ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:国民栄誉賞

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 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、作曲家遠藤実が生まれた日です。
 遠藤実(えんどう みのる)は、東京府南葛飾郡吾嬬町(現在の東京都墨田区立花)において生まれ、杉並区南荻窪1丁目に居住していました。大平洋戦争下において、1943年(昭和18)に新潟県西蒲原郡曽根町(現在の新潟市西蒲区)に疎開しています。
 戦後に小学校を卒業し、1946年(昭和21)に日東紡績内野工場の工員となりましたが、1948年(昭和23)には、山乃家菊丸とコンビを組み、門付け芸人となりました。1949年(昭和24)に歌手を志し上京し、様々な職を経て、演歌師(流し)をしながら独学で作曲を学びます。
 1952年(昭和27)に日本マーキュリーより発売された、「破れソフトのギター流し」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)で、作曲家としてデビューし、1957年(昭和32)の「お月さん今晩わ」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)がヒットしました。1958年(昭和33)に日本コロムビアより発売された「からたち日記」(作詞:西沢爽、歌:島倉千代子)が大ヒット後、日本コロムビア専属になります。
 さらに、1963年(昭和38)に日本コロムビアより発売された「高校三年生」(作詞:丘灯至夫、歌:舟木一夫)が大ヒットしたものの、1965年(昭和40)に日本コロムビアとの契約を解除し、太平音響株式会社の設立(社長:中山幸市)に加わり専務取締役となり、1968年(昭和43)に中山幸市が死去すると、太平音響の2代目社長に就任し、社名をレーベル名と同名のミノルフォンに改名しました。1970年(昭和45)にミノルフォン社長を辞任、1972年(昭和47)にミノルフォンは、徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称しています。
 1988年(昭和63)にハワイで心臓のバイパス手術を受けましたが、1989年(平成元)には、日本音楽作家協会を設立、会長に就任しました。1990年(平成2)に紫綬褒章を受章、1994年(平成6)には、「遠藤実歌謡音楽振興財団」を設立し、新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市西蒲区)に「遠藤実記念館」をオープンしています。
 1995年(平成7)に日本音楽著作権協会会長に就任、2000年(平成12)にモンゴル国立文化芸術大学より日本人初の名誉音楽博士号を得、2002年(平成14)には、勲三等旭日中綬章を受章しました。2003年(平成15)に大衆音楽の分野から初めて文化功労者となり、2007年(平成19)には、日本音楽作家協会名誉会長に就任したものの、2008年(平成20)12月6日に、東京都中央区の病院において、76歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈され、翌年には、国民栄誉賞を受賞しています。

〇遠藤実の代表的な作曲歌

・「お月さん今晩は」歌:藤島桓夫(1957年)
・「からたち日記」歌:島倉千代子(1958年)
・「高校三年生」歌:舟木一夫(1963年)
・「こまっちゃうナ」歌:山本リンダ(1966年)
・「星影のワルツ」歌:千昌夫(1966年)
・「せんせい」歌:森昌子(1972年)
・「北国の春」歌:千昌夫(1977年)
・「夢追い酒」歌:渥美二郎(1978年)

