
収録語数は39,103語で、①基本語も含めた普通語の辞書、②五十音順で配列、③近代的な品詞の略号と、古語・訛語俚語の印をつけ、活用を示す、④語釈に段階づけをする、⑤用例を載せるなどの特長があります。1891年(明治24)12月5日に第二版(一冊本)、1891年(明治24)12月に第二版(二冊本)、1904年(明治37)2月28日に小形版(縮刷版)、1909年(明治42)8月23日に中形版が刊行され、大正末年までに四百数十版を重ねました。
以後の普通語辞書の範となり、大槻文彦の晩年10数年は、その増訂に専心しましたが、1928年(昭和3)2月17日に82歳で亡くなり、その後、1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、増補した『大言海』が刊行されています。
以下に、国語辞典『言海』第四冊の奥書「ことばのうみのおくがき」を掲載しておきましたので、ご参照下さい。
1862年(文久2)に開成所に入学、英学・数学を学び、元服して父はじめ一家で仙台へ移住、翌年には、仙台藩校養賢堂に入ります。1866年(慶応2)に洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学び、江戸に出て開成所に再入学しました。
1870年(明治3)に大学南校に入り、英学・数学を学び、翌年に箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、日本文法を志し、国学を独学、1872年(明治5年)に文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられます。1875年(明治8)に文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、1884年(明治17)に国語辞典『言海』の草稿を完成させ、翌年には、『言海』稿本の再訂が終わって文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となりました。
1889年(明治22)に『日本辞書 言海』第1冊が刊行され、1891年(明治24)には、第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われます。1892年(明治25)に岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長、宮城書籍館館長(~1895年)となりました。
1897年(明治30)に『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行、1899年(明治32)に文学博士となり、翌年には、東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行します。1901年(明治34)に帝室博物館列品鑑査掛、1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913年)、1911年(明治44年)には、帝国学士院会員となりました。
1916年(大正5)に従七位から正五位に昇位、国語調査委員会から『口語法』、翌年には、『口語法別記』を刊行、口語研究にも新しい面を開きましたが、1928年(昭和3)2月17日に、東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなっています。尚、没後の1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、『言海』を増補した『大言海』が刊行されました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1897年(明治30) | 八王子大火で、死者42名、負傷者223名、焼失3,500余戸を出す | 詳細 |
1910年(明治43) | 彫刻家荻原守衛(碌山)の命日 | 詳細 |
1912年(明治45) | 映画監督・脚本家新藤兼人の誕生日 | 詳細 |
松本明治45年「北深志の大火」で、死者5名、焼失1,341戸の被害を出す | 詳細 | |
1950年(昭和25) | 日本戦歿学生記念会(わだつみ会)が結成される | 詳細 |
1993年(平成5) | 全国103ヶ所の施設が「道の駅」として初めて正式登録される | 詳細 |