ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:国民精神総動員運動

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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、「愛国国債」が発行され、郵便局窓口で売り出された日です。
 愛国国債(あいこくこくさい)は、戦時・事変等の際、国民の愛国心に訴え、勧誘して募集に応じさせる公債のことでした。1937年(昭和12)10月12日 に、政府主導のもとに、挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まります。精神運動に力が注がれた国民精神総動員運動も、日中戦争の長期化にともない、愛国国債購入運動、貯蓄報国運動、一戸一品廃物献納運動といった戦時経済への協力運動へとしだいに変化していきました。
 愛国国債購入運動については、ポスターが貼られ、「愛国国債の歌」まで作られ、キャンペーンが行われ、11月16日の「愛国国債」売出し初日には、各地の郵便局に希望者が殺到したと言われています。「胸に愛国 手に国債」「国債は 総力戦の 従軍証」など七五調の戦意高揚スローガンを掲げ、愛国国債の割り当ても隣組の仕事とされ、銃後の庶民にも積極的に購入するよう指導されました。
 そして、これらの公債発行によって、1944(昭和19)年度末において国の債務残高は国内所得の260 %を超える水準にまで至ります。その結果、1945年(昭和20)年の敗戦とその後の急激なインフレーションの進行はその価値を限りなく「紙くず同然」にまで低下させ、多くの国民は経済的な損失を蒙りました。

〇国民精神総動員運動(こくみんせいしんそうどういんうんどう)とは?

 昭和時代前期の1937年(昭和12)7月7日の日中全面戦争突入(盧溝橋事件)以後、第一次近衛内閣により行われた国民を戦争に協力させるための運動でした。8月24日に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、10月12日 に挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まります。
 翌年までに帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体が参加するようになりました。最初は、精神運動の性格が強かったのですが、次第に献金、献品など物的協力に転換していき、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属類回収などが展開されます。
 1939年(昭和14)3月には文部大臣を委員長とする国民精神総動員中央委員会が設置され、道府県には主務課が設けられました。同年8月には興亜奉公日(同年9月1日より毎月1日)が設定され、さらに翌年4月には、従来の組織を解消して、首相を会長とする国民精神総動員本部が設けられ、中央連盟を吸収します。しかし、同本部も同年10月には大政翼賛会に吸収されて、運動が引き継がれていきました。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1638年(寛永14)第111代の天皇とされる後西天皇の誕生日(新暦1638年1月1日)詳細
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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、「国民服令」(昭和15年勅令第725号)が公布・施行され、男子の服装として国民服が定められた日です。
 国民服(こくみんふく)は、昭和時代前期の1940年(昭和15)11月2日に、公布・施行された「国民服令」で制定された男子の服装のことでした。日中戦争下において、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環として、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募され、翌年1月に発表されます。
 その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされました。尚、女性用には、1942年(昭和17)2月に、公募作品を元に、スカート式の甲号、和服式の乙号、モンペ式の活動衣の3種類の“婦人標準服”が定められています。
 以下に、「国民服令」(昭和15年勅令第725号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「国民服令」(昭和15年勅令第725号) 1940年(昭和15)11月2日公布・施行

第一条 大日本帝国男子ノ国民服(以下国民服ト称ス)ノ制式ハ別表第一ニ依ル

第二条 国民服ハ従来背広服其ノ他ノ平常服ヲ著用シタル場合ニ著用スルヲ例トス

第三条 国民服礼装ハ国民服ヲ著用シ国民服儀礼章ヲ佩ブルモノトス

2 国民服儀礼章ノ制式ハ別表第二ニ依ル

第四条 国民服礼装ハ従来燕尾服、フロツクコート、モーニングコート其ノ他之ニ相当スル礼服ヲ著用シタル場合ニ著用スルヲ例トス

第五条 国民服礼装ニハ佩用ニ関スル規程ニ従ヒ勲章、記章及褒章ヲ佩用スルコトヲ得

第六条 本令ノ制式ニ依ラザル服又ハ徽章若ハ飾章ハ其ノ名称中ニ国民服又ハ国民服儀礼章ノ文字ヲ用フルコトヲ得ズ

  附 則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

(別表第一)

