ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、明治時代中頃の1891年(明治24)に、大槻文彦著の国語辞典『言海』第四冊(つ−を)が刊行され、全4巻が完結した日です。
 『言海』(げんかい)は、国語学者の大槻文彦が編纂した、日本初の近代的国語辞典です。明治時代前期の1875年(明治8)に、文部省の命により作成を開始、ウェブスターのオクタボ版にその構成を倣い、1884年(露維持17)に脱稿し、1889年(明治22)5月15日に第一冊(あ~お)、1889年(明治22)10月31日に第二冊(か−さ)、1890年(明治23)5月31日に第三冊(志−ち)、1891年(明治24)4月22日に『言海』第四冊(つ−を)を刊行して完結しました。
 収録語数は39,103語で、①基本語も含めた普通語の辞書、②五十音順で配列、③近代的な品詞の略号と、古語・訛語俚語の印をつけ、活用を示す、④語釈に段階づけをする、⑤用例を載せるなどの特長があります。1891年(明治24)12月5日に第二版(一冊本)、1891年(明治24)12月に第二版(二冊本)、1904年(明治37)2月28日に小形版(縮刷版)、1909年(明治42)8月23日に中形版が刊行され、大正末年までに四百数十版を重ねました。
 以後の普通語辞書の範となり、大槻文彦の晩年10数年は、その増訂に専心しましたが、1928年(昭和3)2月17日に82歳で亡くなり、その後、1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、増補した『大言海』が刊行されています。
 以下に、国語辞典『言海』第四冊の奥書「ことばのうみのおくがき」を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇国語辞典『言海』の発刊日程

・1889年(明治22)5月15日:『言海』第一冊(あ~お)
・1889年(明治22)10月31日:『言海』第二冊(か−さ)
・1890年(明治23)5月31日:『言海』第三冊(志−ち)
・1891年(明治24)4月22日:『言海』第四冊(つ−を)
・1891年(明治24)12月5日:『言海』第二版(一冊本)
・1891年(明治24)12月:『言海』第二版(二冊本)
・1904年(明治37)2月28日:小形『言海』(縮刷版)
・1909年(明治42)8月23日:中形『言海』
・2004年(平成16)4月:復刻版『言海』ちくま学芸文庫、解説武藤康史