☆遠藤実関係略年表

・1932年(昭和7)7月6日 東京府南葛飾郡吾嬬町(現在の東京都墨田区立花)で生まれる
・1943年(昭和18) 新潟県西蒲原郡曽根町(現在の新潟市西蒲区)に疎開する
・1946年(昭和21) 小学校卒業後、日東紡績内野工場の工員となる
・1948年(昭和23) 山乃家菊丸とコンビを組み、門付け芸人になる
・1949年(昭和24) 歌手を志し上京し、演歌師(流し)をしながら独学で作曲を学ぶ
・1952年(昭和27) 日本マーキュリーより発売された、「破れソフトのギター流し」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)で、作曲家としてデビューする
・1957年(昭和32) 日本マーキュリーより発売された、「お月さん今晩わ」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)がヒットする
・1958年(昭和33) 日本コロムビアより発売された「からたち日記」(作詞:西沢爽、歌:島倉千代子)が大ヒットする
・1963年(昭和38) 日本コロムビアより発売された「高校三年生」(作詞:丘灯至夫、歌:舟木一夫)が大ヒットする
・1965年(昭和40) 日本コロムビアとの契約を解除し、太平音響株式会社の設立(社長:中山幸市)に加わり専務取締役となる
・1966年(昭和41) 自叙伝『太陽も笑っている』が映画化、『太陽に突っ走れ』 (主演:千葉真一) のタイトルで東映から製作配給される
・1968年(昭和43) 中山幸市が死去すると、太平音響の2代目社長に就任し、社名をレーベル名と同名のミノルフォンに改名する
・1970年(昭和45) ミノルフォン社長を辞任する
・1972年(昭和47) ミノルフォンは、徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称する
・1988年(昭和63) ハワイで心臓のバイパス手術を受ける
・1989年(平成元) 日本音楽作家協会を設立、会長に就任する
・1990年(平成2) 紫綬褒章を受章する
・1994年(平成6) 「遠藤実歌謡音楽振興財団」を設立し、新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市西蒲区)に「遠藤実記念館」をオープンする
・1995年(平成7) 日本音楽著作権協会会長に就任する
・2000年(平成12) モンゴル国立文化芸術大学より日本人初の名誉音楽博士号を得る
・2002年(平成14) 勲三等旭日中綬章を受章する
・2003年(平成15) 大衆音楽の分野から初めて文化功労者となる
・2007年(平成19) 日本音楽作家協会名誉会長に就任する
・2008年(平成20)12月6日 東京都中央区の病院において、76歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈される
・2009年(平成21) 国民栄誉賞を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

723年(養老7)『古事記』の編者太安万侶の命日(新暦8月11日)詳細
1858年(安政5)江戸幕府第13代将軍徳川家定の命日(新暦8月13日)詳細
1894年(明治27)洋画家高橋由一の命日詳細
1900年(明治33)山形有朋内閣で、義和団事件(北清事変)に際し、「北清事変出兵に関する閣議決定」がなされる詳細