国民服制式表

甲号

上衣

地質

茶褐絨又ハ茶褐布

製式

立折襟式開襟(小開キ)トス

前面

袵形ヲ附シ釦五箇ヲ一行ニ附ス

帯形ヲ附ス

筒袖型トシ脇開及端袖ヲ附シ釦各一箇ニテ開閉シ得ル如クス

左右両裾ヲ開ク

物入

胸部物入ハ左右各一箇トシ袵線ニ沿ヒ縦型ト為シ釦各一箇ヲ附ス腰部物入ハ左右各一箇トシ横型襞附ト為シ蓋及釦各一箇ヲ附ス但シ釦ハ附セザルコトヲ得

中衣

地質

適宜

製式

日本襟トス上襟及附襟ヲ用フルコトヲ得但シ礼装ノ場合ニ於テハ附襟ヲ用フルモノトス

前面

上衣ニ同ジ

上衣ニ同ジ附袖ヲ用フルコトヲ得

分離式トシ前面二箇ノ釦ヲ以テ留ム

上衣ニ同ジ

物入

上衣ニ同ジ但シ腰部物入ハ附セザルコトヲ得

地質

茶褐絨又ハ茶褐布

製式

釦ヲ以テ緊収開閉スル如ク為スコトヲ得

物入

左右ニ各一箇ヲ附ス

地質

適宜但シ礼装ノ場合ニ於テハ茶褐絨又ハ茶褐布

製式

適宜但シ礼装ノ場合ニ於テハ烏帽子型トシ折返及前庇ヲ附スルモノトス

外套

地質

適宜但シ礼装ノ場合ニ於テハ茶褐絨又ハ茶褐布

製式

適宜但シ礼装ノ場合ニ於テハ左ニ依ルモノトス
 襟 開襟式立折襟(小開キ)トス
 前面 釦三箇ヲ一行ニ附シ比翼仕立トス
 袖 筒袖型トシ端袖ヲ附シ釦一箇ヲ附ス
 裾 後開ヲ附シ釦二箇ヲ附シ比翼仕立トス
 物入 腰部左右ニ各一個ヲ附シ釦一箇ヲ附ス