〇国語辞典『言海』第四冊の奥書 1891年(明治24)4月22日刊行

ことばのうみのおくがき

大槻文彦

先人、嘗て、文彦らに、王父が誡語なりとて語られけるは、「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず、思ひさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず。」と語られぬ、おのれ、不肖にはあれど、平生、この誡語を服膺す。本書、明治八年起稿してより、今年にいたりて、はじめて刊行の業を終へぬ、思へば十七年の星霜なり、こゝに、過去經歴の跡どもを、おほかたに書いつけて、後のおもひでにせむとす、見む人、そのくだ/\しきを笑ひたまふな。
明治七年、おのれ、仙臺にありき、こは、その前年、文部省のおほせをうけたまはりて、その地に宮城師範學校といふを創立し、校長を命ぜられて在勤せしをりなりけり。さるに、この年の末に、本省より特に歸京を命ぜられて、八年二月二日、本省報告課(明治十三年に、編輯局と改められぬ。)に轉勤し、こゝにはじめて、日本辭書編輯の命あり、これぞ本書編輯着手のはじめなりける。時の課長は西村茂樹君なりき。
その初は、榊原芳野君とともに、編輯のおほせをかうむりたりしに、幾ほどなくて、榊原君は他にうつりて、おのれひとりの業とはなりぬ。後に聞けば、初め、辭書編輯の議おこれる時、和漢洋を具微せる學者數人、召しあつめられむの計畫にて、おのれは、那珂通高君の薦めなりきとか聞きつる。又これよりさきに、編輯寮にて語彙を編輯せしめられしに、碩學七八人して、二三年の間に、わづかに「あ、い、う、え」の部を成せりき。横山由清君もそのひとりなりしが、再擧ありと聞かれて、意見をのべられけるは、「語彙の編輯、議論にのみ日をすぐして成功なかりき、多人數ならむよりは、大槻一人にまかせられたらむには、却て全功を見ることあらむ、」といはれたりとなり。此事、横山君の直話なりとて、後に、清水卯三郎君、おのれに語られぬ。此業の、おのれひとりの事となれるは、かゝる由にてやありけむ。
初め、編輯の體例は、簡約なるを旨として、收むべき言語の區域、または解釋の詳略などは、およそ、米國の「ヱブスター」氏の英語辭書中の「オクタボ」といふ節略體のものに傚ふべしとなり。おのれ、命を受けつるはじめは、壯年鋭氣にして、おもへらく、「オクタボ」の注釋を翻譯して、語ごとにうづめゆかむに、この業難からずとおもへり。これより、從來の辭書體の書數十部をあつめて、字母の順序をもて、まづ古今雅俗の普通語とおもふかぎりを採收分類して、解釋のありつるは併せて取りて、その外、東西洋おなじ物事の解は、英辭書の注を譯してさしいれたり。かくすること數年にして、通編を終へて、さて初にかへりて、各語を逐ひて見もてゆけば、注の成れるは夙く成りて、成らぬは成らず、語のみしるしつけて、その下は空白となりて、老人の齒のぬけたらむやうなる所、一葉ごとに五七語あり。古語古事物の意の解きがたきもの、説のまち/\なるもの、八品詞の標別の下しがたきもの、語原の知られぬもの、動詞の語尾の變化の定めかぬるもの、假名遣の據るところなくして順序を立てがたきもの、動植物の英辭書の注解に據りたりしものゝ、仔細に考へわくれば、物は同じけれども、形状色澤の、東西の風土によりて異なるもの、其他、雜草、雜魚、小禽、魚介、さては、俗間通用の病名などにいたりては、支那にもなく、西洋にもなく、邦書にも徴すべきなきが多し。かく、一葉毎に、五七語づゝ、注の空白となれるもの、これぞ此編輯業の盤根錯節とはなりぬる。筆執りて机に臨めども、いたづらに望洋の歎をおこすのみ、言葉の海のたゞなかに櫂緒絶えて、いづこをはかとさだめかね、たゞ、その遠く廣く深きにあきれて、おのがまなびの淺きを耻ぢ責むるのみなりき。さるにても、興せる業は已むべきにあらず、王父の遺誡はこゝなりと、更に氣力を奮ひおこして、及ぶべきかぎり引用の書をあつめ、又有識に問ひ、書に就き、人に就き、こゝに求め、かしこに質して、おほかたにも解釋し、旁、又、別に一業を興して、數十部の語學書をあつめ、和洋を參照折中して、新にみづから文典を編み成して、終にその規定によりて語法を定めぬ。この間に年月を徒費せしこと、實に豫想の外にて、およそ本書編成の年月は、この盤根錯節のためにつひやせること過半なりき。(この間に、他書の編纂※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)訂など命ぜられ、又、音樂取調掛兼勤となりしことも數年なりき。)解釋をあなぐれる事につきて、そのひとつふたつを言はむ。某語あり、語原つまびらかならず、外國語ならむのうたがひあり、或人、偶然に「そは、何人か、西班牙語ならむといへることあり」といふ、さらばとて、西英對譯辭書をもとむれど得ず、「何某ならば西班牙語を知らむ、」君その人を識らば添書を賜へ、」とて、やがて得て、その人を訪ふ、不在なり、ふたゝび訪ひて遇へり、「おのれは深くは知らず、」さらば、君が識れる人に、西語に通ぜる人やあらむ、」某學校に、その國の辭書を藏せりとおぼゆ、」さらば添書を賜へ、」とて、さらにその學校にゆきて、遂にその語原を、知ることを得たりき。捕吏の、盜人を蹤跡する詞に、「足がつく」足をつける」といふことあり、語釋の穿鑿も相似たりと、ひとり笑へる事ありき。その外、酒宴談笑歌吹のあひだにも、ゆくりなく人のことばの、ふと耳にとまりて、はたと膝打ち、さなり/\と覺りて、手帳にかいつけなどして、人のあやしみをうけ、又、汽車の中にて田舍人をとらへ、その地方の方言を問ひつめて、はては、うるさく思はれつることなど、およそ、かゝるをこなる事もしば/\ありき。すべて、解釋の成れる後より見れば、何の事もなきやうにみゆるも、多少の苦心を籠めつる多かり。
おのれは漢學者の子にて、わづかに家學を受け、また、王父が蘭學の遺志をつぎて、いさゝか英學を攻めつるのみ、國學とては、さらに師事せしところなく、受けたるところなく、たゞ、おのが好きとて、そこばくの國書を覽わたしつるまでなり。さるを思へば、そのはじめ、かゝる重き編輯の命を、おふけなくも、いなまずうけたまはりつるものかな、辭書編輯の業、碩學すらなやめるは、これなりけりと思ひ得たるにいたりては、初の鋭氣、頓にくじけて、心そゞろに畏れを抱くにいたりぬ。また、局長には、おのれが業のはかどらぬを、いかにか思はるらむ、怠り居るとや思ひをらるらむ、などおもふに、そも、局長西村君は、そのはじめ、この業をおのれに命ぜられてより、ひさしき歳月をわたれるに、さらに、いかにと問はれし事もなく、うながされし事もなし、その意中推しはかりかねて、つねにはづかしく思へりき。さるに、明治十六年の事なりき、阿波の人井上勤君、編輯局に入り來られぬ、同君、まづ局長に會はれし時に、局中には學士も濟々たらむ、何がし、くれがし、と話しあはれたる時、局長のいはるゝに、「こゝに、ひとり、奇人こそあれ、大槻のなにがしといふ、この人、雜駁なる學問なるが、本邦の語學は、よくしらべてあるやうなり、かねて一大事業をまかせてより、今ははや十年に近きに、なほ、倦まずして打ちかゝりてあり、強情なる士にこそ」と、話されぬと、井上君入局して後に、ゆくりなくおのれに語られぬ。おのれ、この話を聞きて、局長の意中も、さては、と感激し、また、その「強情をとこ」の月旦は、おのれが立てつるすぢを洞見せられたりけり、「人の己を知らざるを憂へず」の格言もこれなりなど思ひて、うれしといふもあまりありき。げにや、そのかみの官衙のありさまは、※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57)忽に變遷する事ありて、局も人も事業も、十年の久しきに繼續せしは、希有なる事にて、おのれがこの業は、都下※[#「執/れんが」、U+24360、二-20]閙の市街のあひだにありて、十年の間、火災に燒けのこりたらむがごとき思ひありき。そも、この業の成れるは、おのれが強情などいはむはおふけなし、ひとへに、局長が心のよせひとつに成りつるなりけり、西村君は、實にこの辭書成功の保護者(Patron.)とや言はまし。
そのかみは、官途も、今のごとくにはあらず、奉承榮達の道も、今よりは、たはやすかりきとおぼゆ、同僚は、時めきて遷れるも多し、おのれに親しく榮轉を勸めたりし人さへも、ひとりふたりにはあらざりき、されど、かゝる事にて心の動く時は、つねに王父の遺誡を瞑目一思しぬ。明治十一年六月、おのが父にておはする人、七十八歳にして身まかられぬ、老い給ひての上の天然の事とはいへ、いまさらの事にて、哀しきことかぎりなし、今よりは、難義の教を受けむこともかなはずと思へば心ぼそし、辭書の成稿を見せまゐらせむの心ありしかども、そのかひもなし。この後幾ほどなき事なりき、同郷なる富田鐵之助君、龍動に在勤せられて、「來遊せよかし、おのれ、いかにもして扶持せむ、」など、厚意もて言ひおこせられたり。君の我を愛せらるゝこと、今にはじめぬ事ながらと、感喜踊躍して、さて思へらく、かゝる機會は多く得べからず、父の養ひはすでに終へつ、おのれは次子なり、家兄は存せり、家の祀、母のやしなひ、托すべき人あり、また妻もなく子もなし、幾年にてもあれ、海外に遊びてあられむ程はあらむ、いづこにも青山あらむ、海外にて死にもせむ、さらば、この土に、何をか一事業をとどめてゆかむ、その業は、すなはちこの辭書なるめり、いよ/\半途にして已むべきにあらず。かく思ひなりて、さて、その頃、おのれは本郷に住めり、父を養はむために營みつる屋敷なりけり、かゝる事の用にとならば、なき靈もいなみ給はじ、など思ひさだめて、やがて、そを賣りて、二千餘金を得、これに蓄餘を加へなどして、腰纒をとゝのへて、さて、ひたふるに辭書の成業をいそぎぬ。されども、例の盤根錯節は、たはやすく解けやらず、今はこうじにこうじて、推辭せむか、躱避せむか、棄てむ、棄てじ、の妄念、幾たびか胸中にたゝかひぬ、されど、かゝるをりには、例の遺誡を思ひ出でゝしば/\思ひしづめぬ。かくて心のみはやりて、こゝろならずも日をすぐせる内に、當時、楮幣洋銀の差大に起りて、備へつる腰纒は、思ひはかりし半ばかりとなり、幾程なく富田君も歸朝せられて、いよ/\呆然たり、さてこそ、この願望は一睡妄想の夢とは醒めたれ。およそ、この辭書編輯十年間は、おのれが旺壯の年期なりしを、またくこの事業の犧牲とはしたりき、善く世と推しうつりたらましかば、かばかり沈滯もせざらまし、今は已みなむ。然はあれど、又つら/\人の上を顧みおもふに、時めかしつるも、變遷しぬるも、さてその十數年間、何の業をかなせると見れば、黄粱一夢鴻爪刻船のさまなるも多かり、我には、數ならねど、此十年間の事業は痕をとゞめたり、相乘除せば、さまで繰言すべくもあらじ、まして、箕裘を繼ぎつる上はこの文學の道にかくてあらむは、おのれが分なり。さるにても、世の操觚の人は、史文に、綺語に、とかく、花も實もありて、聲聞利益を博せむ方にのみ就くに、おのれは、かゝる至難にして人後につき名も利も得らるまじきうもれ木わざに半生をうづみつるは、迂闊なる境涯なりけり。されど、この業、文學の上に、誰か必用ならずとせむ、必用なる業なれど人は棄てゝ就かず、おのれは人の棄てつる業に殉せり、いさゝか本分に酬ゆるところありともせむかし。
本篇引用の書にいたりては、謹みて中外古今碩學がたまものを拜す、實に皆その辛勤の餘澤なり、家に藏せる父祖が遺著遺書のめぐみ、また少からず。編輯中の質疑にいたりては、黒川眞頼、横山由清、小中村清矩、榊原芳野、佐藤誠實、等諸君の教、謝しおもふところなり。然して、稿本成りて、名を言海とつけられしは、佐藤誠實君の考選にいでたり。稿本の淨書をはじめつるは、明治十五年九月にて、局中にて、中田邦行、大久保初男の二氏を、この編輯業につけられ、※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)字寫字は、おほかたこの二氏の手に成れり。さて、初稿成れりし後も、常に訂正に從事して、その再訂の功を終へたるは、實に明治十九年三月二十三日なりき。
さて、局長西村君は、前年轉任せられ、おのれも、十九年十一月に、第一高等中學校教諭、古事類苑編纂委員などに移りて、本書出版の消息なども、聞く所あらず。ひとゝせ故文部大臣森有禮君の第に饗宴ありし時、おのれも招かれて、宴過ぎて後に、辻新次君と鼎坐して話しあへるをりにも、「君が多年苦心せる辭書、出版せばや、」など、大臣、親しく言ひいでられつる事もありしが、編輯の拙き、出版にたへずとにや、或は資金の出所なしとにや、その事も止みぬ。かくて、稿本は、文部省中にて、久しく物集高見君が許に管せらるときゝしが、いかにかなるらむ。はて/\は、いたづらに紙魚のすみかともなりなむなど、思ひいでぬ日とてもあらざりしに、明治二十一年十月にいたりて、時の編輯局長伊澤修二君、命を傳へられて、自費をもて刊行せむには、本書稿本全部下賜せらるべしとなり、まことに望外の命をうけたまはりて、恩典、枯骨に肉するおもひあり、すなはち、私財をかきあつめて資本をそなへ、富田鐵之助君、及び同郷なる木村信卿君、大野清敬君の賛成もありて、いよ/\心を強うし、踊躍して恩命を拜しぬ。かくて、編緝局の命にて、かならず全部の刊行をはたすべし、刊行の工事は同局の工塲に托すべし、篇首に、本書は、おのれ文部省奉職中編纂のものたることを明記すべし、そこばくの獻本すべし、などいふ約束を受けて、十月二十六日、稿本を下賜せられ、やがて、同じ工塲にて、私版として刊行することとはなりぬ。
刊行のはじめ、中田大久保の二氏、閑散なりしかば、家にやどして、活字の※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正せむことを托しぬ。稿本も、はじめは、初稿のまゝにて、たゞちに活字に付せむの心にて、本文のはじめなる數頁は、實にそのごとくしたりしが、數年前の舊稿、今にいたりて仔細に見もてゆけば、あかぬ所のみ多く出できて、かさねて稿本を訂正する事とし、※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)訂塗抹すれば、二氏淨書してたゞちに活字に付し、活字は、初より二回の※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正とさだめたれば、一版面、三人して、六回の※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正とはなりぬ。かくてより、今年の落成にいたるまで、二年半の歳月は、世のまじらひをも絶ちて、晝となく夜となく、たゞこの訂正※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)合にのみ打ちかゝりて、更に他事をかへりみず。さてまた、篇中の體裁も、注釋文も、初稿とは大に面目をあらためぬ。