1940年(昭和15)「奢侈品等製造販売制限規則」(七・七禁令)が交布され、翌日施行される詳細
1943年(昭和18)大政翼賛会が唱歌「みたみわれ」を発表し、この歌を中心に国民皆唱運動を展開する詳細
2018年(平成30)免疫学者石坂公成の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、作曲家古賀政男の生まれた日です。
 古賀政男(こが まさお)は、福岡県三瀦郡田口村三丸(現在の大川市)において、父・喜太郎、母・セツの五男として生まれました。1911年(明治44)に田口尋常小学校に入学しましたが、翌年には、母、姉、弟と供に仁川に住む長兄を頼りに朝鮮へ渡り、仁川公立尋常高等小学校へ転校します。
 1923年(大正12)に上京し、明治大学予科へ入学、直ちにマンドリン倶楽部を創設したものの、翌年夏に旅先の青根温泉付近の山中で剃刀自殺を図りましたが未遂に終わりました。1929年(昭和4)に明治大学商学部を卒業し、明治大学マンドリン倶楽部の第14回定期演奏会で「影を慕いて」(ギター合奏曲)を発表、佐藤千夜子が特別出演しています。
 1931年(昭和6)に日本コロムビアレコードと契約、「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」を発表、1933年(昭和8)には、松平晃が歌唱した「サーカスの唄」がヒットしたものの、体調を崩し伊東で静養しました。1934年(唱和9)にコロムビアレコードからテイチクレコードに移籍しましたが、1938年(昭和13)には、コロムビアレコードに復帰、外務省音楽親善使節として渡米し、一年間にわたりハワイ、南北アメリカを視察旅行します。
 翌年にアメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、全世界に向けて15分間にわたって放送され、視察旅行から帰国しました。その後は、「誰か故郷を想わざる」、「目ン無い千鳥」、「新妻鏡」、「なつかしの歌声」などがヒット曲となります。
 太平洋戦争後は、1948年(昭和23)に、「三百六十五夜」、「湯の町エレジー」を発表し、空前の大ヒットとなりました。1959年(唱和34)に日本作曲家協会を設立して会長となり、日本レコード大賞を制定し、1960年(昭和35)には、島倉千代子唄の「白い小指の歌」で、第2回日本レコード大賞作曲賞を受賞します。
 1964年(唱和39)に日本音楽著作権協会会長となり、1965年(昭和40)に美空ひばり唄の「柔」がミリオンセラーとなり、第7回日本レコード大賞を受賞、翌年の美空ひばり唄の「悲しい酒」もミリオンセラーとなりました。1968年(昭和43)に第10回日本レコード大賞(10周年記念賞)を受賞、1974年(昭和49)には、平和への祈りを込め、広島平和音楽祭の実行委員長を引き受けています。
 1975年(昭和50)に勲三等瑞宝章を受賞、1977年(昭和52)には、第19回日本レコード大賞(審査委員会顕彰)を受賞しました。古賀メロディーと呼ばれる約4,000曲の作品を作りましたが、1978年(昭和53)7月25日に、東京・代々木の自宅において、急性心不全により73歳で亡くなり、従四位に叙せられ銀杯を下賜され、国民栄誉賞を受賞、明治大学より名誉博士号を贈られ、故郷・大川市より名誉市民の称号を受け、日本歌謡大賞(放送音楽特別功労賞)を受賞しています。
 尚、1982年(昭和57)に郷里の福岡県大川市に「古賀政男記念館」、1997年(平成9)には、東京都渋谷区の私邸が「古賀政男音楽博物館」としてオープンしました。