手套

適宜但シ礼装ノ場合ニ於テハ白色トス

適宜但シ礼装ノ場合ニ於テハ黒革短靴トシ雨雪又ハ乗馬ノトキハ黒革長靴ヲ用フルコトヲ得

乙号

上衣

地質

茶褐絨又ハ茶褐布

製式

立折襟トス但シ開襟式立折襟(小開キ)ト為スコトヲ得

前面

釦五箇ヲ一行ニ附ス

筒袖型トシ脇開ヲ附シ釦一箇ニテ開閉シ得ル如クス端袖ヲ附スルコトヲ得

左右両裾ヲ開ク

物入

胸部物入ハ左右各一箇トシ横型ト為シ蓋及釦各一箇ヲ附ス腰部物入ハ左右各一箇トシ横型ト為シ蓋ヲ附ス

中衣

地質

適宜

製式

日本襟トス附襟ヲ用フルコトヲ得但シ礼装ノ場合ニ於テハ附襟ヲ用フルモノトス

前面

釦四箇ヲ一行ニ附ス

筒袖型トス附袖ヲ用フルコトヲ得

物入

胸部物入ハ左一箇トシ腰部物入ハ左右各一箇トス但シ腰部物入ハ附セザルコトヲ得

其ノ他

背帯、背縫筥襞又ハ下脇襞ヲ附スルコトヲ得

甲号ニ同ジ

甲号ニ同ジ但シ礼装ノ場合ニ於テハ製式ハ陸軍略帽型ニ依ルコトヲ得

外套

甲号ニ同ジ

手套

甲号ニ同ジ

甲号ニ同ジ

備考

 一 上衣、中衣、袴、帽(陸軍略帽型ヲ除ク)及外套ノ製式ノ形状ハ図ノ如シ
 二 甲号礼装ノ場合及開襟式立折襟(小開キ)ノ上衣ヲ用フル乙号礼装ノ場合ニ於テハ立折襟ト為スモノトス
 三 甲号礼装ノ場合及開襟式立折襟(小開キ)ノ上衣ヲ用フル乙号礼装ノ場合並ニ開襟(小開キ)ノ場合ニ於テハ中衣ヲ著用スルモノトス暑熱ノ時期又ハ地方ニ在リテ上衣ニ副襟(副襟ニハ附襟ヲ附スルコトヲ得但シ礼装ノ場合ニ於テハ附襟ヲ附スルモノトス)及附袖ヲ附シタルトキハ中衣ヲ著用セザルコトヲ得
 四 礼装ノ場合ニ於テハ附襟及附袖ハ白色トス
 五 礼装ノ場合ヲ除ク外暑熱ノ時期又ハ地方ニ在リテハ中衣ヲ以テ上衣ニ代ヘ(此ノ場合ニ於テ中衣ハ半袖ト為シ、襟開ヲ大ト為シ及帯ヲ附セザルコトヲ得)又ハ袴ハ半袴ト為スコトヲ得
 六 礼装ノ場合ニ於テハ茶褐絨又ハ茶褐布ノ長マントヲ以テ制式ニ依ル外套ニ代フルコトヲ得
 七 外套ハ用ヒザルコトヲ得礼装ノ場合ヲ除ク外帽、手套及靴ハ用ヒザルコトヲ得
 八 乙号立折襟上衣ノ物入ハ当分ノ内外物入ト為スコトヲ得

図 (略)

(別表第二)

国民服儀礼章制式表

材料

古代紫色ノ四打紐ヲ以テ製シ主部ニ台座ヲ附ス

寸法形状

図ノ如シ

図 (略)

備考

 一 主部ヲ懸紐ニ依リ右胸部物入ノ釦ニ懸ケ紐ノ末端ヲ上衣ノ第二釦ニ懸ケ佩ブルモノトス
 二 主部ノ中央ニ家ノ紋章ヲ附スルコトヲ得紋章ノ大サハ最大径二糎以内トス

   「法令全書」より

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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、国民精神総動員運動を遂行するため、第一次近衛内閣により「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定された日です。
 国民精神総動員運動(こくみんせいしんそうどういんうんどう)は、昭和時代前期の1937年(昭和12)7月7日の日中全面戦争突入(盧溝橋事件)以後、第一次近衛内閣により行われた国民を戦争に協力させるための運動でした。8月24日に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、10月12日 に挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まります。
 翌年までに帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体が参加するようになりました。最初は、精神運動の性格が強かったのですが、次第に献金、献品など物的協力に転換していき、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属類回収などが展開されます。
 1939年(昭和14)3月には文部大臣を委員長とする国民精神総動員中央委員会が設置され、道府県には主務課が設けられました。同年8月には興亜奉公日(同年9月1日より毎月1日)が設定され、さらに翌年4月には、従来の組織を解消して、首相を会長とする国民精神総動員本部が設けられ、中央連盟を吸収します。しかし、同本部も同年10月には大政翼賛会に吸収されて、運動が引き継がれていきました。
 以下に、「国民精神総動員実施要綱」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「国民精神総動員実施要綱」1937年(昭和12)8月24日 閣議決定

一、趣旨
挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時艱ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼シ奉ル為此ノ際時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス

二、名称
「国民精神総動員」

三、指導方針
(一)「挙国一致」「尽忠報国」ノ精神ヲ鞏ウシ事態ガ如何ニ展開シ如何ニ長期ニ亘ルモ「堅忍持久」総ユル困難ヲ打開シテ所期ノ目的ヲ貫徹スベキ国民ノ決意ヲ固メシメルコト
(二)右ノ国民ノ決意ハ之ヲ実践ニ依ツテ具現セシムルコト
(三)指導ノ細目ハ思想戦、宣伝戦、経済戦、国力戦ノ見地ヨリ判断シテ随時之ヲ定メ全国民ヲシテ国策ノ遂行ヲ推進セシムルコト
(四)実施ニ当リテハ対象トナルベキ人、時期及地方ノ情況ヲ考慮シ最モ適当ナル実施計画ヲ定ムルコト