本書刊行のはじめに、編輯局工塲と約して、全部、明年九月に完結せしめむと豫算したり。又、書林は、舊知なる小林新兵衞、牧野善兵衞、三木佐助の三氏に發賣の事を托せしに、豫約發賣の方法よからむとすゝめらるゝにしたがひて、全部を四册にわかちて、第壹册は三月、第二册は五月、第三册は七月、第四册は九月中に發行せむと假定しぬ。さるに、此事業、いかなる運にか、初より終まで、つねに障礙にのみあひて、ひとつも豫算のごとくなることあたはず、遂に完結までに、二年半をつひやせり、今、左にその障礙のいちじるきものをしるさむ。
明治二十二年三月にいたりて、編輯局の工塲を、假に印刷局につけられたるよしにて、その事務引きつぎのためにとて、數十日間、工事の中止にあひ、さて、二十三年三月にいたりて、編輯局の工塲は、終にまたく廢せられぬ。これより後は、一私人として、さらに印刷局に願ひいでずてはかなはず、その出願には、規則の手續を要せらるゝ事ありて、豫算にたがへる事もおこりしかば、編輯局にうれへまうす事どもありしかど、今はせむかたなしとて郤けられぬ、稿本下賜の恩命もあれば、しひて違約の愁訴もしかねて、それより、家兄修二、佐久間貞一君、益田孝君などの周旋を得て、とかくの手つゞきして、からうじて再着手とはなれり、此の間も、中止せられぬること、六十餘日に及びぬ。又、この前後、公用刊行の物輻湊する時は、おのれが工事は、さしおかれたる事もしば/\なりき。かく、數度の障礙にはあひつれど、この工事を他の工塲に托せむの心は起らざりき、さるは、同局の工事は、いふまでもなき事ながら、植字に※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正に、謹嚴精良なる事、麻姑を雇ひて癢處を掻くが如く、また他にあるべくもあらざればなり、見む人、本書を開きて目止めよかし。さてまた、本書植字の事、原稿の上にては、さまでとも思はざりしが、さて着手となりてみれば、假名の活字は、異體別調のものなれば、寸法一々同じからず、その外、くさ/″\の符號など、全版面に、およそ七十餘とほりのつかひわけあり、植字※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正のわづらはしきこと、熟練のうへにてもはかどらず、いかに促せどもすゝまず。又、辭書のことなれば、母型に無き難字の、思ひのほかに出できて、木刻の新調にいとまをつひやせる事、甚だ多し。およそ、これらの事、豫算には思ひもまうけぬ事どもにて、すべて遲延の事由とはなりぬ。又※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正者中田邦行氏、腦充血にて、二十二年六月に失せられぬ、本書の業につきては、その初より、大久保氏とともに、助力おほかたならず、多年、篇中の文字符號に熟練せる人を失ひて、いと/\こうじぬ。また、去年の春、流行性感冐行はれ、年の末より今年にかけて、ふたゝび行はれ、おのれも、※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正者も、植字工も、この前後再度の流行に、數日間倒れぬ。また、去年の十月、おのが家、壁隣の火に遇へり。また、※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正者大久保初男氏、その十一月、徳島縣中學校教員に赴任せられて、たのめる一臂を失ひていよ/\こうじぬ、およそこれらの事、皆此書の遭厄なり。これより後は、先人の舊門なる文傳正興氏に托して、※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正の事を擔任せしめぬ。
遭厄の中に、もとも堪へがたく、又成功の期にちかづきて、大にこの業をさまたげつるは、おのれが妻と子との失せつる事なりけり。爰には不用にもあり、くだ/\しうもあれど、おのれの身に取りては、この書の刊行中の災厄とて、もとも後の思ひでとならむ事なるべければ、人の見る目にも恥ぢず記しつけおかむとす。去々年十一月に生れたるおのが次女の「ゑみ」といへる、生れてよりいとすこやかなりしが、去年十月のはつかばかりより、感冐して、後に結核性腦膜炎とはなれり。醫高松氏が病院に、妻小婢(いそ)と共に托せしに、病性よからずして心をなやましぬ。朝夕に行きては、いたはしき顏をまもり、歸りては筆を執れども、心も心ならず。十一月十六日の、まだ宵のまに、まさに原稿の「ゆ」の部を訂正して、箏のおし手の「ゆしあんずるに」ゆのねふかうすましたり」などいふ條を推考せるをりに、小婢、病院よりはせかへりきて、家に入りて、物をもいはずそのまゝ打伏し聲立てゝ泣く、病の危篤なるを告ぐるなり、筆をなげうち、蹶起してはしりゆけば、煩悶しつゝやがて事切れぬ。泣く/\屍をいだきて家にかへり、床に安して、さて、しめやかに青き燈の下に、勉めてふたゝび机に就けば、稿本は開きて故の如し、見れば、源氏の物語、若菜の卷、「さりとも、琴ばかりは彈き取り給ひつらむ、云云、晝はいと人しげく、なほ、ひとたびもゆしあんずるいとまも、心あわたゞしければ、夜々なむしづかに、」云云、「ゆ」は「搖ること」なり、「あんずる」は「按ずる」にて、「左手にて絃を搖り押す」なり、又、紅葉の賀の卷、「箏の琴は、云云、いとうつくしう彈き給ふ、ちひさき御程に、さしやりてゆし給ふ御手つき、いとうつくしければ、」おのれが思ひなしにや、讀むにえたへで机おしやりぬ、この夜一夜、おのれが胸は、ゆしあんぜられて夢を結ばず。「死にし子、顏、よかりき」をんな子のためには、親、をさなくなりぬべし、」など、紀氏の書きのこされたりつるを、さみし思へることもありしが、今は、我身の上なり、宜なり、など思ひなりぬ。この小兒の病に心を痛めつるにや、打ちつづきて、家のうちに、母にておはする人をはじめとして、病に臥すもの、五人におよびぬ。妻なる「いよ」なげきのなかにも、ひとり、かひ/″\しく人々の看病してありしが、妻も、遂にこの月のすゑつかたより病に臥しぬ。初は、何の病ともみとめかねたるに、數日の後、膓窒扶斯なりとの診斷をきゝて、おどろきて、本郷なる大學病院に移して、また、晝に夜にゆきかよひて病をみ、病のひまをうかゞひては、歸へりて※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)訂の業に就けども、心はこゝにあらず、洋醫「ベルツ」氏も心をつくされけれど、遂に十二月廿一日に三十歳にてはかなくなりぬ。いかなる故にてか、かゝる病にはかゝりつらむ、年頃善く母に事へ我に事へ、この頃の我が辛勤を察して、よそながら、いたく心をいため、はた、家政の苦慮を我におよぼすまじと、ひとり思をなやましてまかなひつゝありける状なりしに、子のなげきをさへ添へつれば、それら、やう/\身の衰弱の種とはなりつらむ、さては、子の失せつるも、衰弱せる母の乳にやもとゐしつらむ、あゝ、今の苦境も後にいつか笑ひつゝ語らはむ、などかたらひたりしに、今はそのかひなし。半生にして伉儷を喪ひ、重なるなげきに、この前後數日は、筆執る力も出でず、強ひて稿本に向かへば、あなにく、「ろ」の部「ろめい」(露命)などいふ語に出であふぞ袖の露なる、卷を掩ひて寢に就けば、角枕はまた粲たり。そも、かゝるめゝしくをぢなき心を、こと/″\しう書いつけおかむは、人わらはれなるわざにて、はぢがましきかぎりなれど、この頃の筆硯の苦、人情の苦に、窮措大が嚢中の苦さへ、湊合しつる事なれば、後にこの書を見むごとに、おのれひとりが思ひやりにせむとてなり、讀まむ人は、あはれとも見ゆるし給へや。
本篇刊行の久しき年月のうちに、おもひまうけぬ災害の並び臻れること、上にいへるがごとくなれど、誰人かおのれが心事をおしはかりえむ。されば豫約せし人々は、もとより内情を知らるべきならねば、いつも、きびしく遲延をうながされて、發行書林の店頭には、毎回の督責状、うづだかきまでになりぬ、書林は又おのれを責めぬ、そが督責状なりとて持てくるをみれば、文面もさま/″\にて、をかしきもあるがなかに、「大虚槻(おほうそつき)先生の食言海」などしるしつけられつるもありき。おのれは、まさしく約束をたがへぬ、ひとへに謝するところなり、計畫のいたらざりしは、身を恨むる外あるべからず。そも/\、初より、豫約といふ事せしこと、かへす/″\もあやまりなりき、豫約だにせざりせば、かゝるあざけりにあふこともあらじを、など悔ゆれどもせんなし。されど、責めらるゝつらさに、夜もふくるまで筆は執りつ、責めらるゝくるしさに、及ぶかぎりは、印刷の方にも迫りつ、それだにかく後れたり、責められざらましかばいかにかあらまし、など思へば、豫約せしことも、僥倖なりきとも思ひなしぬ。さて、内外の苦情は、身ひとつにあつまりきて、陳謝に陳謝をかさねて、遁るべき道なくなりつ、又、ふたとせあまりがほどの坐食に、※(「にんべん+擔のつくり」、第3水準1-14-44)石の儲なきにも至りつ、今はせむすべなくて、さては、篇中、およそ七八分より末は、いそぎにいそぎて、十分なる重訂もえせられず、不用なるめりと思はるゝ語、又は、註に引ける例語のふたつみつあるなどは、愛を割きてけづりて、(篇首の數頁は、初稿のまゝなり、篇末、又かくのごとし、されば、前後の詳略の、釣りあはぬところも、又、符號などのそろはぬ所も出できつらむ、)ひとへに、完結の一日もはやからむことをのみ期しぬ。されば、初には、附録として、語法指南、字音假名づかひ、名乘字のよみ、地名苗字などの讀みがたきもの、和字、譌字、又は、諺、など添へむの心なりしかど、(語法指南のみは、篇首に載せつ)今はしばらくこゝにとぢめて、再版の時を待つことゝはせり。されど、初は、全篇の紙數、およそ一千頁と計りしが、大に注釋を増補する所ありて、全部完成のうへにては、紙數、二割ほどは殖えつらむ、これを乘除とも見よかし。
辭書は文教のもとゐたること、論ずるまでもなし、その編輯功用の要は、この序文にくはしければ、さらにも言はず。されば、文部省にても、夙くよりこの業に着手せられぬ、語彙の擧は、明治の初年にあり、その後、田中義廉、大槻修二、小澤圭二郎、久保吉人の諸氏に命ぜられて、漢字の字書(本邦普通用の漢字を三千ばかりに限らむとて採收解釋せるもの、)と普通の日本辭書とを編せられつる事もあり、こは、明治五年より七年にかけての事なりき、さて明治八年にいたりて、おのが言海は命ぜられぬ。世はやう/\文運にすゝみたり、辭書の世に出でつるも、今はひとつふたつならず。明治十八年九月、近藤眞琴君の「ことばのその」發刊となれり、二十一年七月に、物集高見君の「ことばのはやし、」二十二年二月に、高橋五郎君の「いろは辭典」も刊行完結せり。近藤君は、漢洋の學に通明におはするものから、その教授のいそがはしきいとまに、かゝる著作ありつるは、敬服すべきことなり。この著作の初に、おのれが文典の稿本を借してよとありしかば、借しまゐらせつれば、やがて全部を寫されたり、されば八品詞その外のわかちなどは、おのれが物と、名目こそは、いさゝかかはりつれ、そのすぢは、おほかた同じさまとはなれり。そのかみ、君をはじめとして、横山由清、榊原芳野、那珂通高、の君たちに會ひまゐらせつるごとに、「辭書はいかに、」と問はれたりき、成りたらむには、とこそ思ひつるに、今は皆世におはせず、寫眞にむかへども、いらへなし、哀しき事のかぎりなり。物集君は、故高世大人の後とて、家學の學殖もおはするものから、これも、教授に公務に、いとまあるまじくも思はるゝに、綽々餘裕ありて、そのわざを遂げられつること歎服せずはあらず。近藤君の著と共に、古書を讀みわけむものに、裨益多かりかし。「いろは辭典」は、その撰を異にして、通俗語、漢語、多くて、動詞などは、口語のすがたにて擧げられたり、童蒙のたすけ少からじ。三書、おの/\長所あり。おのれが言海、あやまりあるべからむこと、言ふまでもなし。されど、體裁にいたりては、別におのづから、出色の所なきにしもあらじ、後世いかなる學士の出でゝ、辭書を編せむにも、言海の體例は、必ずその考據のかたはしに供へずはあらじ、また、辭書の史を記さむ人あらむに、必ずその年紀のかたはしに記しつけずはあらじ。自負のとがめなきにしもあらざるべけれど、この事は、おのれ、いさゝか、行くすゑをかけて信じ思ふところなり。
おのれ、もとより、家道裕ならず、されば、資金の乏しきにこうじて、物遠き語とては漏しつる、出典の書名をはぶきつる、圖畫を加へざりつる、共にこの書の短所とはなりぬ、遺憾やらむかたなし。そも、おのれが學の淺き才の短き、この上に多く立ちまさりて、別にしいでむ事とてもあるまじけれど、今の目のまへにてもあれ、資本だに繼がば、これに倍せむほどのもの、つくりいでむは難からじなど、かけておもふ所なきにしもあらず。されど、我が國の文華は、開けつるがごとくみゆれど、いまだ開けず、資金をつひやして完全せしめむには、價を増さずはあるべからず、今の文化の度にては、物の品位に對して廉不廉などの比較は、おきていはず、たゞ書籍なんどいはむものに、そこばく圓といふ金出さんずる需用家の多からむとは、かけても望みえず。されば、たとひ資本を得たりとも、收支の合はざらむわざは、をこなりけりと思ひなりて、志を出費の犧牲として、さて已みつるなり。むかしの侯伯には、食前方丈侍妾數百人をはぶきて、文教の助けとある浩瀚の書を印行せしもありき、今の世にはありがたかり。こゝにいたりて、韓文公が宰相への上書をおもひいでゝ、あはれ、力ある人の一宴會の費もがな、などいやしげなるかたゐ心もいでくるぞかし、やみなむ/\、學者の貧しきは、和漢西洋、千里同風なりとこそ聞けれ、おのれのみつぶやくべきにあらず。さりながら、この業、もとより、このたびのみにして已むべきにあらず、年を逐ひて刪修潤色の功をつみ、再版、三版、四五版にもいたらむ、天のおのれに年を假さむかぎりは、斯文のために撓むことあるべからず。
今年一月七日、原稿訂正の功、またくしをへて、からうじて數年の辛勤一頓し、さて、今月に入りて、全部の印刷も、遂に全く大成を告げぬ、こゝに、多年の志を達して、かつは公命に答へたてまつり、かつは父祖の靈を拜して、いさゝか昔日の遺誡に酬い畢はんぬ。明治二十四年四月 平文彦