〇古賀政男の主要な作曲歌

・「影を慕いて」(1930年)
・「日本橋から」(1930年)
・「酒は涙か溜息か」(1931年)
・「丘を越えて」(1931年)
・「サーカスの唄」(1933年)
・「緑の地平線」(1935年)
・「二人は若い」(1935年)
・「東京ラプソディ」(1936年)
・「あゝそれなのに」(1936年)
・「青い背広で」(1937年)
・「人生の並木路」(1937年)
・「誰か故郷を想わざる」(1940年)
・「目ン無い千鳥」(1940年)
・「新妻鏡」(1940年)
・「なつかしの歌声」(1940年)
・「悲しき竹笛」(1946年)
・「三百六十五夜」(1948年)
・「湯の町エレジー」(1948年)
・「トンコ節」(1949年)
・「無法松の一生」(1958年)
・「白い小指の歌」(1960年)第2回日本レコード大賞作曲賞受賞
・「東京五輪音頭」(1963年)
・「柔」(1965年)第7回日本レコード大賞受賞
・「悲しい酒」(1966年)

☆古賀政男関係略年表

・1904年(明治37)11月18日 福岡県三瀦郡田口村三丸(現在の大川市)において、父・喜太郎、母・セツの五男として生まれる
・1911年(明治44) 田口尋常小学校に入学する
・1912年(大正元) 母、姉、弟と供に仁川に住む長兄を頼りに朝鮮へ渡り、仁川公立尋常高等小学校へ転校する
・1923年(大正12) 上京し、明治大学予科へ入学、直ちにマンドリン倶楽部を創設する
・1928年(昭和3) 夏に旅先の青根温泉付近の山中で剃刀自殺を図るが、同行していた友人の発見により未遂に終わる
・1929年(昭和4) 明治大学商学部を卒業し、明治大学マンドリン倶楽部の第14回定期演奏会で「影を慕いて」(ギター合奏曲)を発表、佐藤千夜子が特別出演する
・1931年(昭和6) 日本コロムビアレコードと契約、「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」を発表する
・1933年(昭和8) 松平晃が歌唱した「サーカスの唄」がヒットするが、体調を崩し伊東で静養する
・1934年(唱和9) コロムビアレコードからテイチクレコードに移籍する
・1938年(昭和13) コロムビアレコードに復帰、外務省音楽親善使節として渡米し、一年間にわたりハワイ、南北アメリカを視察旅行する
・1939年(昭和14) アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、全世界に向けて15分間にわたって放送され、視察旅行から帰国する
・1948年(昭和23) 「三百六十五夜」、「湯の町エレジー」を発表、空前の大ヒットとなる
・1959年(唱和34) 日本作曲家協会を設立して会長となり、日本レコード大賞を制定する
・1960年(昭和35) 島倉千代子唄の「白い小指の歌」で、第2回日本レコード大賞作曲賞を受賞する
・1964年(唱和39) 日本音楽著作権協会会長となる
・1965年(昭和40) 美空ひばり唄の「柔」がミリオンセラーとなり、第7回日本レコード大賞を受賞する
・1966年(昭和41) 美空ひばり唄の「悲しい酒」がミリオンセラーとなる
・1968年(昭和43) 第10回日本レコード大賞(10周年記念賞)を受賞する
・1974年(昭和49) 平和への祈りを込め、広島平和音楽祭の実行委員長を引き受ける
・1975年(昭和50) 勲三等瑞宝章を受賞する
・1977年(昭和52) 第19回日本レコード大賞(審査委員会顕彰)を受賞する
・1978年(昭和53)7月25日 東京・代々木の自宅において、急性心不全により73歳で亡くなり、従四位に叙せられ銀杯を下賜され、国民栄誉賞を受賞、明治大学より名誉博士号を贈られ、故郷・大川市より名誉市民の称号を受け、日本歌謡大賞(放送音楽特別功労賞)を受賞する
・1982年(昭和57) 郷里の福岡県大川市に「古賀政男記念館」が開館する