四、実施機関
(一)本運動ハ情報委員会、内務省及文部省ヲ計画主務庁トシ各省総掛リニテ之ガ実施ニ当ルコト
(二)本運動ノ趣旨達成ヲ図ル為中央ニ民間各方面ノ有力ナル団体ヲ網羅シタル外廓団体ノ結成ヲ図ルコト
(三)道府県ニ於テハ地方長官ヲ中心トシ官民合同ノ地方実行委員会ヲ組織スルコト
(四)市町村二於テハ市町村長中心トナリ各種団体等ヲ総合的ニ総動員シ更二部落町内又ハ職場ヲ単位トシテ其ノ実行ニ当ラシムルコト

五、実施方法
(一)内閣及各省ハ夫々其ノ所管ノ事務及施設ニ関連シテ実行スルコト
(二)広ク内閣及各省関係団体ヲ動員シテ夫々其ノ事業ニ関連シテ適当ナル協力ヲ為サシムルコト
(三)道府県ニ於テハ地方実行委員会ト協力シテ具体的実施計画ヲ樹立実施スルコト
(四)市町村ニ於テハ総合的ニ且部落又ハ町内毎ニ実施計画ヲ樹立シテ其ノ実行ニ努メ各家庭ニ至ル迄滲透セシムルコト
(五)諸会社、銀行、工場、商店等ノ職場ニ就キテハ其ノ責任者ニ於テ実施計画ヲ樹立シ且実行スルコト
(六)各種言語機関ニ対シテハ本運動ノ趣旨ヲ懇談シテ其ノ積極的協力ヲ求ムルコト
(七)ラヂオノ利用ヲ図ルコト
(八)文芸、音楽、演芸、映画等関係者ノ協力ヲ求ムルコト

六、実施上ノ注意
(一)本運動ハ実践ヲ旨トシテ国民生活ノ現実ニ滲透セシムルコト
(二)従来都市ニ於ケル知識階級ニ対シテハ徹底ヲ欠ク憾アリシヲ此ノ点ニ留意スルコト
(三)社会ノ指導的地位ニ在ル者二対シ其ノ率先躬行ヲ求ムルコト

  「国家総動員史 資料編」第4 石川準吉著(国家総動員史刊行会)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1776年(安永5)国学者平田篤胤の誕生日(新暦10月6日)詳細
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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、国民精神総動員中央連盟が発足し、国民精神総動員運動が始まった日です。
 国民精神総動員運動(こくみんせいしんそうどういんうんどう)は、昭和時代前期の1937年(昭和12)7月7日の日中全面戦争突入(盧溝橋事件)以後、第一次近衛内閣により行われた国民を戦争に協力させるための運動でした。8月24日に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、10月12日 に挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まります。
 翌年までに帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体が参加するようになりました。最初は、精神運動の性格が強かったのですが、次第に献金、献品など物的協力に転換していき、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属類回収などが展開されます。1939年(昭和14)3月には文部大臣を委員長とする国民精神総動員中央委員会が設置され、道府県には主務課が設けられました。
 同年8月には興亜奉公日(同年9月1日より毎月1日)が設定され、さらに翌年4月には、従来の組織を解消して、首相を会長とする国民精神総動員本部が設けられ、中央連盟を吸収します。しかし、同本部も同年10月には大政翼賛会に吸収されて、運動が引き継がれていきました。 

〇「国民精神総動員実施要綱」1937年(昭和12)8月24日 閣議決定

一、趣旨
挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時艱ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼シ奉ル為此ノ際時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス

二、名称
「国民精神総動員」

三、指導方針
(一)「挙国一致」「尽忠報国」ノ精神ヲ鞏ウシ事態ガ如何ニ展開シ如何ニ長期ニ亘ルモ「堅忍持久」総ユル困難ヲ打開シテ所期ノ目的ヲ貫徹スベキ国民ノ決意ヲ固メシメルコト
(二)右ノ国民ノ決意ハ之ヲ実践ニ依ツテ具現セシムルコト
(三)指導ノ細目ハ思想戦、宣伝戦、経済戦、国力戦ノ見地ヨリ判断シテ随時之ヲ定メ全国民ヲシテ国策ノ遂行ヲ推進セシムルコト
(四)実施ニ当リテハ対象トナルベキ人、時期及地方ノ情況ヲ考慮シ最モ適当ナル実施計画ヲ定ムルコト