この文、もと、稿本の奧に書きつけおけるおのれがわたくし物にて、人に示さむとてのものならず、十七年があひだの痕、忘れやしぬらむ、後の思ひでにやせむ、とて筆立で[#「筆立で」はママ]しつるものなるが、事實を思ひいづるにしたがひて、はかなき述懷も浮びいづるがまに/\、ゆくりなくも、いやがうへに書いつけもてゆけるはて/\の、かうもくだ/\しうはなりつるなり。さて、本書刊行の成れるに及びて、跋文なし、人に頼まむ暇はなし、よし/\、この文を添へもし削りもして、その要とある所を摘みて跋に代へむ、など思ひはかりたりしに、今は、日に/\刊行の完結を迫られて、改むべき暇さへ請ひがたくなりたれば、已むことを得ずして、末に年月を加へて、淨書もえせずして、全文をそのまゝに活字に物することゝはなりにたり。さればこの文を讀むことあらむ人は、たゞその心して讀み給へかし、もし、さる事の心をも思ひはからず、打ちつけに讀み取りて、「たゞ一部の書を作り成し得たればとて、世に事々しき繰言もする人哉、心のそこひこそ見ゆれ、」などあながちに我をおとしめ言はむ人もあらば、そは、丈夫を見ること淺き哉、と言はむ。たゞ、かへす/″\も、ゆくりなき筆のすさびと見てほゝかし給へや。
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續古今集序
いにしへのことをも、筆の跡にあらはし、行きてみぬ境をも、宿ながら知るは、たゞこの道なり。しかのみならず、花は木ごとにさきて、つひに心の山をかざり、露は草の葉よりつもりて、言葉の海となる。しかはあれど、難波江のあまの藻汐は、汲めどもたゆることなく、筑波山の松のつま木は、拾へどもなほしげし。
同、賀
敷島ややまと言葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり  後京極