・1997年(平成9) 東京都渋谷区の私邸が「古賀政男音楽博物館」としてオープンする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1840年(天保11)第119代の天皇とされる光格天皇の命日(新暦12月11日)詳細
1901年(明治34)官営八幡製鉄所が操業を開始する詳細
1937年(昭和12)「大本営令」(昭和12年軍令第1号)が公布・施行される詳細
1943年(昭和18)小説家徳田秋声の命日詳細
1966年(昭和41)陶芸家・随筆家河井寛次郎の命日詳細
2001年(平成13)JR東日本の東京近郊区間で、ICカード式自動出改札システム「Suica」の使用が開始される詳細
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 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、漫画家長谷川町子が亡くなった日です。
 長谷川町子(はせがわ まちこ)は、大正時代の1920年(大正9)1月30日に、佐賀県小城郡東多久村別府(現在の多久市東多久町)で、ワイヤーロープの会社を営んでいた、父・長谷川勇吉、母・サタの三女として生まれました。1922年(大正11)に、一家で福岡県福岡市大字住吉に転居、1932年(昭和7)には、福岡市立春吉小学校卒業後、福岡県立福岡高等女学校(現在の福岡中央高校)へ入学します。
 1933年(昭和8)に父・勇吉が亡くなると、翌年には、一家で上京、山脇高等女学校3年に編入、「のらくろ」で有名な漫画家・田河水泡に入門しました。1935年(昭和10)に『少女倶楽部』10月号にデビュー作「狸の面」を発表、1936年(昭和11)に山脇高等女学校卒業後、田河水泡の内弟子となりましたが、ホームシックに耐え兼ね一年で自宅に戻ったものの、『東京日日新聞』日曜版に「チャッピーフーチャン」を連載します。
 1937年(昭和12)に『講談社の繪本』に「オテガラポンチャン」、1939年(昭和14)に『国民新聞』で「ヒィフゥみよチャン」、1940年(昭和15)に『少女倶楽部』に「仲よし手帖」、1941年(昭和16)に『週刊アサヒグラフ』に「翼賛一家大和さん」を次々と連載しました。太平洋戦争が激しくなると、1944年(昭和19)に福岡に一家で疎開、西日本新聞社に入社、編集局整理部絵画係に配属されます。
 戦後の1945年(昭和20)に西日本新聞社を退社、翌年から『夕刊フクニチ』で「サザエさん」の連載を開始しましたが、福岡の家を売却し、一家で再び上京し世田谷区新町三丁目に住み、姉妹社を設立しました。1948年(昭和23)に『漫画少年』で「サザエさん」連載開始、初の「サザエさん」実写映画化もされています。
 1951年(昭和26)に『朝日新聞』朝刊で、「サザエさん」連載が開始(~1974年2月21日)、1955年(昭和30)には、ニッポン放送でラジオドラマ「サザエさん」(~1965年4月)、KRテレビ(現TBS)で「サザエさん」の放送が開始されました。1956年(昭和31)に東宝が映画「サザエさん」を制作・配給(監督・青柳信雄、主演・江利チエミ)、1967年(昭和42)に日本テレビでドラマ「意地悪ばあさん」放送開始(~1969年9月25日、主演・青島幸男)、1969年(昭和44)には、フジテレビでアニメ「サザエさん」の放送が開始され、人気を博します。
 1978年(昭和53)に『朝日新聞』日曜版で「サザエさんうちあけ話」連載開始(~11月12日号)し、翌年には、NHK朝の連続テレビ小説「マー姉ちゃん」(原作「サザエさんうちあけ話」)放送されました。1982年(昭和57)に紫綬褒章を受章、1985年(昭和60)には、財団法人長谷川美術館が開館しています。
 1988年(昭和63)に第4回東京都文化賞、1990年(平成2)に勲四等宝冠章、1991年(平成3)に第20回日本漫画家協会賞・文部大臣賞など数々の栄誉にも輝きました。漫画の主人公のサザエさんは国民的アイドルになるほどの人気を博しましたが、1992年(平成4)5月27日に、東京において、心不全のため、72歳で亡くなり、国民栄誉賞が追贈されています。