四、実施機関
(一)本運動ハ情報委員会、内務省及文部省ヲ計画主務庁トシ各省総掛リニテ之ガ実施ニ当ルコト
(二)本運動ノ趣旨達成ヲ図ル為中央ニ民間各方面ノ有力ナル団体ヲ網羅シタル外廓団体ノ結成ヲ図ルコト
(三)道府県ニ於テハ地方長官ヲ中心トシ官民合同ノ地方実行委員会ヲ組織スルコト
(四)市町村二於テハ市町村長中心トナリ各種団体等ヲ総合的ニ総動員シ更二部落町内又ハ職場ヲ単位トシテ其ノ実行ニ当ラシムルコト

五、実施方法
(一)内閣及各省ハ夫々其ノ所管ノ事務及施設ニ関連シテ実行スルコト
(二)広ク内閣及各省関係団体ヲ動員シテ夫々其ノ事業ニ関連シテ適当ナル協力ヲ為サシムルコト
(三)道府県ニ於テハ地方実行委員会ト協力シテ具体的実施計画ヲ樹立実施スルコト
(四)市町村ニ於テハ総合的ニ且部落又ハ町内毎ニ実施計画ヲ樹立シテ其ノ実行ニ努メ各家庭ニ至ル迄滲透セシムルコト
(五)諸会社、銀行、工場、商店等ノ職場ニ就キテハ其ノ責任者ニ於テ実施計画ヲ樹立シ且実行スルコト
(六)各種言語機関ニ対シテハ本運動ノ趣旨ヲ懇談シテ其ノ積極的協力ヲ求ムルコト
(七)ラヂオノ利用ヲ図ルコト
(八)文芸、音楽、演芸、映画等関係者ノ協力ヲ求ムルコト

六、実施上ノ注意
(一)本運動ハ実践ヲ旨トシテ国民生活ノ現実ニ滲透セシムルコト
(二)従来都市ニ於ケル知識階級ニ対シテハ徹底ヲ欠ク憾アリシヲ此ノ点ニ留意スルコト
(三)社会ノ指導的地位ニ在ル者二対シ其ノ率先躬行ヲ求ムルコト