There is nothing so well done, but may be mended.

   「青空文庫」より

☆大槻文彦(おおつき ふみひこ)とは?

 明治から昭和時代前期に活躍した、国語学者・国語辞典『言海』の編纂者です。江戸時代後期の1847年(弘化4年11月15日)に、江戸木挽町(現在の東京都中央区東銀座)において、儒者大槻磐渓(ばんけい)の三男として生まれましたが、本名は清復(きよまた)と言いました。
 1862年(文久2)に開成所に入学、英学・数学を学び、元服して父はじめ一家で仙台へ移住、翌年には、仙台藩校養賢堂に入ります。1866年(慶応2)に洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学び、江戸に出て開成所に再入学しました。
 1870年(明治3)に大学南校に入り、英学・数学を学び、翌年に箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、日本文法を志し、国学を独学、1872年(明治5年)に文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられます。1875年(明治8)に文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、1884年(明治17)に国語辞典『言海』の草稿を完成させ、翌年には、『言海』稿本の再訂が終わって文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となりました。
 1889年(明治22)に『日本辞書 言海』第1冊が刊行され、1891年(明治24)には、第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われます。1892年(明治25)に岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長、宮城書籍館館長(~1895年)となりました。
 1897年(明治30)に『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行、1899年(明治32)に文学博士となり、翌年には、東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行します。1901年(明治34)に帝室博物館列品鑑査掛、1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913年)、1911年(明治44年)には、帝国学士院会員となりました。
 1916年(大正5)に従七位から正五位に昇位、国語調査委員会から『口語法』、翌年には、『口語法別記』を刊行、口語研究にも新しい面を開きましたが、1928年(昭和3)2月17日に、東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなっています。尚、没後の1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、『言海』を増補した『大言海』が刊行されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1897年(明治30)八王子大火で、死者42名、負傷者223名、焼失3,500余戸を出す詳細
1910年(明治43)彫刻家荻原守衛(碌山)の命日詳細
1912年(明治45)映画監督・脚本家新藤兼人の誕生日詳細
松本明治45年「北深志の大火」で、死者5名、焼失1,341戸の被害を出す詳細
1950年(昭和25)日本戦歿学生記念会(わだつみ会)が結成される詳細
1993年(平成5)全国103ヶ所の施設が「道の駅」として初めて正式登録される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、国語学者・国語辞典『言海』の編纂者である大槻文彦が亡くなった日です。
 大槻文彦(おおつき ふみひこ)は、江戸時代後期の1847年(弘化4年11月15日)に、江戸木挽町(現在の東京都中央区東銀座)において、儒者大槻磐渓(ばんけい)の三男として生まれましたが、本名は清復(きよまた)と言いました。1862年(文久2)に開成所に入学、英学・数学を学び、元服して父はじめ一家で仙台へ移住、翌年には、仙台藩校養賢堂に入ります。
 1866年(慶応2)に洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学び、江戸に出て開成所に再入学しました。1870年(明治3)に大学南校に入り、英学・数学を学び、翌年に箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、日本文法を志し、国学を独学、1872年(明治5年)に文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられます。
 1875年(明治8)に文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、1884年(明治17)に国語辞典『言海』の草稿を完成させ、翌年には、『言海』稿本の再訂が終わって文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となりました。1889年(明治22)に『日本辞書 言海』第1冊が刊行され、1891年(明治24)には、第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われます。
 1892年(明治25)に岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長、宮城書籍館館長(~1895年)となりました。1897年(明治30)に『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行、1899年(明治32)に文学博士となり、翌年には、東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行します。
 1901年(明治34)に帝室博物館列品鑑査掛、1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913年)、1911年(明治44年)には、帝国学士院会員となりました。1916年(大正5)に従七位から正五位に昇位、国語調査委員会から『口語法』、翌年には、『口語法別記』を刊行、口語研究にも新しい面を開きましたが、1928年(昭和3)2月17日に、東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなっています。
 尚、没後の1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、『言海』を増補した『大言海』が刊行されました。

〇大槻文彦の主要な著作

・『万国史略』(1874年)
・『広日本文典』(1897年)
・『広日本文典別記』(1897年)
・『言海 (げんかい、ことばのうみ) 』4冊(1889~91年)
・『復軒雑纂』(1902年)
・『伊達騒動実録』(1909年)
・『口語法』(1916年) 
・『口語法別記』(1917年)

