[32]振張:しんちょう=ふるい起こすこと。盛んにすること。また、盛んになること。
[33]秋:とき=年。年月。
[34]爾:なんじ=二人称の人代名詞。相手を卑しめていう。貴様。おのれ。
[35]臣民:しんみん=臣としての人民。君主国の人民。また、旧憲法のもとで、天皇、皇・公族以外の者。
[36]意を体し:いをたいし=人の意見や気持を理解し、それに従って行動する。
[37]恪循:かくじゅん=つつしんで守ること。うやうやしく従うこと。
[38]衆庶:しゅうしょ=一般の人々。庶民。
[39]淬励:さいれい=気をひきしめて、つとめはげむ。
[40]嚮う:むかう=ある方向に向かう。
[41]履み:ふみ=一歩一歩踏みしめる。着実に行う。
[42]協戮:きょうりく=ともに力を合わせる。協力。
[43]邁往:まいおう=ひたすら進むこと。邁進。
[44]世局:せきょく=世の中のなりゆき。時局。
[45]皇祖考:こうそこう=天子、天皇のなくなった祖父を敬っていう語。
[46]聖猷:せいゆう=天皇のはかりごと。天子の計画。尊い計画。
[47]翼成:よくせい=助けて事をなしとげさせること。力を添えて成就させること。
[48]普く:あまねく=もれなくすべてに及んでいるさま。広く。一般に。
<現代語訳>
私(昭和天皇)が、よく考えてみるに、以前に世界の平和のため、戦争を乗り越えて、国際連盟が成立するに、父(大正天皇)は、これを喜んで大日本帝国の参加を命じられ、私(昭和天皇)は、またその遺業を継承して、いやしくも怠ることもなく、かれこれ十三年、その協力を同じように継続してきた。
今度、満洲国の新たな建国に当り、大日本帝国はその独立を尊重し、健全なる発達を促すことで、東アジアのわざわいの生ずる原因を除き、世界の平和を保持するの基となした。しかし不幸にして、国際連盟の考えは、これこれに背くものである。私(昭和天皇)は、すなわち政府をして慎重に審議させ、ついに国際連盟を離脱するための措置を採らせることに至った。
そうではあるが、国際平和の確立は、私(昭和天皇)が、常にこれを強く願い求めてやまず、これをもって平和に関する各方面の企図には、この後もまた協力することに変化はない。今や国際連盟と関係を断ち、大日本帝国の考えにこれ従うといっても、もとより東アジアに偏って、他の友好のための親しい関係をおろそかにするものではない。いよいよ信頼を国際的に厚くし、重要な意義を世界に広め高めることは、昼夜に渡って私(昭和天皇)が、祈念とする所である。
今まさに、列国は、めったにない政変に遭遇し、大日本帝国もまた非常なる時代の難問にぶちあたっている。これまさに国を挙げてふるい起こす年である。おまえたち臣民は、よく私(昭和天皇)の意見や気持を理解し、それに従って行動し、文官・武官は、互いに、その職分を謹んで守り、庶民は、おのおのその業務に勉め励み、向かうところ、正義を一歩一歩踏みしめ、行うところ、中道を執り、協力して邁進することによってこの時局に対処し、進んで祖父(明治天皇)の尊い計画に力を添えて成就させ、広く人類の福祉に貢献するようにせよ。
〇「国連脱退通告文」1933年(昭和8)3月27日発表
帝国政府は東洋平和を確保し延いて世界平和に貢献せんとする帝国の国是が、各国間の平和安寧を企図する国際連盟の使命とその精神を同じうする事を認め、過去十有三年に亙り連盟国として又常任理事国としてこの崇高なる目的の達成に協力し来たりたるを欣快とするものなり。而してその間帝国が常に他の如何なる国にも劣らざる熱誠を以って連盟に参画せるは厳として動かすべからざる事跡なると同時に、帝国政府は現下国際社会の情勢に鑑み世界諸地方に於ける平和の維持を計らんがためには此等各地方の現実の事態に即して連盟規約の運用を行うを要し、且斯くの如き公正なる方針により初めて連盟がその使命を全うしその権威の増進を期し得べきを確信せり。
昭和6年9月日支事件の連盟付託を見るや帝国政府は終始右確信に基き連盟の諸会議その他の機会において連盟が本事件を処理するに公正妥当なる方法を以ってし、真に東洋平和の増進に寄与するとともにその威信を顕揚せんが為には同方面に於ける現実の事態を的確に把握し該事態に適応して規約の運用を為すの肝要なるを提唱し、就中支那が完全なる統一国家にあらずしてその国内事情及び国際関係は複雑難渋を極め変則、例外の得意特異性に富めることかつて一般国際関係の基準たる国際法の諸原則及び慣例は支那についてはこれが適用に関し著しき変更を加えられ、その結果現に特殊且つ異常なる国際慣行成立しいれることを考慮にいるるの絶対に必要なる旨、力説強調し来れり。
然るに過去17箇月間連盟における審議の経過に徴するに、多数連盟国は東洋における現実の事態を把握せざるか、または之に直面し正当なる考慮を払わざるのみならず連盟規約其の他の諸条約及び国際法の原則の適用、殊にその解釈に付き帝国と此等連盟国との間にしばしば重大なる意見の相違あること明らかなれり。その結果本年2月24日臨時総会の採択せる報告書は帝国が東洋の平和を確保せんとする外何等異図なきの精神を顧みざると同時に、事実の認定及び此に基づく論断において甚だしき誤謬に陥り、就中9月18日事件当時及び其の後に於ける日本軍の行動を以って自衛権の発動に非ずと臆断し、また同事件前の緊張常態及び事件後に於ける事態の悪化が支那側の全責任に属するを看過し、為に東洋の政局に新なる紛糾の因を作れる一方、満州国成立の真相を無視し、且つ同国を承認せる帝国の立場を否認し、東洋における事態安定の基礎を破壊せんとするものなり。 殊にその勧告中に掲げられたる条件が東洋の康寧確保に何等貢献し得ざるは、本年2月25日帝国政府陳述書に詳述せる所なり。
之を要するに多数連盟国は日支事件の処理に当り、現実に平和を確保せんとするよりは適用不能なる方式の尊重を以っていっそう重要なりとし、また将来における紛争の禍根を芟除するよりは、 架空的なる理論の擁護を以って一段貴重なりとせるものと見る外なく、他面此等連盟国と帝国との間の規約その他の条約の解釈に付き重大なる意見の相違ある事前記の如くなるを以って、茲に帝国政府は平和維持の政策、殊に東洋平和確立の根本方針に付き連盟と全然其の所信を異にする事を確認せり。よって帝国政府は此の上連盟と協力するの余地なきを信じ、連盟規約第1条第3項に基き帝国が国際連盟より脱退することを通告するものなり。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1837年(天保8) | 元大坂東町奉行所与力・陽明学者大塩平八郎が市中潜伏中に幕吏に囲まれ、自刃する(新暦5月1日) | 詳細 |
1926年(大正15) | 歌人島木赤彦の命日(赤彦忌) | 詳細 |
1998年(平成10) | 小説家・ノンフィクション作家山本茂実の命日 | 詳細 |