  「国家総動員史 資料編」第4 石川準吉著(国家総動員史刊行会)より 

<現代語訳>

 一、国民精神総動員実施要綱

一、趣旨
挙国一致して堅忍不抜の精神を以て現在の時局に対処すると共に、今後も持続するつらいことを克服して、いよいよ皇室の運を浮かび上がらせるために、官民一体となって一大国民運動を起こすものとする。
二、名称
「国民精神総動員」
三、運動の目標
「挙国一致」、「尽忠報国」の精神を堅持して、事態がどのように展開し、いかに長期にわたっても、「堅忍持久」あらゆる困難を打開して、所期の目的を貫き通すように国民の決意を固め、このため必要な国民の実践の徹底を期するものとする。
実践事項は右の目標に基づいて、日本精神の発揚による挙国一致を具体的に実現し、並びに非常時財政経済に対する全国的協力の実行を主としてこれを定め、事態の推移並びに地方の実情等を考慮して、適切にほどよく処理するものとする。
四、実施機関
(一)本運動は情報委員会、内務省及び文部省を計画主務庁として、各省総掛かりでこれの実施に当たること。
(二)本運動の趣旨達成を図るために、中央に有力な外郭団体の結成を図ること。
(三)道府県に於ては地方長官を中心として、官民合同の地方実行委員会を組織すること。
(四)市町村に於ては市町村長が中心となって、各種団体等を総合的に総動員し、さらに集落町内または職場を単位として、その実行に当たること。
五、実施方法
(一)内閣及び各省は、それぞれその所管の事務及び施設に関連して実行すること。
(二)広く内閣及び各省関係団体に対して、それぞれその事業に関連して適切な協力を求めること。
(三)道府県に於ては、地方実行委員会と協力して具体的な実施計画を樹立して実行すること。
(四)市町村に於ては、総合的に集落または町内ごとに実施計画を樹立してその実行に努め、各家庭に至るまで浸透するように努めること。
(五)諸会社、銀行、工場、商店等に於ては、それぞれ実施計画を樹立して実行するように協力を求めること。
(六)各種言論機関に対しては、その協力を求めること。
(七)ラジオの利用を図ること。
(八)文芸、音楽、演芸、映画等関係者の協力を求めること。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1694年(元禄7)俳聖松尾芭蕉の命日で、「芭蕉忌」とされる(新暦11月28日)詳細
1881年(明治14)「国会開設の勅諭」が出される詳細
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 今日は、1939年(昭和9)に、閣議決定によって「興亜奉公日」が始まった日です。
 興亜奉公日(こうあほうこうび)は、国民精神総動員運動の一環として、国力増強・戦意高揚を意図して、1939年(昭和14)9月から1942年(昭和17)1月まで、毎月1日に実施された生活規制でした。近衛内閣に代わった平沼騏一郎内閣は、1939年(昭和14)2月に国民精神総動員運動を「官民一体ノ挙国実践運動」として強化する方針を打ち出し、同年8月8日の閣議決定により、11日に内閣告諭で定められ、「全國民ハ擧ツテ戰場ノ勞苦ヲ偲ビ自肅自省之ヲ實際生活ノ上ニ具現スルト共ニ興亞ノ大業ヲ翼贊シテ一億一心奉公ノ誠ヲ効シ強力日本建設ニ向ツテ邁進シ以テ恆久實踐ノ源泉タラシムル日トナスモノトス」という趣旨の下に実施されます。
 精動委員長荒木貞夫文相のもとで、この日は、国旗掲揚、宮城遥拝、神社参拝、勤労奉仕などが実施され、禁酒禁煙、一汁一菜、飲食・接客業休業等が義務づけられ、児童生徒の弁当は日の丸弁当とされました。生徒には、「戦地の兵隊さんに感謝し、其の労苦をしのびつゝ、自分で自分の心をうんと引きしめて、銃後の護りをますます固め、以て、大政に翼賛し、新東亜建設に力を尽くすことを一層強化する日である。」と説明されます。
 さらに、1940年(昭和15)に「奢侈品製造販売禁止令(七・七禁令)」が出されると、同年8月1日の「興亜奉公日」には、「ぜいたくは敵だ」の立看板をかかげて街頭に進出したように、国民に耐乏生活を強いるものとなりました。
 当初の閣議決定では、事変が続く間はこれを継続すると定められていましたが、1942年(昭和17)1月2日の閣議で、毎月8日が「大詔奉戴日」に設定されると、「興亜奉公日」はそれに発展的に統一され、廃止となります。

〇国民精神総動員運動とは?

 昭和時代前期の1937年(昭和12)7月7日の日中全面戦争突入(盧溝橋事件)以後、第一次近衛内閣により行われた国民を戦争に協力させるための運動でした。
 8月24日に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、10月12日 に挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まります。翌年までに帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体が参加するようになりました。
 最初は、精神運動の性格が強かったのですが、次第に献金、献品など物的協力に転換していき、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属類回収などが展開されます。1939年(昭和14)3月には文部大臣を委員長とする国民精神総動員中央委員会が設置され、道府県には主務課が設けられました。
 同年8月には「興亜奉公日」(同年9月1日より毎月1日)が設定され、さらに翌年4月には、従来の組織を解消して、首相を会長とする国民精神総動員本部が設けられ、中央連盟を吸収します。しかし、同本部も同年10月には大政翼賛会に吸収されて、運動が引き継がれていきました。

〇「奢侈品(しやしひん)製造販売禁止令(七・七禁令)」とは?

 当時の商工省(現在の経済産業省)及び農林省(現在の農林水産省)が「国家総動員法」を根拠に、1940年(昭和15)7月6日に発布(昭和15年商工省・農林省令第2号)し、翌7月7日より施行した省令です。
 不急不用品・奢侈贅沢品・規格外品等の製造・加工・販売を禁止するもので、一般には施行日をとって「七・七禁令」(しちしちきんれい)とも呼ばれました。戦時下に於いては、不要不急な生活用品よりも戦争必需品を優先に製造せよということで、例えば金銀を使う織物(西陣織り・友禅など)、宝石類、そして一定金額以上の娯楽関係品(人形・レコード)、カメラ、シャープペンシル、果物(メロン・イチゴ)などが対象となったのです。「ゼイタクは敵だ」がスローガンとして叫ばれ、製造・販売の面でも国民生活が統制されていくことになりました。
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