☆大槻文彦関係略年表

・1847年(弘化4年11月15日) 江戸木挽町(現在の東京都中央区東銀座)において、儒者大槻磐渓(ばんけい)の三男として生まれる
・1851年(嘉永4年) 家学(漢学と詩文)を受ける
・1862年(文久2年9月) 開成所に入学、英学・数学を学ぶ、元服し、父はじめ一家で仙台へ移住する
・1863年(文久3年5月) 仙台藩校養賢堂に入る
・1866年(慶応2年) 洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学ぶ、江戸に出て開成所に再入学する
・1867年(慶応3年) 英国人牧師 M. B. Bailey の『万国新聞紙』の編集員となり、仙台藩江戸留守居役大童信太夫に伴って京都に行く
・1868年(慶応4年) 京都で鳥羽伏見の戦いに会し、『慶応卯辰実記』を著す
・1869年(明治2年) 『北海道風土記』(30 巻)成稿(宮城県図書館蔵)を著す
・1870年(明治3年) 大学南校に入り、英学・数学を学ぶ
・1871年(明治4年) 箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、アルバイトで賃訳をし、この頃から日本文法を志し、国学を独学する
・1872年(明治5年) 文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられる
・1874年(明治7年) 師範学校で教科書の翻訳・編集(『万国史略』など)に携わり、文部省で『羅馬史略』翻訳、『琉球新誌』、宮城師範学校校長となり、『日本暗射図』(白地図)作成、『亞非利加誌』訳成する
・1875年(明治8年) 文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、「擬奉英国女帝書」、「日本文法論」を著し、兄修二(如電)が隠居して家督相続する
・1876年(明治9年) 一ヶ月間、『朝野新聞』社説を担当、『小笠原島新誌』を刊行、「印刷術の史」、「日本「ジヤパン」正訛の弁」、「東洋印刷術の史」を著す
・1877年(明治10年) 「伊達政宗が遣欧の記事」、『支那文典』(高第丕(T. P. Crawford)・張儒珍共著『文学書官話 (Mandarin Grammar)』刊行する
・1878年(明治11年) 父・磐渓が亡くなり、文法会第 1 回を開催(1882 年まで 56 回)、富田鉄之助に渡英を勧められるが断念する
・1879年(明治12年) 伊香保温泉で湯治、宿の主人の依頼で『伊香保志』を執筆する
・1880年(明治13年) 『印刷術及石版術』(文部省『百科全書』の一部)を刊行する
・1881年(明治14年) 富田鉄之助らと仙台造士義会を設立し、育英事業に取り組み、如電らと白石社を創設し、翌年にかけて新井白石の『采覧異言』、『西洋紀聞』を校訂刊行する
・1882年(明治15年) 『伊香保志』、『日本小史』を刊行、井上哲次郎抄訳『倍因氏心理新説』を校訂する
・1883年(明治16年) 音楽取調掛兼勤(~1885)、「仰げば尊し」の作詞の合議に加わり、「かなのとも」(のち合同して「かなのくわい」)創立に加わり、土屋政朝訳『刪訂教育学』を閲する
・1884年(明治17年) 「外来語原考」、『言海』の草稿が完成する
・1885年(明治18年) 「三味線志」を編纂(刊行は 1896-97)する
・1886年(明治19年) 『言海』稿本の再訂が終わり、文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となり、『言語篇』(文部省『百科全書』)翻訳刊行(初の言語学紹介)、『古事類苑』編集委員(~1887)となる
・1888年(明治21年) 作並清亮編『松島勝譜』を校訂、自費出版の条件で『言海』稿本が下賜される
・1889年(明治22年) 『日本辞書 言海』第1冊刊行、『中止断行条約改正論』。
・1890年(明治23年) 玄沢遺稿『金城秘韞』を補訂、『語法指南』を刊行する
・1891年(明治24年) 『言海』第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われる
・1892年(明治25年) 岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長(生徒に吉野作造ら)、宮城書籍館館長(~1895年)となる
・1894年(明治27年) 「支倉六右衛門墳墓考」を著す
・1897年(明治30年) 『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行する
・1898年(明治31年) 「和蘭字典文典の訳述起源」を著す
・1899年(明治32年) 文学博士となり、海嘯罹災者への寄付により宮城県岩手県から木盃を得る
・1900年(明治33年) 東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行する
・1901年(明治34年) 帝室博物館列品鑑査掛となり、「陸奥国遠田郡小田郡沿革考」を著し、『伊達政宗南蛮通信事略』刊行(英訳つき)する
・1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913)となり、『復軒雑纂』を刊行、下飯坂秀治編『仙台藩戊辰史』を校訂する
・1909年(明治42年) 『伊達騒動実録』を刊行、「宮城県尋常中学校校歌」を作る
・1911年(明治44年) 帝国学士院会員となる
・1912年(明治45年) 坂本嘉治馬(冨山房)と『言海』増補出版契約、「根岸 御行の松」を著す
・1916年(大正5年) 従七位から正五位に昇位、『口語法』を刊行(国語調査委員会編)する
・1917年(大正6年) 『口語法別記』を刊行、仙台の戊辰戦役殉難者弔魂祭に招かれ、県庁構内武徳殿で講演する
・1919年(大正8年) 「著述病 老体の文彦翁訪問客を謝絶 言海の増補に苦心」を著す
・1922年(大正11年) 仙台一中開校三十年記念式に出席、殉職した小野さつき訓導へ弔慰金と弔文、吉野作造、大槻校訂の『西洋紀聞』を参考に「新井白石とヨワン・シローテ」を執筆する
・1923年(大正12年) 吉野、仙台一中学友会記念号に大槻に因んで「西洋人の日本語研究」を寄稿し、別に「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」を執筆する
・1925年(大正14年) 講書始の講師となり、吉野ら教え子から、喜寿の祝いに胸像を贈られる
・1928年(昭和3年)2月17日 東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなる
・1932~37年(昭和7~12年) 如電、大久保初男、新村出らにより『大言海』が刊行される
・1938年(昭和13年) 『復軒旅日記』(大槻茂雄校訂)が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1272年(文永9)第88代の天皇とされる後嵯峨天皇の命日(新暦3月17日)詳細
1906年(明治39)大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となり、文芸協会が結成される詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」(勅令第83号)が発布・施行される詳細
1955年(昭和30)小説家・評論家・随筆家坂口安吾の命日(安吾忌)詳細
2005年(平成17)愛知県常滑市に中部国際空港(愛称:セントレア)が開港する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、岩波書店から新村出編『広辞苑』初版が発行された日です。
 『広辞苑(こうじえん)』は、岩波書店発行で、新村出が編集した中型国語辞典で、国語辞典と百科事典を兼ね備えたものでした。昭和初期に出版された博文館発行の『辞苑(じえん)』の改訂作業を引継ぎ、太平洋戦争後新たに発行元を岩波書店、書名を『広辞苑』と改めて出版され、約20万語を収録、挿入図版2千余図となっています。
 1969年(昭和44)に第二版、1976年(昭和51)に第二版補訂版、1983年(昭和58)に第三版、1991年(平成3)に第四版、1998年(平成10)に第五版、2008年(平成20)に第六版、2018年(平成30)に第七版と改訂を重ねて発行されてきました。第一版から第七版の累計で1,200万部以上販売され、辞書としてはベストセラーで、第七版では約25万語を収録し、三省堂の『大辞林』と並ぶ両雄とされています。
 尚、1992年(平成4)には、第四版をもとにした『逆引き広辞苑』も発行され、また、携帯機器に電子辞書の形で収録されることも多くなっていて、幅広く活用されてきました。
 以下に、『広辞苑』第一版発行時の新村出による自序と後記を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇新村 出(しんむら いずる)とは?

 明治時代後期から昭和時代に活躍した、言語学者・国語学者・随筆家です。明治時代前期の1876年(明治9)10月4日に、山口県山口において、旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として生まれましたが、1889年(明治22)に、父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、元小姓頭取の新村猛雄の養子となりました。
 1896年(明治29)に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文科大学へ入学、1899年(明治32)に博言学科を卒業、国語研究室助手を経て、1902年(明治35)より東京高等師範学校の教授となる一方で東大大学院で国語学を専攻します。1904年(明治37)に東京帝国大学助教授を兼任、1907年(明治40)に京都帝国大学助教授となり、欧州留学に出発し、イギリス・ドイツ・フランスで言語学研究に従事、1908年(明治40)にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として参加、1909年(明治41)には、欧州留学から帰国して京都帝国大学教授となり、言語学講座を担当しました。
 1910年(明治43)に文学博士、翌年には、京都帝国大学図書館長となり、日本語音韻史や近隣の諸言語との比較研究に成果をあげ、1927年(昭和2)に論文集『東方言語史叢考』を刊行、翌年には帝国学士院会員となります。1930年(昭和5)に語源研究『東亜語源志』を刊行、1935年(昭和9)には、宮中の講書始の正メンバーに選ばれ、昭和天皇に国書の進講を行い、国語審議会委員も勤めました。
 1936年(昭和11)に京都帝国大学を定年退官し名誉教授となってからは、1937年(昭和12)に音声学協会、1938年(昭和13)に日本言語学会、1942年(昭和17)に日本民族学協会などの会長を歴任します。1943年(昭和18)に『国語学叢録』を刊行、1949年(昭和24)に国語辞書『言林』を編纂、1955年(昭和30)には、国語辞書『広辞苑』を編纂、初版が発刊されました。
 これらの功績により、1956年(昭和31)に文化勲章を受章、文人でもあり、『琅玕記 』(1930年)など多くの随筆も残しましたが、1967年(昭和42)8月17日に、京都府京都市北区の自宅において、90歳で亡くなっています。