〇長谷川町子の代表的作品

・『サザエさん』
・『いじわるばあさん』
・『エプロンおばさん』

☆長谷川町子関係略年表

・1920年(大正9)1月30日 佐賀県小城郡東多久村別府(現在の多久市東多久町)で、ワイヤーロープの会社を営んでいた、父・長谷川勇吉、母・サタの三女として生まれる
・1922年(大正11) 一家で福岡県福岡市大字住吉に転居する
・1926年(大正15)4月 福岡市立春吉小学校に入学する
・1932年(昭和7) 福岡市立春吉小学校卒業、福岡県立福岡高等女学校(現在の福岡中央高校)へ入学する
・1933年(昭和8)3月3日 父・勇吉が亡くなる(享年50歳)
・1934年(昭和9) 一家で上京、山脇高等女学校3年に編入、「のらくろ」で有名な漫画家・田河水泡に入門する
・1935年(昭和10) 『少女倶楽部』10月号にデビュー作「狸の面」を発表する
・1936年(昭和11) 山脇高等女学校卒業後、田河水泡の内弟子となるが、ホームシックに耐え兼ね一年で自宅に戻る、『東京日日新聞』日曜版に「チャッピーフーチャン」を連載する
・1937年(昭和12)10月 『講談社の繪本』に「オテガラポンチャン」掲載、以降1942年まで延べ20回掲載する
・1939年(昭和14)3月 『国民新聞』で「ヒィフゥみよチャン」を連載。小学館の学年誌に漫画掲載(~1943年)
・1940年(昭和15) 『少女倶楽部』1月号より「仲よし手帖」連載(~1942年12月号)
・1941年(昭和16)2月 『週刊アサヒグラフ』に「翼賛一家大和さん」連載する
・1942年(昭和17)4月 『翼賛漫画進メ大和一家』に3作品掲載する
・1944年(昭和19) 福岡に一家で疎開、西日本新聞社に入社、編集局整理部絵画係に配属される
・1945年(昭和20)11月 西日本新聞社を退社する
・1946年(昭和21) 『夕刊フクニチ』で「サザエさん」の連載を開始、福岡の家を売却し、一家で再び上京し世田谷区新町三丁目に住み、姉妹社を設立する
・1947年(昭和22) 『夕刊フクニチ』で「サザエさん」連載再開する
・1948年(昭和23) 『漫画少年』で「サザエさん」連載開始する、『新夕刊』で「サザエさん」連載開始(~1949年4月2日)、初の「サザエさん」実写映画化される
・1949年(昭和24) 『少女』2月号より「仲よし手帖」連載開始(~1951年8月号)
・1951年(昭和26) 『こどもクラブ』で「わかめちゃん」連載開始(~1954年8月号)、『朝日新聞』朝刊で、「サザエさん」連載開始(~1974年2月21日)
・1955年(昭和30) ニッポン放送でラジオドラマ「サザエさん」放送開始(~1965年4月)、KRテレビ(現TBS)で「サザエさん」放送開始
・1956年(昭和31) 東宝が映画「サザエさん」制作・配給(監督・青柳信雄、主演・江利チエミ)
・1957年(昭和32) 『サンデー毎日』1月6日号より「エプロンおばさん」連載開始(~1967年7月25日号)、『若い女性』1月号より「サザエさん」連載開始(~1959年1月号)
・1960年(昭和35) 病気療養のため『朝日新聞』朝刊で「サザエさん」休載する
・1961年(昭和36) 『朝日新聞』朝刊で「サザエさん」連載再開する
・1962年(昭和37) 「サザエさん」と「エプロンおばさん」で第8回文藝春秋漫画賞を受賞する
・1964年(昭和39) 初の海外旅行、ヨーロッパ各国を旅する
・1965年(昭和40) TBSでドラマ「サザエさん」放送開始(~1967年9月26日、主演・江利チエミ)
・1966年(昭和41) 『サンデー毎日』1月2日号より「意地悪ばあさん」連載開始(~1971年7月18日号)
・1967年(昭和42) 日本テレビでドラマ「意地悪ばあさん」放送開始(~1969年9月25日、主演・青島幸男)
・1969年(昭和44) フジテレビでアニメ「サザエさん」放送開始する
・1974年(昭和49) 『朝日新聞』朝刊で「サザエさん」連載終了
・1976年(昭和51) 「サザエさんえほん」シリーズ第1巻を発行(全9巻を順次発行)
・1978年(昭和53) 『朝日新聞』日曜版で「サザエさんうちあけ話」連載開始(~11月12日号)
・1979年(昭和54) NHK朝の連続テレビ小説「マー姉ちゃん」(原作「サザエさんうちあけ話」)放送開始(~9月)
・1982年(昭和57)11月 紫綬褒章を受章する
・1985年(昭和60)11月3日 財団法人長谷川美術館が開館する
・1987年(昭和62) 『朝日新聞』朝刊に「サザエさん旅あるき」連載開始、6月13日、母・サタ死去(享年91歳)
・1988年(昭和63)2月 第4回東京都文化賞を受賞する
・1990年(平成2)4月 勲四等宝冠章を受章する
・1991年(平成3) 第20回日本漫画家協会賞・文部大臣賞を受賞する
・1992年(平成4)5月27日 東京において、心不全のため、72歳で亡くなる
・1992年(平成4)7月 国民栄誉賞を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

743年(天平15)「墾田永年私財法」が出される(新暦6月23日)詳細
1235年(文暦2)藤原定家によって「小倉百人一首」が完成された(百人一首の日)詳細
1273年(文永10)鎌倉幕府第7代執権北条政村の命日(新暦6月13日)詳細
1901年(明治34)山陽鉄道(後の山陽本線)の神戸駅~馬関駅(現在の下関駅)間が全通する詳細
1938年(昭和13)「日独防共協定」締結による同盟強化に伴い、大日本青少年独逸派遣団が出発する詳細
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