〇『広辞苑』自序   新村出

 いまさら辞典懐古の自叙でもないが、明治時代の下半期に、国語学言語学を修めた私は、現在もひきつづいて恩沢を被りつつある先進諸家の大辞書を利用し受益したことを忘れぬし、大学に進入したころには、恩師上田万年先生をはじめ、藤岡勝二・上田敏両先進の、辞書編集法およびその沿革についての論文等を読んで、つとに啓発されたのであった。柳村上田からは『新英大辞典』の偉業の紹介を「帝国文学」の誌上で示され、目をみはって海彼にあこがれた。われらもいかにしてか、理想的な大中小はともかくも、あんなに整った辞典を編んでみたいものだと、たのしい夢を見たのであった。
 かくて、英米独仏の大辞書の完備に対して限りなき羨望の情が動き、ひたむき学究的な理想にのみふけりつつ、青春の客気で現実的方面については一層暗愚であったことは、後年とほぼ同様であった。卒業後の三年めの明治三十五年(一九〇二年)から凡そ五年間、それぞれの大辞典の編著や統理に成功を収めた上田・大槻・芳賀・松井等の諸先覚には、他方において国語の研究や調査や教育や改善やの諸事業にわたって計るべからざる種々の資益を得たことが、かれこれと想起されてくる。とりわけ、上田・松井両博士の『大日本国語辞典』と、大槻博士の『大言海』とに関しては、身親しくその編集室に見学した縁故もあったのみか、殊に後者の校訂には深く参与し、前者の再刊に際しては僅少ながら接触したゆかりもあって、自分のためにも、何かと参考に資せられて幸福であった。その後も、かれこれ二つばかりの辞典の編集に参画はしたものの、元より綜合統理の任に当った次第ではなかった。それに反して、自分の仕事は、主として語原や語史、語誌や語釈の、主として分解的な、しかし根本的本質的な方面の考究に専念し、綜合的方面の事業に意を致し力を注ぐまでには至らなかった。それは、自分自身の研究が、当初は音韻および文字に、やや進んでからは漸次語法や語義に及び、後年には段々と語誌に向って来たのであって、要は分解を主とし、綜合にうとかった。
 今から二十年前、私の辞典の処女作が出来て、望外の歓迎を受けたが、内心大いに満足し得ず、『言海』の著者が、古く率直にその巻末に録しておいたごとく、そんなに良く出来あがったものは無く、ただ直してゆくばかりだ、と思って、すぐさま改訂の業を起し、或は簡約し、或は増訂し、同時に業を進めて、大戦の末期に入り、改訂版の原稿が災厄に帰した。簡約版は衆知のごとく、早く印行して世に出でたが、しかし私に代って戦時中には、統理の傍ら、他方には、新たに、語詞の採訪と採集とに力を尽くしつつ専ら改訂の業に従った私の次男猛は、苦心努力の結果、辞書編集上、望外にもこよなき良い経験と智識とを得たかと信ずる。彼自身もまたフランスの大辞典リットレないしラルース等の名著およびダルメステテール等の中辞典から平素得つつある智識を、他山の石として、乃父の『改訂辞苑』旧版本の礎石の材料にも供してくれた。彼は従前のごとくには、今回の『広辞苑』の編集に関して、協力する余裕は十分でなかったが、名古屋大学の行余の力をこれに注いでくれ、老父の能くせざる所を補足し、編集および印刷の進行、人事その他各般の統理に心を尽くしてくれた。現代の国語に対する智識と感覚とについては、当然長所の在ることは認めてよろしく、その点において、むしろ語史にのみ傾倒せる編者の粗漫な一方面を補佐してくれたことを付言したい。また、グリム兄弟の場合とは全く違った情味が存する。
 以上、主として『改訂辞苑』の進行および始末について述べつつ、その善後の処理に及ばんとしたが、戦後その改訂版の長所を保存し、短所を除去し、内容形態共に新時代の要求に応ずる必要上、根本的修正と増補とを施すことを得たのは、昭和二十三年九月より岩波書店内に設置された編集室において、斯業の経験と智識とを具備する市村宏氏を編集主任となし、終始一貫、増訂の業を進めたことによる。爾来、編集部はこの複雑な編集に従事し、その間いくたびか内員外員の増減変動と場所の転移等とを見たが、書店内外よりの定期臨機に嘱託された諸員諸君の格別なる協力に依って、編集すでに了り、校正および修治の業、将に完成せんとするに至ったのは、まことに欣懐といたす所である。
 抱負と実行、理想と現実、その間、自分の未熟か老境かよりして、事志と違った趣きがあることを自省してやまないが、とにかく、簡明にして平易、広汎にして周到、雅語漢語、古語新語、慣用語と新造語、日用語と専門語、旧外来語と新外来語、新聞語と流行語、みなつとめて博載を期した。発音の正確と語法の説明には意を注ぎて、規範を示さんと欲したけれども、現在の規範こんとんとして未だ定まらぬ不便をなげかねばならなかった。
 誇称してもよいが、われら父子が親交ある哲学・史学・文学の先進同友をはじめ、今日の科学界に令名あり世界的栄誉をも博せられた碩学者より、直接にも間接にも指示を受けた語詞の説明も少からず存し、花さき実のれる、この言語園を展望しながら、感激してやまぬ心境に在るのである。従来の経験により、あとからあとから、自他の注意から、種々補修を要することが、殊に一般辞書の上には生じがちなのを按ずるが、さりとて先進の辞典学者の引いた言葉にたよって、あのラテン語の金言や、ゲーテの箴言にもあるがごとき、過まるは人のつね、容るすは神のみち、とやら申された遁辞めいた文句にすがる気はない。ただ周密な眼光をもって徹底的に過誤なきを期したばかりである。
 もしそれ、物の順序からすると、大辞書が先きに出来あがってから、その後に、それらの成果を収拾し抜萃し、簡易に平明に、短縮して編集してこそ、より完全な中小辞典、簡短(ショーター)とか、要略(コンサイス)とかの文字を冠らせた中型小型の辞書が作られるわけであるが、私一個の場合、その逆のコースを進んで来たので、殊に現今わが国語界の標準規律は未だ緒につかず、新語の粗製濫造のはげしい時代には、程よき中辞典の達成は、省みるに早計であったかも知れない。
 上記のごとく、本書は、当初の出発点こそ改訂版をいささか加除し修正する程度から進んだのであったが、いつしか本来の節度をかなり超えて、根本的修正が、ひとり文字の表記法のみにとどまらず、載録語詞、分量の上のみならず、かなり本質的にも及ぶことになってしまった。結局、実質にも、形式にも、少なからぬ進歩の跡がみとめられると信ずる。従って、頁数や組方の上にも、多大の影響を及ぼし、厚みその他装幀等色々な点にも、予想以上の多難を感ぜねばならなかった。
 かくて、編集完成の時期もおくれたし、諸般の煩雑名状しがたい苦難も甞めなければならなかった。編集部においても、辛うじてこれらの難を克服し得たのであるが、部員の手不足などを補充するために、書店の内部からも、俊敏練達の士の参加協力を得ると共に、臨時に外部からも特に明達懇篤な新進諸学人の援助をも求めることとなり、内外一和、衆力一致、他方もちろん熟練な校正員の補翼にも由り、着々、印刷の工程もなめらかにはかどり、ここに発行の機運に恵まれるに至ったのは、編者の満足これに及ぶものはない。
 それら諸彦の助力を跋文中に銘記するに先だって、特に今記すべき一事は、畏友大野晋氏が、語法と基本語詞につき、更にその同窓板坂元・同美智子両氏の協力をも得て、応急適切な援助を寄せられたことである。
 斯業行程の始終に関しては、一に岩波書店前店主故岩波茂雄氏の宏量と、現社長同雄二郎氏の寛厚に感謝すると共に、事業の進行上絶えず店内の練達者諸賢から、啓発激励を蒙ったことを肝銘する。さかのぼっては、前行『辞苑』の出版改訂時代の、博文館の上局諸氏と、忠実なる編集主任たりし溝江八男太翁と内助の一老友をも想起せざるを得ない。曽て「私の信条」(本全集第十三巻二九七頁)として書いた如く、老至って益々四恩のありがたきを感ずるのみである。
(昭和三十年一月一日)

〇『広辞苑』後記  新村出

 昭和十年の初頭以来、粒々の辛苦を積んで完成を急ぎつつあった『改訂辞苑』の原稿も組版も、二十年四月二十九日の戦火に跡形もなく焼け失せ、茫然たる編者の手許にはただ一束の校正刷のみが残された。しかも戦火に続く敗戦と戦後の混乱とは、如何に辞典に妄執を抱く編者を以てしても、直ちに復興を企図し得べき底のものではなかった。焦土の余熱は、容易に冷ゆべくもなかったのである。
 然るに倖なる哉、同年十二月、当時元気に活躍せられつつあった岩波書店主故岩波茂雄氏と編者との間に、早くも『辞苑』の改訂に関する協定成り、一陽来復、編者として欣快のこれに過ぐるものはなかった。
 他面、当時の国内情勢は、恐らく開闢以来最悪の事態におかれて居た。餓※(「くさかんむり/孚」、第3水準1-90-90)路に横り、怨嗟の声巷に満つるを見聞しては、辞典改修のごとき迂遠なる事業の、未だその時機に非ざるを観念せざるを得なかった。更に翌二十一年四月、岩波茂雄氏の突如たる訃音に接しては、出版界の先覚を喪弔するの悲しみと共に、本事業の前途も亦多難なるべきを秘かに憂慮したのである。
 併し、越えて二十三年季春、先考の志を襲いで岩波書店を継承せられた岩波雄二郎氏を始め幹部の各位は、文化の再建途上における辞典の重要な役割を認識して『辞苑』改修の促進方針を決定せられ、編者はこれに基き、同年九月十三日、書店内の一室を借りて新編集部を開設し、茲に事業の再発足を見得るに至ったのである。
 ただその当初にあっては、危く烏有をまぬかれた校正刷を唯一のたよりとしてのことではあっても、ともかくも校正刷がある以上、改修の事業は比較的簡単に進め得るものと我も人も思考したが、その予想は実は甚だ甘かった。戦塵の鎮まりゆくにつれて、日本は一大転換を開始して居たのである。即ち昨日まで国を動かす大きな原動力であった陸海軍は廃止され、日本国憲法は公布せられた。この憲法の改正を軸として、法律は勿論、文物制度のあらゆるものがめまぐるしく改廃され、創建されて行った。民主化への巨大な歩みは、古いもの一切の存続を拒むごとき世相を展開した。この事は辞典編纂の上に細大となく影響する。甞ての重要項目は今は多く削除すべきものとなり、或は評価が急変して増補または縮小を余儀なくされた。存続すべき項目に対しても、その見方が著しく違ってきた。加之、新たに採るべき項目は日に月に続出し、応接に暇なからしめると共に、忽ち現れ忽ち消え去る社会百般の事象が編集部を困惑せしめたのも、混乱期の自然なる姿であった。兵を廃した国に警察予備隊ができ、これが忽ちにして保安隊と変り、三転して自衛隊となる。編集部はその都度、前稿を捨てて新稿を草するのである。この辞典が単純な国語辞典ではなく、百科の語彙、固有名詞をも収録してあまさぬものであるだけに、かかる現象から被むる編纂上の困難は、当初の予想を裏切ってこれを数倍化した。
 困難はそれのみには止まらなかった。新事項は遠慮なく発生するが、これを正確に解説するに資料とすべきものは、これに伴っては出て来ない。否、編集部開設の当初には、新項目採集に使用する新聞などの入手すらできなかった。紙がない、鉛がない――資材の欠乏が新資料の出現を固く阻んで居たのである。今ならば年鑑を繰れば容易に知り得ることも、重い兵隊靴をはいた部員が、役所や新聞社を訪ねて聞いて回った。信憑すべき戦後の資料がぽつぽつ出て来たのは二十六、七年頃からである。
 かかる状況の中にあっては、当初二、三年でと予想されたこの改修事業も、恰もこの国の河川改修工事のごとく四年と延び五年と後れざるを得なかった。小規模の改修のつもりで始めたこの仕事は、日本そのものの大革新を偽らずに反映するためには、全面的な大改修に突入せねばならなかった。
 斯様に改修の規模は拡大され、収載語彙は二十万を超えるに至り、時日は遷延しつつも、二十八年三月に至り、六年に及んだ業を終り、爾後の推移転変には組版の過程において対応する方針の下に、尨大なる原稿の集積を書店側の手に委ねたのである。
 ともあれ、「やっと出来た」安心と満足の中に今年元朝八十の春光に浴することを得た。この辞典が昭代の文化遺産として後世に伝存するに足るべきか否かは、大方の批判を仰ぎ、時の篩に俟つ外はないが、少くとも現在最も新しく、当用を弁ずるに甚だ好適な辞書たらしめ得たことの自負を持つ。併し、この功たるや、自己一身に帰すべきでないのはもとよりである。この編纂事業に協力を惜しまれなかった数十百氏もしくはそれ以上の方々の心血の凝り固まってこの辞典をなしたものと、編者は回想し且感謝する。今、序文中に誌して謝意を表明した方々以外、編集に執筆に製作に、老来諸事にものうい編者を扶けてこの難事業を達成せしめられた方々の芳名を掲げながら、日頃抱懐する四恩感謝の念をも新たにしたいのである。
 昭和二十三年九月十三日に開設した編集部は、主任を市村宏氏に依嘱し、部員に関宦市・猪場毅・横地章子・長谷川八重子・藤井譲・佐藤鏡子・木村美和子諸氏の参加があり、協力一致、直接に編者を扶けて如上の難関に当面し、本辞典のためその全力を傾倒された。また大野晋氏は特に国語部門の校閲と語法に関する事項の改新とに、終始繁忙の時を割いて協力を惜しまれなかったし、松山貞夫氏は法律部門、稲沼瑞穂氏は理科部門において編集部を指導された。
 昭和二十八年三月、前後六カ年にわたり、改修と称するよりもむしろ新修の業を了って編集部を解いたのちは、仕事は製作の過程に入り、岩波書店編集部における担当各位の、有形無形、真に昼夜を分たぬ努力によって業務は進行せられたのであるが、一々芳名の列挙を省くの失儀をお宥しありたい。尚、前記の市村・佐藤両氏にも引続いてこの仕上げ過程に参加を煩した。
 二十八年六月、大日本印刷株式会社市ヶ谷工場にトラックで搬入された累々たる苦心の原稿が、やがて校正刷になって返って来る。それを校正して四校五校に及ぶのであるが、その間にも新事項は次々と発生し、新学説も現出する。最後のみがきもかけねばならない。このためには書店の方々の並々ならぬ尽瘁は勿論、また外部から来援せられた市古貞次・板坂元・同美智子等諸氏の熱心な協力があった。かくして三年にわたる製作期間中に生ずべきずれを除き、誤謬を人力の及ぶ限りにおいて少なからしめようとの編者及び書店の意図は、ほぼ全きを得たと信ぜられる。これらの方々の努力に対し、編者は衷心の謝意を表するものである。
 尚、本辞典は前後二回にわたる改修において、それぞれの専門項目につき、当代一流の学者、新進の学人に執筆・修訂を委ねて居り、ために本辞典の内容につき自信を深め、権威を高め得たること幾許なるかを知らないが、今その主なる方々の芳名を記せば、会津晃・青山秀夫・浅山哲二・有賀鉄太郎・粟田賢三・飯島篤信・池上禎造・今西錦司・大築邦雄・岡山泰四・小野和・河鰭実英・岸春雄・木下法也・小島六郎・小林恵之助・小林行雄・駒井卓・斎藤秋男・阪倉篤義・坂田昌一・佐藤芳彦・鎮目和夫・島村福太郎・新村猛・末永雅雄・高木公明・高木貞二・千野光茂・塚本洋太郎・暉峻衆三・徳田御稔・朝永振一郎・長尾雅人・仲新・中村誠太郎・中村幸彦・南条正明・橋浦泰雄・林雄次郎・原光雄・土方克法・日高敏隆・平野宣紀・福田正・古川久・堀喜望・本城市次郎・牧野亥之助・真下信一・松山貞夫・三ヶ尻浩・宮地伝三郎・都留重人・都城秋穂・宮原誠一・森鹿三・森龍吉・大和一夫・山内太郎・湯浅明・湯川秀樹・依田新等の諸家である。また本辞典に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵の筆を執られた牧野四子吉・佐藤義郎の両氏、及び煩雑極まりない本辞典の組版・製版・印刷に従事せられ、書店側とよく協調を保ちつつ、我印刷術が到達し得たる最高の技術と能力とを惜しみなく発揮せられた大日本印刷株式会社の関係各位に感謝し、更に個人的にではあったが、この事業の前後を通じてなにくれとなく編者の相談相手となり、不断の友情を表せられた岡茂雄氏に本辞典の成るを告げて、その喜びを頒ちたい。
 更に、我洋画壇の巨擘安井曽太郎画伯が親しく装幀の労を執られ、巧みに『広辞苑』の書格を表現せられたことに対し、編者として深い感銘を禁じ難い。
 思うてここに至れば、四恩の広大にして無辺際なる、早春の陽光と共に老身を包むの感を覚えるのである。
(昭和三十年三月)

(昭和三十年五月初版『広辞苑』)

  「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

967年(康保4)第62代天皇とされる村上天皇の命日(新暦7月5日)詳細
1336年(建武3)湊川の戦い足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害(新暦7月4日)詳細
1654年(承応3)第112代の天皇とされる霊元天皇の誕生日(新暦7月9日)詳細
1885年(明治18)詩人・歌人平野万里の誕生日詳細
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